4―1 close down ー黒い胎動ー
ー1ー
暗い部屋に1人。
億劫で明かりも点ける気にならない。
わずかな月の光しか光源のない空間。
葵 創介は眠れずに、自室の椅子に腰掛けアルコールを摂取していた。
創介には普段アルコールを飲む習慣がなく、この行動はかなり珍しい部類に入る。久しぶりに飲んだ為か、とても変な味に感じた。既にグラスで2杯目になるが、あまり睡眠の助けにはなりそうにない。
窓を開けた室内はひんやりとした外気のおかげで、今の創介には心地よい温度にまで下がっている。
これで少しぐらいアルコールが効いていれば眠れるのに。創介は役立たずのボトルをそれ以上注ぐ気にならず、恨みを込めて指で小突いた。
考えたくない事が頭をよぎる。
降高晶の起こしたあの事件。その最中、そしてそのあとで自分達に起きた事。知った事。九龍という管理者側の人間の発言。
『懐かしい人物からの便り』
最初はあの事件の首謀者が降高であることを示しているのかと思った。しかし本物の便りはそのあと意外なところから齎されたのだ。真琴が介抱されていた常連の古書店の店主。宗久という色んな地方訛りが混じったような喋り方の男、その人のお陰で真琴は一命を取り留めたそうだ。
落ち着いたあとの宗久の言葉。
『あら、知り合いやないん?こう、髪の長うて真っ黒い人。もう全身黒。あの人が真琴ちゃんに何かしたんやないかな。その後からやもんね、こう、ひと呼吸ごとに傷が直るというか、そうやねえ、〈元に戻っていく〉って言うほうが近いかも知らん』
そしてついでのような言葉。
『いやあ、不思議な光景やったわ。あ、でも本当に知らん?創介くんにもよろしくって言いよったよ』
創介は結局もう一杯グラスに注ぎ足した。
心当たりはある。そんな格好の男は一人しか知らない。額に手を当てて、目を閉じる。創介の頭の中で、もうほとんど過去の人物のリストに分類されていた人物。自分の中の開かない扉の向こうに、様々な爪痕を刻んだ男。
着替えもせずにベッドに転がる。足は地面に付いたまま。
もうあんな暴走はしない。心臓には何重にも“鍵”を掛けた。冷静にあの男の顔を思い出せる。かつて真琴と自分が“先生”と呼んだ男の顔。もし実際に再会した時、自分はどうするだろうか。
その時、音を立てぬよう静かにドアが開けられた。
暗闇に立つ少女のような顔。いや、本当に少女かも知れない。今創介の家には双子のような兄妹が同居しているのだ。暗がりで見ると長年共にいた自分でも判別は難しかった。
「創介」
「…真琴か?」声を聞いて兄の方だと分かった。発声の仕方が違う。時計を見ると午前3時を回っている。真琴がこの時間に起きていることは珍しくないが、自分の部屋に入ってくることは稀なことだ。
真琴は創介の傍まで近づき、自分の横に寝転がった。
「酒臭いぞ」「珍しいね」
真琴は別に気にする事無く、部屋の天井を見ている。何か話したい事があるのだろう。暗すぎて天井には暗闇しか見えない。
「マヤが言ってた。ここに先生が来たって」
やっぱりその話か。創介は溜息をつき「みたいだな」とだけ答えた。
「あの事件の日、先生は僕に会ったあとここに来たんだって、そうマヤから聞いた」
「そのときお前の怪我を治したんだろうな」
どうしたのかなどは知らない。しかしあの男にならそれも可能なのだと、2人とも当たり前のように認識していた。
「…またひとつ借りができた。創介のせいだからね」
真琴のピアスを施錠した事を言っているのだろう。それはこっちだって気にしている。無神経に古傷を抉るのは真琴の得意技のひとつだ。
「悪かったよ。もう断りなく勝手にやったりしない」
「…ならいい」「もう喧嘩は終わりか?」
真琴は起き上がり自分を見下ろす。創介も同じく黙って見返した。
「もしもマヤがまた危ない目にあったら、僕は同じことをする」
強い訴えの籠った視線。その真琴の目が潤んでいるように見えるのは、自分の気のせいだろうか。
こいつの泣く所を見たのは、3年前が最後だ。
「それを、許してくれるなら」
真琴は泣いてはいない。
さっきのは角度による光の錯覚かもしれない。
