updation〈アップデイション〉 ー閉じた世界でー
〈非合法屋〉、榊終一。
その呼び名が有名なものなのかどうか、背原真琴はよく知らないし興味もなかった。しかし真琴が知る限り、榊が失踪する以前のこの街では、いわゆる裏社会の誰もがその名を知っていた。
法を無視し、ありとあらゆる非合法な頼み事を請け負う何でも屋。
それが榊の仕事だった。当然正規の仕事ではなかったが需要は多く、違法な物品の売買や仲介、ギャングの揉め事や荒事の始末、果ては殺人や誘拐などの完全な犯罪まで、榊が合意さえすれば何でも請け負う。それがどんなに危険なものであれ、榊が一度受諾した依頼は必ず遂行された。
真琴は一見適当に見える、榊の仕事を受ける基準を知っている。その仕事で榊がどれくらい法外な報酬を得ていたのかも。
何故なら真琴は葵創介と2人、榊終一の下でその仕事の手伝いをしていた時期があるからだ。
最初に出会ったのはもう8年も前のこと。
昔の真琴は少女のような外見のせいでよくいじめの対象にされていた。今のように非力を補う技術がないにも拘わらず、その性格だけは昔から変わらなかったせいで、真琴はそのいじめに真っ向から立ち向かっていた。
その結果周りの少年達から、弱いくせに生意気な奴だと反感を買い、いじめはだんだんとエスカレートしていった。だんだんと乱暴が酷くなり、その頃の真琴は常に新しい傷を作っては両親を心配させていた。しかしいじめのことを自分から話すことは決してしなかった。親にばれるばれないではなく、それは真琴一人の問題だったからだ。
そんな時期に真琴は榊と出会った。
いつもの帰り道で人目につかない空き地に呼び出され、いつものいじめグループといつものような喧嘩。そしていつものように負け、真琴は一人その場で大の字になっていた。
いつもの日常。
真琴は決して降参をせず、いつも立ち上がることができなくなるまで抵抗する。その日も同じように疲れ果て、息が整うまで地面に寝転がり、特に何の感慨もなく空を見上げていた。
「一人対多数はつらいな」
自分を見下ろすように覗き込む無表情が空を隠した。初めて見る榊の顔は逆光とその長髪のせいでほとんど真っ黒だった。真琴はかろうじて見えるその虚ろな視線を見返した。
「…見てたの?」
「実は前にも何度か。この空き地の向かいに家があるものでな」
「そう」
真琴は立ち上がり、服の汚れをはたく。
「今日もお前の勝ちだったな」
「どこが?」
「見ているといつもお前の粘り勝ちだ。みんなお前が降参しないのであきらめて帰って行く。お前の心はまだ一度も敗北を認めたことがないな」
「実際には完全な負けだけどね」
そう返して立ち去ろうと背を向けた真琴だったが、その肩に触れる感触に振り返った。
「物理的に勝つ方法を教えてやろうか?」
「…は?」
「見たところ非力ではあるが反射神経は良い。それを活かす方法が身に付けばあんな奴らに遅れをとることはなくなる」
「……あんた暇な人?」
「そうだな、今のところ仕事の予定はない。お前がものになる間くらいは付き合えるだろう」
子供相手の暇つぶしか。しかし榊の接し方は諭すように話す学校の教師や両親とは違う、対等な立場での提案という感じだった。
「変な趣味の人とかじゃないよね」
「そう思うならやめておこう。正直真っ当な人間であるとは言い難いからな」
僅かな逡巡の後、真琴は榊を見上げて言った。
「方法って、まず何から始めたらいいの?」
「決まっている。最初はまず想像を造ることだ」
「イメージ?」
「自分の理想とする、明確な強さを表す像だ。それがないといくら努力しても形にならない。先に強くなった自分を頭の中に造っておけば、自然とそれに追いつくように体ができる。まあ、目を閉じてみろ」
