翼人空中戦
市場が開かれているキタル山から南に下ると、二股に分かれる道に出る。
そのまま下り続けるとやがてウーゴに、そして東南に向かうと、やがてウライバ藩王国へと続く、東に延びる街道に合流する。
ウルの山々に囲まれた盆地の北寄りに位置する、外界と半ば隔絶されたこの〈ウライバ藩王国〉は、貿易の玄関口であるウーゴと違い、豊かな森林と点在する小さめの湖、祖先が開拓した穀倉地帯や牧草地帯に囲まれた、比較的、静かな街となっている。平時に見知らぬものが訪れれば、農作業に勤しむ農夫や、畜獣の群れを連れた牧童が挨拶をしてこともあるだろう。
もっとも、外から訪れるものの姿は少なく、街道を行き来するものの殆どがウーゴ市街とウライバ市街を往復するだけの者たちであり、来訪者がいるとすれば、それは外交の使者か、王城に直接、出入りする事を認められた隊商くらいだろうか。
牧草ならびに穀倉地帯を過ぎると、ウライバの市街地である。そして、ここから更に西へと進めば、主産業である焔石の採掘現場に辿り着く。
ただし、焔石の採掘現場に関する情報はウライバの最重要国家機密となっており、関係者以外は、市街より西に進むことは許されない。
市街地は、例に漏れず城壁で守られている。
八角形に張り巡らされた石造りの城壁は、鉄甲騎や砲火から街を守るには心細さを感じさせるものの、白漆喰の壁に赤い屋根を持つ望楼と回廊を乗せた造りは、防衛施設とは思えぬ美しさを見せる。
城壁の真南に位置する大手門から街に入る。
大通りに沿って並ぶ煉瓦造りの建物は、全て漆喰による白壁に赤い屋根瓦で統一されており、四層以上の建物は、市街の六ヶ所に配置されている望楼と、街の北側にそびえる王城くらいであろうか。
当然、この街にも大勢の人々が暮らしている。
大通りはそれぞれ商店などが軒を連ね、商売に勤しみ、裏手にある工房では職人が腕を振るい、仕事に励み、更にその奧の住宅街では、家を守り、洗濯や掃除に勤しむ女達の話し声などが聞こえてくる。
建国当時には街の基礎は完成しており、当時の上下水道は今でも生命線として活用されている。生活に必要な水は、南のウンデイ山を起点とするキヨウ川から地下水道で導かれ、街の至る所に張り巡らされている。
市街の中央は、王城を半円に取り囲む形で武官や文官、藩王家臣の邸宅が続き、練兵場や鉄甲騎ならびに飛空挺格納庫などの軍備施設は、城の裏手にあたる北西に集中している。
政治の中枢であるウライバの王城は、城壁同様、質素な白壁の台形建造物に、赤く色付けされた豪奢な楼閣を備え付けた造りとなっており、議事の場、庁舎としてだけでなく、時に司令部、時に迎賓館として、軍事、外交を含むあらゆる政務がここで取り扱われている。
王城の北東には後宮が造られ、藩王とその一族の住まいとされている。
城を含むウライバの建築様式は、ラ諸国連合の南にある小国が発祥と伝えられ、この地方で独自に発展した〈ナム教ムジリシ派〉寺院の様式が元になっており、現在は国教とは定められていないものの、王城の一部は現在でも寺院としても使用されている。
山麓の岸壁に今も数多く残る石窟寺院や神仏像が、この地がウライバ以前よりナム教の聖地であったことを物語る。
ちなみに、発祥の地であるはずのラ諸国連合においてナム教は、現在は禁教となっている。
西方の一神教、〈リダーヤ聖教〉の信者である駐在官ダーマスルは、それが気に入らなかった。立派な口髭を自慢とし、司教でもないのに司教服を模した衣装を偉そうに纏うこの男にとって、華やかな宮廷から駐在官として辺境の小国に左遷されただけに留まらず、異教の神殿に住まわされるなど、屈辱以外の何者でもない。
ウライバ藩王国は、独立した自治権を認められてはいるが、クメーラ王国の支配下にあることは変わりなく、他の藩属国同様、クメーラ王国から[駐在官]と呼ばれる政治顧問が派遣されている。駐在官は、宗主国とのパイプ役として、藩属国が本国に不利益な政を行わぬよう監視する役目にある。
通常、駐在官は宗主国の名代として強い発言権を有し、ある意味では事実上の支配者とも言えるのだが、クメーラ王国の現国王は藩王の主権と独立性を尊重する方針を執っており、必要以上の内政干渉を禁じている。そのため、権力と蓄財を期待していた一部の駐在官は、影で不平を漏らしている。