「…分かったよ、“お兄ちゃん”。その事には、もう何も言わない。だけど約束だ。無茶をする前には、必ず俺を呼んでくれ」
「…分かった。じゃあ、喧嘩は終わり」
そう言って立ち上がった真琴は、机の上のグラスを一気に飲み干した。「あ!おい馬鹿、何してんだよ!」
真琴はそのまま創介の横に倒れるように寝転がった。「だって眠れないから」そう言った顔は既に紅潮しているのがわかる。真琴はアルコールなど飲んだことはないはずだ。
「あのな、急性アルコール中毒っていうのが…」
真琴はあっという間に寝息をたて始めた。どうやら物凄く弱い質らしい。本気で急性中毒ではないかと疑ったが、本当にただ眠りに落ちようとしているようだ。
目を閉じた真琴がぽつりと呟く。それはもしかしたら既に寝言だったのかもしれない。
「もし、先生に会ったら…創介はどうする…?」
創介は答えず、残り僅かなボトルを空けた。
時計を見ると午前4時前。
ようやく自分にもアルコールが効いてきたらしい。創介もそのまま、真琴の横で眠りについた。
結局何の結論も出ないまま。
そして翌日。真琴は正午を過ぎても起きず、創介は生まれて初めて仕事に遅刻した。
ー2ー
葵創介の自宅がある上座市の北側は、北嶺区という。市民の住居が集中する地区である。上座市4区の中で最も小さい地区ながら、無数に建ち並ぶ高層建築のマンションのお陰で、市で一番人口の多い場所でもある。当然人口密度もずば抜けて高くなるこの地区に、上座市の市庁舎である通称“黒い箱”も置かれていた。
JUCの参入以降、市民の立ち入りがほとんど途絶えてしまった為、地区の中心に位置していながらその周辺は閑散としていた。しかし現在その敷地のスペースには軍用車が所狭しと並べられ、黒い軍服の兵士達が敷地内に大勢いた。
市長は庁舎の敷地に隣接する市営グラウンドを軍に貸し渡すことを決定したのだが、指揮官レビン・スミス中佐の要請に従い、その一部を警備という形で庁舎敷地内にも置くことを許可していた。
その市庁舎の隣に垂直に建つWISE.opt社のやたらと広い自分の執務室で、上座市長四条巽はこれまでの長い経過報告に耳を傾けていた。
「…以上の経過を踏まえ総括するに、上座市の状況は次の段階に進む前準備を全て整えた、と結論づけて良いものになったと思われます」
およそ20分にも及ぶ上座市のサーバ〈ルミナス〉の管理主任の報告と結論。彼はその報告を何の抑揚も加えず淡々とこなした。
「さて、どう思うね?」
四条は目の前のテーブルに座った3人の“管理者”達に意見を求める。先程報告を終えた〈ルミナス〉の管理主任、水沼は四条の横に控えて、テーブルに座る男女を見た。
年齢、性別、国籍共に共通点のない4人。彼らの共通点は全員がJUCに所属していること、そしてその役職を同じくしていることだった。
管理、遂行を役目とする〈管理者〉。
世界に散らばるJUC管理下の支援都市で、実際に現地で指揮を揮う上級役職であり、その人数は全体で100名に満たなかった。
「考えるまでもないでしょう。機は熟した。やるべきだ」
欧米人でこの場で最も若く見える男が言った。その赤毛の通り血気盛んな勢いで。
「しかしルカ、主役はこの街の市民達なのだよ。状況が整ったからといって、民衆が上手く乗ってくれるかは別問題だと思うがね」
まだ頭髪は豊かだが、髭まで真っ白の温和そうな初老の男。その慎重派の意見。ルカと呼ばれた赤毛の男はそれを一笑に付した。
「この段階において、民衆の反発がないわけ無いだろう?どうせどう足掻いても出るものなら、やりやすい今を逃して何とする?」
「エンデ御大の意見ももっともですが、今回はハラー氏の方が説得力がありますね。私達のやることを納得のできる人々などいないでしょう」
「では、レアの意見は?」
四条が今発言した金髪の女性に問い掛ける。
「段階を上げるのは、今しかないと」
「うん。そうだろうな」
四条も同意見であることを表明する。
「四条君。元研究者として言わせてもらえるなら、研究をするのに最も適していない生き物は人間だ。それは生物的欲求とは別に、好奇心という厄介な欲が強過ぎるからだ」
