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ファイヤーキング  作者: はるきここ
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午後2時のミッキーマウス

 浜離宮を望む外資系の5星ホテルのラウンジは、天井が高く、隣のテーブルの声は届きにくい。商談に向いており、周りのテーブルはビジネスマンが占めていた。ウエイトレスが、カップになくなりそうなコーヒーを注ぎに来た。立ち上る深いコーヒーの香りに包まれた。私は、注がれたコーヒーを飲んだ。その香りと苦いコーヒーの味は、東京に帰ってきたことを強く実感させる。目の前に座っているヨージヤマモトのスーツを着た佐々木透よりも。

「本当に会社に戻ってくる気はないのか?」

「はい」

「休職扱いなんだから、気兼ねなく戻れるし、経営戦略室にポストがあるんだ」

「ありがとうございます。でも、やっぱり戻ることはできません」

「残念だな」

 佐々木はテーブルの上の辞表を見つめた。私はあらかじめ用意されている辞表のひな形に署名捺印した用紙をプリントアウトし佐々木に渡していた。ほぼ八年勤務した会社を去ることの重みは、この事務的なひな形の辞表では言い表すことは出来ない。

 私は、カリフォルニアのPR会社の任期が終わると、退職するつもりで二カ月間、北米を旅行した。私の中でくぎりがついた、そう思った。佐々木は、すぐに結論を出す必要はないと特別に休職扱いにしてくれていた。佐々木が人事とどんな交渉をしたかわからないが、私の待遇は休職扱いとなっていた。

「休職扱いにしていただいたのに、申し訳ありません」

「いや、いいんだ。それより、万里子が元気そうで嬉しかったよ」

「透さんも」

 佐々木は、かすかに微笑み溜息をついた。

「それにしても啓志にも万里子にも振られっぱなしだな」

「卒業したんです。私も中谷も、透さんから」

「よしてくれよ、卒業だなんて」

 佐々木は、アールグレイのアイスティを飲んだ。商談ではうんざりするほどコーヒーを飲む。だからコーヒーは嫌いになったと言っていた。

「これから何をするつもりなんだ?」

「まだ具体的には決めていません。でも、何か今までしてこなかったような事をしたいと思っています。本当は、そんな悠長な事言ってられる身分じゃないんですけど」

アメリカから戻ってすぐに私は、佐々木に電話を入れた。休職扱いにしてもらったが復職つもりはないと、改めて佐々木に伝える為だった。佐々木は、このホテルのラウンジを指定し、話を聞こうと言った。 

「私そろそろいかないと」

 私は、携帯電話で時刻を確かめた。

「五時の便だったね」

「はい」

 佐々木は、ブルガリの腕時計を見た。そして全面ガラス張りの窓の外に視線を移した。

「雨が降り出しそうだ」

東京湾上空が曇りはじめた。うんざりするような湿度を伴いそろそろ梅雨に入る時期だった。私は、佐々木の横顔をみた。深く刻まれた目じりの皺が好きだった。佐々木と初めて寝た時そう思った。今ではすっかり過去になっている。

「啓志に会ったら、たまには連絡をよこせと伝えてくれ」

 中谷の抜けた穴は大きい。佐々木が、そう言っているように聞こえた。

「透さんと本当にこれでお別れです」

「そうみたいだな。寂しくなるよ」

「やめてください。リオちゃんがいるじゃないですか。リオちゃんはパパを裏切らないわ」

 佐々木がほほ笑む。

「透さん、お世話になりました。お元気で」私は、立ち上がりお辞儀をした。

「万里子も」

ホテルのエントランスを出るとタクシーに乗り、私は浜松町に向かった。まだ、ホテルのラウンジに座っているだろう佐々木透を想った。気が狂うほど好きだった佐々木から私は、本当に卒業できたのだと思った。

再就職が厳しく不況の今、賢い選択は、慣れ親しんだ会社に戻ることだ。佐々木との事で戻れないと思ったわけではない。アメリカでの体験は役に立つと思う。ボスはMBAを取得しているディレクターで、メディアを活用した企業コンサルのような仕事がメインだった。私はアシスタントとして雑用をこなした。まるで生活環境が違うことと、英語での仕事に慣れないため余計な事を考える暇は全くなかった。当初、ボスの指示が理解できず、辟易されたが失敗を繰り返すうちに慣れてくるもので、普通にこなせるようになると大げさにほめた。例えばコピー一つにしてもそうで、欧米人のコピーの取り方が雑なのに対し、日本人がとるコピーはきれいだと、そんな瑣末な事でもほめられるようになっていく。また、ボスの習慣を観察し、タイミング良くコーヒーを入れてあげるなど、きめ細かい気遣いがボスに気に入られるようになると、仕事は楽にこなせるようになっていった。更に打ち解けられるようになると興味があったコンサルのレクチャーをしてもらえるようになり、ケーススタディを交えたメディア戦略の講義を受けたりした。それは、4C(Customers, Competitors, Cost, Company)、4P(Product, Priice, Promortion, Place)のフレームワークを使って分析する方法などだ。その体験は貴重だったが、私は広告代理店での仕事ではなく、もっと地に足をつけた仕事をしたいと思うようになっていた。


