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ゆがみ

作者: cheri

 

「あのな、こんなときに、好きだったよ、とか、ありがとうって言うなよ。それ、一番辛いんだからな。そんなの、他の男には絶対言うなよ。俺だからこのまま別れるけど、他のやつだったらもっと怒ってるよ。きっと。」


 電話越しに震える声を聞きながら、彼が泣きそうになっていることに気づきながらも、私の気持ちは憮然としていた。どうして終わりなのに私が怒られなきゃいけないのだろう。大学生になってから、知り合った男達と軽い気持ちで付き合うことが多くなった。クラスが同じだった子も、サークルで知り合った子も、バイト先で知り合った子も期間はそれぞれだったけど、みんな相手から近づいて来て相手から離れて行った。

 最初は、大抵私になんて興味がなくて、もっと可愛い子に手を出すのだけど、その子がつれない態度をとるとターゲットを変える。私のようなどこか物憂い表情をしているのに、ガードは固くないような女は簡単に付き合うことができると思っているみたいだ。名前さえ忘れるほど興味のなかったはずなのに、いつの間にかものすごく積極的に押されていることが多い。

 付き合い出してから、「私の名前、忘れていたのにね。」と言うと大抵の人は苦笑しながら「あの時の自分は、本当の相手に気づいてなかっただけで今はきみを一番愛している。」などと軽々と言う。きっと昔の私だったら、忘れられていたことに対して相当な怒りを感じて絶対にもう関わりを持つなど、しなかっただろう。だけど、覚えられていたとしても、離れて行く人は離れるのだから、違いはないということに、彼女に出会ったことで気づいてしまった。彼女との出会いこそ、私に取っては一生にあるかないかぐらいの救いだったと感じてしまうほどに重要なものだった。だけど、彼女は平気で私から離れて行った。


 受験をして中高一貫校に入学した私は、学校の近くにある合宿施設で同級生と親睦を深めるという行事に参加していた。入学式からまだ間もないときで、地元の友達と離れて入学している子が多いため、それぞれがお互いの様子を伺いながらも、一人で昼食を食べることは避けたい様子で、とりあえず誰かと一緒にくっついていようと様々なグループができていた。私も、出席番号が前後の子となんとなく仲良くなった子たちでベンチに座ってお昼を食べていた。そのとき、視界に一人で俯きながらこそこそと木の側に立っている子が目に入った。彼女は誰とも目を合わせないようにしていながらも、一人で堂々としていられるような感じでもなく、周りを気にしているのがありありと伝わってきた。私は思わず席を立って、彼女のもとへ駆け寄った。


「ねえ。一緒に食べようよ。」


 私が突然駆け寄ってきたことに多少の不安を感じながらも、話しかけてもらえたことが嬉しかったようで、彼女は笑みを浮かべ、「うん。」と答えた。

 私が彼女を連れて戻ると、他の子はお弁当を食べながら、口々に、「偉いね。」と言った。

 私は、一人でいる子が見えたから話しかけて一緒に食べようとしただけなのに、どうして偉いなんて言われるのだろうと不思議だった。それからその一人でいた子は私と一緒にいるようになった。

 けれど、しばらくして、他の子が私をグループから出すようになっていった。

 意図的に出て行けとは言わないけれど、自然に別行動になるように彼女達は上手く仕向けていた。私は最初、その自然さに惑わされて自分が仲間はずれにされていることに気づかなかった。ある、雨が降っていた日、いつも一緒に帰っている彼女たちが教室にいる私に向かってドアの外から、今日はまだ帰らないから、先に帰っていいよ。と言ってきた。彼女達の顔は何かとても楽しいものでも見ているかのように嬉々としていて輝いていた。私は彼女達が鞄と傘を持っている姿を見て明らかに帰る身支度をしているのだと気づいた。だけど、悲しくなるだけだから、「わかった。バイバイ。」としか言わなかった。

