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躁鬱~トラウマの体験~まとめ

 ・躁鬱的な気分の入れ替わり   


 頭痛も治まり仕事にも復帰することが出来て、6月後半から7月の初頭はほとんど順調に過ぎていたと思います。

 しかしもちろん問題も色々あったと思います。頻度は低いながらも『精神的な死』の恐怖を訴えはじめたのはこの頃が最初で、気分が盛り上がっている時と落ち込んでいる時の落差が激しく、情緒は余り安定していなかったように思います。


 感受性の機能が回復していると実感出来ることが最も大きな喜びで、おかしなことかもしれませんがこの頃は積極的に『感動』を探して行動していたようです。小説はまだ読めませんでしたが漫画は少しずつ楽しめるようになってきており、ちょっとした楽しさや面白さを覚えるだけでそれがとても嬉しく感じられました(感動した物事の内容そのものよりも、感動出来たことがとにかく嬉しかったのです)。

 以前は何も感じなかった部分におかしみを覚えたりと感性にも若干の変化を感じましたが、気分が盛り上がっている時には『自分と自分の不一致感』もまったく気になりません。むしろ完治した暁にはこれまで発見出来なかった感動に出会えるかもしれないという期待があり、そうした変化を逆に歓迎しているようなところすらありました。

 気分が盛り上がっている時は自分が快方に向かっていると信じて疑うことがありませんでした。


 反対に気分が落ち込んでいる時には、自分はもう二度と以前のようには戻れないのだと思いこんでいました。強い心細さを感じ、今にして思えば実に大袈裟なのですが『廃人』という言葉を真剣に想起しました。自分が『廃人』になってしまったあとに残された家族や友人のことを思い、申し訳なさや悲しみを感じたりもしました。目の前の時間がやはり重く感じられ、単純作業(ロールプレイングゲームのレベル上げなど)にひどいときには十時間以上も楽しさを感じないまま没頭していたようです。


 この躁鬱的な精神状態について当時の自分はそれぞれの状態の時に次のように表現しています。

 明るい気分の時の喜びは『自分を取り戻していく楽しさ』で、暗い気分の時に感じる悲しみは『自分が少しずつ死んでいく怖さ』だそうです(若干の意訳を加えました)。



 ・ショッキングな映画からの影響(1)


 

 自分の精神状態をおそらく最も劇的に悪化させたのは、7月16日の夕方四時頃に放送されていた『ジャッカル』という映画の次のようなシーンです。


 怯えきった男に煙草の箱を持ち上げさせ、それにパソコンに接続した銃の照準を合わせる殺し屋。射撃テストでは煙草の箱ではなくそれを持った男の腕が吹っ飛び、男は動物めいた悲鳴を上げて泣き叫ぶ。殺し屋は泣き叫ぶ男にはなんら関心を抱かずに『やっぱり照準が少しずれてる』と無感動に呟く。それから殺し屋は男に対しさらに移動するよう指示し、男が近くに停めてあった車の前まで移動したところで車ごと男を蜂の巣にしてしまう。


 この時は父と少し遅い昼を食べていました。状況や雰囲気からものすごく嫌な予感がしていたのですがその予感に縛られたままついにチャンネルを変えることを言い出せず、そのまま三分ほど経って虐殺のシーンに突入しました。

 自分はこのシーンを見てすぐに食事を中断しそのまま寝込んでしまいました。寝込むといっても横になるだけで眠ることは出来ませんでした。

 はじめは悲しいとか怖いとかではなくただショックで、遅れて強い恐怖がやってきました。その後の自分の行動はポケットから携帯を取りだし、友人に大真面目に「最後に挨拶をしたかった」と電話しこれまでの付き合いへの感謝などを伝えたと思います。何があったのかと聞いてくる友人に簡単に事情を説明をすると、「そういう殺し屋は現実にはいないから大丈夫だ」というようなことを言われたと思います。通話を切ったあとは四時間ほど寝ていたようです。