中谷からの退職の知らせは私を驚かせた。中谷が業界を去る、その事自体が信じられなかった。私の知っている中谷は、どこか醒めていて、抜群の客観性と時代を捉える嗅覚を持ち合わせていた。それは、仕事で発揮される。クライアントの要求と商品を分析し、思いもつかない世界感からコンセプトを導きだし、それはある意味消費者を突き放しかねないが、その商品の客観的見地から消費者を納得させる一筋の希望のようなものを上手に取り入れる。結果的に商品そのものより、その商品のブランド価値向上に定評があった。アイデアだけではなく中谷のプレゼン能力の高さもプランニングという職業に向いていた。自分の事をいい加減な人間だと卑下していたが、幅広い知識とトレンドを掴むアンテナは、冴えわたっていた。私がアメリカでボスから講義を受けたMBAの授業にあるような基本的なフレームワークを使った分析も取り入れていたが、それよりも鼻の聞く優れた直観力が妙に説得力をもっていた。そして、本人もそれを自覚していたはずだ。確実に将来有望なクリエイティブディレクターの一人だった。その中谷が、瀬戸内の島に住み、一軒家をギャラリーにしてアートの拠点にすると言う。広告業界でこそ活きていけるタイプの中谷がそれまでのキャリアを捨て別の世界に飛び込もうとしている。同じ起業でもプランナーとしての独立なら容易に想像ができた。だが、時間が経つうちに中谷の気持ちがなんとなくわかるような気がした。広告という実態のない商品を売ることでは得られないもの、それを求めているのではないかと。しかし、私はなぜ中谷が自分の能力を発揮できる広告業界のキャリアを捨てまで全く違う道に進もうとしているのか、その潔い決意にとても興味があった。


羽田空港第二ターミナルの出発ロビーは、出張するビジネスマンでチェックインカウンターは混雑していた。ガラス窓の外は雨雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうだった。激しい雨になれば、出発が遅れる可能性がある。サインボードは、定刻どおりの表示だった。搭乗までにはまだ三十分あったが待ち合わせの時間は過ぎていた。握っていた携帯のバイブがメールの着信を知らせた。中谷から、京浜急行の羽田第二ターミナル駅に到着したとメッセージがあった。

カウンターの前の椅子に座っている私を中谷が見つけると、片手をあげ「久しぶり」と言った。黒のキャスケットを被った中谷は、サラリーマン時代から変わらないビームスのシャツとデニムで現れた。腰から覗くクロムハーツのウオレットチェーンも相変わらずだった。

「すっかり世捨て人になってうらぶれちゃったかと思ったけど、前より元気そう」

 中谷は、私の隣に座ると背中に背負っていたポーターのバックを肩からはずした。

「万里子こそ、ずいぶんシンプルになって、見違えたよ」

「これでも日本仕様なんですけど。アメリカにいたころは東京で働いていた頃より自由だったの。だからスーツは、クローゼットの肥やしになってる」

 私は、オーガニックコットンの白いゆったりしたシャツワンピースにレギンスをあわせ、かかとのないバレエシューズのような靴をはいていた。佐々木にホテルのラウンジで久しぶりに会った時も同じような事を言われた。年中スーツとパンプスで通していたので、カジュアルな格好の私を二人は見慣れていない。

 中谷は、東京の実家に届いた荷物の整理の為に一時帰京していた。必要なものは、宅配便で送るらしい。ちょうど私が瀬戸内に遊びに行く日程と重なったため、一緒に瀬戸内に戻ることになり、羽田で待ち合わせをしていた。