真琴は言われた通りにした。思えばこの時から榊の言うことに対して、真琴は一度も逆らったことがなかった。
あの裏切りの日まで。
「心の中に築き上げろ。誰にも負けない自分の姿を」
言われて思い浮かべた自分は空の上にいた。海かもしれない。真っ青な空間で重力や法則を感じずに飛び回る自分。地面も上下もない場所で思いのままに体を動かすイメージが少しづつ出来上がっていく。
初めて気付いた。
自分の中にこんなにも自由な空間が広がっていたなんて。今まで思いもしなかった頭の中の無辺の世界。真琴は強い自分を想像しているのつもりだったが、不思議とそこには相手となる姿も浮かばなかった。
青い世界に、いるのは自分ひとり。
ああ、ある意味ではこれも無敵なんだ。
その時真琴は、確かにそう思った。
僅かな時間の過去の再生から現実へ。
真琴は葵創介の家のリビングで、およそ3年振りに再会を果たした榊と対峙していた。年月を感じさせない榊の風貌の変化のなさが過去の記憶を想起させたのだろう。
そう、ほんの一瞬だけ。
今の真琴にとって、榊終一は仇敵だった。理由も告げず、自分を裏切り何処かへと姿を消したかつての師。
榊のたった一言でその怨みが呼び起こされた。その感情は忘れていたのではなく、自分で心の奥底に封をして閉まっていたのだと真琴は思った。
こんな感情を持ち歩いてたら、すぐに自分が壊れてしまう。
「お兄ちゃ…」「もっと下がれ」
その一言はとても冷たく聞こえただろう。でも自分でもどうしようもない。わけも分からないままに壁まで下がった妹を確認すると、真琴は榊にだけ意識を傾けた。いつからかリビングのテレビで始まった仮面の男の演説が邪魔だった。
「楽園と理想郷の違いを知っているか?」
そんな言葉が聞こえた。くだらない質問。
楽園は与えられた理想郷。
理想郷は自ら造り上げた楽園。
そんなもの、どちらも現実には存在しない。
そう思ったのを最後に真琴は考えるのをやめた。
久しぶりに解凍された怒りを推進力に、真琴は爆ぜるような電子で加速して榊終一に迫った。その顔面に向け加速された右足を放つ。それを難なく躱した榊に真琴がさらに追撃する。
当たらないのは分かっている。真琴は榊の絶対的な身体能力を知っていた。それでも当たるまで続けてやる。
榊を軸に壁から壁を跳ね回るように高速で繰り返される攻撃。躱される度にその速度を増し、電子による後押しでさらに速度が倍加される。
遠目に見ている真綾からは、榊を囲むように飛び回る兄の姿は消え、弾ける電子が火花を散らす光景しか見えなくなった。兄の動作に合わせて部屋が揺れ、電子の影響からか窓ガラスなどに亀裂が入る。
その高速の攻撃をしばらく榊は避け続けていたが、ふいに手を前方に伸ばすと、次の瞬間真琴の足をその手に掴み、勢いを殺さずに近くの壁面に叩きつけた。
一瞬の出来事だった。
真琴の口から肺の中の空気を全て吐き出すような声が漏れる。床をバウンドするように転がった真琴は榊の足下で止まった。
「満足したか」
ぽつりと呟くように榊が言う。
「…まだ、だ」
立ち上がろうとする動作は徒労に終わる。全身が痺れたように動かない。榊は真琴の前に屈み込み、その力の抜けた手を自分の胸に当てた。そして真琴の耳に顔を寄せ囁く。
「接続しろ、真琴」
言われるまでもない。その手に顕現した電子に象られた回路を榊にぶつける。そこから無数の回線が伸びて、榊の体に突き刺さった。
心象回路の接続。
その侵食を受けながら榊は頷いた。
「これなら文字通り“話が早い”」
言葉と同時に榊から発生する黒い粒子。それは一瞬で回線を逆流し、真琴の電子回路に到達した。
