Daybreak
フェリーの最終出航時間は、とっくに過ぎていた。僕は、あらかじめ近所の友人亮介君に高松港で待っていてもらうようにお願いしていた。亮介君は、大阪の飲食店で働いていたのだが、数年前地元に戻り父親の後を継いで漁師になった。過疎化による高齢化でかつて栄えていた産業は衰退の一途をたどり若者達は島を出て行ってしまった。亮介くんのように地元に戻り家業を継ぐものはほとんどいない。島民だけではなく僕達にとっても亮介くんの存在は、島の中では貴重であり、なくてはならない存在だった。とにかく親切でときどき漁で獲れたママカリという魚を分けてくれる。「南蛮漬けにするとうまいよ」と亮介君が教えてくれた。僕は、それをカフェで提供しようと考えている。僕達は亮介君の故郷を愛する素朴な気持ちと他所者でもおおらかに受け入れてくれる姿勢に感激した。カフェで提供する米を始めとする食材の調達も相談に乗ってくれ、地元の農家を紹介してくれた。「この島が淘汰されるのはまだ早い」という亮介くんの男気は、そんな形で表れている。
僕と万里子は、ライフジャケットを亮介君から渡され夜の高松港を出港した。上弦の月灯りの下、海上を揺れる漁船で島に向かった。「高松の光が遠ざかって行くわ。なんて素敵なの」揺れる漁船から万里子は遠ざかる高松港をみていた。島に帰港したのは、夜の九時を回っていた。僕は、御礼の代わりに亮介君を明日のパーティーに招待した。
まだすべての準備が整っていないギャラリー兼カフェの古民家の前に到着すると部屋の灯りが漏れ、音楽が外まで聞こえていた。両隣は空地が菜園になっているため、多少の騒音は多めに見てもらえる。それまでしんと静まり返ったこの地に活気が戻ったようだと、どこまでも近所の人々はおおらかだった。
「もうパーティーは始まってるみたいね」万里子が嬉しそうに言った。
「いや明日って聞いているけど。それに料理人がいないとパーティーは始まらない。でもアキ達の他に誰かいるみたいだね」
「料理人って」万里子はまた、くすくすと笑いだした。
「最初に言っとくけど、アキもアキの彼女も相当ファンキーだから退屈しない代わりに率直だから彼らの言うことをあまり気にしないように」
「私を誰だと思ってるの?これでもいろんな人に会って営業でそれなりの成績を上げてきたの。心配する必要なんてないわよ」
「そう言われれば」
「そうよ。なんだか楽しそうじゃない」そう言って万里子は僕の背中をぽんと叩いた。僕は、一抹の不安を覚えた。何しろ、失恋から立ち直った女は強い。アキ達に交じって更にパワーアップされたら僕の立場はますますなくなりそうだ。僕は、ほんの少し憂うつになりながらガラスの引き戸を開けた。
「ただいま」
ギャラリーには、しぶいボサノバが流れ、季節はそっと初夏に移ったのだとなぜか改めて感じた。僕もアキもそしておそらくみゆきもボサノバは聞かないので、僕達以外の誰かがいることをそれは証明していた。玄関に僕もアキも履かない男物のサンダルが揃えて脱いであった。奥のキッチンから数人の話声がした。
「おじゃまします」万里子が玄関に入る。
僕達の声がとどいたのかオーソドックスなベージュのエプロンをつけたみゆきがキッチンから顔を出した。
「おかえりなさい。ずいぶんおそかったわね」
「こんばんは」万里子がみゆきに挨拶をした。
僕はあわてて、万里子をみゆきに紹介した。
二人は名乗り合い、握手を交わした。なんとなく二人の雰囲気は似ている。
「神谷先生が来てくれたの。アキとキッチンにいて明日のパーティーの準備をしてくれているのよ。食材も揃えてくれて何作るかだいたい決まったみたいだけど」
僕と万里子は畳の部屋にあがった。
「なるほどね、だからボサノバがかかってるんだ。気分が大事だっていつも言ってたからな。しかし、急な連絡でも来てくれるってうれしいね。もしかして神谷先生店休んできてくれてるの?」
神谷先生の店で僕は一カ月修行した。秋幸とみゆきの高校時代の英語の教師だった神谷先生は、教師を辞めた後カフェ&バーを経営している。僕が秋幸にギャラリーと共にカフェも併設したいと相談した時、神谷先生を紹介してくれたのだ。カフェ営業に必要な資格やノウハウを僕は神谷先生から学んだ。神谷先生は僕の師匠でもあるのだ。