 しばらく横になっていて少しは落ち着いたようですが、この映画のシーンはこの後しばらくのあいだちょっとしたきっかけで、またはなんのきっかけもなく不意に思い出されるようになりました。ちょっとしたきっかけというのは、たとえば映画の場面が岩や乾いた地面ばかりの緑の少ない暑い場所だったことから、強い日差しや陽炎など視覚的に暑気を感じさせるものや、地形的に少しなりとも似た要素のある日本の山場の映像だとか、単純にテレビで外国人を見るだけでもダメでした。洋楽も聞けなくなりました。問題のシーンを思い出すたびにものすごく気分が沈みました。

 また、例の殺し屋が実在するという妄想にも、それほど長期ではないと思いますが囚われることになりました。迷惑メールや情報詐欺のダイレクトメール、テレビのニュースなどから、『社会的な悪』が実在するという証左は自分の身近にいくらでもありましたし、その延長線上にあの殺し屋がいるのはおかしくないというか、むしろいることこそごく自然のことと感じました。

 

 2013年2月現在ではもちろんこんな妄想はありませんし、当時の自分を馬鹿馬鹿しく感じもしています。先生がおっしゃった『子供のように柔軟性を失った感受性』という状態を体験出来たのはむしろ運が良かったのかもしれないと楽観的に捉えることも出来ていますし、ジャッカルに対して怖い物見たさを感じはじめてもいます。

 しかし実際にインターネットで問題のシーンの一部を切り取った画像を見たところ、それだけで当日に感じた『嫌な予感』を含む気持ちの悪さが蘇ってきました。トラウマというのは根深いものなんだなと驚きを感じました。




 ・ショッキングな映画からの影響(2)

 

 ジャッカルについてご相談させて頂いた際に(確か7月18日だったと思います)、先生からは『感受性が子供のように柔軟性を失った状態にある』とご指摘され、しばらくはディズニー映画のような平和なものを見るようにとご助言頂いたのを覚えています。

 最初は先生のアドバイスに従いCS放送でアニメやコメディドラマを見ていたのですが、そうした番組からは残念ながら安堵感や心の安らぎを得ることは出来ませんでした。ジャッカルの妄想に取り憑かれていた自分にとって『平和な内容』の番組はひどく作り物めいて感じられてしまい逆に妙な不安を高めることになりました(何度かご相談させて頂いたかと思いますが、この『平和への違和感』はテレビやインターネットの中の事に限らず実生活にも強く表れました。これについてもあとで詳しく書きます)。


 結局自分が最も安心を感じることが出来たのは、意外と思われるかもしれませんが、北野たけし監督の『アウトレイジ』という映画作品でした。ヤクザ同士の抗争をテーマにした作品で、登場人物ははじまりから終わりまで殺し合いをしています。

 この映画は暴力の為の暴力を追求したような作品なのですが、自分は登場するヤクザが死んでいくたびに大きな安堵を覚えました。殺人の描写が残酷であれば残酷であるほど(殺される側が恐怖や絶望を感じ、苦しめば苦しむほど)心が満たされたのを覚えています。

 説明が入り組んでしまいますが、自分は残酷描写そのものを楽しんでいたわけではありません。自分はどちらかといえば流血沙汰が苦手な質だと思います。ホラー映画なども一人では見られないほど気が小さく、残酷なシーンはそれを見たあと何日も引きずってしまうのが常でした(実際アウトレイジの殺人シーンについても『うわぁ……』と思うような部分が多くありました。殺されるのがヤクザなので気が滅入るということはまったくありませんでしたが)。

 しかしこの『アウトレイジ』では死ぬのは全て同情の余地のない悪人ばかりです(そういえばジャッカルについても自分は殺された男が悪人であるかどうかをまず第一の問題にしていたように思えます)。善良に生活する一般の人々を犠牲にする『職業的な犯罪者』が次々に減っていくのはとても心が安らかになりました。自分はこの映画を何度も繰り返して見ることでその都度世の中から『職業的な犯罪者』が減っていく安心を得ました。

 今にして思うとこの時は現実とフィクションの境目がかなり曖昧になっていたように思えます。


(ジャッカルの映像から受けたショックは日が経つにつれて薄れていたように思えますが、それがもたらした妄想・妄念は徐々に固まっていったように感じます。これについては余裕を持った脳が余計なことをしだしたとでも解釈するべきなのでしょうか?)