心象回路が黒い逆流に呑まれる。それは自分が榊終一と融合するような、真琴にとって吐き気を催す忌まわしい感覚を与えた。
初めて味わう精神の還元される衝撃と共に、真琴は榊と心が繋がったのを理解した。
(長くは持たない。お前は共有とは最も遠い奴だからな)
頭の中に直接響くような榊の声。
それきり言葉は不要になった。
真琴の精神に直接送り込まれる榊の情報。それは最初の光災で真琴が感じた“海”の感覚に似ていた。
概念の海。
それが普遍的無意識と呼ばれるものに近いことを、真琴は古い哲学者の本で読んだ。自分が何を体験したかを知るために。
あの時のように自分という精神が溶けてなくなる感覚。
真琴と榊の精神が混ざる。
自分の知らない榊の保持する情報が真琴のものになる。おそらく自分の持つ情報も榊の中で榊のものになっているのだろう。いつの間にか真琴は榊の情報の中に放り込まれていた。
榊終一の知る事実。
ユピテル、SOS、市管理者、その全てに榊終一の名前。
呼称名〈黒い欠損〉。
いま上座市が見舞われている事態が、もうずっと前からユピテルが予定していた、長い年月をかけて計画された名前のないプロジェクトの始まりであること。
その全容を榊は知らない。そもそも知っている者がいないのかもしれない。何故ならユピテルの主導者が誰なのか、本当のところ誰も知らないからだ。メディアに現れる管理者や委員会はいくらでも存在するが、その最上位の者は一度も顔を見せたことがない。その時々によってそう振舞う者が現れては消えていく。
今や世界中に根を張る巨大組織が、ひょっとすると誰かの悪ふざけ、もしくは単なる虚構に支えられている可能性を榊は示唆していた。もしかしたらこの街の閉鎖ですら、実は何の意味もない遊びであるのかもしれないと。
(じゃあなんでシュウは、それに加担する側に?)
精神を共有した状態の為、まるで自問自答をしているような感覚で真琴は質問を発した。
(それでもいいと思った。確かなのはユピテルにはそれを実行する力があるということ、そして何よりこの街の市長、四条巽は本気だったからだ。彼は真剣に人間の次世代への移行を考えている)
(次世代?)
(彼はそれが俺達インカーネイターだと言う。精神を物理的に顕す能力が人類の新たな形だと。それができなければ近い将来、人間はCPUの下位に位置する存在になると思っている)
(くだらないね)(ああ、くだらないな)
ほぼ即答で榊の意志が伝わってくる。その意志からは、現実では見た事のない榊の微笑みが真琴には感じられた。
(だが彼は実際に行動している。狂信なのかもしれないが、それは尊敬に値することだ。俺のように空っぽの人間には彼のような原動力が必要だ)
つまり榊はこの騒動の主体として関わっておらず、この街の市長の意志に付随する形でこの大事件に加担しているのだ。
なんて短絡的な行動だろう。しかしそれが自らを空っぽと表現する榊終一の唯一の行動原理だと真琴は知っている。
それは非合法屋の仕事を受ける時と同じ基準での判断だったから。榊にはおよそ何かを成すという欲求がないという。だから何かをする為には、他人の意志に依存しないと動けないのだと。
基準はたったひとつ。
それが必要だと依頼者が思っているかどうか。
正解か間違いか、善か悪かではなく、その結果を本当に求めているかどうか。ただそれだけ。
(もうそろそろ共有が切れる。お前の精神は共有とは最も遠いところにあるからな。たった数秒が限界だ)
(数秒?)
真琴の認識ではかなり長い間対話をしていた気がする。
(言ったろう、この方が話が早いと。伝えたいことはたくさんあるが、言葉にすればそれはわずかだ。短い時間だが話せてよかった。結局伝えたかったのは、俺がお前の敵になるということだけだ)
(敵?なんで?)
