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虚構仕掛けのユートピア 〜void incarnaters〜  作者: Noyory
2章 wanderers〈ワンダラーズ〉―徘徊する者達―
5/16

2―1 wanderers ―赤い彷徨―

―1―




 再び〈光災〉が発生した日から1週間が過ぎた。


 上座パラメントシティは現在も封鎖され、警察や消防、救助隊が連携し、救助活動が続けられている。物理的な被害は少ないものの、そこで不幸に遇った人が多すぎた。

 公式発表で、現在死者およそ1800名、行方不明者が500名ほどと報道されていた。その数はまだ増加する見込みだという。亡くなった人々を運び出し、身元を確認し、引き渡す作業が昼夜問わず繰り返されていた。

 市からの発表で、被災による死者達の葬儀を合同で行うことが予定されている。その全ての費用は市、及びユピテル・コミュニティから用意されることが決定されていた。


 幸いだったのは、モール周辺以外での被害は極めて軽微と言っていいものだったことだろう。モール内部以外では、死傷者はほとんどいなかった。

 なぜか災害地付近で、外傷が無いにも関わらず昏倒して倒れた集団が約800名発見されたが、原因は不明のまま付近の病院に搬送された。病院のベッドを拝借したのは彼らが主で、それ以外の負傷者は軽傷で済んでいた。彼らは治療を終えて、その日のうちに家に帰れた者がほとんどだったようだ。

 総括的には、今回の災害による被害は最小限に抑えられた、と言える。公共機関も災害の予兆を確認した時点で停止した為、事故などの二次災害も起こらなかった。

 何よりも幸運だったのは、ネットワークを中心とした電子制御の設備が翌日には復旧できたことだろう。上座市の心臓ともいえる最先端の情報技術、それらの回復が最も迅速に行われた。これが、この街が平静を保てた主要因だった。人々の日々の生活基盤はなにひとつ不都合なく、今まで通り行えた。


 “前回の災害を踏まえた予防措置として導入されていた緊急対策システムが、その役目を全うした成果。災害発生と同時にルミナスは保護され、後の復旧に備えることができた。現在行っている救助活動が実行出来るのは、このシステムによるところが大きい”


 政府、メディア、そして市民に発表された説明の一文。それが虚偽であることを知る者は、まだ限られた数人しかいなかった。 




―2―




 背原 真綾(ハイバラ・マアヤ)には、誰にも言わないと決めた秘密が3つあった。


 1つ目は、自分の名前がマヤではなく、マアヤであること。友達や学園の教師、そして昔から知っている葵創介(アオイ・ソウスケ)や、橘直陰(タチバナ・ナオカゲ)というお世話になっている保護者のような二人。そして、実の兄である真琴までもが自分のことをマヤと呼ぶのだ。

 マヤと呼ばれるのが嫌いな訳ではない。ただ、あまりに誰も彼もがそう呼ぶので、本当の名前が可哀想な気がしていた。

 かといって今さら訂正するのもおかしな感じがして、結局14歳になる今まで誰にもそれを言うことが出来なかった。真綾と呼んでいたのは、もうずっと前に亡くなった両親だけだったかもしれない。