「そうなの。来月が繁忙期で今なら人にまかせられるらしいの。でね、ここに一度来たかったみたいよ」
「そう。で、他には誰がくるの?」
「近所には声かけた。それと加奈ちゃんも香港から来るって」
「マジで?」香港に住んでいる秋幸の姉である加奈子とは電話でしか話したことはなかったが、僕は心から感謝している。カフェの食器を高額なアンティークである本物のファイヤーキングで揃えようと考えていた時、秋幸が姉に相談してみようと提案した。幅広い人脈をもつ加奈子なら安価で手に入れられる方法を知っているかもしれないと。相談した加奈子には、カナダに留学していた当時の知り合いにファイヤーキングのコレクターがいた。北米の人達は頻繁に引っ越しをする。転職や気分やモーゲージの成功などさまざまな理由があるそうだが、定住することを好まない傾向にあると加奈子は言った。だから、揃えた調度品などは引っ越す前に、庭先でタダ同然で販売する。中には価値ある調度品もあり、鼻の聞く業者やコレクターは驚くほど超安値で手に入れることができたりする。加奈子の知り合いのコレクターもその一人だった。早速交渉してもらい安価での購入が成立した。加奈子は僕達の状況を説明し、共感してもらったと言った。僕は加奈子のすばやい対応と幅広い人脈に舌を巻いた。アキがいつまでも姉を頼りにする気持ちがわかる。僕は食器を東京の実家に送ってもらうように依頼した。瀬戸内に直接送ってもらってもかまわなかったのだが、なんとなく直接送ってもらわない方が良い気がした。経由は割高だが海外から瀬戸内の島への輸送をあまり信用していなかったからだ。そしてその食器が東京に到着し、僕は一時帰京した。
「マジなのよ。旦那様を置いて来るっていうのよ。加奈ちゃんはいつまでたっても弟が心配で、弟はいつまでたってもお姉ちゃんに頭が上がらないのよね」
「羨ましい限りだな。そういうのって」
「あら、中谷くんもお兄ちゃんがいるんでしょ?」
「うちは、そんな仲の良い兄弟じゃないよ」
「同じね、うちもそう。私も兄がいるんだけど、年が十歳離れているのね。私が小学生の頃には家を出ていたからほとんど一緒に暮らしていないの。ときどき帰ってくるだけの人。だから、兄っていうより、親戚の従兄って感じよ」
万里子は僕達が話している間、珍しそうにサイズ違いのテーブルや壁や縁側を入念に見たり触ったりしていた。カフェ用のテーブルは、廃材で作り直したり、不要になったテーブルをもらってきたりしてバランスよく配置している。そのテーブルに秋幸が彫刻を施していた。まるで小学校の机だ。彫刻刀で誰もが一度は彫った記憶があるだろう。だが、秋幸の彫刻はりっぱな作品となっていた。
「写真とっても良いかしら?」万里子が僕に聞いた。
「良いよ」
万里子が携帯で写真を撮った後、僕達はキッチンを覗き、万里子を神谷先生と秋幸に紹介した。そしてみゆきに万里子を二階の部屋へ案内してくれるように頼んだ。二階へいく階段を上がる途中「雑魚寝になるけど我慢してくださいね」というみゆきの声が聞こえた。
八畳ほどのキッチンにあるダイニングテーブルの上や床に食材と食器が散乱していた。食器は僕が数日前に東京から送ったものだ。安価で手に入れたファイヤーキングの食器は本当にこの島の海や空や美しい棚田をはじめとする景色にマッチしていると思う。そして旅人達には、この島の空気までもここで食してもらいたいと僕はそんな理想を抱いていた。
「中谷君、良い買い物したねえ」
神谷先生はときどきファイヤーキングのカップや皿の色を確かめるように灯りに翳し、お湯をはったキッチンのシンクで食器を洗っていた。元カノがたまたまファイヤーキング好きだったことで知ったアンティークは、当時ただのカップの一つに過ぎずまさか自分がこの地でカフェを経営し、その食器にファイヤーキングを使うとは思いもしなかった。物事も人の心も移り変わると口癖のように言ってきた僕が一番驚いている。
「そうなんですよ。アキのねーちゃんが知り合いにかけ合ってくれて、不揃いだけど安く手に入れることが出来て感謝してるんですよ」
「さすが加奈子だな」
「ねーちゃんも明日くるって」