(与えた情報を参照すれば分かる。話の邪魔になるから遮断していたが、今のお前は俺を殺したいほど憎んでいる。それは俺がお前を裏切ったからだ)
(裏切り…)
確かに、ぼんやりとだがそう思っていた気がする。
(この共有が途絶すればすぐに思い出す。しかし何故そうしなければならなかったか、それは教えられない。それでは裏切った意味が消失するから)
自問している間にだんだんと気分が悪くなってきた。ずっと誰かに触られているような感覚が生じ、その不快感が徐々に自分に拡がっていく。
(お前の精神は孤独だ。誰の共感も必要としない、いわば普遍的無意識の遭難者。しかし、だからこそきれいだ。お前はそのままでいいと俺は思う。もしかするとお前のような者こそが、四条の言う次世代の人間なのではないかな)
不快感はこの共有の感覚だった。自分が自分でなくなるような恐怖に拒絶反応を示すと、繋がっていた榊の方から乖離していくのが分かった。
(また暫くお別れだ。今度はお前が会いに来い)
その言葉を最後に榊の存在が自分の中から出て行くのを感じた。再び一人きりとなった真琴の精神は現実には帰らず、そのまま意識を失った。
真琴と榊を繋ぐ黒い回線が切れた。すぐに立ち上がった榊に対して真琴は横たわったまま動かない。
真綾は兄に駆け寄って様子を窺う。
呼吸はしている。大丈夫、生きている。
「心配はいらない。初めて他人の心を覗いたショックによるものだろう。真琴にとっては世界がもう一つ出現したような感じだったろうな」
「…先生、今目の前で起こったことは…」
真綾は横に立つ榊に問い掛ける。
「兄も先生も光を放っていました。まるで電気のような…そう、動きもとても早くて見えないくらい」
「光災によって生まれた情報異常の物理的な表れ。それを知る者からは顕現能力と呼ばれる能力の発露だ。お前の兄や俺は、電子を媒介に精神を具現化する能力を持つ化物だ」
「精神を…」
真綾は膝の上の兄の顔を見た。今は眠っているように穏やかだ。その手に在った電子回路のような複雑に構成された形を思い出す。殺意を滾らす兄の気持ちを表すように低い唸りを上げていた、回線の途切れた回路を。
「真綾。これから先、この街には俺達みたいな化物が次々と現れるだろう。お前の兄に内緒で教えた護身術。それを役立てるとするならそれは今だ。この意味が分かるか」
「…はい」
返事をする真綾の目を見つめる榊。そこには何か詰問するような意志が込められた圧力を感じた。
「先生…?」
「分かっていないな。俺がその技を教えたのは、お前の友人の復讐の為ではないと言っている」
心臓がひとつ、大きく脈を打つ。何故榊がそれを知っているのか分からない。しかし次に榊の言った言葉が真綾を本当に驚愕させた。
「警告する、切宮一狼には関わるな」
切宮。キリミヤ。その初めて聞くフルネーム。それは真綾の心に刻み込まれるようにその深奥に記憶された。
「そいつは俺達と同じく化物で、人間としての範疇も逸脱した怪物だ。お前の手には負えない」
「ご存知なんですか?その男を。…スローターズのことも?」
「俺は警告したいだけだ。情報を与えるつもりはない」
そう言って榊は用は終わったとばかりに部屋を出ようと足を進める。
「待ってください!」
ようやく掴めそうな手掛かり。もしかすると手が届く可能性。それを見過ごすことなどできない。
「お前達兄妹はよく似ている。容姿だけでなく、その心も。周囲の受取り方は違うようだが、お前も兄と同じくらい自分勝手だ」
言われなくても分かっている。結局自分のやっていることはただの我が儘だ、それもとびきりに危険な。
こちらに視線を戻した榊は、相変わらずの呟くような話法で真綾に言った。
「俺に分かる大きな違いのひとつは、お前と真琴の世界観だ。どこに自分の領域の境界線を引いているか。そう言い換えてもいい。真琴は自分のすぐ足元に線を引いているが、お前の世界はもう少し広い。例えるならそれは小さな箱庭のようだ」