 そのため真綾は自分の周りの人間が、自分の名前の正しい読みを知っているのかどうかはっきり分からないままだ。


 もう、この質問はお墓の中まで持っていこう。

 そう決心した時、名前のことは真綾の生涯の秘密となった。




 朝の8時。

 真綾はまだ慣れない部屋で学校の準備をしている。つい1週間前に引っ越してきたばかりで、まだ物の配置に慣れていない。そのせいで少し時間が掛かっていた。

 あの“災害”の翌日から、真綾は兄の幼馴染み、葵創介の自宅で生活している。 創介と、兄と、3人で。

 創介からの申し出。

「災害からしばらくは何があるか分からない。出来るだけ一緒にいた方がお互いに安心だと思うんだ」

 そんな理由で、3人での同居を勧められた。


 真琴への心配による心臓の動悸で、その時まともな思考ができないほど震えていた真綾は、創介の提案に飛びついた。


 (マコト)と一緒に居られる。


 それだけを理解した真綾の思考は、言われるままにそれを了承していた。


 しかし時が経ち冷静に考えると、やはりそれは早まった返答だったと思う。


 部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「準備できた?」

 真琴の声。それだけで真綾の心拍数は2テンポほど速度を上げる。「ん。もう出られる」

 引っ越して以来、真綾と真琴は一緒に登校するようにしていた。神遙学園は高等部と中等部が同敷地内に並んでいるので、自然と通学路も一緒になる。


「ごめん、お待たせ」支度を終えて部屋を出る。

「今日、部活?」真綾の持った大きなスポーツバッグを見て、真琴が訪ねる。

「そうなの」

「大変だね。じゃあ、行こうか」

 優しい笑顔を浮かべる真琴の顔を、真綾は極力見ないように、視線を別のものに集中する。


 しかし、並んで道を歩いているだけで、心臓のテンポがまたひとつ上がるのが自覚できてしまう。


 背原真綾の2つ目の秘密。



 自分が兄に特殊な感情を抱いていること。



 二人は約30分ほどの道のりを、ほとんど無言で歩いた。それは真琴の無口のせいであり、真綾の緊張のせいでもあった。





―3―





 上座市の市庁舎は、他の都市とは一線を画した構造をしていた。滑らかな材質の黒い壁で造られた外面には、窓がひとつも見えない。ここを利用する者達からは、〈黒い箱(ブラックボックス)〉と呼ばれていた。

 よく見ると一部が壁と同色の反射ガラスになっているのが分かるが、とても市民の入りやすい建物とは言えなかった。そうする必要がなかったのだ。

 現行の市の管理体制は〈ユピテル・コミュニティ〉の独占技術である独立型サーバ〈lominous(ルミナス)〉を介しての一括管理である。それは市民がネット環境に接続するとき使用しているものと同じものだ。

 コミュニティの主目的のひとつである都市全体の技術サンプルを収集する為に、まず最初に導入された主システムが〈ルミナス〉だった。それ以降、役所はその全ての業務をオンライン化した為、わざわざそこに足を運ぶ必要が無くなったのだ。


 今の市庁舎はその内部をほとんど研究所のような様相に変えていた。地下に設置された〈ルミナス〉のメンテナンスの為だ。

 その大きさは、最先端の技術をもってして、およそ軽量、コンパクトとは言い難い。現状のサイズは地下の1フロアと、メンテナンスの為の設備でもう1フロアを占拠している。

 その為、ここにいるのは技術者、科学者といった技術スタッフしかいない。万が一ここに役所の書類でも提出したら、間違いなく紛失して省みられることもないだろう。


 九龍隼人(クリュウ・ハヤト)はその市庁舎をぶらりと覗いたあと、自分が雇い主の特別顧問として、ここで出来ることは何もないと判断した。まあ、そうだろうとは思っていたが。


 彼は入ってきたドアから出て、すぐ隣に建つもうひとつの“黒い箱(ブラックボックス)”に入った。市庁舎の横に垂直にL字型を作って建つそれは、あまり知られていない事実だが、実は市庁舎ではない。入口には目立たない彫刻で“WISE.opt(ワイズ・オプト)”と社名が刻印されている。