 教室を見渡すと、一人だけ窓の外を見つめている子が残っていた。他の子はグループになって帰って行った。みんな私がグループの子たちに置いて行かれたこともわかっていたけれど何も話しかけずに出て行った。その中には、登山で話しかけた子もいた。彼女もチラチラとこっちを見ているのはわかったけれどせっかく手に入れた居場所を手放すことの方が私に近づくことよりも怖かったのだろう。結局私は、誰かを救った気になっていただけで、彼女たちにとっては落ちている消しゴムを拾ってもらった程度のことだったのだ。窓の外を眺めていた子は、私にも目を向けずただじっと外を見ていた。今までグループの子と一緒にいることが多かったから、彼女のことをそれほど気にかけていなかったけれど、そう言えば浮いてる子がいると話には聞いていたなと思い出した。思いきって、彼女の席まで行き話しかけた。


「何、見てるの?」

 私がいたことにさえ気づいていなかったようで、彼女は驚いたように私を見つめた。

「雨の水滴が落ちるのを見てたの。」

 また外に目線を移し、彼女は頬杖をついた。

「まだ、帰らないの?」

「帰ろうかな。」

 彼女は手を乗せていた鞄を持ち上げ席を立った。そのままこちらを見ずに、ドアまで向かうので、

「待って、あの一緒に帰っていい?」と聞くと不思議そうな顔で答えた。

「何で聞くの?くればいいのに。」

 そう言ってそのまま出て行ってしまった。私も急いで鞄を持ち、彼女を追いかけた。下駄箱のところで追いつき、靴を履き替え彼女と並んでバス停まで向かった。


 バスはがらがらで、私とその子は、2人掛けのイスに前後に座った。特に会話をするでもなく、雨が止んだ後でも暗い空と濡れて水滴が流れ落ちる窓を見て、彼女達に私は一体何をしたのだろうと考えていた。そしてバスで駅に向かっている途中で定期券を教室に置いて来た事に気づいた。どうして私ばかりこんな風に悪いことばかり起きるのだろう。何をどうしたらこんなサイクルから抜け出せるのだろうと泣きそうになった。思わず後ろに座っていた彼女に、「定期券、忘れちゃった。もう一回学校戻るね。」と言うと、彼女は、私も行くよ。と間髪いれず言ってくれた。その瞬間、私は世界がワントーン明るくなったように感じた。私は今確かに救われたと。誰かに見捨てられたあとには、ちゃんと救済が待っているのだと。運転手さんに事情を説明して、駅から乗ったまま学校に戻った。定期券を取り、再び2人でバスに乗る。彼女はやはり何も言わない。その感覚が心地よかった。無駄足をさせたしまったことに罪悪感を抱き、何度も謝ったが、彼女は別に気にしてないよ、と笑っていた。


 その日から、私は彼女のことを信頼し、一目置くようになった。今までは気にしてなかったから知らなかった彼女の長所を目の当たりにするようになった。彼女は、周りの子と一緒にいてもどこか違うところを見ていたり、異常に好き嫌いがはっきりしていて教師相手であろうと自分の意見をはっきりと述べている子で、周りには疎ましがっている子もたくさんいた。確かに、おとなしく苦笑いで流せば、1分で済むような矛盾した教師の説教も、彼女は真っ向から対決しようとするので、10分でも20分でもかけたし、最長ではまるまる45分間授業を潰した事もあった。それでも、私は彼女の真っ直ぐなところが好きだったし、自らの損得を考えて行動するのではない姿に尊敬の念すら覚えていた。彼女なら、私を理解してくれる、そう信じてしまっていた。

 中高一貫のクラスは高校になるとひとつにまとめられた。私たちは3年間同じクラスで文化祭も体育祭も修学旅行もずっと一緒にいた。中学の頃私を置いていった人達はもうバラバラのグループになっている。誰も私を追い出したことを覚えてもいない。一度彼女達のうちの一人と2人で帰る機会があって電車で話をしていたときに、向こうの方から、あのときはごめんね、でも、他の子に言われて止められなくて、と言い訳をされた。彼女自身がやりたくなかったのなら、後から連絡するなりいくらだってできたはずだから。


 高校2年生のときの文化祭前日の夜に、教室の飾り付けがし終わり、2人でくらい中帰っているとき、初めて2人で手を繋いだ。彼女はスキンシップが好きじゃなかったから、今までそれほど彼女に触れたことはなかった。彼女の手は想像していたよりも冷たくて、ドキッとした。手を繋いであるいていると、すれ違う人たちがチラチラと見ているのがわかった。