「ねえ、雨になりそうだけど大丈夫かしら?」

「大丈夫じゃないかな」

中谷がガラス窓の外をみる。そして、中谷の視線は、搭乗ゲートに並ぶ人達に向いた。

「あれ?」

「どうしたの?」

「いや、何でもない。ちょっと、元カノに似している人がいて、もしかしたらと思ったけど、違ったみたいだな」

「何?懐かしがってるの?」

「いや、ただ彼女に感謝してるんだ。ヒントもらったからね、店の」

「どんな?」

「店で使う食器をね、元カノが好きだったファイヤーキングにしたんだ」

「へえ。素敵じゃない。でも、どうして?」

「瀬戸内の海をぼぅと見てた時にさ、ファイヤーキングのジェードのような色だなと思ってね、それでカフェで使う食器はファイヤーキングがよさそうだと思って」

「その元カノってずいぶん前にライブをドタキャンされた彼女の事でしょ?」

「そうだけど。やなこと思い出させるね」

「いいじゃない、私が変わりに行ってあげたんだから。確か横浜アリーナだった?」

「良く覚えてるね。アキに一度は見とけって進められて苦労して取ったAIRのライブチケットだった」

「実は良く覚えているのよ、あの日の事。なぜかっていうとね、年始早々トラブルがあって休日出勤してたの。私の見積ミスで皆に迷惑かけて、参ってたわけ。入社二年目で仕事に慣れてきた頃に大きなミスして。それまで、結構舐めてたのね、私できるじゃんって。周りには、私の営業成績が良いのは女だからクライアントに媚びて仕事とってきてるって思ってる人達もいたけど、私なりに一生懸命だったのよ。それが大きなミスでしょ。泣きそうだった所に、中谷から電話貰って。たぶん逃げたかったのね、現実から。でもあのライブ見た後ね、なんだか元気が出てきて、もう一度がんばろうって思ったの。それで、どうせやるなら透さんのもとでやりたいと思って。ほら、あの頃から透さんのチームってすごかったじゃない。大きな商談まとめて。タイミングみはからって、上司に透さんのチームに異動したいって言ったの」

「そうだったんだ」

「で、今はどうなの?」

「何が?」

「彼女よ。あの時の彼女には結局振られて、その後、確かすごく若い子と付き合ってなかった?ちょうど、私がアメリカに行く頃だったと思うけど」

「本当にいろいろ良く覚えてるな。おかげさまで、今は音沙汰なしです」

「どうせ、中谷がそうさせてるんでしょ」

「あのね、久しぶりにあって妙にからむね」

「意外なのよ、東京育ちで時代の先端を常に追うプランナーの中谷が、どうして瀬戸内の島なのか。私の中谷のイメージは、物事にも女の子にも常に距離を置いて、のめり込まない。そして相手にもそうさせないようなところがあるでしょ。リスクヘッジをいつも考えながら生きてるようなところね。それが、瀬戸内の島と結びつかないのよ」

「なんだか冷たい人みたいに聞こえる」

「最後まで聞いて。中谷が仕事を辞めて、瀬戸内で暮らすことになったってメールで連絡を貰った時、とても信じられなかったのね。どうやって生活するのかなって。正直、サラリーマン時代の年収はその年にして悪くなかったでしょ。起業するって言えば聞こえがいいけど、見切り発車で友達とギャラリーを始めるって聞いて、中谷にしては、あまりに先を考えずに始めたなっていう印象なの」

「だから万里子からはアドバイスを貰ったじゃない、生活費を稼ぐための手段としてカフェをやったらって」

「あれ思いつき。東京だと民家をカフェにしている所があるけど、中谷のところは内装にほとんど手を加えないわけでしょ。だから差別化もできると思ったの。それに中谷は料理が趣味でもあるし。でも、実をいうとそれ以外思いつかなかったわ。ギャラリーだけでは食べていけないでしょ?」

「アキの作品が売れてもしれてるし、なにしろ金に執着がないからな」

「中谷はキュレーターになるの?」

「そんなりっぱなもんじゃないよ」

「じゃあ、何?来年秋までは芸術祭で客が見込めるとして、その後はどうしたって周りの地域だけになるでしょ?狭い世界になってもいいわけ?」

「鋭い質問だね。そんなマスターベーション的発想はないよ。ギャラリーは、一時的なブームじゃなくて、継続させないと意味がないんだ。それに若干リフォームして投資もしているし。事業計画もまともに描いてなくてビジネススキームからは完全に逸脱しているけどね。正直マーケティングとかうんざりなんだ。矛盾してるのは承知しているよ。だから、そこで万里子さんの登場なんですよ。なんか良い方法ないかなと思って。頼りにしてます」