 彼はロビーの受付嬢に軽く手を振って、そのままエレベータで最上階の4階に向かった。そこにはひとつしか部屋は用意されていない。

 “市長室”と書かれた、やたら広い執務室。

 上座市の市長は庁舎の方ではなく、自分の経営する会社に自らのデスクを置いていた。

「どうだった?」ドアを開けてすぐの質問。

「あそこで私が役立つことはありませんね」

「だろうね」

 そう言って上座市長、四条 巽(シジョウ・タツミ)は楽しそうに笑った。


「まあ、自分が何を警護しているか、知っておいて損はない。久しぶりだね九龍君」

「私は毎日テレビで拝見してましたよ。お忙しそうですね」

「被災地の市長だからね。しかも2度目だ。毎日何か手を打っているというアピールと、前回を踏まえた対策による改善点をしっかり報告しないといけない」

「ちゃんと毎日新たな手を講じられているように見えましたよ」

「コツはね、自分のやったことを、小出しにすることだよ」

 入口から彼のいる部屋の奥まではまだかなりの距離があるが、部屋の壁材のせいか会話は普通の声で充分できた。

「どうやら計画通りに進んでいるようですね」

「今のところは私の頭の中にある図と、そう変わりないね。しかしそもそもが不確定要素を目一杯盛り込んだ計画だ。それを計画と呼べるかどうかも怪しいがね」

 こちらを向いた四条は、むしろ計画通りにいかないことを望んでいる、そんな顔をしていた。

「これから忙しくなるな。君の監視対象はまだ健在かな?」

「1名が対象同士の衝突で収容されました。他はいまだ健在ですね」

「誰が脱落した?」

 四条が目を丸くして問う。

盲目の羊飼いブラインド・シェパード降高晶(フルタカ・アキラ)が心神喪失状態に陥りました。行動不能と見なし、〈ルミナス〉へ収集している最中です」

「“羊飼い”を倒したのか。誰だ?」

「〈心象回路(サイコ・サーキット)〉、背原真琴」


 四条の笑みが強まり、短い発声で笑った。


「やはり、私達の予測は間違ってなかったな。きっと彼らはこれからも君の報告の常連になるぞ?」

「しかし、これからは更に対象者が増えるでしょう。何しろ今回の災害で〈中心地〉から生き残った者は200余名。きっと、あなたの楽しみはもっと増えますよ」

 九龍は室内の奥側、この執務室で唯一のデスク、四条のやたらと重厚なダークブラウンの机にディスプレイの大きい端末を置いた。九龍はそこまで行くのに7、8mほど歩かねばならなかった。


 ディスプレイを起動すると、そこには十数名の男女の画像入りの詳細が表示された。


「この7日間で確認できた新たな〈incarnater(インカーネイター)〉の一覧です。今のところ発現者が18名。内3名は入院もせず既に日常生活を送ってますね」

「もう行動していると?…すごいな」

 四条は感心したように一覧を見る。九龍は既に動ける3人を一人ずつ指で示した。

「もう呼称は考えたのかい?」

「あなたの楽しみを奪うようなことはしませんよ」

「いや、ありがたいな。恥ずかしながらこういう何かに名前を付けるという行為が大好きなんだ。まるで自分が創り出したような気になれるからね」

 四条は今行動している3人の中からひとつを手に取る。

 写真とその能力、そしてその〈偏向〉を見比べ沈黙した。呼称を考えているその顔は真剣そのものだったが、どこか子供じみてもいた。それは自分の工作玩具に名前を付ける時の子供の顔と本質は同じだと九龍は思う。