そして、ダーマスル駐在官もその一人である。
「……ウーゴ砦からの再三にわたる増援要請は、如何に取りはからい致しましょうか?……それと……」
「何度も言っておろう。藩王陛下が御出陣なされ、この城の警備も足りてはおらぬ。従って、増援は出せぬと、返答しておけ。無論、国の財となる鹵獲品にも、手を付けてはならぬ。」
書記官が読み上げたウーゴ砦からの要望書を、容赦なく却下するダーマスル。クメーラ王国から派遣された駐在官としての権威を笠に着て、事あるごとに「本国に報告する」と威張り散らすだけのこの男を好いているものは、本国から補佐役として随伴する部下を除けば、この王城には一人もいない。
本来であれば、クメーラ国王の信頼が確かな藩王レイが目を光らせているため、やや温和しくしていたのだが、王が出陣するや枷が外れたかのように、突如、城内を強権的に仕切りだしたのだ。
別室に於いて、報告書への返事を待つセレイを相手に愚痴る、ミレイ・ウライバ王女殿下も、慇懃無礼な駐在官を嫌う一人である。
「……早く父王様がご帰還下さらないかなぁ……あの髭親父、父王様の御不在を良いことに、この城の主のごとき顔で威張り散らすのよ!?……父王様がご帰還あそばされたら、懲らしめて頂くんだから!」
と言って、まるで自分がとっちめるかのように卓上の手拭き紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ入れに投げ込む十六歳の少女は、前袷の二重衣に簡素な帯と、これまた質素な髪飾りと云った、最低限の室内衣装を身に着けていることもあり、額飾りの印に気付かなければ、とても一国の姫君には見えない。
「そんなに大声出しちゃだめだよぉ、姫様。ここに来ているのだって、ホントはやばいのに……」
「かまうもんですか……何でしたら、妾の方から出張りましょうか!?」
「だから、それ、やばいって……大臣さんはともかく、王妃殿下に怒られちゃうよ?……」
ウーゴにいる時と違い、おろおろした感じでミレイを窘めるセレイ。
身分と人種の垣根を越えて振る舞う二人だが、こんな関係になったのは、つい最近のことである。
このツバサビトの少女が伝令としてウーゴ砦に雇われたのは、プロイがドルージに引き取られる少し前である。
もともとセレイは、もはや場所すら思い出せない、海沿いの部族に生まれたのだが、ある日、西方から訪れたという人間の闇商人に捕らえられたのだ。
愛玩動物扱いされ、西方に連れて行かれることになったその途中、兇賊(同業者?)の襲撃を受け、脱走、当て所なく彷徨ったところを、イバン大隊長に保護され、やがて、伝令として働くことになった。
いや、志願したといった方が正しい。
ウーゴ、そしてウライバは亜人に対して寛容ではあるが、王城に於いては完全に偏見が無いわけではない。
伝令の任に付いた当初、セレイは、入城することが叶わず、風の強い日も、雨期の季節も、書記官室の露台で待たされていた。
そんなセレイを見かねた藩王レイか、「重要な任を受けているものを、あのような場所で待たせるなど、罷り成らん」と、空き部屋をひとつ、控えの部屋として与えたことがはじまりだった。
そこに突然、ミレイがお忍びで頻繁に訪れるようになる。
「其方の名前、妾と似ているね……?」
これが、セレイの顔を凝と眺めた後、彼女に掛けた最初の言葉であった。
最初は、ツバサビトであるセレイに興味を持ったのがきっかけではあったが、[王女殿下]という立場から、傅かれる事はあっても、周りに友人と呼べるものは皆無であり、ほぼ同年代と言えるセレイと友人として接するようになったのは、自然の流れであろうか。
一方のセレイは、最初にミレイと出会ったときの印象をこう語る。
「侍女の娘がサボりに来たのかと思った……」
ミレイは、自分が王女と言っても小国のそれでしかなく、世間知らずに城の中で威張り散らしても無意味なことを悟っており、それ故、王族という地位を振りかざすような事を嫌っていた。
