その歌声は銀世界に響く
雪を踏む音だけがこだましている。
さくり、さくり、と妙に軽く響くその音にレンは首を竦めた。
進めど進めど、見渡せど見廻せど、周囲にあるのは銀製の鉄格子のような木々と痛いぐらいの沈黙。その中で響き渡るこの音が酷く不躾な気がしてならない。
「は――――」
漏れ出る溜息は真っ白な煙となって上空へと上がっていく。
レンは一瞬立ち止まり、頭上を見上げた。
幾重にも重なる銀色の木葉。その隙間から僅かに覗く空の色は相変わらずの鬱色だった。低く低く垂れ込める雲が無用な圧迫感を与えてくる。
レンは視線を元通りに戻した。
延々と続く代わり映えのない木々の風景。それでも幾分かこちらの景色のほうが明るく見えた。こちらは鬱色、ではなく白色と言ったほうが正しい色味だろう。
レンは独り頷くと再び雪の中に足を踏み出した。
さくり、さくり、と軽い音が森の中に響き渡る。
その間を支配する、なにもかもが×に絶えてしまったかのような静寂が決心を挫こうと擦り寄ってくる。
レンは頭を大きく一回振ると、幼い頃に読んだ昔噺を反芻し始めた。
♪∞♪
昔々、小さな辺境の地に一人の幼子がいました。
幼子の名前は『フリティラリア』。
蒼い瞳と澄んだ歌声を持つ可愛らしい女の子でした。
彼女は赤ん坊の時に両親に捨てられ、天涯孤独の身ではありましたが、拾ってくれた村の優しい人々のおかげですくすくと成長していきました。
時は革命の不穏を孕みながら流れ流れていきます。
彼女が可愛らしい幼子から美しい少女へとすっかり成長したある日、遂に辺境の地をその渦が飲み込んでいきました。
兵隊へと駆り出される村の若者。足りなくなった人手を補うために働く子供たち。温かく優しかった村に冷たく刺々しい雰囲気が流れこんできます。
その事を悲しみながらも、村の子供たちと一緒に働いていた彼女のもとに数ヵ月後のある日『とくべつ』な命令が告げられました。
彼女の澄んだ美しい歌声で、革命の歌を歌うように。
革命に命を捧げんとする者にその歌声で勇気を与えるように、と。
無垢なる彼女はその命令に素直に従いました。
その日から国の中央にある街で綺麗な歌声を響かせ続けました。
晴れの日も。
曇りの日も。
雨の日も。
雪の日も。
風の日も。
嵐の日も。
極寒の寒さの中。
灼熱の暑さの中。
震えながら。
汗を流しながら。
彼女は歌い続けました。
――――革命が終わる、その日まで。
しかし、健気に歌を歌い続けた彼女を待ち受けていたのはあまりにも残酷な運命でした。
革命は終わりを告げました――王国側の勝利、即ち革命側の負けという結果で。
革命の旗印となって歌を歌った彼女には斬首刑が直ちに申し渡されました。
誰も彼女を助けられません。
誰も彼女を助けてくれません。
彼女は嘆き哀しみました。
彼女は自身の運命の非情さを呪いました。
彼女はないて泣いてナイテ啼いて……。
泣き喚いて。
泣き叫んで。
慟哭の叫び声は空をも切り裂かんばかりに。
請願の咽び声は地をも穿たんばかりに。
それでも運命の処刑執行日はやってきました。
……当日、処刑台の上へと連れてこられた彼女は、儚くも力強い蒼の瞳で前を見据えていました。
目隠しはありません。
ただ、二人の兵が申し訳程度に彼女に剣を突きつけているだけでした。
どこからどうみても彼女に反抗は望めない、との考えからだったのでしょう。
陽光を鋭く反射する刃の下に頸を曝された彼女は、唐突に歌い始めました。
その澄んだ歌声はどこまでも美しく、どこまでも妖しく、どこまでも哀しく、広場に響き渡っていきます。
歌い終わり静かに静まりかえった広場の真ん中で、彼女はにっこりとわらいました。
刃がその細い頸めがけて落ちていきます。
――ざしゅっ。
紅い紅いうつくしい花が処刑台に咲きました。
彼女は紅い紅いうつくしい花になりました。
そう、紅い紅いうつくしい――故に禍々しいあだ花に。
――――しかし、悲劇はここからが始まりだったのです。