「私のことはどうでも…」
「よくない。お前は友人の為だと思っているだろうが、実際は違う。お前の怒りは“自分の箱庭が荒らされた”ことに対してのものだ。つまり、その復讐は自分の為の復讐だ」
「意味が分かりません!なにが…」
「思い出せ。お前の“造った”箱庭の美しさを。その違和感にお前自身が目を背け続けていたら、歪みは酷くなる一方だ」
その時榊の背後に黒い影が伸びた。それは立体化すると人の形を取り、すぐに黒いスーツ姿の男に変わった。
長髪を後ろで束ね、サングラスを掛けた長身の男。口元に余裕のある笑みを携えて、親しげに榊に話し掛けた。
「再会の挨拶は済みましたか?」
「ああ、言うべきことは伝えた」
「では、どうぞこちらへ」
生えるように現れた男が榊を誘う。真綾は真琴の頭を床に置いて立ち上がる。
「待って!何でもいいんです!切宮一狼について、知っていることを教えてください!」
その言葉に反応したのは榊ではなく黒スーツの男の方だった。
「それは我々SOSのメンバー、切宮一狼のことかな?因みにこの榊終一も我々のメンバーの一人だが?」
スーツの男のおどけた口調。驚きと共にようやく掴んだ手掛かり。それは男の口が滑ったというより、敢えて自分に教えたという感じだった。
「…悪ふざけが過ぎるな九龍」
「滑稽な扮装をして演説をしてきたばかりだ、悪ふざけもしたくなる。それに不確定因子を詰め込むだけ詰め込むのがこのユートピアの意義でもある。これもそのひとつですよ」
「もう行くぞ。これ以上お前が余計な事を言う前に」
「送りますよ、その為に来ましたから」
榊は真綾を見る。
「もうすぐ創介が来るだろう。真綾、俺の言った意味をよく考えてみてくれ。またな」
そう言って榊と九龍は地面に呑み込まれるように消えた。来た時と同じくあっという間に。
自分の為の復讐だと榊は言った。自分の世界を壊された復讐だと。でもそれを危惧する榊の言葉の意味が分からなかった。
自分の箱庭。
美しい?私が、造った…。
わからない。
少しするとまるで榊が計算していたように葵創介が現れた。入ってすぐに立ち止まり、部屋の惨状に驚いている。
「マヤちゃん、これは一体…真琴?」
どう説明すればいいか迷う。
伝えるには、色々なことが短い時間で起こりすぎた。
同時刻。
部屋の外では混乱が続いていた。先程よりも身近な現実感を伴って、この街に住む人々は脅威を体感していた。
何故なら市民達は、自らを反逆者と名乗った仮面の男と直接対話する状況になっていたから。
ある者は路上で、またある者は自宅の一室で、突然背後から立ち現れた滑稽な扮装の男に問い掛けられていた。
その男はこの街に住まう者全員に例外なく同時に現れた。
「貴方の心の声が聞きたい。その選択を」
仮面の男は全員に同じ質問を発した。人々が密集した避難先などでも仮面の男が出現し、街はその仮面のせいで人口が倍になった。
それはまさしく人々の影の顕現だった。
悪い夢の中にいるような非現実的な光景。
ほとんどの者がその質問に答えられず怯えるばかりだったが、中にはそれに答える一握りの者もいた。
僅かな時間の出現の後、男はすぐに姿を消した。影の中に帰るように足元へ呑み込まれ、二度とは現れなかった。
それは橘直陰と三城威織にも同様だった。
「質問だ。貴方の選択は?」
二人は夜の闇に紛れ裏路地を通り、隠れ家に向かっている途中だった。背後に現れた二人の仮面の男に対し、威織は眉を顰め、橘は驚きもなく言葉を返した。
「大した道化振りだな、九龍隼人」
その言葉に本当に道化のような振る舞いで大仰に驚く九龍。ひとしきり笑った後、口調を変えて話し出した。
「はは、君ならすぐに気づくと思っていたがもうバレたか。大したものだ君の眼は」
「え、なに?知り合い?」
三城を無視して橘が答える。
「ようやくお前から何も視えない理由が分かった。お前には主体がないんだな」