「仰る意味は分かります。博士の慎重さがなければ、我々は到底ここまでやって来られなかったでしょう」
四条は静かで重たい視線の老人に丁寧に言葉を返す。
「今はもう博士ではないがね。その欲の為に失敗する者を何人も見てきた。急ぎすぎるのだ。早く結果が知りたいという、子供のような我が儘で」
全員に言い聞かせるように見回す。赤毛のルカの渋い顔。金髪のレアの俯いた表情。そして軽い笑みを浮かべる四条に目を戻すと、ダヴィド・エンデ御大は破顔した。
「だが研究に失敗は付き物だし、それは大小どんな研究でも同じだ。何よりお恥ずかしいが、私も早く結果が見たい。やろう」
「そう言ってもらえると思った、ミスタ、ダヴィド」
4人は立ち上がり、各々の手を取り握手した。そして会議は終わりとばかりに緊張を緩めて話し合う。
「そうなると現地筆頭の管理者四条に、市民がすんなりと段階を受け入れられるスピーチを考えてもらわんとな」
赤毛のルカ・ルドウィグ・ハラーが意気揚々とした抑揚で冗談めかして言う。
「大丈夫よ、嘘を真実に変えるのに彼をおいて右に出る者はいないわ」
「おいおい、まるで人を詐欺師のように言わないでくれ。これでも地元じゃ誠実で通ってるんだ」
「鉄の笑顔がよく言うわ」
可笑しそうに笑う妙齢のレア・ボードレール女史。
「君なら上手く誘導できるさ。その会見を楽しみにしておこう」
「やれやれ、今日から徹夜だな」
和やかに笑いながら執務室から出て行く4人。それを〈ルミナス〉管理主任の水沼は冷ややかに見送った。
まるで手軽なアプリケーションでも開発しているようなあの4人のチームが、この上座市の今まで、そしてこれからを決定付けていくのだ。水沼は自分の持参した資料を片付けながら、ふと資料の文字が目に止まった。
これから入る段階。
資料の終わりの方に記述された〈閉鎖〉の文字。
ー3ー
上座市の西に位置する西園区。
幸いにも集団洗脳事件の発生しなかったこの地区は、多少の被害は出たものの日常生活にほとんど影響は見られない。
対して中央区と東雲区の被害は甚大なものだった。各企業の社屋や工場の入った商業区東雲の被害は相当なもので、休業を余儀なくされたものが全体の3割に上った。中央区もメインモールの半ば強引な再開があったとはいえ、街を行き交う人々は極端に減少している。それらに比べれば西園区の現状はまだマシと言ってよかった。
西園区の主な繁華街から一本道を外れると途端に人通りが少なくなる。並ぶ店も飲み屋や看板の出ていないものなど、いかがわしさが一気に増す。
そんな裏通りという表現がぴったりな場所を、背原真綾は1人歩いていた。
何度も通った道だが、真綾はいつまで経ってもこの雰囲気に慣れることが出来なかった。そのせいか、その足どりは普段より1.5倍ほど速い。よそ見しないように前だけを見て目的地に直行する。その手には大きめのスポーツバッグが握られていた。
程なくして目的の店〈ヴェニス〉に到着した。入口の横の壁には様々な有名スポーツブランドのロゴがあしらわれていたが、その上からスプレーで落書きされて台無しになっていた。しかしこのあたりの店はどこもそんな感じなので特に違和感を感じない。
入店しても客どころか従業員すら見当たらない。これもいつものことなので、真綾はそのままカウンタ横の“従業員以外立ち入り禁止”と書かれたドアから奥に入る。
そこには物凄くゴツゴツした造りのスポーツサングラスを掛けた金髪の男が座ったまま寝ていた。耳にヘッドホン。真綾は男の前にバッグをそっと降ろし、気持ち良さそうに眠る男の肩を叩いた。
「……あい、らっしゃいませー」
サングラスのせいで目を開けたかどうかは分からないが、とりあえず反応は帰ってきた。
「ごめんなさい与市さん、背原です」
「ン…おお、マヤちゃん、久しぶりぃ」
与市と呼ばれた男はまだ夢の中にいるような喋り方をしているがこれが通常だ。ノースリーブのレザージャケットに派手な柄のシャツ、体の至る所にピアスと銀のアクセサリを付けており、体を起こすだけで金属の音がたくさん聞こえた。