一週間後、その街に原因不明の流行り病が襲い掛かりました。
その数日後、国の王様が食当たりを起こし、そのまま帰らぬ人となりました。
不幸は続きます。
御妃様がベランダから転落死しました。王子様が誤って湖に落ちて溺死しました。王女様が宝物庫に閉じ込められ餓死しました。
不幸は続きます。
不幸は続きます。
大臣達の邸宅は家事で焼け落ちました。その家族は逃げ遅れて焼死しました。一方では酷い日照りがおき、一方では酷い嵐が吹き荒れました。作物は痩せ細り、木々は立ち枯れを起こし、お腹をすかせた獣が里に下りてきます。地震が土砂崩れを引き起こします。氾濫した川がものを押し流して行きます。街では犯罪が横行し、呻き苦しむ怨嗟の声が絶えなくなりました。
不幸は続きます。
不幸は続きます。
不幸は続きます。
最初にその事に気付いたのは誰だったのでしょうか。
フリティラリアの最期の歌の歌詞が、そのまま現実になっている、という事に。
しかし後悔先に立たず、後の祭り、時既に遅しでした。
不幸は続きました。
王国は衰退し、かつての栄光は跡形もなくなりました。
その地に残ったのは荒廃した土地と、それを囲む森だけ。
――そして、その地には独りの少女の霊が出ると噂されるようになりました。
『フリティラリア』の霊。
世界に呪われた歌姫。
世界を呪う歌姫。
生涯を通して世界に呪われ続けた少女。
死後を掛けて世界を呪い続ける少女。
彼女はどんな呪いも叶えてくれる――対価と引き換えに。
その澄んだ歌声は今でも森の中に未だにこだましていると。
――そう、言い伝えられています。
♪∞♪
丁度、昔噺の回想が終盤に差し掛かった辺りで、唐突に周囲の視界が開けた。
あれほど密集していた木々が一本もない荒野が目の前に広がっている。空に垂れ込めている、幾重もの雲だけが相変わらずな鬱色をしていた。
レンは戸惑うように一回大きく白い息を吐き出すと目を閉じた。
「居ますように、どうかどうか、居ますように」
祈るように両手を組み合わせる。
「どうかどうか、フリティラリアよ」
囁きの声は白い息となって立ち上っていく。
「世界に呪われ、世界を呪いし永遠の歌姫よ」
さぁっ、と。
その祈りに応えるかのように、身を切るような冷たさの風が吹きつける。
思わず身を縮めたレンの耳に、微かにそれでもはっきりと聞こえたのは。
――澄んだ、少女の、歌声。
レンは目を見開いた。
糸で無理矢理引っ張られたかのような危うさで、銀色の荒野へと足を踏み出す。
長い年月の間に積もった雪はあまりにも深く、足を縺れさせながらもレンは声のする方へと懸命に走った。
♪∞♪
世界に祝福されて。
世界に愛されて。
世界に求められて。
それが故に自身は存在しているものだと思っていた。
なんて愚かな。
なんて無様な。
勘違い、自意識過剰、驕り、うぬぼれも甚だしい。
傲慢な少女に罪を。
愚劣な少女に罰を。
世界は自身のことなど祝福してなどいない。
世界は自身のことなど愛してなどいない。
世界は自身のことなど求めてなどいない。
世界は自身を呪っただけ。
自身は世界を呪っただけ。
世界は自身を呪う為に孤独にし、自身は世界を呪う為に歌い続ける。
――それは運命、いや、宿命なのだから。
♪∞♪
雪を踏む音を鼓膜が捉え、ティアはそっと口を閉ざした。
他愛もない呪いの歌の余韻を口の中で転がしながら、後ろを振りむく。
「……なんの用かしら?」
びくり、と背後から近寄ってきた少女の肩が上がった。近づいてきたのは向こうだというのに。いきなり声を掛けられて驚いたのだろうか。
俯いてしまった少女の旋毛の辺りをじっと眺める。
透けるような白髪。色素の薄い肌。さっきちらりとだけ見た瞳の色は深紅だった。そう、まるで命の色のような柘榴色。これが世にも珍しい『禍罪の子』とやらなんだろうか。
二、三度、瞬きしてからティアは少女から視線を外した。
興味の薄い声で苛立たしげに少女に告げる。