「見られてるね。」

「別にいいよ。」

「恥ずかしくないの。」

「うん。恥ずかしいの?」

「だって普通は、男の子と繋ぐものじゃない?」

「でも、私たちは、男の子と女の子の行き着く関係性よりも、長く続くものだと私は思ってるんだけど。」

 彼女は手を握る力を強めた。暗いなかで表情は分からなかったけれど、笑っているようにも見えた。

「私も。そう、思ってるよ。友達って、家族とか夫婦と違って何の契約とかも結ばれてないけど、私は離れないって約束するからね。」

 私も繋いだ手をもう一度握りしめた。


 こうして2人で一緒にいて、彼女と私はきっと死ぬまでずっと側にいるのだろうと思っていた。それはお互いが、誰かと結婚をして家庭をそれぞれ持っても続く物だと信じていた。私は、あまりにも誰かに依存しすぎるタイプだったのかもしれない。


 大学受験もそろそろ本気を出し始めた人たちが多くなる、夏休みに私と彼女は電車で40分程かかる都心の予備校に通い始めた。彼女も私も文系の私立コースだったけれど、私は歴史が苦手で彼女は英語が苦手だったため、クラスが少し違っていた。それでも自習室へ行って時間を合わせたり、行き帰りは一緒にしていた。夏期講習が始まって1週間くらい経ったときの帰りの電車のなかで、彼女が突然クラスで仲良くなった生徒の話をしてきた。彼女が私以外の人と仲良くしている姿は見た事がなかったし、そう簡単に誰かと打ち解けるような性格でもないと思っていたので、驚いた。話を聞いていると映画や音楽の趣味が合い、志望校まで同じだったというのだ。

「最初見た時は、明るそうでスポーツとかやってそうな子だから、私と絶対性格合わなそうだと思ってたんだけど、昨日休んだ分教えて欲しいって話しかけられて、それからいろいろ話してたらそんなに悪い子じゃないってわかったんだ。」

 彼女は女の子なのだから、ここで私が嫉妬をするのはおかしい。それに、彼女が他の子と仲良くしようと私はいつまでも彼女と特別な関係でいるのだから心配する必要はない、と言い聞かせた。

「そうなんだ。クラスで仲良い子できてよかったね。」

「うん。で、今日も帰りに自習室で勉強教えて欲しいって言われたんだけど、友達と帰る約束してるから無理って言ったの。」

 無表情で話す彼女を見ていると、私との約束が邪魔だったと言われているような気になってしまう。今までだって彼女は話すとき無表情が多かったのに。

「そっか。じゃあ明日は?私も、一緒に勉強して行こうかな。紹介してもらえる?」

「本当?遅くまで残るの嫌かなと思って、私だけ残ろうかと思ってたけど、それなら連絡しておくね。」

 携帯を取り出し、その友人に連絡し始めた。

「え、もう連絡先交換したの。」

「うん。教えてって言われたから。」

 私だって仲良くなってから、メールしてもなかなか返事帰ってこなかったりして、彼女は連絡をまめに取らないタイプなのだと思っていたのに。

「ふーん。じゃあまた明日ね。」

 最寄り駅に付いた私は彼女の方を見ずに降りて行く。いつもは彼女の乗った電車が発車するまで後ろをちらちら振り返っていたりしたけど、今日は見なかった。今まで彼女がこちらを見て手を振ってくれたこと自体ないのだから、私が振り向こうが振り向くまいが、彼女にとって何の違いもないのだけど。

 もやもやしながら自転車に乗り自宅へ向かった。電車の冷房で冷えきった体が夜でも蒸し暑い外の気温で溶かされて行くようだった。


 翌日、彼女のクラスが終わるのを教室の横で待っていた。夏期講習の間は、普段から通っていない生徒も入れるので、いかにも短期で来ているような人も大勢いる。大抵そんな人たちは友人何人かとつるんでいて、廊下でもうるさく騒いでいる。そんな人たちと目を合わせないように、壁に寄りかかりながら、自分の足元を眺めているとチャイムが鳴り、教室から人が出て来た。人の流れのなかで、彼女を捜す。楽しそうに笑いながら知らない男の子と出て来た彼女を見つけた。彼女の名前を呼びながら人をかき分けて近づく。全然気づいていない彼女の腕を掴むと、驚いたようにこちらを見た。