ただ、もとより亜人への偏見が少ないこの国でも、身分、階級はそれなりに厳格である。従って、砦の伝令でしかないセレイと一国の王女殿下がおおっぴらに、まして「姫様」などと気安く声を掛け、タメ口で談笑するなど、本来ならあってはならないのだ。
小国とはいえウライバ藩王国は国家であり、維持、運営するためには様々な決めごとを作り守らねばならず、身分制度も、当然その一つであり、私利私欲に利用することや、誰かが不当に貶められるなど、制度そのものに振り回されない限りは、厳格に守られなければならないものとされている。
しかし、藩王レイ・ウライバは、ミレイとセレイのような関係を[公式の場でない限り]黙認することにした。
レイ個人としては、現在の身分制度の在り方に疑問を抱き、将来的には、身分の貴賎に拘わらず民と対話し、その本音を聞くことを願っている。
それ故、藩王には自分より一足先にそのきっかけを作ることが出来たミレイの思いを無駄にしたくないという個人的な思惑と、加えて、今後の王室ならびに身分制度への新たな考え方を模索する実験的思考があったのだ。
これは、ウライバが元々流浪の遊牧民が定住したことで形成された国であるという由来からの気質であろうか。
そんなセレイもまた、突然やってきて一方的に捲し立てるざっくばらんな少女が、この国の王女殿下である事を知り、戸惑いながらも話し相手を続けていくうちに、徐々にではあるが打ち解け、現在は砦の出来事や、ウーゴの街で見聞きした市井や異国の出来事などを話して聞かせている。
「いつか、セレイの話してくれた、ナランやプロイとも、お話がしてみたい」
滅多に城から出られないミレイにとって、セレイとの会話は、大切の情報源であり、ひとときの安らぎでもあった。
だが、今日の、いや、今日もミレイは機嫌が悪い。普段なら、
「電話器というものが城と砦の間にも繋がれば、セレイも楽になれるのに」
「それが出来ちゃうとアタシ、失業だよ……」
「……確かに、セレイとなかなか逢えなくなるわね……」
と云ったような和気藹々とした会話があるのだが、ここのところミレイの話題は、ダーマスルに対する愚痴ばかりである。
そも、ここのところ城の中の空気全部が良いとは言えなかった。
確かに、出兵により藩王不在な上、クメーラに於ける武装蜂起などの騒動により砦と同様、臨戦態勢ではあり、空気がピリピリしているのは事実だが、それでも何か異常ではある。
やはり、すべての原因は駐在官ダーマスルにあるようだ。
「……いくら、王不在といっても、あの者はちょっと出しゃばり過ぎよ!」
セレイしか居ないせいか、王女とは思えない言葉遣いで憤慨するのも無理はない。ここのところ、ダーマスルが城内に対する指揮権を強化しているのだ。しかも、家臣団の意見具申を全て無視するという徹底ぶりである。
「クメーラの駐在官様って、藩王陛下の次に偉いんだよね……」
「偉いのは確かだけど、必要以上の内政干渉は認められていないわ……可能だとしても、それはよほどの緊急事態であって、少なくとも、今はまだその時じゃないはずよ!……」
確かに、王が不在のダーマスルは駐在官として増長する傾向にあるのだが、ここまで来ると異常である。藩王が帰還し、現状を知ることになれば、温厚で知られるレイであっても、クメーラ本国に罷免を要請することも考えられる。レイは、それが可能なほど、信頼されているのだ。
そんなことはダーマスル本人がよく知っているはずである。それなのに、越権行為を推し進めると云うことは、よほどの理由か、あるいは自信が有ってのことなのであろうか。
ミレイは更に言葉を続ける。
「それに、他にもおかしな動きがあるわ……この国の場合、真っ先に襲われるのは入り口たるウーゴなんだから、そこを重点的に守って然るべきなのに、シディカ姉様の支援要請を却下し続けるし、最近じゃ、自分の部下を城のあちらこちらに配置しているし……」
その時、扉を叩く音がした。
「報告書が出来たんだ……姫様は隠れて!」
「じゃあ、また夕方ね?」
窓掛けの裏にミレイが隠れると同時に扉が開かれ、書記官が入室、それをすでに跪いたセレイが出迎える。
