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通学路

作者: G·I·嬢

 その男の名は及川と言った。

 蒸し暑い六月のことであった。梅雨は未だ明けず、昨晩もざあざあとやかましく降っていたため、十分な睡眠を行うことは叶わなかった。

 頭に響く目覚まし時計の音を止め、汗を吸いに吸った布団をはねのけ、及川はひとまず、二度寝を敢行することにした。本日は日曜日であった。


 

 再び及川が目を覚ますと、枕元に置かれる目覚まし時計の長針は十時を指していた。窓から漏れる光からして、午後十時とは考え辛い。

 及川はのそりと起き上がり、汗に塗れた身体をシャワーで洗い流すことに決めた。


 及川は火照る体にタオルを巻いて居間に躍り出た。

 ふわふわとした頭で椅子に座って背もたれを軋ませ、その調子のままに本を読み始めた。

 及川は友人から借りたいくつかの本を、数日中に読むように決めていたのである。


 借用した物である為に丁寧に、しかし読み辛くはないように本を開く。

 その内容は休日のだらけた脳をさらに溶解してしまうような甘ったるさを持っていたが、及川はため息一つ無く頁を捲り、風呂を上がった際に冷蔵庫から引き出したミネラルウォーターを飲んだ。

 つんと張るような冷たさを受けてようやく眠気が吹き飛んだらしく、及川は最後に大あくびをこくとそれからしばらくは目を見開いて活字を読み続けた。


 四冊目の文庫本を閉じた頃、及川は腹の虫が騒いでいることに気づき、また無性に獣肉を食したい気分にも気づいた。

 そこから及川が近所の中華料理店に赴くまでにそう時間はかからなかった。


 中華料理店の内部は昼飯時を少し過ぎた故にしんとしていて、少しの客の話し声と炎の音と金属の音が全てであった。

 及川は席に着くと餃子を一皿頼み、店に備え付けられたラックから朝刊を取り出した。

 及川が餃子を頬張りつつ朝刊に目を通していると、ある小さな記事に目が行った。


 少子化と区の併合によってとある小学校が廃校になるという旨の記事であったが、及川は口内の肉汁の旨さを忘れるほどに驚いていた。


 月並みな話だが、その小学校こそが及川の母校であったからだ。


***


 久々の母校に向かっている最中、及川はかつての少年時代を思い起こしていた。

 行く通学路の隅から記憶が湧き出してくるような妙な感覚の中で歩を進めた。




 通学路を陣取りうるさく吠えていた犬。

 持ち合わせが無い時に駄菓子をこっそりくれた菓子屋のお婆さん。

 何をしているのかよくわからないが、常にピアノの音だけがする家。

 大人な雰囲気から憧れた喫茶店。

 片方だけ落ちていた軍手。

 ぼろぼろに折れた傘。

 小さな石蹴り。

 黄色い学帽を泥に染めた雨の日。


 


 思い出を辿っていくと、ろくな事がない。

 しかし、それでもきらきらと輝いて目の前を照らす。

 もう何十年と通る事はなかった学校への道のりが鮮明に蘇り、及川はそれに導かれるまま突き進んだ。

 及川の足取りは軽やかであった。


 やがて、鉄柵が見え始める。

 ずんずんと歩みを進めていく内に、及川の体はまた熱く滾っていた。

 すると、額から頬にかけて汗がたらりと流れていく。

 頬を伝う汗の感覚のこそばゆさが現実と思い出の間に境界線を引いていき、及川が正門の前に辿り着いたその時、及川は現実に戻りきっていた。


 そして、正門に大きく貼り出されていたのは、やはり新聞記事の通りに廃校を知らせるものだった。

 貼り紙は廃校を告げる内容を記しているとは思えないほどにピンと張り詰めた綺麗なものであった。


 覚めた頭はそれを驚くほど呆気なく受け入れ、及川はその場に一分と居ずに立ち去った。

 後にはじめっとした空気を運ぶ風だけが一迅吹いた。


 帰路にて、及川は思い返した。 


 子供の頃にあんなにも大きく見えた校舎も、なつめやしの木も、全てが小さく、いや中庸に、ありふれた物に見えていた。輝かしい思い出は既に色褪せていたのか、それとも褪せたのは自分自身なのか。

 何にせよ、自分に出来る事は何一つ無い。

 ただ、思い出の美しい校舎だけはどこか心の奥底に秘めておこう。

 それがせめて壊される校舎への手向けとなるだろう。


 及川は少しぼんやりと考えごとをした後、帰路について、また元の生活に戻ることにした。


 翌日、朝のテレビで件の新聞記事と同じく廃校が報じられたが、及川は何の感情を覚えるもなく、また仕事へ向かったのだった。

 



 

 


 



 


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