「ああ。びっくりした。そうかここで待ち合わせしてたんだ。忘れてた。」

 忘れていたという一言にショックを受けながらも、隣にいる背の高い男の子の視線が気になり、誰?と聞いた。

「昨日、言ってた子だよ。スポーツやってそうでしょ?」

 おかしそうに笑って彼女が彼を紹介する。

「私、友達って女の子だと思ってた…。」

 てっきり彼女の話から女の子のことを言っているのかと思っていたため、紹介したい子というのが男だと知り動揺した。彼女が私を彼に紹介すると、彼もにこりと笑い、よろしく、と言った。

 私も目線を反らしながら、挨拶をして、彼女の横に立った。

 彼女を真ん中に三人並んで自習室へ向かう。階段ですれ違う集団とぶつかりそうになり、私は2人よりも一段遅く階段を降りて行く形になった。去年卒業した人達の名前と大学名が書かれた髪が壁一面に貼られている。私が横ではなく後ろから付いて来ていることにも気づかずに2人は楽しそうに話している。その様子を見ながら、今日はもう帰ってしまおうかと思った。

 教室の前に着いて、

「私、今日は帰ろうかな。」と言うと、

 彼女は特に表情も変えずに「そう。」とだけ言った。

 けど、彼の方が心配そうに、「ごめんね。俺が無理言って付き合わせちゃってるからだよね。そんなに時間かからないから一緒に残って行かない?」と声をかけてきた。

 彼女に言われるならまだしも、何も知らないこんな男に言われたくなかった。彼女にとって私がいてもいなくても別に何も感じないのだと改めて感じさせられたことが悲しくて、さらに、この全く得体の知れない男から同情気味に声をかけられたのがショックを増大させた。そこで帰る。と意地をはれる程、私は意志が強くなかったから、2人の後に続いて部屋へ入った。自習室は私語厳禁で問題を解いている文字を書く音や、紙のこすれる音だけが響いていた。私は苦手な歴史の課題をやってしまおうと個人ブースに座った。彼女達も私の横に座り勉強を始めた。最初は静かにやっているけれど、途中でクスクスと笑う声が聞こえるようになった。何をしているんだろうとチラっと覗き見るとノートの切れ端に何かを書いて交換し合っていた。彼女たちの笑い声に、しかめ面をしている生徒もいた。彼女も今まではむしろ、こちら側のように、自習室で言葉を発することが嫌いで私が話しかけても紙に返答を書いて全く話そうとしなかったり、時にはうるさくしている人に対して、席を立って、うるさいと注意するような人間だったのに。

 がっかりして、私は荷物を片付け始めた。立ち上がり、リュックを背負いイスを押し込む。

 彼女たちに、「お疲れ。」とだけ言うと振り向かず教室を出て行った。

 予備校から駅までは歩いて5分もしないほどだけど、彼女と離れて一人で歩くのは初めてだった。いつも横を見ればあるはずの姿がないだけで落ち着かない気持ちになった。彼女はいつも此処にいたのに。どうしてあんな男にあんな笑顔で笑いかけるのだろう。あの男にあって私にないものは、それは性別が違うことだけじゃないのか。私という友達だけじゃ、彼女を満たすことはできなかったのか。

 考える程悔しくなり、涙が込み上げて来た。同じような格好をした予備校生たちを横目に、なんとか泣かないように唇を噛み締める。潤んだ瞳で見る駅はライトが揺らめいて幻想的だった。