「そうみたいだね。さっきみゆきちゃんに聞いた」僕は冷蔵庫から冷えたボトルの麦茶を取り出しコップに注ぎ一気に飲んだ。いつもキッチンでは役に立たない秋幸が先生の隣で皿洗いを手伝っていた。慣れているのか手際がよかった。僕がからかうとマンハッタンのイタリアンレストランで働いていたことがあると言った。
「そうか、恩人の店で働いていたって言ってたね」
「うん。マウロに会わなかったら俺は今頃廃人だな」
「廃人だって?なるわけないだろ。秋幸みたいなずうずうしい男が。お前はどこでも生きていける図太い奴だよ。俺が保証する」
「あれ、先生誤解してませんか?僕はウサギみたいに大人しくて、三日もほっとかれると寂しくて死んじゃうくらいセンシティブなんですよ」大げさに芝居がかった言い方をする秋幸。僕は可笑しくて吹き出した。
「よせよ、気持ち悪い。それに面白くもなんともない。どこの誰だっけ、勝手に人のオフィスのレイアウト変えたり、絵を飾ったりしたのは」
「先生、それは幻想もしくは、妄想です」
「そうか、あれは幻想か。ってそんなわけないだろ」神谷先生がアキの顔にシンクの洗剤を含んだ水をかけた。秋幸の目にその水が入り唸った。秋幸は着ていたTシャツで目を拭うと反撃にでて、先生に水をかけかえした。全く良い大人がまるで子供のようだ。僕は、エスカレートしてファイヤーキングの食器まで投げあいをするのではないかとひやひやしていた。キッチンにいつの間にか戻ってきたみゆきもそれを見ていて「全く子供じゃないんだから」と呆れた。
「万里子は?」
「電話してる。なんだか深刻そうよ」
「ああ、そう」
「心配?」
「なんで?」
「そんな顔してたから」みゆきは意味深な言い方をした。
「なんか誤解してない?」
「そう?まあなんでも良いけど」そう言うとみゆきは先生と秋幸の仲裁に入り、作業を再開させた。
僕は万里子の事が好きだが、それは元同期同僚として同じチームで同じ目的に向かって真摯に仕事をしてきた仲間の一人だったからだ。そして人として信頼もしている。しかし恋愛感情を抱くことはなかった。僕はむしろ由果の事が気になっていた。由果と連絡を取らなくなって四カ月が経つ。
私は、ある所へ長い電話をかけ、その後モバイルPCからメールを打つと一階のキッチンで中谷達の会話に加わった。中谷の祖母が住んでいた古い一軒家は、ギャラリー兼カフェに生まれ変わるため、キッチンにある冷蔵庫とガス台は業務用のものに変わり、畳の部屋は天井に二か所、小型のBOSEのスピーカーが設置してあった。そのスピーカーからは、ボサノバではなくいつの間にかジャズが流れていた。キッチンと畳の部屋は暖簾で区切られているだけなので、キッチンには音楽がしっかり届く。
私は、神谷先生が用意してくれたビールと夜食のおにぎりを食べながら彼らの想い出話を聞いた。それにしても神谷先生は、自分のスタイルを持っているのに何年もこの家に住んでいる家主のように自然だった。ラルフローレンの着古したシャツも彼に似合っていた。そして料理人と紹介されれば、元教師とは思えない立ち居振る舞いで納得してしまいそうだ。私は会話の中で彼らの相関関係を理解した。想い出話は、神谷先生が教師だった頃、英語の授業はほとんど自習だったという秋幸とみゆきの高校時代のエピソードやニューヨーク時代の秋幸の話。特にマウロとサムというゲイカップルのアパートメントに居候していた頃のエピソードは笑いが絶えなかった。
「俺さ最初の頃ね、夜びくびくしてたんだよ。二人が交代でベットにそっと入ってきたらどうしようって。真剣に。絶対に抵抗してやるぞって思ってたもん。それが条件でラグジュアリーな部屋に居候させてやるって言われてたわけじゃないけど、あんまり順調に事が運んだからさ、懐疑的になるじゃん、普通。でね、もしかしたらやったことないけど、マウロもサムもやさしくしてくれたらいけるかもって。最悪の場合、覚悟しないといけないって思ったわけよ」
私達は秋幸の話の途中で吹き出していた。
「皆笑うけどさ、本当に真剣だったんだって」
「一度くらいやっちゃえばよかったのに」みゆきは笑いながら秋幸をちゃかす。
「ふざけんなよ、そんなに簡単にやれるかよ」
「で、どうなったの?」私がつい最近まで働いていたカリフォルニアでもゲイは良く見かけたし、同僚の中にもゲイだという噂の人物がいたが、実際に共同生活をおくっていた人の話を聞くのは初めてだった。