「用がないのなら帰って貰える? 邪魔だから」
少女の肩がもう一度びくりと跳ね上がる。
「ま、ま、まって、くだ、さい……」
震えるか細い声が伏せた面の奥から聞こえてきた。
冴え冴えとしたティアの蒼い瞳が少女を値踏むように細められる。
「フリティラリア、願いを叶えて、くださいませんか」
「……如何様な」
少女の白髪が冷たい風に揺れる。
「とある、王国へ、呪いの歌を……届けて欲しいのです」
「それなら、お安い御用よ」
ふっ、とティアの瞳に宿っていた氷のような冷たさが融解していく。
ぽん、と少女の頭に手を置いて柔らかな声は尋ねた。
「名前は」
「レン」
「レン、ね」
「はい」
「どのような内容をお望みで」
「……この森を抜けた先にある、とある王国が革命の叛旗で斃れるように」
レンと名乗った少女の震える、けれどしっかりとした声にティアはほんの少しだけ顔を曇らせた。
何か言おうと口を開き――小さく息を吸い込んだだけで閉じる。
少女の頭に載せていた手を自身の胸の前へと置くと、ティアは唐突に歌い出した。
♪∞♪
世界に蔑まれて。
世界に忌み嫌われて。
世界に畏れられて。
それが故に自身は存在しているものだと思っていた。
なんて哀しい。
なんて淋しい。
どうして自分は生まれてきてしまったのだろう、と。
どうして自分は『禍罪の子』なのだろう、と。
しかしそんな自分でもたった一つ、たった一つだけ、その運命に抗える方法があった。
世界に蔑まれて、忌み嫌われて、畏れられて。
頼れたのはたった一つの伝承。
たった一つの細い細い希望。
――それは、『呪いを紡ぐ歌姫のお噺』。
♪∞♪
「それでは対価を」
澄んだ歌声が荒野に溶けきらぬうちにティアは少女へと手を差し伸べた。
薄っすらと『じあい』に満ちた笑顔で唇を開く。
「貴女の、その無垢な命を頂戴」
「私の、無垢な命?」
固唾を呑んで見守っていた少女はその対価を聞くと不思議そうに顔を傾げた。
「私、『禍罪の子』ですから、無垢じゃ、ないです」
「無垢よ」
呼吸をするように自分を卑下する言葉を吐き出した少女に、ティアは心底嫌そうな顔をしてみせた。
「『禍罪の子』? だからなんだというの? 貴女の命はどこまでも無垢だわ。そこんじょそこらの人間とは違ってね」
「私が、無垢」
ぽかん、とした表情に僅かに嬉しさが張り付いていくようだった。
ティアは再び微笑みかけた。
「そうよ。――だから、さぁ、安心してその命を私に頂戴」
「――喜んで」
少女が目を瞑る。
ティアは少女の顔の前で手を振った。
糸が切れてしまったマリオネットのようにその場に倒れこむ少女を尻目にティアは哀しげに顔を歪めた。
蒼い瞳が僅かに翳る。
ティアはまた胸に手を当てると、澄んだ歌声を銀世界に響かせ始めた。
♪∞♪
森の中に来た少女。
深い深い森の中心部で合ったのは一人の妖精みたいな少女。
彼女に少女は問い掛ける。
歌を歌って欲しい、と。
彼女は小さく頷く。
お安い御用、と。
どのような歌を望むのか、と。
少女はとある王国の滅亡の歌を願った。
残虐な王様、傲慢な妃、愚鈍な王子がいなくなるように、虐げられし者どもが彼らに叛旗を翻すように、と。
彼女はにっこりと笑って頷く。
そしてその澄んだ歌声を響かせた。
歌が終わったあと、彼女は少女に対価を求める。
お代は貴女のその無垢なる命、と。
少女は頷く。
私は忌み子、王族なのにずっと幽閉され続け、虐げ続けられた者、復讐は遂げられた有り難う、と。
眠る少女。
悲しげにまた歌い出す少女。
♪∞♪
前にも似たようなことは沢山あった。
些細なことを悼める心など、とうの昔に磨耗し切っていて。
蒼い瞳は曇天の空を今日も映し出す。
疲弊しても、磨耗しても、どんなに辛くて痛くて哀しくてどうしようもなくても。
今日も森の静寂を破る、澄んだ声が紡ぐのは。
――――――――世界を呪い続ける歌。
終
参加してみました。
僕の小説と呼ぶのもおこがましい小さな噺が誰かの目に触れることを祈って。