「ふむ。君の眼にはそのように映るのだな」
「映らないんだよ、なにもな。お前は心理用語でいう所の“影”の寄せ集めだ。普遍的無意識との繋がりで誰の影でも有り得るから何処にでも現れる。こんな同時多箇所にも存在できるとは思ってなかったがな。そういう顕現能力なんだろ」
「なにそれ、何でもありかよ」
威織の呆れたような言葉。
「顕現能力ってやつはどうも自分の心因的なものがその能力の方向を決めているところがある。ということは心理学的知見から見ることでそれを説明する言葉が見つかるかと考えてはいた。こいつの場合はユングの言う“影”の概念を拡大解釈したものがぴったりだ」
仮面の男が頷きながら言う。
「やはり君の危険性は能力と言うより、その思考力だな。しつこいようだが本当にこちら側に来る気はないかね?」
「ないな。俺は他人に干渉することに興味がない。されるのはもっとごめんだ。だからいつの間にか陰でコソコソすることに長けてしまった」
橘はポケットの中である装置を起動させた。あまり静かとは言えない雑音が細い路地に響き渡る。
その効果はすぐに現れ、目の前の二人の仮面の姿が歪み出した。テレビの画像が混線したようにその全身にノイズが走る。
「ほう?これはまさか…」
「電子妨害装置だ。その途方も無い能力も結局は俺達と同じく、何らかの電子によって顕れるものだろう」
「その名を不定形電子という。しかしその性質は個人ごとに異なるはずだがな」
「今度は神話か?生憎だがこの機器は電子を狂わせる類いのものじゃない。完全に遮断するタイプだ」
橘は煙草を咥えて吐き捨てるように言った。
「してやられたな」
仮面の男は満足気にそう答えた。
その姿は今にも消えそうな程不安定になりつつある。
「消える前に質問に答えておこう。俺の選択は“逆”だ。これから先お前達の望んだこと、そのすべてに反対の行動をとる。その手始めに、観測したがるお前らの目の届かない所に行くが、まあ心配するな」
橘は火を付けた煙草の煙を吐き出しながら告げる。
その顔には珍しく不敵な笑みを浮かべていた。
「俺はずっとこの街にいる。反逆者としてな。正直言って俺は楽しくてしょうがないんだ。今までで最高の退屈しのぎだからな」
その言葉に威織は思わず笑ってしまった。何故ならこの気に食わない男が自分と同じような事を考えていたからだ。
「君の答えは?」
仮面の男の威織への質問。
「聞くまでもないだろ?」
威織も邪悪な笑みと共に答える。
「いいな、君達は。予想通り元型に相応しい」
そう言うと同時に仮面の男は消えた。
「最後何て言ったんだ?」
「気にするな、でかい組織は何にでも呼び名を付けたがるもんだ。それより人を待たせてる、急ぐぞ」
ジャマーの動作を止めるとすぐに橘の携帯が鳴った。QPDAではない、葵創介に渡した一般的なもの。橘はすぐに応答する。
「無事に真琴と合流したか?…なに?それで真琴は…そうか。じゃあ集合場所を送る。直接隠れ家に向かうのは危なそうだからな。確認したら携帯は壊して捨てろ」
「マコちゃんがどうしたって?」
通話を終えた橘に威織が尋ねる。
「取り敢えず無事だ。向こうは車で来るからすぐに会える」
そう言ったきり、橘は早足で先へ向かう。威織はその態度に不満はあったが概ねいい気分だった。
これから毎日楽しくなりそうだ。
気に食わない奴だが、きっと橘も同じ事を考えているだろうと思いながら威織は後を追った。
「そうか、報告ありがとう。引き続き頼む」
上座市の市長、四条巽は逐次報告を入れるレビン・スミス少将との通話を終え、自分のデスクに座り込んだ。窓から見える景色は、内戦の絶えないどこか違う国のようにいくつもの煙が上がっている。
四条はその景色から目を離せずにいた。自分の想像した理想郷の基礎が今出来つつある。その証明がこの光景だったからだ。
「落ち着きませんか?」
後ろに控えていた九龍が声を掛けてくる。
「街を出ようとする者はもういないか?」