「定期メンテだねぇ。拝見すっからそのへん座って待ってて」
「お願いします」
真綾は言われたとおり近くの椅子に腰掛ける。与市は真綾の持ってきたバッグを開けて、中の一式を1つずつ取り出した。
出てきたのは厚みの薄いケプラー製のマスク、耐刃、絶縁の長いコート、高密度のゴムにより重量のあるブーツ、そして与市が“ダガー”と呼ぶスタンガン式の投げナイフが10セット。全てが漆黒の黒。
真綾がやっている事に必要な装備。それを用意してくれたのがこの“ヴェニス”の店主、与市だった。しかもこうやって定期的に整備までしてくれている。
「……ほー…マヤちゃん、こりゃ使い込んだもんだねえ。」
与市は一つ一つ丁寧に確認していき、スローナイフ3本と耐刃コートをよけて、それ以外のものは元通りに直した。
「この3本はもう充電しても駄目だね、中で破損しちゃってる。それからコートはここと…ああ、ここ」
そう言って見せられたのはコートの背中の部分が20cm程切り裂かれている部分と、同じように裂けた左腕の部分だった。
「これはもう取り替えた方がいいと思う。またお金掛かるけど」
「はい、大丈夫です」
「で、つかぬ事を伺うけど、このコートの破損、思いっきりナイフでやられてるよね?マヤちゃん、体大丈夫だったの?」
「はい」「…あ、そう。ならよかったけど」
本当は今も左腕には傷が残っている。しかしそれは言う訳にはいかない。もしも危なくなったらそこで終わり、そう言われているからだ。例え嘘だとバレていても、それを自分から言う気はない。
「待ってて、いま予備出すから」
「ありがとうございます」真綾は深くお辞儀をする。与市はカウンタの下の一見何にもない地面にカードキーを差して地面を開けた。
「橘さんには最近あったぁ?」与市の何気ない質問。
「……いえ、最近は」
与市は予備の装備を取り出し、それをカウンタに載せた。
真綾の場所まで振動が来るほど、叩きつけるように。
「そりゃあ契約違反だなぁ。定期的に橘さんに経過を報告。そうして許可をもらって続けるってのが約束だろ」
真綾は立ち上がり、再度頭を深く下げた。
「すいません、絶対に、与市さんに迷惑はかけません。お金も2倍払います。だから…」「金の問題じゃねえって」
カウンタを殴る音。思わず目を閉じた。
「俺らが協力したくてしてると思ってる?正直ホントは嫌なんだよ。こんなの中学生がやることじゃねえんだって」
与市の溜息。真綾は顔を上げられなかった。
「…ナオ兄には、必ずすぐ連絡します。お金も、3倍払います。お願いします。どうかそれを使わせてください」
しばらくの沈黙の後、擦過音とジッパを上げる音が聞こえた。
「マヤちゃん、顔上げて」
下げた頭に軽くバッグの感触。顔を上げずに受け取る。
「〈スローターズ〉、キリミヤ。橘さんもずっとその単語を追ってくれてる。いつか必ず仕返しできる。だからそんなに1人で気張るな」
「……はい」
「橘さんには必ずすぐ連絡すること。そんで、言われたことは絶対守る。約束だ」
そう言って与市はカウンタに腰を降ろし、向こうを向いてしまった。小言は終わったというジェスチャ。
「あの、お支払いを…」真綾はQPDAを取り出す。
「橘さんからもう貰った。余った分で服でも買えってさ。普通の、可愛い服をさ」
そう言って与市はヘッドホンを装着し、再び眠りに入り出した。
自分は駄目だ。全然駄目だ。
誰にも言わないと決めた秘密。
なのに自分1人では、秘密にすらできない。
人に、秘密を押し付けている。
情けなさと恥ずかしさで、飛び出すように店を出る。
左腕よりも、胸の痛みで目が滲んだ。
ー4ー
「そうか、やっぱり来たか」
橘直陰は与市からの連絡を受けて内心では安心した。彼の“元”被後見人の1人であるマヤが与市の店に訪れ、用意させた予備の防護服を持っていったそうだ。
「でも橘さんに連絡してないって言うからさぁ、ちょっと頭きて渡すのやめよっかなって思ったよ」
「その方が危険だ。装備無しでも、あいつはやるぞ」