 しばしの間を置いて、一人の男のページを表示し、九龍の方に向けてきた。

「〈渇望の遭難者(サスティ・サファー)〉というのはどうかな?」

「これはまたひどい名前を」

 九龍は思わず笑ってしまった。

「“F”だろ?」「仰る通りです」

 確かにその男は失敗例(FALSE)のカテゴリだった。

「まあ、〈インカーネイター〉の資質の優劣は私には分からんし、こういう人間も社会には必要だ。人の価値に平等など存在しないしな」


 九龍は聞きながら端末を操作し、その名前を正式に呼称名として申請した。四条がその様子に気付き、九龍に笑みを向ける。


「気に入ったかな?」


 九龍は四条に対して笑みを返し、申請を終えた。


「ぴったりの名だと思います」






―4―






 日も暮れかけの下校の時刻。


 真琴がほぼ毎日創介に送迎してもらっていたことを、真綾は同居を始めてから知った。話によると、創介の空き時間と下校の時間がちょうど合うからという話だった。

 といっても創介は店のオーナーなのだから、そんな都合はどうにでもなるはずだ。真綾は創介の過保護振りを窺い知った気がした。

 いつもなら真綾も一緒に送ってもらうのだが、今日は部活があるからという理由で断った。


 帰りは0時前くらいになる。


 そう言うとさすがに二人から怪しまれ、許可を得ることが出来なかったがこうなることは予想していた。


 そこで真綾は、半分だけ本当のことを話すことにした。


「そう、同室の子が入院してるのか…」

「病気なの?」

 二人からの質問が飛んできた。ここを乗りきらないと次からの外出が困難になる。真綾は頭の中で何百回と繰り返した説明を始めた。

「ううん。病気じゃなくて怪我なんだけど、ちょっと重症なの。頭とか強く打って、まだ意識が戻ってない状態で…」

「事故?」

「そうみたい。警察の人は高いところから落ちた、みたいなことを言ってました」

 最初の嘘。

 大丈夫、表情は変わってない。と思う。

「それは心配だね…。それで、よくお見舞いに?」

 創介の疑いのない心配が痛かった。


「はい。私よりその子のお母さんが参ってて、ずっと付きっきりだからその子の友達が来ると安心するみたいなんです」

 これは本当だ。この嘘は、その母親の為でもあるんだ。そう自分に言い聞かせる。

「普段は他の友達も行ってるんですけど、その、夜になるとその子と二人っきりになるから、辛くて、泣いているそうなんです」


 だからどうせ帰りが遅くなる部活の日に、自分が夜の間お見舞いに行くことにしたこと。そして、そうすることでその母親の気持ちの助けになりたいことを説明した。


 この辺りはほとんど真綾の創作だった。その為、手や額から噴き出す汗が止まらなかった。


「そっか…よし、分かった。じゃあその頃また迎えに来るよ。病院は学校向かいの中央病院なんだよね?」

 やはり、創介はそう言うと思っていた。でも、ここは譲歩するしかないだろう。

「はい。すいません、御迷惑お掛けします」

 そういって真綾は深く頭を下げた。

 本当に申し訳ないと思う。

「いいって水くさい。おれは2人の保護者っていう立場なんだからさ。真琴、お前は逆にこれくらい感謝を示せよ」

「気を付けて。何かあったら電話して」

 真琴は創介を完全に無視して真綾に言った。頭を下げた姿勢から、つい真琴の顔を見てしまう。兄に嘘をつくのが最も心苦しかった。同情や情愛でない、ただ純粋な自分への信頼が心に突き刺さった。


 泣きそうになるのを、勢いよく姿勢を戻すことで誤魔化す。


「じゃあ、そろそろ行きますね」


「気を付けてね、マヤちゃん」

 そう言って、二人は行ってしまった。



 ごめんなさい。



 でも、これは自分で決めたことなんだ。





 車が行ってしまうと、真綾はそのまま校門を抜け、すぐに向かいの上座中央病院に入っていった。


 本当の最初の嘘。


 真綾は部活になど入部していなかった。



 病院の3階、総合外科センタの受付で名前と面会の旨を伝える。顔見知りの看護師に連れられ、集中治療室(ICU)のなかに入った。


 いつものように宮崎花菜(ミヤザキ・カナ)の母親が、変わり果てた娘の様子を見守っていた。

「マヤちゃん、いつもありがとうね。毎日毎日、ご心配をお掛けします」「いえ、そんな」

 疲れが刻み込まれた笑顔。一目で憔悴しきっているのが分かる、痛々しい佇まいだった。

 真綾は準備を済ませ、友人の部屋に入る。






「花菜、来たよ」

 そう声を掛けながら、花菜の顔に手を触れた。


 宮崎花菜の姿は見るに堪えない状態だった。

 自律呼吸が困難な為、呼吸器を着けた顔。至るところに包帯とガーゼが巻かれている。それは身体中に裂傷や打撲、骨折箇所があることを表していた。特に目立っていたのは、顔を中心に多く見られる痣の跡だ。