「結局全く相手にされてなかった。それはそれでちょっと寂しい気持になったけど。完全にガキ扱いだったんだよ。特にサムにはね。まるで母親みたいに、野菜を食べなさいとか部屋をかたづけなさいとかうるさくてさ。でも、俺の絵が完成したら一番喜んでくれて、日本に帰る時もすごく悲しんでくれて、他人があんなに自分のために無邪気に喜んだり悲しんだりするとちょっと引いちゃうとこあるけど、サムだとそんなことなくて、本当に嬉しかったね。で、相方のマウロは一見クールでモデルみたいなんだけど、物腰が柔らかくて、そっと見守ってくれる感じで、サムとは真逆。そのマウロに一番参っている時に拾われてさ、この人達の為に何かしようって心から思えたからね」
秋幸のゲイカップルの話は続き、同性愛者の人権や移民の差別や家族の偏見を乗り越えて二人は幸せな廻り合いをしたと話を締めくくった。
「アキの行動は、いつも予想を超えるのよね。だから面白くもあるんだけどね」
みゆきがしみじみ言うが、中谷の決意こそが想像を超えていた。
「俺はさ、ばーちゃんの葬式の時、ここに住まないといけないって、なんとなく思っちゃったんだよね。葬式の日って中秋の名月だったんだよ、月があまりにも幻想的で神聖な気分になって、どうしてかわからないけど、ばーちゃんが住んでいた家に行ってみたくなったの。それで、ここに来たら何もかもが好奇心のかたまりだったガキの頃を思い出して。その好奇心が元で海に落ちたんだけど、それがトラウマになっていたわけじゃないと思うけど、その後から自分で何かをするってことがなくなって。高校の時美大を目指したわけだけど、猛烈な興味や好奇心があったわけでもなく、それから運よく広告代理店に就職できて、でもここで遊んだガキの頃のわくわく感みたいなものが、今の自分にあるかなって振り返ったらそれなりに仕事はおもしろかったけど何か足りなくて。あ、勘違いしないでよ、少年の心を持った大人とかそんな気持ち悪いものじゃなくてさ。好奇心が危険を凌駕する感覚っていうのかなあ、そんなものが足りない気がして、アキに久しぶりにメールしたら、あっさりここをギャラリーにして、何かしようよって返信がきたわけ。成功するとかなんの根拠ないけど、単純に面白そうだって思って、わくわくしてきたんだ」
これまでの中谷にそんな曖昧な行動は、女性との関係を除けばなかったと思う。中谷はここが性にあっているのだろうか?中谷に闘争心が無くなったとは思えない。だが、広告代理店で働いていた頃より、正直に生き始めている感じがした。
「あ、俺電話しなきゃ。やっぱり俺から電話すべきだ」中谷は話を終えると思いだしたように突然言った。
「誰に?」秋幸が聞く。
「由果にもパーティーに来てもらうよ」
「おい、さすがにまずいだろ、今午前二時を回ったところだぜ」と、神谷先生。
「そうか、じゃあ、メールする」中谷は我に返ったように携帯の時計を確認した。隣に座っていたみゆきが小声で私に「どうしたの?」と尋ねた。私は、「さあ?」と首をすくめた。中谷が由果にメールをすると言って畳の部屋に移り、内輪のパーティーはお開きとなった。みゆきが皿を洗いながら「あと二時間もすれば夜があけるから、みんなで朝日をみよう」と言いだした。
「日の出すきだよな、みゆは」
缶ビールの空き缶をごみ袋に入れている秋幸の尻をみゆきがける。その行為がきっかけで二人の軽い言い争いが始まったが、いつものことのようでテーブルを拭きながら「相変わらずだな」と神谷先生が笑いながつぶやいた。
「万里子さん、さすがに疲れただろ?この連中に付き合ってると眠れなくなるよ」
「大丈夫です。なんてったって代理店出身ですから徹夜は慣れてます。皆で朝日みましょうよ」神谷先生が気にかけてくれたが、私は平気だった。神谷先生も秋幸もみゆきも初対面だというのに気さくで親しみを感じる。全く気取る必要がない。私は、楽しいひと時を味わっていた。青春ドラマのように皆で朝日をみる事なんてめったにない。
ブルーグレーの空がしだいに明るさを増しながら夜が明ける。私達は、低い堤防に腰をかけながら水平線を見ていた。太陽はじりじりと昇り始め、やがて海にその姿を映し出した。
「Daybreak」みゆきが言った。
「うん。Daybreak」秋幸が応える。