 中谷は、頭を下げた。ふざけているのか本気なのかわからなかった。

「ちょっと、それって何?私に瀬戸内に遊びに来ないって誘ったのはビジネスってこと?」

「半分はそうかな。でも、万里子も興味あるって言ったよね」

「そうだけど」

「だろ?」

「でもそれは、中谷がどんな所に住んでなぜギャラリーを始めたのかなっていう単純な興味なんだけど」

「同じ事だよ」

 確かに私の興味は中谷の始めたギャラリー経営にもあった。

「まあ、無謀を承知で決めたことでしょうけど。通常の商品開発と違うところが難しいし、大量生産の市場投入とも違うでしょ。フォーキャストも机上の空論になるだろうし、テストマーケも意味がない。どれぐらいの人がギャラリーに足を運んで、飲んで食べていくらお金を落とし、そのうち利益はいくら出るのか。利益がでないと継続は厳しいでしょ。何を提供するかが大前提だけどプロモーションにかかっている気がする。中谷はプロのプランナーだったんだから、そこは思いつくこと一杯あるでしょ?」

「もちろんいくつかはある。仕事で培ったコネクションとか使えばね、でもそうじゃなくて、別のアプローチでやりたいんだ。これまでの商業主義的発想じゃなくてね。だからそのあたりを万里子に相談したいんだよ」

「協力してあげてもかまわないけど、ビジネスならコンサルタントフィーを頂きます」

「もちろんわかってるけど、佐々木さんみたいなこと言うなよ」

「え?」

「ほら、あの人、コンペに負けてもプランニングフィーをクライアントに請求していただろ?何でも金なんだよな」

「中谷は、わかってない」

「何が?」

「あの人は、皆の努力を無駄にしたくなかっただけなの」

 中谷は、佐々木を誤解している。確かにコンペに負けた案件でもクライアントにプランニングフィーを請求していた。何でも金に変える。中谷はそう思っている。だが、それは期日のぎりぎりまで商品やマーケティング分析をし、それに対して最適なクリエイティブを構築するためのアイデアをブレストの段階から皆で議論し、プレゼンまで持っていく為の努力を無駄にしたくなかったからだ。そして、すべてのクライアントの商品に対してそうしていたわけではない。会社のしがらみで受けなければならい案件でも、消費者にとってあまりメリットにならない商品に限っては、上手い理由をつけて最初からコンペを辞退していた。佐々木は、心から広告が好きだった。私は、佐々木を知れば知るたびどんどん惹かれていった。

「万里子の言いたいことはわかるよ。でっち上げのプランを出した覚えはないしね。政治的なしがらみで負けたコンペもあったと思うよ。ただ、そうしてまで金に変えるプライドみたいなもの、いや違うな、狡猾さかな、とにかくそんなようなものが、今の俺にはないんだよ」

 売上至上主義の広告代理店で働いていた頃の中谷は、もっとドライで尖っていた。それが今は、なんだか人の良い田舎者になってしまったようだ。何がそうさせたのだろう?

「まるで牙のぬけたライオンみたいね。調子狂っちゃうわ」

「そうなんだよ、自分でも何でこうなったか不思議なんだ。満月の所為かな」

「満月?」

「いや何でもない。ただ、純粋にアキの作品がすごくてさ、金なんかどうでもよくなっちゃうんだけど、現実は甘くないだろ。一応広告ビジネスの世界で生きてきた者としては、アキほど楽天的にはなれないわけだよ。やりたいようにやるんだけど、やっぱりバランスが必要なんだと思う。そのあたり万里子なら相談に乗ってくれるんじゃないかとね」

「コンサルフィーを取るっていうのは、冗談だけど、私も常識的な事しか言えないよ、きっと」

「まあ、実際にどんなところか見てみて、いろいろ指摘してよ」

「そうね。楽しみだわ」

「万里子は、気に入ると思うよ」

「そう言えば、透さんがたまには連絡しろって」

「実は、ここに来る前に電話した。だから、待ち合わせに少し遅れたんだ。会ってたんだって?」

「うん。正式に退職願いをだしたの。それと、きちんとお別れもしました」

「やっぱりね。なんだか寂しそうだったからな、佐々木さん。しかたないことだろうけどね」

「物事は移り変わる、人の心も。中谷がいつもブレストでよくそう言ってたじゃない。中谷が感傷的になってどうするの?」

「確かに」

佐々木の事に関して言えば、中谷が知らないことが一つあった。私は、それを中谷に話すべきか迷った。


佐々木を誘惑したのは、私の方だった。そそて、別れを切り出したのも私の方だった。


佐々木のプライベート用の携帯電話に電話がかかってきた時だった。それは、デスクの上に放置されていた。長い間バイブが続いた。私は、佐々木のデスクのそばにたまたまいて、佐々木を探したがみあたらなかった。そのままにしておけばよかった。待ち受けウインドウがむき出しの携帯電話の着信表示は「RIO」だった。私は思わず携帯を手にしていた。しばらくするとバイブがやみ、不在着信が表示された。それをオフにする。待ち受け画面は、ミッキーマウスの耳を頭に付けたかわいい女の子。私はわけのわからない嫉妬で心が乱れた。信じられなかった。仕事とはいえ、一日のほとんどを一緒に過ごすうち、いつのまにか佐々木にひかれていた。佐々木の家庭は、私が好きになった時には、すでに崩壊していた。佐々木は、品川のタワーマンションに住んでいた。家族と別居していることは噂で聞いていた。離婚は時間の問題だと。その時は人ごとだと思っていた。