 帰宅してから携帯を見る。彼女から、もしかしたら今日のことを悪かったと謝罪するメールか、心配するメールでも来ているんじゃないかと期待して電車の中では見ないようにしていた。画面を見ると新着メールのサインが出ていた。ドキッとして急いで開くと、コンタクトのクーポンメールだった。がっかりしたが、まだ他にも未読のメールがあるサインが消えていない。今度こそ、と見てみると、彼女からのフォルダではなく、好きなアーティストが出演する番組を知らせるメールのフォルダにマークを見つけ、開きもせず携帯を閉じた。きっとまだ帰っている途中で、電車のなかで寝ちゃっているのかなと思い直して、お風呂へ向かった。いつもなら、携帯も持ち込んで音楽を聴きながらシャワーを浴びるのだけど、今日は部屋へ置いて来た。一日の疲れを取る入浴もサッと済ませ急いで体を拭き、部屋へ戻った。気になってお風呂さえゆっくり入っていられなかったのだ。けれど、もう一度開いても先ほどのお知らせメール以外何も来ていなかった。髪を乾かし、寝る前に今日の復習をし始めた。時計の音だけが響く部屋。携帯はサイレントにしているから、メールが来てもわかならないので、彼女のからのメールだけには受信音が鳴るように設定し直す。けれど、気になってチラチラと携帯へ目をやってしまい集中できない。なんとか課題が終わり、12時過ぎても何も送られてこない。何度センターに問い合わせしても何も受信されない。携帯を投げ捨て、電気を消しベッドに入り、ふとんをかぶった。近くで工事でもしているのか、大きな機械の音がする。何度も寝返りをうっても、眠りに付けない。投げ捨てた携帯を手探りで探し、液晶の時間を確認する1:18。メールの受信もない。帰り道に堪えたはずの涙がまた込み上げてくるのを感じた。携帯を充電器に指し、机の上に置いた。ベッドに横になると涙が一滴流れ、耳のなかに入りそうになった。


 私は世界が歪んで行くのを感じた。


 次の日から、彼女はほとんど毎日、彼と一緒に授業後自習室へ行くようになった。彼女にとっては、私と彼の存在は同じ程の大きさで彼女の人生に現れた登場人物でしかなく、彼だけを大切にしているつもりはないし、私を嫌いになったわけでもない。ただ、今は彼といることが新鮮で楽しいから、一緒にいるだけだ、そうだと思い込むようにしていた。きっと夏休みが終われば、彼も予備校に来なくなるし、彼女も元に戻るだろうと。

 夏期講習の最後の週末に一日だけ休みが合った。その日は夏休みが始まる前から、彼女と2人で水族館に行こうと約束をしていた。前の日に、彼女はまた自習室へ行ってから帰るというので、また連絡するね、とだけ言って帰った。私は、一人電車で眠くなりながらも、明日は彼女と久しぶりに2人だけで話せるのだとわくわくしていた。帰宅してから、「明日、どこに何時に待ち合わせにする?」とメールを送った。すると30分後に、「明日、彼と映画観に行くことになったんだけど、私たち、どこか行く約束してたっけ。スケジュール帳にも何も書いてなかったから。」と返事が来た。

 突然のことに憤りを感じる自分を想像したけれど、何も感情を湧き出てこなかった。「楽しんで行って来てね。」とだけ返事をしてベッドに潜り込んだ。


 いつまでも眠れず、パソコンを起動した。何の役にも立たないニュースが羅列されていて涙で視界が揺れていながらもそれらを見つめていた。どうして私がこんなにも泣いてばかりいるのだろう。そう思いながら、チャット画面を立ち上げた。いろいろな掲示板があるなかでも、一番参加人数の少なそうなものを選び、入室した。名前はどこにでもいるような名前を使った。

 既にいる人たちに挨拶をし、会話に混ぜてもらう。チャットはあまりしたことがなかったけれど、中学生のときに友人がやっていてある程度のことは教えてもらっていた。

 それぞれが趣味の話をしているうちに、私が自分の悩みを聞いて欲しいと思い気って発言した。3時近かったが、みんな熱心に聞いてくれた。私と彼女の関係、そこに突然出て来た彼の話。彼女が私の約束を忘れていたこと、私が今彼女に対して抱いている気持ち。

 全てを吐き出して、彼らの反応を待った。それぞれいろいろな意見を言うけれど、大抵の人が私の味方をしてくれた。彼女は自分勝手だとか、男ができたからって女友達を優先するなんて最低だ、とか。自分が優勢な立場にいるのだと彼らの言葉から思い、少しずつ元気になった。全くの、見ず知らずの人たちから賛同を得ることは、卑怯だし私だけの話はきっと一方的で彼女の悪い部分しか伝わらないからこそ、私は元気づけられたのだとわかっていたけれど、嘘でもいいから認めて欲しかったのだ。この惨めな気持ちを。4時過ぎになり、朝日によってカーテンから明るい光が差し込み始めたので、みんなにお礼を言い、パソコンを閉じた。どうせ何の約束もない休日なのだから、と目覚ましもかけず眠りについた。