「報告書と要望書の返事である。謹んで、砦に伝達すべし」
「……承りました」
形式的なやりとりで返答の書が納められた筒を受け取り、胸に帯で固定された鞄に入れたセレイは、そのまま回れ右で窓際に進み、露台の欄干に足を掛け、翼を広げる。
――たぶん、良い返事は貰えてないだろうな……
そう思いながら欄干を蹴り、羽ばたいて離陸……直後に上昇気流を捕まえて高度を取り、ウーゴへ向けて翼を羽ばたかせる。
――お休み取れたら、久しぶりに狩りでもしたいなぁ……
ツバサビトは、その殆どが猛禽類に近い種であり、狩猟本能が強い傾向にある。無論、セレイも例外なく、時折、地上の小動物や湖の魚などを見ると、無性に急降下したくなることがある。
ただ、セレイにはそれなりに分別があり、猫頭のケモノビト〈ビョウ〉のように、無闇に動くものに飛びつくような粗相はしない……筈である。
それでも、やはり眼下で動くものが見えると、つい、そちらに向いてしまうのは仕方がないことである。今も、ふと見下ろすと、奇妙なものが目に入った。それは、低空を城に向けて飛翔する大きな鳥……
いや、鳥ではない。ツバサビトだ。
「あいつ……この辺りにいるツバサビトと違う……!」
実のところ、ウーゴ砦に拾われたセレイは、ウライバ周辺にわずかながら暮らしている同族とは殆ど面識はない。当然、キタル山で開かれる市場にも行ったことはない。
そんなセレイの目から見ても、眼下を滑空する大柄な翼人の存在は、明らかに違和感があった。
そのツバサビトは、黒茶の翼を羽ばたかせ、目立たぬよう、巧みに見張りを躱し、辿り着いたところは、セレイが先程までいたウライバ王城であった。
――アタシ以外に城仕えのツバサビトなんていないはず……
そも、城仕えであれば見張りを避ける理由など無いはずである。
そのツバサビトが降り立ったのは、城の一角にある豪華な露台であった。そのようなものを備えた立派な部屋を、王族以外に持つとしたら、大臣か、あるいは……
「……怪しい……あからさまに、怪しい!」
とてつもなく嫌な予感に襲われたセレイは、少なくとも同類とは思えないツバサビトを追って、自分も城をめがけて滑空態勢に入る……
一方、同種の亜人に尾行されていることに気付かないツバサビトは、周りから見えぬよう露台に翼を畳んで蹲り、扉が開かれるのを待った。
「……おお、来たか」
ガラス窓の向こうにその姿を確認したダーマスルは、副官に命じて、周囲に注意しながら扉を開けさせると、ツバサビト――グルズを招き入れる。
跪いたままの姿勢で入室したグルズは、副官に恭しく書簡を捧げ渡す。それは封蝋を切られぬままダーマスルに、こちらも恭しく捧げ渡される。
「……いよいよドルトフの若将軍が動かれるか!?」
封を切り、書簡に目を通したダーマスルは、思わず声に出して喜ぶ。それを見た副官が慌てて窘める。
「閣下……声が大きいですぞ!」
ダーマスルは「む……」と口を噤むが、それでも喜びは収まらず、小声で続ける。
「……書簡は、最終確認の旨を伝えている。こちらの準備は整っておろうな」
「はっ! すでに、手のものを城内各所に配置しております。ご命令があれば、すぐにでも取りかかれます」
副官の答えに、ダーマスルは「うむ」と頷き、すぐに机の前に腰掛け、返事の書簡をしたためながら、副官に今後の行動を確認する。
「街から[狼煙]が上がったら、王族を人質とすること……同時に、鉄甲騎 格納庫を押さえるのを忘れるな。出兵のため、城内の兵は少ない。手勢を分けても、問題はないはずだ」
書簡に署名し、蜜蝋に印璽を押し、素早く丸めてこちらも封蝋を施した上で、それを副官に手渡す。受け取った副官は、それを筒に入れ、先ほどから隅で跪いたままのグルズに手渡す。
「まもなくだ。武装蜂起失敗の報を受けたときは、もう駄目かと思ったが、逃げ延びたドルトフ閣下が機会をくれた……」
喜びを隠しきれないダーマスルは、その想いを口に出してしまう。
ダーマスルは、クメーラの某辺境伯が武装蜂起をすることは、以前から知っていた。と、云うより、彼自身、計画に加わっていた。
――辺境の駐在官として一生を終えるつもりはない!
