彼が自殺した話。
サクトウの町は一昨日から本格的に冬に入り始める。
そんな息は少し白くなって吐き出され、朝は布団から出るもの億劫になりつつある、ある日のこと。
「そろそろ仕事を探してみたら…、どう…?」
唐突に母は俺にそう言ってきた。
もちろんそれは俺が無職で、今年二十八歳になるからで、傍から見ても仕事を探さず一日中ネットの前に佇んでいるのが原因だっただろう。しかし俺にはそんなこと関係なかった。
ほとんど条件反射のように用意されたテーブルの料理を床へ叩きつけると、さっさと俺は二階の自室へ駆け込んでいた。
「あ…。ああ…、あああああああああああああああああああ!!」
鍵を閉めて布団を被って俺はやり場のない怒りとともに咆哮を挙げた。
親の料理に手をあげた自分に、そんな情けない自分にも、俺は嫌悪する。
どうして俺はどうしようもない屑なんだ。
俺の名前は骸見橋夫。先ほどもちょっと言ったように今年で二十八歳になる無職だ。
最終学歴は中卒だが、それも虐めでほとんど登校はしていない。
まあ、俺自身リア中で、こんな根暗がクラスにいたら苛めてたかもしれない。
しかしダメでダメな甘めな及第点も貰えない人生を送ってきた俺だが、恵まれていたものもある。
それは親。
母と父、二人だけはいつも俺の味方だった。
なので何か死ぬ前に恩返しをしたいが、何もない俺が何かしてやることができるわけもなく。
就職、外に出るだけでいいよ、という父母だがそれは余りにもハードルが高くて。
家事を肩代わりするにも部屋から出たくなくて、体が重くて。
要するに俺はやっぱりダメなやつなわけで。
結果、いつまでたっても何もしてやることはできない日々が続いていた。
「俺はさ、死んだほうが、いいよな?」
恥ずかしいことに未だに俺は親に小遣いを貰っている。それプラス、食費に電気代も加味して考えれば、寄生虫でしかない俺は死んだほうが家計にも優しいかもしれない。いや確実に俺は重荷だろう。
俺なんていないほうがいいのかもしれない。
「母さん、父さん」
俺はネットで調べた自殺のやり方を頼りに風呂場で手首を切って湯船に浸ける。
最初に思いついた練炭や薬は苦しそうだから却下した。首つりなんてそれ以上に苦しそうだし、糞を漏らすなんて、死に際まで糞野郎を貫きたくはない。飛び降りに至っては飛び降りスポットまで外出したくない。
血やグロ耐性がネットで鍛えられた俺にぴったりな自殺は消去法でリストカットだったのだ。
これなら後片付けも比較的簡単じゃないだろうか。湯船の水を抜くだけでいいのだから。
「いてぇよ…」
意識が薄れていくような感覚がした。いや錯覚だった。まだ意識ははっきりしている。どれくらいで死ぬんだろうか。湯船は真っ赤だ。どれくらいの血がここに流れ出しただろうか。
俺は静かに赤く染まる水面を眺めた。少しだけ安らかな気持ちになる。
ふと俺は考えてしまう。
本当にこれで終わったら、本当に俺は何のために生まれてきたかわからないじゃないか、と。
「でもここで生き抜いても、何もないのがただ続くだけなんだよ…」
前から自殺が一番の選択とは思っていた。でも実行には踏み出せなかった。
死ぬのが怖かったのもあったし、それ以上に何かなすことを恐れていた。
やっとだった。今、やっとここまでこれたのだ。
終わりまで残り一歩のところまでこれた。今更踏みとどまるか、否か。
きっとここで止めれば、俺はきっと一生踏みとどまる奴になるだろう。今まで逃げてきたんだからせめて今だけは最後までまっとうするべきではないだろうか。
「…あっ」
ここにきて俺は重大なことを思い出す。遺書を書き忘れていた。
両親二人への感謝の気持ちだけは残しておきたい。
「俺ってやっぱダメなやつだよな…」
死ぬ間際までこんなミスを犯すなんて自分でも呆れてしまう。
自然と笑みを浮かべながら涙を流していた。
俺は立ち上がった。
死ぬのは次回にしよう、そう思って。
しかし腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。
「なんだよ…」
力が出ない。貧血を起こしたように眩暈もする。
どうやら少しおそかったようだ。すでに自力で立ち上がることもできない。
「最期の最期まで中途半端なの、かよ…」
今、母も父も家にはいないし、俺には兄弟はいない。
家の中には俺だけ。
詰んでいる。
「電話は…、持ってねぇんだよ…」
外の世界との繋がりがゼロの俺にとって携帯なんて不要で持ったこともない。家の電話を使って救急車を呼ぶにもそこまで辿り着けない。
それでも俺は何とか風呂場を飛び出して、電話の元まで向かおうとした。せめて最期に抗いたかった。
意識が飛びそうになる。
考えることも動くのも億劫になっていた。もう死んで楽になろうか。
「橋夫さん!何してるんですか!?」
声がした。予定より早く帰ってきた母かと思ったが違うらしい。声が違う。
虚ろになる俺の目にはそれが誰か、識別することすらできなかった。
「救急車呼びますね!!ほんと何、してるんですか!!」
声からして女のようだ。スマホを使って彼女は救急車を呼ぶと、すぐに洗面所からタオルを持ってきて手首の血を止血しようとした。彼女の手は真っ赤に染まる。
(止めてくれ。俺を生かそうなんてしないでくれ)
そう伝えようとしたが満足に舌は回らず、声にすることはできなかった。
「情けなくないんですか!?両親に心配かけといて!育ててもらっておきながら死のうとか!!」
女は必死に叫びながら止血しようと奮闘する。なぜか女も泣いていた。
そんな彼女の声に、俺は途方もなく情けなくて、カッコ悪くて、いつの間にか泣きじゃくりながらその場に丸くなっていた。