   ■■■




 さて、大変中途半端ですが、ここで手記は途切れています。このあとは断片的なメモがいくらか残っているだけできちんとした文章にはまとめてありません。


 ちゃんとまとめていない理由は、このあと状態がどんどんひどくなってちょっとした文章さえ書いてる余裕がなくなった……とかだったらエッセイとしては読み応えがあるのかもしれませんが、そうではありません(実際そのくらいひどくなった時期もあるにはあったのですが)。

 この手記を書いてた当時の自分は二回目で出てきた『自分と自分の不一致感』にひどく怯えており、さらには『新しい自分により古い自分(その当時の主観的な自分)が消えていく』みたいなことも心療内科の先生に訴えていました。で、どうも『現在の自分の遺書』というつもりでこれを書いていたらしいのですが、だんだんとそうした悲観的な気分が(おそらくは自分でも気づかないうちに)薄れていき、遺書としてのこれをまとめる意義のようなものも薄れていったのだと思います。


 そしてある日唐突に気づいたのです。『あ、俺もう大丈夫だ』って。


 そのときにはもうすっかりよくなって友達とネットゲームを遊んでいました。二回目で『楽しさを感じないままずっとレベル上げしてた』とか書きましたが、この頃はちゃんと楽しんでましたよ。


 病院でもらった俺の病名は『高次脳機能障害』でしたが、症状的には鬱病としての面もたぶんにあったのではないかと思います。なので、いま鬱で苦しんでいる人も自分もきっとそうだって考えて少しでも楽になってもらえたらうれしいです。鬱病は自分でも知らないうちによくなって、気づいたときには『あ、もう大丈夫だ』ってなってるもんなのかもしれないって。



 悲観が薄れたのは、ある意味では『新しい自分』が構築されて『悲観に暮れていた以前の自分』が完全に消えたからなのかもしれません(ちょっとロマンチックな考え方ですが、物書きとしては『そう考えたほうが面白いよな!』とか思います。消えてしまった前の俺なんてのがいるならその彼には悪いですけど)。

 実際、完全に事故以前の自分に戻ったのかというとそんなこともない気がします。

 頭を打つ以前と以降で性格が微妙に変化していたり、書く小説の内容も変わりました(もちろんこれは頭を打った体験を通して人生観みたいなのが変わったからなのかもしれませんが)。

 それから、以前の自分を他人のように感じることがあります。自分の持ち物に関して、どこかへ行ってしまった他人(あるいは故人)の遺品に埋もれて生活している、というような感じ方をすることがあります。常にそう感じてるわけではありませんし、そう感じることがあったとしても『ありがたく使わせて頂いてますよ』程度の感慨しかありませんけどね。

 

 治った今だからいえるのかもしれませんが、総合的に言って、俺は頭を打ったことでずいぶんいろいろプラスになったと考えています。家族や友人のありがたみがわかった、というような一般論的なところからはじまって、性格の変化とか作風の変化も含めてです。上にあげたトラウマの体験も含めて(俺は脳の『感情を司る部分』がダメになっただけで『思考を司る部分』は大丈夫だったようなので、トラウマの発生っていう未発達な精神が味わうはずの体験を、大人の思考のまま体験することができました。未だにジャッカルを見ると思考とは関係なく感情がざわざわしてくるのですが、そういうとき『うお、トラウマおもしれー!』とかちょっと思ってます)、様々な得がたい体験もできました。


 回復後に書いた最初の作品で俺はプロとしてデビューさせて頂いたのですが、その作品も、それまでの自分だったら絶対書けなかった内容だと感じています。タイムマシンで頭打つ前に戻って、昔の自分に『これお前が書いたんだぜ!』って書籍化した作品を見せたらきっとびっくりしてくれるでしょう(最後に宣伝とかしたら台無しな気もしますが、図書館ドラゴンは火を吹かない、よろしくね)。


 というわけで、なにもかもうまくいっているわけでは当然ないですが、それでも今の俺は元気に楽しくやっています。だから後遺症などについては心配しないでください。でも心配してくださった心の優しいあなた、ありがとう。


 さて、いまいちきれいにまとめられませんでしたが、このエッセイはここまでです。

 手記にまとめてない当時の体験がいくつかあるので、またいずれどこかで話せればいいなと思います。完全に忘れてしまう前に。


 それでは、ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。

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