痛む胸と過去。
橋本正隆
私、橋本音葉の実の父親であるが世間的にはそんなことはどうでもいい。
橋本正隆という名を聞けば日本人のほとんどが彼の曲を思い出すだろう。
彼は日本の音楽界のスターであり、世界に誇れる日本の音楽そのものとなっている。
彼のつくる音楽は難しいとされる現代音楽を幅広い世代へと浸透させ、ゆっくりなメロディーとはやいメロディーとがおりなす絶妙なバランスは、長い音楽の歴史といえども最高のものであるという専門家も多い。
大げさに言うならば日本のモーツァルトとも言えるような人は確かに私の父親だ。
切りたくても切ることの出来ない、鋼の鎖のようなこの関係。
「あんな大作曲家の息子だなんて幸せね。」と、何も知らない大人達は口々に言う。
あまりに無責任すぎる。何も知らないくせに。だいたい、あの人がどんな過ちを犯したかを知ればお前らだって.......。
「.....くん ....もと君? はーしーもーとーおーとーはー君!?」
「えっ!? あっ、えっと、なに...かな。」
「なにかな、じゃないでしょ。急にボーッとして。そうならそうと、返事くらいしたらどう?」
なかなかにあたりの強い彼女は見た目と同じ印象だ。
私は思いがけない言葉を投げかけられ、かなり動揺していたらしい。
「うん、そうだよ。そのことを知ってる人がいるとは思わなくて少し驚いてたんだ。」
「私もあんまりぱっとしないあなたみたいな人がかの橋本正隆の息子だなんてびっくり。
もうちょっとそれらしいオーラのある人かと思ってたわ。」
彼女の言葉はどんどん鋭くなっていく。
それを聞きながら私の胸の中には着実に不快感が募っていった。
「去年のコンクールでお会いした時に私と同じ学校に息子さんがいるとは聞いていたけど、それらしい人がいなくて聞き間違いかと思っていたわ。本当にいたのね。
それにしてもあの大作曲家、橋本正隆の息子だなんてやっぱり.....
「やめてくれないか!」
急に私が大声を出したことにさすがの彼女も目を丸くしていた。
それを見て無意識のうちに叫んだ私の声がかなり大きかったのだろうと我に返っておもった。
教室にいた他の生徒も驚いて私の方を見たことだろう。
「それ以上、あの人の話をするのは...やめてもらえないかな。ごめん。」
彼女はまだ少し呆気に取られていたようだったが、すぐに何かを悟ったような顔つきに戻った。
そして大きなため息をひとつ、深く深くついた。
「ごめんなさいね。
あまり詳しくはわからないけど、お互い親には苦労させられるってところかしら。」
『キーンコーンカーンコーン』
校内に予鈴が鳴り響く。
「ま、何はともあれ1年間よろしくね。橋本音葉君?」
急に今までのことをさっぱり忘れ去ったかのように、気さくになった彼女の言葉に私はうなずくことしかできなかった。
学校を終え、部活を終え、
久しぶりに3人で下校する。
春休みという期間があったにせよ、私は未だに綾佳とうまく話すことはできずにいた。
そんな自分が嫌だと帰りながらに思った。
家につき、すぐさまベットに飛び込んだ。天井を見上げながら考え込む。
綾佳のこともある。だがそれ以上に今日は福島さんの言葉がやけに頭に残っていた。
『お互い親には苦労させられるってところかしら。』
その『お互い』の意味をあれこれと考えているうちに私はそのまま寝てしまった。
そしてその夜、私は夢の中であの出来事のことを思い起こした。
私が音楽を嫌う原因となった、あの日の夜のことを。