そもそもこんな厄介な援助をしているのは、マヤが言っても聞かないからだ。マヤ本人がどう思っているか知らないが、兄と似ているのは見た目だけではない。
「まあ、いい子だよ。でも頑固だ」
「兄譲りだからな」
「ふうん……あ、一応橘さんに連絡するよう言ったから、もうすぐ電話があるかもだよ」
おそらく電話はない。マヤはこの半年ほど、ずっと自分に会わないようにしている。電話も拒否された状態だ。
マヤは勘が良い。おそらく橘に隠し事ができないことを直感的に気づいている。それは橘の〈顕現能力〉を何となくにでも気づいているからかもしれない。
「話は済んだかな」
橘は目の前に腰掛ける黒いスーツの男に視線を戻す。
WISE.opt社特別顧問、九龍隼人。
突然に橘の自宅にやって来たその男は、オールバックの長髪を後ろで束ね、サングラスで目を隠している。一見ホストや風俗関係者のような印象を受けるが、橘はその佇まいから用心棒を連想していた。
「悪い、待たせたな。続きをどうぞ」
「なにか聞かれては不味そうな話だったようだが?」
しかし九龍は今の電話に興味を持ったようだ。どんな内容か教えろと言わんばかりにこちらの返答を待つ。
「なに、今のこの街の悲惨さに比べれば大した問題じゃない。近頃ギャングやチンピラを襲撃して回る切り裂き魔の情報収集だ」
「何故そんな奴の情報を集める?」
「健気な友達思いの奴だからな。放っといて無鉄砲をされるより、こっちで管理した方が安全だと思った」
九龍の片眉が上がる。とても楽しそうだ。
「随分と親しい間柄のようだな」
「おい、なんだこの茶番は」橘は九龍に向かって勢い良く煙草の煙を吹きかけた。九龍の様子は変わらない。
「どうせもう知ってるんだろうが。とっとと言いたいことを言ってさっさと出て行け」
「保護監察の身だと、大事な人達を守るのも大変だな。〈赤色錯視〉の橘直陰」
「安い挑発は無用だ。用件だけ喋れ」
安くても中々耳に痛いだろう。そう思いながら九龍はその本題に入ることにした。
「君のその情報収集能力は大変素晴らしいものだ。それは顕現能力に留まらず、元々持っている技術まで含めて」
橘は苛々を押し潰すように煙草を捻じ消す。その目は九龍を睨みつけたままだ。ほら、挑発が効いている。
「その技術をウチで活かしてみないか?」
「断る。論外だ」
「WISE.optにくれば今のようにコソコソと悪巧みをしなくて済むぞ。君の保護監察の件も、上に掛け合えば何とかなる可能性がある」
「悪巧みをしてるのはお前らも一緒だ。次は何をするんだ?連続テロ事件の演出、その架空の組織を隠れ蓑にした洗脳、“顕現能力の拡散実験”を行ったな。そのうち街がゾンビだらけになったりするのか?」
九龍は声を上げて笑った。
「本当によく視ている。今のところ我々の行動は全て君に筒抜けだ。私も是非その眼でこの世界を視てみたい」
「今も見ているとしたらどうする」
橘の赤く染まった視界。“血に塗れたような世界”。
その眼で九龍の姿を見据える。赤が滲んだその視界に様々な情報が現れている。自動的に収集される感覚が、目に見える情報としてディスプレイに記述されている。
赤く塗られた九龍が、傍に寄る。
気付けば自分の眼前に九龍の顔があった。
「何が視える?」
今この瞬間、橘にはマンションのどこに何人の人間がいるか、どの設備が使用され、そこにどれくらい電気が流れているか、ありとあらゆる情報が視えていた。
しかしその眼前にいる九龍にはなんの情報も現れなかった。今まで事あるごとにこの男を覗いたときと同様。
「……お前は何なんだ」
空っぽの赤い男が体を揺すって笑っている。
「私は“影にできる影”。その化身だよ」
橘は能力を解除し、九龍から立ち上がって離れる。その時既に九龍は橘の横を抜け玄関口に辿りついていた。
「今日の勧誘が最初で最後だ。これから君たちの包囲はさらに狭まる。恐らくそれは、君にも思いもよらない形で。せいぜい足掻いてくれたまえ。人類の進化を助長するために」
九龍が静かに部屋を出て行く。
目の痛みと得体の知れない悪寒で、橘は全身に冷水を浴びたかのような冷や汗をかいていた。