私はここにいることが不思議でたまらなかった。いつの間にか私は本気になっていた。何が私をこんなに本気にさせるのだろう?なぜむきになっているのかわからなかった。高松港からこの島に向かう夜の漁船で私はすでに本気になっていた。ただ興味本位で来ただけなのに本気で中谷達に協力したいと思っていた。
早朝の風景は、例えばガイドブックで紹介される写真などでは収まりきれない美しさがあった。初夏のやさしい風が吹きわたり、空と海の色は見事に溶け合い島と調和している。このあたりの地域がもっている匂いや色や空気感を世界とつなげる。その発想は単純にとても魅力的だと思う。活力を失いつつあるこの島から芸術祭が開催されるとはいえ、中谷が言ったようにギャラリーは一時的なブームではなく継続性を持たせなければ意味がない。継続させるにはそれなりに裏打ちされた経済的根拠が必要で、それはすなわち人々を呼び込むだけの何かが必要だ。やりたいことをやり好きなものを創る。だが、どれだけ素晴らしい作品を創作しても排他的では、外の世界とつながらない。プランナーとしての経験を持つ中谷ならいくらでもPRの方法を熟知している。しかし、それをあえて封印したいと考えている。現実的な問題として莫大な費用がかかるPRはできないし、あえてしたくもないようだ。商業的に成功することがすべてではないが、成功しなければギャラリーの継続も不可能だ。理想と現実は矛盾をはらむことさえ中谷は承知しているはずで、中谷のジレンマはそこにある。人々の心を癒す美しい島だが、交通の不便なこの地から世界を見ていたとしても中谷達の挑戦は、通常の感覚からいくと経済的に無謀とも思える。だが、その無謀な挑戦を始めてもいなうちから否定したくない。やはり私はなにがなんでも父親を説得しなければならない。昨夜の長い電話と画像を添付したメールだけではいくら娘の申し出とはいえ納得できるはずもない。しかし、父の助けが今こそ必要だと私は明けて行く空をみながら思った。
携帯電話のバイブが鳴った。しんとした夜明けに際立つ波の音を引き裂く携帯のバイブは、場違いな音を鳴らした。中谷は握っていた携帯電話に出ると私達の座っている場所を離れた。由果にメールを送ってから落ちつかない中谷は、何度も携帯電話をチェックしていた。まだ明け方四時半を回ったばかりだが、この時間に電話をしてくる相手は彼女しかいない。
「なんだ、やっぱり中谷くんの相手は万里子さんじゃないのね」みゆきが心底がっかりしたように私を見た。
「違うわよ。ご期待にそえなくて申し訳ないけど」
「見る目ないわね。私は万里子さんの方が断然良い」
みゆきの力強い励ましに私達は同時に笑った。
「さてと、一眠りするか」神谷先生が堤防からおり、すぐそこのギャラリーへ帰っていく。
「そういえば、ギャラリーの屋号なんて言うの?」私は、まだギャラリーの名称を知らなかった。
「まだ確定じゃないけど、『ジェード』にしようかって。一応ひっそり看板掲げてるんだけど」秋幸も立ち上がり、堤防を降りた。
「ファイヤーキングの?」
「そう。中谷はとことんあの食器にこだわってる」
「単純。でもいいんじゃない、ジェード。素敵よ」みゆきも賛成した。
「パーティーだ。パーティーの始まりだ」やけにテンションの高い中谷が、通りの向こうから私達に向かって叫んだ。テンションの高い中谷を見るのも珍しかった。
「どうしたの?彼女に振られた?」みゆきがからかうが中谷は、「やっぱりモテる男は違うね。みゆきちゃんと違って彼女は、素直だし、一途なんだ」と言い返した。
「中谷くん、調子乗りすぎ。ぜったいに痛い目にあうから、覚悟しておきなさいよ」
「みゆ、中谷は愛すべきろくでなしなんだよ」
「誰が、ろくでなしだって?」
また大人とは思えない高校生のような言い争いが始まる。そして、眠っていない所為か些細なことでも笑い転げる。私は彼らの傍らで、深呼吸を三度繰り返した。早朝の塩の匂いを含んだ空気は新鮮で、空は梅雨前のパステルカラーのような美しさに変わっていく。海の色は何とも言えないブルー。細胞のすべてが真新しく生まれ変わっていくようだった。
「そうね、パーティーよ。パーティーをしましょう」
私も何かが始まる予感にうずうずしていたのかもしれない。