 自然に目が覚め、携帯に手を伸ばし時間を確認する。メールが来ていたけれど中は見ずにリビングへ向かった。母が新聞を読んでいた。

「もうお昼よ。何度起こしに行っても寝てるからご飯先食べちゃった。どうするの?」

「じゃあ紅茶だけ飲む。」

 母が持っていた新聞に載っているニュースを流し読みする。ポットに入っている紅茶を暖め直してミルクを入れて飲む。荒ぶっていた神経が落ち着くのを感じた。

 ニュースにはあちこちで起きた事件が載っていて、見ているだけで外に出るのが怖くなる。

 母の作ったオムレツを食べてまた部屋へ戻る。携帯の着信を知らせるライトが光っているのに気づいてみて見ると、彼女からだった。最初の着信は私が起きて部屋を出てから2分後くらいで、その後は10分置きに5回かかってきていた。溜まっているメールに目を通す。


 9:00「おはよう。今日、ごめんね。私が忘れてたってことだよね。」

 10:49「メール見てない?これから映画行くところ。もし大丈夫だったら来ない?」

 11:32「もしかしてまだ寝てる?13:45の回の観ることにしたから大丈夫そうだったら来れないかな。彼も、話したいって言ってるから。」

 11:39「あ、場所は新宿だよ。」

 12:15「電話しても出ないから、心配になっちゃって。大丈夫?」

 12:33「本当にどうしたの?怒ってる?」

 今まで待ちわびていた彼女からのメールだったけれど、どれを見ても感情を揺さぶられず、何と返せばいいのかわからなかったので、返事をしなかった。留守電も入っていたけれど、聞かずに消した。


 映画の上映時間になってからは、彼女からの着信もメールも来なくなり、夜になっても連絡は来なかった。

 またお風呂に入ってから、昨日行ったチャットに行ってみると昨日と同じようなメンバーが揃っていた。「こんばんは。」挨拶をすると、みんなが暖かく迎えてくれた。結局、今日どうなったの、と質問されて、私はまた着信のことやメールのことを話した。彼らは、私が無視をしたことに対して、よくやったと褒める人もいたけど、もっときつく怒ってもよかったのにと残念がる人もいた。「きっと、あなたがいないことで本当に大切な人は誰なのかが分かったんじゃないかな。」と言われ、少し嬉しかった。姿も知らない人達に、自分の行動を肯定されると、まるで甲鉄の装備を身につけているかのように強くなった気持ちになる。しばらく他の子たちの話を聞いて、パソコンを閉じ、ベッドに入った。

「おはよう。」


 翌日、いつも予備校に行くときに彼女と待ち合わせしている車両に乗ると彼女が真っ先に話しかけて来た。さっそく彼女は、私の大切さを改めて認識して、私とこれからも一緒にいようと思ったのだろうと微笑んだ。

「おはよう。」

「彼と、付き合うことになったから。」

「え?」

「昨日、言われたの。」

「は?」

「もう予備校終わっちゃうし、学校も遠いから会えなくなっちゃうのは嫌だって。」

 窓を真っ直ぐにみつめている彼女の顔はいつもの通り無表情だけど、どこか幸福感が漂っていた。どうしてそんな大切なことを、今言うのかな。

「だったら電話でもして教えてくれたら良かったのに。」

「だって、昨日一回も折り返し連絡してくれなかったし。」

「もういいよ。」

 私は彼女の方を向かず、じっと窓を見ていた。私との約束を忘れて、まだ知り合って3週間くらいの人と付き合うなんて。私のこと何だと思ってるんだろう。

「彼、本当に良い人だよ。私、初めて生きてて良かったって思えた。」

 何それ。私といたときは、そう思えなかったってこと?私たちが一緒にいた6年間は何だったの?