「ええ。現時刻までに始末したのは109名。およそ30分前に始末した者が最後です」
九龍の能力を知る四条は、市境を抜けようとする市民を排除するよう依頼していた。まだ街の閉鎖は完了していない。交通機関が途絶しても林や山道、徒歩で抜けることのできる小道などがある。まだそこまでは封鎖が出来ていなかった。
しかしそれもあと少し。レビン少将が帰還すれば、テロリストSOSの逃走を防ぐ名目ですべてのルートを検問できる。既に先行している工作部隊が市道の境に通行不可能な措置を始めていた。上座市の市境の先はしばらく何もない無人地帯である。そうなるよう何年も前から手を打っていたことがようやく生きた。
「少将はあと20分ほどで到着するそうだ」
「では理想郷の誕生も間もなくですね。やはり創造の地には門番がいなくては」
「虚構で造り上げた理想郷だがね。私はそれで満足だ。…いや、むしろ理想郷自体が虚構そのものなのかな」
四条は真剣に考え始めた。その様子に九龍が笑う。
「いつになく真面目ですね」
「うん。やはり現実になると色々と考えてしまう。そもそも理想郷という概念が掴みどころのないものなんだ。人々の考えや立場によって理想とするものはコロコロ変わるだろう?」
「私と貴方の理想もおそらく違うものでしょうからね」
「やはり、ここは私にだけしか理想郷と認識されないな。他の者からしたら、単なる虚構で造られた世界か」
「私には虚構こそが理想郷に必要な材料だと感じられますがね。さっきの演説もその為の種蒔きだと」
「そうなると理想郷の基盤を造るのは虚構しかないということになる。本末転倒な話だが本質に近い気がするな」
「大事なのはそれが虚構と認識されない仕掛けです。大多数が信じれば、その虚構は本物になる」
今の所およそ理想郷とはほど遠い現状。その先にある未来の姿を思い浮かべながら二人は議論していた。
まだ始まったばかり。
大事なのはこれからだ。
四条の創り出したこの箱庭に何が築かれるのかは本人すら把握していない。
それを決めるのはこの街のひとりひとりだ。
自分は管理者。
この箱庭を管理するのみ。
突然九龍が笑い出す。文字通りこの街を影から管理する男の高らかな笑い。四条にその意図は分からないが、その声は本当におかしくて笑っているようだ。
「また何か掴んだのかね?」
「逆です。掴めなくなった」
九龍は笑い声を抑えてなんとか応える。
「背原真琴、葵創介、三城威織、橘直陰。この4人の元型が私の範疇から外れた。つまり、所在不明です」
その言葉に四条は子供のような笑顔を浮かべた。
「そうか。“第三勢力”の誕生だな。彼らはこの街で早くも居場所を見つけたようだ。願わくば元型の恩恵をこの街に齎して欲しいものだ」
遠くから夥しい数の軍隊が近付く音。
必要と思うものはすべてここに詰め込んだ。
後はもう待つだけ。それだけだ。
遠くに見えるたくさんの動く光。この街に続々と侵入してくる軍隊は何かのパレードのように綺麗な列を作り行軍している。
背原真琴は目を覚まし、見覚えのない部屋のベッドから起き上がったばかりだ。窓の外の景色からここがどこか推測する。しかし動く光が強過ぎて街の外景が見えなかった。
「起きたか」
その狭い部屋のドアを開けて葵創介が入って来た。
「ここ、どこ?」
「俺もよく知らないが中央区にいるのは間違いない。寝ててもいぞ。マヤちゃんの話では結構酷くやられたんだろ。…シュウに」
「マヤはここにいる?」
「いや。勝手かとは思ったがお別れをしてきた。お前も俺達の事情に、マヤちゃんを巻き込む気はないだろうと思って」
「ありがとう」
「どういたしまして。詳しいことは言ってないけど納得はしてくれた。また寮に戻るそうだ」
実は学園寮は退出手続きをしていない。本当はもっと早くマヤを戻す予定だった。しかし立て続けの妙な事件で伸び伸びになっていただけだ。
「それで、シュウに会ってお前はどうしたんだ?借りは返せたのか?」