 明らかに、誰かに殴打された痕跡だった。


 花菜は半年ほど前から意識不明のままだ。医師の話によると、頭部への衝撃で脳が損傷しているらしい。

 傷の治りが遅く、体温の低下なども見られることから、回復の見込みは薄いということだ。



 真綾はたくさんのチューブに繋がれた、変わり果てた友人の姿を見つめた。




 日が落ちるまで、ずっと見つめ続けた。









―5―









 津田高尾(ツダ・タカオ)はこの1週間、ずっと憔悴していた。


 喉が熱い。渇ききって、焼けるようだ。


 津田の頭の中は、ずっとこのフレーズで容量を使い切っている。つまり、それ以外の思考ができていない。


 彼は今、自分のよく利用する飲食店にいた。

 目の前には、グラスに溢れるほどの水が置いてあった。彼が注文したものだ。店員は不思議そうな顔をしてはいたが、言った通り店で一番大きいグラスを用意してくれた。津田はそれを飲みたくて堪らないのだが、今までと同じ結果になると思うと、怖くて手が出せないでいる。


 何なんだ?

 あの災害のあった日からずっと変だ。

 この渇きの理由は、きっとあれに関係がある。


 恐る恐るグラスを手に取る。津田はグラスを注意深く睨んでいるが、別に何の変化も起こらない。


 彼は思いきってそのグラスを一気に空けた。

 しかしその口内に含んだ瞬間、舌の上で水が蒸発するのを感じた。

 ああ、まただ。やっぱり駄目だ。ほとんど一瞬のうちに水分が蒸発し、喉を通った水は僅かしかない。

 津田は弾けるように立ち上がり、店内のトイレに駆け込んで鍵を閉めた。そして洗面所の縁に手を置き、口を開く。

 途端に口内から煙のようになった水蒸気が勢いよく漏れ、室内に充満した。


「なんで、こんな…」激しく咳き込みながら乾いた喉をひきつらせる。唇は乾いて干からび、目も落ち窪んだ鏡に映る姿は、遭難者のそれだった。


 水道を目一杯開き、そこに口を近付けて直に飲もうとした。顔にも水が掛かっているが、肌に濡れた感触はない。触れた側から霧散していくのに気付いた津田は、自分の異常に恐怖を覚えた。

 恐る恐る、その手を流れる水に当てる。


 水は、一瞬で霧状になって、下に落ちる事はなかった。


 津田は悲鳴を上げ、トイレから飛び出る。


 意味が分からない。症状がどんどんひどくなっている。


 彼の出てきたドアの隙間から大量の白煙が見えた為、不審に思った店員が声を掛けようとしたが、津田は店員を押し退け店の外に飛び出した。その様子に慌てた他の店員が駆け寄る。


「なに、無銭飲食?」

「いや…あの人まだ水しか出してないので、そう言う訳じゃないですけど…」

「店員さん、なんかトイレから煙出てるけど大丈夫?」

「あ、はい!すいません確認致します」


 その店員は気を取り直し、トイレの異常を確認した。あの煙はすぐに見えなくなったが、室内はサウナのように蒸していた。それ以外は別に異常はない。水道の水栓が閉められてないだけだ。


「なんだろ、あの人…」店員は水を止め、問題ない旨を伝えに戻った。飛び出ていった男に触れられた肩に、電気で痺れたような感触があったがそれもすぐに収まり、店員はそのまま仕事に戻った。

 時刻はもうすぐ午後7時になるところだった。既に会社や企業のほとんどが、災害などなかったように平常に戻っている為、夕食を取りに来るサラリーマンで店内が混み合ってきた。

 その為、飛び出した津田のことなど、店員達はすぐに忘れてしまった。






―6―





 太陽が沈み、街の中心部には1週間前より大分暗い闇が降りてきていた。主システムは無傷だったものの、街灯や照明などの配線が焼き切れてしまったものは、いまだ元通りになるには時間と手間が掛かりそうだ。