 悔しくなってつり革を掴む腕に力が入る。気づかないうちに厳しい顔をしていたのか、近くに立っていたサラリーマンの視線を感じ、見つめ返すと目をそらされた。

 予備校の最寄り駅に着き、揃って電車を降り、無言のまま改札を抜けると、彼がいた。嬉しそうな顔で、耳にさしていたイヤホンを抜いて近づいてくる。彼女もまた手を振りながら近づいて行く。私は、その光景を立ち止まって見ていた。彼女は、私が止まったことにさえ気づいていなかった。私の様子がおかしいことに彼の方は気づき、彼女に何か

言葉をかけるが、彼女はきょとんとした表情で私の方を見つめているだけだった。私は、2人を無視して予備校へ向かった。この日を最後に彼女と話をすることはなくなった。

 翌日学校で話しかけて来た彼女に対して私は何も返事をしなかったし、彼女もこれ以上すがりついてまで私に執着する必要性は感じていないようだった。


 彼女と話をしなくなってから、私は志望校を変えて関西の大学へ行くことにした。彼女と彼は同じ東京の大学を志望していたから、なるべく会う確率を下げたかったのだ。学校に行ってもほとんど誰とも話さずに教科書ばかり読んでいたり音楽を聴いて帰宅するという一日がほとんどだった。彼女と一緒に通った予備校も辞め、家庭教師を呼ぶようにした。当時目指せなかったレベルの大学も可能圏内に入り、両親は喜んだ。大学生活で、何か楽しいことがあるようには思えず、両親が喜ぶならどこでもいい、と彼らの希望する学校を受験し、その中でも一番難しいところに合格した。もちろん実家から通うことはできないから、一人暮らしをすることになって、両親は嬉しいけれど寂しいと新幹線に乗って家まで一緒に来てくれた。一から家具などを選び部屋に揃い始めた頃には、新たな人生が始まるような思いも少しずつ湧いて来た。

 卒業式の日、式にだけ出て、その後は親戚の人達とお祝いをした。クラスメイトたちは卒業式後に打ち上げをしていたようだけど、私は一枚も写真に映らなかった。彼女も、総業式にはいたけれど、私よりも早く姿を消していた。彼と会っていたのだろうか。

 それから彼女と彼が同じ大学に行ったことをSNSで知った。きっとあの日、彼と彼女の関係性を軽んじて、私が彼女を離さなかったとしたら大学生になってからも、彼と彼女の後ろから肩を窄めて恨めしそうに付いて行く関係のままだっただろう。


 前日の台風が嘘のように晴れた朝。雨の日は、常に彼女との出会いを思い出す。彼女と私の関係は、それほどまでに深いものだったはずだと、いつも考えているけれど、改めて冷静に見つめ直すと、彼女と私はどのように深い結びつきを持っていたのだろうかと、自身の感情を一から崩してしまう結末に辿り着く。彼女への執着心を捨てたいと思いながらも、その思いがあるからこそ、私は今、此処で生きているのだと自分の愚かさに気づかされる。

 ひどく殺伐とした思いでいっぱいになり、どうしようもなく救いようのない話の映画が観たくなり、学校へ行く足を止めて近くにある映画館へ向かった。平日の昼間だからなのか、立地のせいなのか、お客さんはほとんどいなかった。上映作品の中からフランスの映画を選び、チケットとパンフレットを買った。すでに上映から10分を切っていたので、すぐに会場に入り席を選んだ。いつも最後列の真ん中を選ぶけれど、すでに人が座っていたから、後ろから3列目の通路寄りの席を選んだ。席に着くとさっき買ったパンフレットを開く。

 主人公訳を演じた女優のインタビューを読んでいるうちに、涙が込み上げて来た。場内は薄暗かったけれど、ここで泣いていたらおかしな人だと思われるのが目に見えていたから急いで目を閉じて上を向いた。アラームが鳴って上映開始のアナウンスが流れた。照明がまた一段落ち、予告が始まった。邦画も洋画も次から次へと新しい作品が出てくる。目の前で才能溢れる創造者たちや役者たちの輝いている姿が流れている。照明が完全に消え、本編が始まった。スクリーンに映し出された主人公は気高くて美しくて、高校のときに離れていった彼女を彷彿させた。彼女の友人が彼女の父親と寝たという事実を知り、彼女が一心不乱に日記を書くシーンになった。そのとき、主人公の姿が彼女に見えるようになった。彼女からスクリーンから越しに話しかけられているかのようだった。「そうだ。彼女は、離れて行くべき人だったんだ。出会うことに意味があるなら、別れにも意味を見出したって、神様は罰を与えないだろう。だから私たちの別れはお互いにとって必要なものだったのだ。」と彼女は言った。3Dでもないのに、彼女が画面から浮き出ているかのように立体的に感じた。あの日から一度も話すことのなかった私たちの関係は、永遠に消えないと思ってもいいのだろうか。