計画を持ちかけられたとき、出世の道が開かれたと思った。
同時に、破滅の道かも知れないとも思った。
しかし、辺境伯には支持者も多く、そして、現政権に不満があることも確かであった。そして何より、計画を持ちかけられたと云うことは、自分が辺境伯から信頼されていると云うことである。で、あれば、成功の暁には、相当の見返りが期待できるのではないか……
辺境伯による武装蜂起の際、ダーマスルに与えられた役目は、ウライバ藩王の派兵を留め置くことであった。そして政権奪取成功の暁には、本国への帰還と領地の加増、そして要職への登用が約束された。
ダーマスルは計画の全貌を知らされていない。また、知る必要もなかった。何せ、自分は権限を利用して出兵要請を黙殺するだけで良かったのだから。
ところが、武装蜂起は直前で失敗した。蜂起直前で計画が露見し、阻止されたと伝えられたのだ。
漏れ聞いたところによると、その後、辺境伯は〈時代遅れの飛龍騎士〉の異名を持つ貧乏伯爵家の姫君との一騎打ちの末に敗北、捕らえられたという。
正直の所、こうなってしまえば謀反の行方はどうでも良かった。ここから先は、捜査が自分に及ばないよう、うまく立ち回らねばならないことだ。
辺境伯の武装蜂起は失敗したものの、クメーラ各地で準備されていた同胞による蜂起は止めること叶わず、国内は中途半端に内戦状態となった。
そしてすぐにウライバにも出兵要請がもたらされた。だが、その名目が治安回復、即ち、事実上の残党討伐となったため、ダーマスルは自分に目が向かないよう沈黙を決め込んでいた。ウライバをはじめ、各藩王はクメーラ王に忠義が篤く、というより件の辺境伯が好ましく思われておらず、時間は掛かるが、間違いなく蜂起は鎮圧されてしまうだろう。
ここは儚い夢と諦めて、保身に走るのが無難であろうと考えたのだ。
そんなとき、ゼットスを通じてドルトフが今回の話を持ち込んできた。
ドルトフが[奥の手]と呼んでいたのが、これである。
ウライバは小国ではあるが、無尽蔵とも噂されている良質な焔石の埋蔵量と、それを元にした貿易による経済利益は侮れない。しかも、この国は自然の要害と云われるウル山脈に守られており、ある程度まとまった武装で国を掌握してしまえば、容易に攻め込まれることはない。
そのために、ドルトフはダーマスルを抱き込み、内部工作を謀った。ウーゴ砦への増援を断ち切り、城とその戦力をそのまま簒奪するために。
一度は諦めたダーマスルではあったが、ドルトフの説得に、中途半端に消えかけていた野心に再び火が付いたのだ。
「……我々が城の掌握を完了させ、停戦の狼煙を上げさせれば、将軍閣下の砦攻略も容易くなる。その後は、将軍入城まで城を掌握し続ければよい」
手渡したとき同様、恭しく書簡を受け取ったグルズは特に表情を変えることなく、それをセレイと似たような鞄にしまい、そそくさと窓際に寄る。
「将軍閣下と、ゼットス殿に、よしなに伝えよ……グルズ」
グルズが飛び去る直前、副官が口にした言葉に、露台の屋根で一部始終を聞いていたセレイは、思わず悲鳴を上げそうになり、手羽で自分の口を塞ぐ。
――ダーマスルがゼットスと裏で繋がっている!?
知ってしまった事実に恐怖するセレイ。
――このままだと、城がダーマスルに乗っ取られる!!
セレイは、すぐさまこのことをミレイに伝えようと考えた。だが、姫様はともかく、亜人の伝令の話を、城のものが信じてくれるかどうか……よしんば信じてくれたとしても、証拠がなければ、あの狡賢い駐在官はしらばっくれるに違いない……
「そうだ……あの書簡を奪って見せれば……」
普段から伝令として書簡を扱うセレイは、その重要性を知っている。しかも、署名と印璽が押されたことも確認している。しかし、部屋を覗くと、渡された方の書簡は副官がたった今、焼却してしまったところだった。
「だったら……」
証拠となる物は、たった今運ばれている書簡しかない。そう判断したセレイは、ゼットスの元へと飛び立った、グルズと呼ばれたツバサビトを追跡することにした。
「力じゃ負けそうだけど、速度と小回りじゃ、あんな奴に負けないもん!」
飛び去るグルズを睨みながら、セレイは胸の鞄を外し、露台の屋根に置き去りにする。駐在官が内通していたのだから、この報告書は、もはや意味を持たない。
先んじてミレイに話しておくことも考えたが、そんなことをしている時間はなかった。飛び立ったグルズは、すでに見えなくなりつつある。
――拾ってくれた恩を、返さななくちゃ……
ウーゴ砦は、自分を人と同様に扱ってくれる。それに、ナランやプロイ、そしてミレイといった友人も出来た。その事に、セレイは今尚、感謝の念に堪えない。
――失うわけには、いかない!!