「聞いたんなら知ってるくせに」
「あの時突然いなくなった理由は?」
沈黙。
真琴の会話をする気のない様子に葵も沈黙する。身を投げるように真琴の隣に腰を下ろすと、少しの逡巡の後で無理矢理会話を再開させる。
「あいつについて知らなかったことがいくつか分かった。本人から何か聞いたか?」
「ユピテル、SOS、市管理者。そのすべてにシュウの名前があること。中でもSOSを造ったのはシュウ本人だってこと。それから、シュウは長い間僕達を監視していたこと」
「…そうか。聞いたんならいい」
創介はそれでどう思うかなどは聞かなかった。どうせすぐにわかるからだ。真琴はやろうと思った事は即実行する。
「目が覚めたか真琴」
部屋の外から橘が顔を出す。
それから何も説明せず、今後の予定だけ伝えた。
「俺と三城、それから葵はこれからまた別の場所に移動する。ここは仮の隠れ家、第一地点だ。段階を踏んで移動して、本格的に姿を隠す必要がある。なんせ俺達はこの街の抵抗力だからな。お前はどうする?」
「僕も行く」
「本当に?要は犯罪に誘ってるようなもんだぞ」
「今は僕の方に用があるんだ。SOSに」
「ならお誂えだな」
そう言って橘はすぐに引っ込んだ。実際橘は真琴が断るなどと微塵も考えていなかった。念の為の意思確認。それ以上でも以下でもない。
狭い部屋の中で創介と2人。
お互いに無言だった。
創介は下を、真琴は真っ直ぐに前を向き窓の外を見ていた。
「シュウは嘘をついてる」
「何に?」
「多分すべてに。きっと僕にも。そして、自分に」
「なんで分かる?」
「繋がったから」
「何が?」
「心が。さっきまでシュウと僕は同一人物だった。お互いの心を交換しあうような、混ぜ合わさったような一体感。それがこんなに気持ち悪い事とは思わなかったけど、シュウが何を望んでいるのかは分かった」
「あいつに望みなんてあるのか?」
「寂しい。だから死にたいって」
真琴は胸に手を当てて、さっきまでそこにあった榊の残滓を掬い取るように思い出そうとした。
「シュウの顕現能力は彼に自由を与えた。同時に孤独も。彼はたった一人で長い間生きてきたんだ。世界の法則から解放されたからこその不自由を抱えて」
榊は生きていない。死んでもいない。生命の価値から解放されたところで、ただ存在しているだけ。誰かの心に寄り添って、その意思を養分として、生きている振りをしている。
ずっと孤独のまま。
たった一人でいい、それを共有できる誰かを探して。
「でも、僕はごめんだ」
真琴ははっきりと榊を拒否した。その共有を。おそらく誰が相手でも真琴は拒絶するだろう。マヤでさえ。
それは、自分という一人を否定する事になる。共有は真琴の考える他者との在り方と真っ向から対立していた。
「シュウは僕のことを遭難者だって言った。でも、自分だって遭難してるんだ。普遍的無意識の“海”の中で」
「よく分からないな俺には。でも、お前がどうしたいのかは分かる。もう一度シュウに会いたいんだろ?」
意外そうな真琴の顔。それを見ながら創介は得意気に言う。
「幼馴染みをなめるなよ。お前の考えくらいすぐ分かる。興味のない人間のことをそんなに長々と話す奴じゃない」
「そう。もう一度話してみたい。繋がるんじゃなくて、一人と一人として。間に壁を挟んでじゃないと、本当に他人の考えなんて分からないから」
空はいつの間にか白んできていた。
よく知った街のアウトラインが徐々に見えてくる。
でも、その中身は別世界のように異質になっているだろう。
関係ない、と真琴は思った。
本当はみんなバラバラの世界で生きているんだから。
自分だけの閉じた世界の中で。
それは変わらない。
それだけはずっと変わらない。
僕の世界も無くなることはないだろう。
僕が死んで、この意識が消えるまで。
読んでくださった方有難うございます。
続編に続く予定ですので興味を持って頂けたらまた御一読お願い致します。