 今まで私は自分に欠陥があるため、人は離れて行ってしまうのだろうと思っていたけれど、彼女の言葉で人と人との繋がりを再認識した。

 誰かが悪いのではなくて、今まで離れて行った人たちは、出会うべくして出会ったうえで、また離れていったのだと。彼女に対する異常なまでの依存心を私はこれからどうやって昇華していけばいいのだろう。涙が止まらなくなった。


 途中から入って来て、私がいないと思い思わず隣に座ってしまった人が、私の嗚咽を聞いて体をびくっとさせた。その人は私が泣いているのに気づき、驚いていたけれど、それ以降はこちらも見ずに映画に没頭していた。彼女に見えていた主人公は、いつの間にかもう彼女ではなくなっていた。上映が終わると会場が明るくなった。涙は乾いていたが、その跡が残っているのが気になった。隣の人がなかなか立ち上がらないので一目見ると、その人は私を見つめていた。ずっと女の人だと思っていたけれど、男の人だった。スーツを着ていて、きっと社会人だろうと思った。彼は何も言わずにただ前を見つめていた。私が席を立ち反対側の通路から出て行こうとすると、手を掴まれた。驚いて、手にしていたパンフレットを落とすと彼が拾いあげながら、「なんで、泣いていたの。」と言った。

 私はパンフレットを受け取って、怖くなって小走りで劇場を出た。その後、駅に向かって歩いていると彼がまた追いかけて来た。

「待ってよ。」

「何ですか。」

 大勢の人達が行き交う街中で、スーツ姿の大人と泣いた後の顔をした2人が並んでいても、通行人たちは全く気に留めていない様子だ。

「さっき泣いてたでしょ。あの、映画で泣いたの?俺、あの映画の記事書かなくちゃいけなくて、その、もしどこで泣いたのかが分かれば参考になると思って。」

「本当ですか?」

 疑いの眼差しで彼を見つめる。

「別に変な話しようと思って追いかけたんじゃないよ。近くにいた人で泣いていたの、きみだけだったから。警戒するのはわかるけどさ…。」

 首の後ろに手を当てながら彼がこちらを見ている。私は彼のことをじっと観察した。短い髪に白い肌。藍色のスーツに深緑のネクタイ。高そうなブランドの時計。耳にはいくつものピアスの痕。微かに香る、甘い香水。どこも惹かれるポイントはなかった。精神的に魅力を感じていなくても、潜在的な、もっと動物的な本能が彼の引力に引きつけられていた。

 こんな風に話しかけてくるなんて、きっとおかしい人だと、分かりきっていたことだったけど、とにかく疲れきっていた私は、彼に付いて行くことにした。

「どこか、カフェとかでいいから話聞かせて。」

 人に物を頼むというのに、この人は態度が上から目線だと感じた。自信なさげに話す人の方が好きだったけど、彼にはこの態度がぴったりだと思った。

 雑踏の中を彼の後ろについて歩いて行く。彼はときどきチラッと振り返って、私がちゃんと着いて来ているのか確認している。怪しい、と思ったけど、歩みを進めた足は止めることはできない。彼に付いて行ったことを後悔する少し先の、未来にいる自分が安易に想像できたけれど、立ち止まることすら自分の意志では決められなかった。


 彼に付いて行くことで何が起こるのかはわからないけれど、彼女との離別にこれほど執着してしまう自分をどうにか消すことができるなら何だってしようと思った。彼の後ろ姿を見つめながら歩いていると、雨が降って来た。天気予報は晴れのマークだったため、傘を持っている人は少なかった。少し降ったらやむだろう。彼が振り向いて、「走って。」と言った。目の前にいる彼は本当に存在しているのだろうか。映画館から私を追いかけてくるほど、私に引力を感じる人間などいるのだろうか。あの頃、世界が歪むのを感じた私は、今でも、その世界で浮遊している。雨に濡れながら、彼女のことをまた思い出していた。


 靴が濡れて中まで湿っているのを感じながら、それでも目の前にいるはずの彼に付いて行った。




読んでくださり、ありがとうございました。


楽しんでいただけたら幸いです。



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