 それでも上座パラメントシティ以外の場所には多くの人々が出歩いていた。むしろ流通のメインモールが使えない分、その周辺の店舗や施設は使用が増加しているのだ。被災を免れた人々にとっては、既にいつもの日常が戻ったと言っていいだろう。それだけ今回の災害の被害が抑えられたということでもある。


 上座市の中心部は、その地名を上座中央というあまりにそのままの名前が付けられていたが、その周囲の地名は固有のものが付けられている。その西側は、その地名を西園(ニシゾノ)と言った。この西園がかつての上座市の中心繁華街であった。

 今では中央とはまた別の人種で賑わっているようで、いわゆる“裏稼業”を営む者や暴力団といった外れ者が多い街という噂が絶えない。そのせいで少し敬遠されがちな地区でもある。

 そんな西園地区もここ1週間はいつもより人が多い。中央の被害の影響を避けてきた人々が、その代替として飲食店やマーケットを利用するためだ。思いがけない繁忙期を迎えた各店舗は、連日嬉しい悲鳴を上げていた。


 時刻は午後9時過ぎ。


 西園でも外れの方に建つ小さな飲み屋から、如何にも柄の悪そうな7、8人ほどの男達がちょうど出てきたところだった。全員年は20代半ば頃で、アルコールのせいで気が大きくなっているようだ。

 大きな笑い声を上げ、時々謎の叫び声を発しながらまとまって近くの公園へと入っていく。酔い醒ましか何かだろう、屋根のあるベンチで(たむろ)し、とりとめのない話を始めた。



「お、誰かいるぞ?」

 その中の一人が、街灯のない暗闇に立つ人影に気付いた。

「気持ち悪い、幽霊かなんかか?」

 全員の視線が集まる前にその人影は闇に下がって消えた。

「どんなやつ?」「わかんね、なんか黒い…」


 男達の視線が暗闇の一点に集中した時、その逆側から無音で飛び出してきた人影が、集団の1人に小さな黒い物体を投げ放つ。それは相手の腕に突き刺さり、次の瞬間体中に電流が走る。泡を吹いて昏倒する男。横にいた男も事態を把握する前に、すぐ背後まで接近した人影に足を刺され前のめりに倒れる。

「なんだあお前!」

 叫ぶ男に、既に動作に入っていたハイキックが顔面を捉える。異常に重い衝撃により、前の二人同様に失神する。

「何すんだコイツ!?」

 残った男達が距離を取る。


 そして男達が見たのは、全身黒ずくめの人物だった。


 深くフードを被り、顔は見えない。手袋(グラブ)と厚底のブーツまで黒一色だ。


 黒ずくめは男達が更に何か言う前に動き出した。残り5人となった男達、その1番手前の男にまた何か投げ、それを腕で受けた男に激痛が走る。

 男の見たそれは、黒塗りのスローナイフ(ダガー)だった。直後に流れた電流で呆気なく気絶する。

 残った4人は同時に黒ずくめに襲いかかるが、黒ずくめは男達の拳を避けざまに両手に持ったダガーで裂傷を与え、その電流で3人同時に行動不能にした。

 覆い被さるように向かってきた最後の1人を、地を這うような低い蹴りで掬うように転倒させると、倒れた男のすぐ横を狙ってダガーを地面に突き立てた。


 短い悲鳴を上げる男に黒ずくめがのし掛かる。そしてダガーを抜きざま、男の頬を深く切り裂いた。今度は電流は流れなかった。

 今度こそ大きな悲鳴を挙げた男の目の上にダガーを向け、黒ずくめは懐からQPDAを取り出した。その光に照らされて、男からフードの中が見える。その顔は、同じく真っ黒の軍用マスクで覆われていた。