セレイは勇気を振り絞り、離陸と同時に一気に上昇する。空中戦で優位に立つなら、まずは相手より高度を取るしかない。
猛禽類に酷似するツバサビトは、高々度からの急降下による狩猟を得意とし、それはセレイも例外ではない。だが、今度は相手が同じツバサビトであり、しかも、セレイよりも大きな体格と、おそらくは、より多くの実戦経験を持っているはずである。初手で鞄を奪うことが出来なければ、後はない。
「(とにかく、距離をギリギリまで取らないと……)」
敵は目立たぬように街道を避け、木々の間を低空で飛行しており、それ故、飛行速度も障害物を避けられる程度に落としている。それは、やはりグルズが高い飛行経験を持つ証である。セレイは、望遠鏡に匹敵する視力を駆使し、グルズの嗅覚、聴覚に感づかれないであろうギリギリの高度と距離を滑空、まもなく見える、障害物の少ない草原に出るのを待った。
「(もうすぐ草原……お願い、そっちに飛んで!)」
だが、その思いも空しく、グルズは開けた場所を避け、再度木立の多い場所を選んで飛び続ける。素早く飛ぶことよりも、直線距離を稼ぐことよりも、回り道をしてでも目立たぬ事を選んだようだ。そしておそらくは、城と砦の中間辺りで一気に上昇し、山越えしつつ下降、そこから速度を出して隠れ家に戻るつもりなのだろう。
「(上昇態勢に入ったら。面倒になっちゃう……)」
セレイは賭に出た。相手が地面すれすれを飛んでいるうちに勝負に出るしかない。
「……風の精霊さん。どうか、アタシに追い風を与えて……」
そう呟きながら、右の足首に着けられた、蒼玉が含まれるビーズの輪を、左の脚で軽く叩く。その直後、セレイの声に応えた精霊――心象具現化によって引き起こされた追い風が彼女を包む。
「いっけぇ――――!!」
自らに気合いを入れるような雄叫びを上げ、セレイはグルズに向けて急降下を始めた。直後、彼女の瞳が消え、白目のみとなる。正確には、目を保護するための膜が張られたのだ。
落下による加速に精霊の旋風を纏い、さらに速度を増したツバサビトの少女は、一筋の風そのものに変化したかのごとく、グルズめがけて突進していく。正直、この速度で木々を避けるのはツバサビトでも至難であり、セレイの行為は勇敢と言うより、無謀としか言いようがない。
だが、セレイはその無謀な飛行に挑み、そしてやり遂げた。
速度を落とさず、木々や枝が眼前に迫る恐怖に打ち勝ち、時に木立を避け、時に枝に突っ込みながらも、確実にグルズとの距離を詰める。
その時、グルズが振り向いた。高速で急降下し、背後から接近するセレイに気付いたのだ。
不意打ちを掛ける追跡者を睨み付けるグルズであるが、すでに遅かった。
「……今だ!」
セレイは両足を前方に突き出し、慌てて回避しようとするグルズの背中に鋭く爪を立てる。
「!?」
グルズが声にならない呻きを上げる。その直後、わずかな血しぶきと共に体と鞄を繋ぎ止めていた革製の帯が切れ、瞬間、セレイの両足指がその帯をしっかり掴む。
「取った――――――!!」
手応えを感じたセレイは、再び急上昇を始める。
後ろでは、わずかではあるが両肩を負傷したグルズが痛みに耐えつつ、態勢を整えているが、セレイは振り返ることなく速度を上げる。
「証拠は手に入れた……後は、お城に戻って、ダーマスルたちを捕まえて貰わなきゃ!」
――事は一刻を争う。急がなきゃ、今日にもウーゴは襲われる!!