「な、なんなんだよお前…」

 黒ずくめは無言のまま、QPDAを向けた。


『〈slaughters(スローターズ)〉を知っているか?』

 QPDAから電子音声が流れる。

「は?…スロー…何だって?」

『キリミヤ、を知っているか?』

「し…知らない、人の名前か?」

『〈fem snub(フェム・スナブ)〉を知っているか?』

「ふぇ…あ、ああ、動画サイトか?」

 黒ずくめは素早くナイフで額を切り裂いた。男の絶叫が再び公園に響き渡った。

「ヒィ…!も、もう勘弁して!もう許して…」ダガーをかざして黙らせ、QPDAを男の眼前まで近付けた。その手は怒りか恐怖か、定かではないが僅かに震えていた。

 QPDAを男の血塗れの顔に押し付ける。それはまだ質問が終わっていないというジェスチャだ。




『宮崎花菜を知っているか?』




「知らない、知らない!そんな名前の知り合いはいねえ!」

 勘弁してくれと繰り返す男に、黒ずくめはダガーの柄を当て、電圧を掛けた。

 5秒後に男が気絶したのを確認すると、黒ずくめはゆっくりと立ち上がる。それから投げたダガーを回収しコートの中に収納した。


 そして、倒れた全員の顔に、ダガーで“刻印”を入れた。


 一生消えないほど、深く深く。




 体の動かない男達が痛みに呻くのを無視して黙々と作業を行った黒ずくめは、全員にもう一度電撃を与えてその場を去った。


 残された血みどろの男達、その中の一人が、怯えながら呟いた。それは、最初に倒された男だった。



 「いた…本当にいた。

 都市伝説の…ギャング狩り“ripper(リッパー)”…」

 

 


 

 


―7―





 さすがに不審に思われると思い、往来に出る前にマアヤは黒の装備一式を脱いでいた。制服に戻った真綾は、上座中央病院へと走っている。

 時刻は午後11時30分を過ぎた。あと5分程で病院前に着くので、おそらくは大丈夫。




 今日の男達は、なにも知らなかった。


 でも、〈フェム・スナブ〉は知っていた。


 それだけで、あの傷を付けるには充分な理由だ。


 真綾は泣いていた。泣きながら走っていた。怖くて堪らないのだ。何より、自分が怖くて堪らない。

 黒い装備一式は部活用と偽ったバッグに収めて肩に掛けている。何も忘れて来ていないか、もう一度思い返す。



 病院前の駐車場に着いた真綾は、ソウスケに迎えの連絡を入れた。そして自分の呼吸を落ち着ける為その場に座り込んだ。涙も止めなければ。そうやって深呼吸していると、嫌でも今日の男達を思い出す。


 なんで…?


 どうして!


 あの男達も知っていた。〈フェム・スナブ〉を。


 動画サイト〈フェム・スナブ〉。ここには多くの女性が痛めつけられる姿が収められていた。そして何より驚いたのがその動画が一般の人々から集められたものであること。


 可哀想に、そこに花菜の姿もあったのだ。


 惨たらしくいたぶられる姿が。


 真綾の呼吸は荒くなる一方だった。身体的な理由でなく、精神的な理由で。


 あのサイトを見たものはすべて同罪だ。お前達にもカナと同じ一生消えない傷を残してやる!


 思いきり目を瞑り何も考えない努力をする。それでも浮かぶ、この半年に出会った、クズみたいな男達。


 〈スローターズ〉。そして、キリミヤ。


 この2つはまだ文字しか浮かばなかった。今まで〈刻印〉した奴ら、その誰もが知らない、誰も見たことのない、本当のクズ。


 必ず、いつか。


 そこまで考えたとき、向こうから来る車が見えた。真綾は立ち上がり、最後に深呼吸して息を整える。車が目の前に停車して、創介の優しい顔が見えた。



 背原マアヤの3つ目の秘密。



 自分が今やろうとしていること。





「お疲れ様、マヤちゃん」




 大丈夫。


 ちゃんと笑顔でお礼が言えたと思う。

 



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