セレイが城に向けて踵を返そうとしたその時、
「グケエェ――――!!」
と、獣のような声が追いかけてきた。
「え?なに、なに!?」
それは、同族とは思えない声を上げて追跡してくるグルズの姿だった。痛みと怒りに顔を歪め、奇声を放ちながら翼を広げて爪を繰り出す姿は、精霊の加護が切れ、速度が落ちつつあるセレイを恐怖させる。
「……こ、ここで捕まってたまるもんかっ!」
――加護が切れても、速度はこちらがわずかに上!!
確信したセレイは、再度勇気を振り絞り、グルズの爪を避け、追跡を巻こうと右に左に旋回、上へ下へと上昇下降を繰り返し、距離を離す。だが、追跡するグルズもまた、セレイの動きを先読みし、手慣れた空中機動を駆使して速度が勝っているはずのセレイに食い下がる。
小柄な体格による速度と機動力を武器とするセレイに対し、グルズは大柄な体格による体力、そして培われた経験で対抗しているのだ。
こうなると、勝負を決めるのは気力の差―心の強さとなるのである。
「グアゲェ――――――‼」
威すような雄叫びと共に、セレイの横にグルズが並び、脚を突き出し、歪んで伸びる鋭い爪で華奢な体を切り裂こうと迫り来る。
対するセレイも、
「ケ―――――――!!」
と、ツバサビト独特の甲高い咆吼で自らを鼓舞、辛うじて爪を躱しつつ、身を回転させてグルズの上方を越え、幻惑を試みつつ再び距離を取る。
――相手は自分の命を奪ってから鞄を回収するつもりだ……
迫り来る瞬間に垣間見えたグルズの狂気と殺意に駆られた目を見たセレイは、恐怖に耐えながらも必死に飛び続けた。脚爪に鞄を掴み、その上速度を保つことに集中するセレイは、精霊行使は行えない。今は、自分の翼のみが頼りだ。
しばらく逃避行が続き、もはや、どこを飛んでいるのかセレイはわからなくなっていた。一瞬、山道を下る馬車と、鉄甲騎ほどの何かが車を引く姿が見えたが、気にしている余裕はなかった。
「いい加減しつこい!」
セレイは回転しながら急降下、眼下に広がる樹林へと逃げ込む。
それを見たグルズは、高度を保ちつつセレイを追跡する。丁度、初手の空中戦と立場が逆になるものの、逃亡する側のセレイが、追跡者であるグルズの存在に気付いているという違いがあった。
セレイは小柄な体格を活かして森の深いところへと逃げ込もうとした。事実、大柄の体格を持つグルズは、小柄な少女のように急降下してくることはなかった。今のところは、見失わないようにしつつ、様子を伺うだけのようだ。
――後は、うまく巻いて城か砦まで逃げ切れれば!
安心したセレイが空中戦で見失った方角を確認しようとするその時、一瞬のうちに景色が一変した。
視界が急激に回転し、気が付くと、上空に放り投げられていたのだ。
「え、な、な―――――――!?」
セレイは、一瞬、その身に何が起きたのかを理解することが出来なかった。
そして突然の旋風により上空へと巻き上げられたセレイが見たものは、翼を羽ばたかせて空中を大きく旋回し続けるするグルズが、呪詛のようなものを呟いている姿だった。
――敵の精霊行使!?
気付いたときには遅かった。グルズの術による旋風……と云うより小さな竜巻に飲み込まれたセレイの体は、ものすごい速度と勢いで上昇していく。
「鞄は……離さないぞ――――――!!」
竜巻の中、セレイは必死に自分の意志を保とうとする。
あらゆる心象具現化は創造力を具現化するものであり、従って(物質に永続付与するものを除いて)現象として発生したものは、自分の意志力で消し去ることが可能である。
だが、それは相手の術、すなわち相手の意志力を上回る心の強さで[否定]しなければならず、竜巻の中で回転し続け、もはや、態勢を整える余裕はないセレイは鞄を離さないだけでもやっとであった。
グルズの嘲笑う声が聞こえる中、抵抗空しく、上昇し続けた竜巻は空中で反転し、今度は地面に向けて急降下する。
このまま地面に激突するのか、それとも、木の先端にでも突き刺さるのか、己が迎える最後に絶望したセレイの脳裏に、ナランやプロイ、砦の仲間達、そしてミレイの顔が走馬燈のように浮かんだ。
「(もうだめ……姫様、ナラン、プロイ……アタシだめかも……)」
その直後、セレイは柔らかい物に受け止められたことに気付いた。
それは、とてつもなく巨大な女性の手だった……