佐々木の子供への愛情は、本物だった。その子供への想いが離婚を留まらせているらしいことは気付いていた。私はつけいる隙があると思った。それまでの功績を湛え、食事をごちそうすると約束していた佐々木に、夕方から始めたブレインストーミングが終了し、チームが散会した後、私は食事のかわりに佐々木のマンションから見える夜景が見たいとねだった。佐々木は、困惑したがレインボーブリッジを見たらすぐに帰ると押し切った。

「絶対に身内以外の女性は入れないと決めていた。でないと、なし崩しになりそうだから」私が佐々木の部屋に入るとすぐにそう言った。私は、その言葉を無視した。灯りがともったリビングは、ソファーセットと四十二インチのテレビ、その隣のアップライトピアノを除けば、何も装飾が無い殺風景な部屋だった。ピアノの上に、特大のミッキーマウスが座っていた。殺風景な部屋の中で、そこだけ異様に浮いていた。私は、待ちうけ画面の子供の存在を強く意識した。でも、ひきかえせなかった。私は、断りもせずリビングのカーテンを勝手に開けた。闇の中で七色にライトアップされたレインボーブリッジが浮かんで見えた。幸福な始まりはない。そんなことはわかっていた。間接照明の灯りの中で、窓ガラスに映る私とリビングのドアに持たれながら腕を組み私の後ろ姿を見ていた佐々木の影は、何度寝ても重なり合うことがなかった。


 私が十歳の時両親は離婚した。それ以来私は、母一人子一人の母子家庭で育った。父親は、いくつも会社を経営していた。ワインの輸入販売とそのワインを堪能できるバー、東南アジアの雑貨を扱うセレクトショップ、更には市場の拡大が期待できるシルバー産業への参入も視野に入れているようだった。シルバー産業以外の事業は、すべて父親が総合商社で働いていた頃築き上げたコネクションがもたらしたものだと聞いていた。母親は、父親をサポートするつもりで、会計士の資格までとった。やがて母親は経営に口を出すようになり、父親のやり方が気に入らなくなっていった。口論が絶え間なく続くようになり、夫婦関係はあっけなく崩壊していった。父親がある日、「万里子は、どんな状況になったとしてもパパの娘に変わりない」と私に言い残して家を出て行った。私は、茫然と見送った。

母親が会計士の資格を持っていたことで、母子家庭になっても経済的に困窮することはなかった。むしろキャリアを積み重ね私が高校に進学する頃には、監査法人で役職につくまでになり、年収は離婚当初の倍になっていた。それは、引っ越すたびに住居がグレードアップして行く事で、感じる事ができた。更に私の養育費も父親はきっちり払っていたようだ。私は経済的にみじめな思いをすることもなく、どちらかというと物質的には贅沢なものを持ち、それなりの付き合いを同級生達とすることが出来た。日常に父親の不在を埋めるものは、あらゆるところにあり、私は特に寂しさを感じる事もなく過ごしていた。しかし、まだ私が小学生の頃は、夏休みのような長い休みが終わると同級生達の家族旅行の話を聞くことになり、どうしようもなく寂しく感じてしまう。両親とどこに行き、どこで遊んだかが焦点で私は言葉をなくした。シングルマザーの家庭は、私の家だけではなかったが、それでも家族が揃っていることがたまらなく、羨ましく思ったこともあった。そして、その父親に恋人がいると知った多感な頃、私は混乱し、慕情が憎悪に変わった。中学生の時、たまたま父親を青山の246で見かけた。駐車していたアウディへ紀伊国屋から買い物袋を持った父親と女性が出てきて、乗り込むところを見かけたのだった。助手席の女性は父親に何か話かけ、楽しそうに笑っていた。父親のやさしさに満ちた横顔は、その女性に向けられていた。それ以来、父親が誕生日プレゼントを贈って来ても捨て、会いたいと言っても会いもしなかった。私が高校生の頃にそのアウディの女性と再婚していたが、社会人になってからはときどき会うようになっていた。時間は、憎しみを氷解するが佐々木との事で、私が救いを求めたのはまぎれもなく父親だった。

日曜日の午後、遅いランチを私は父親と青山のフレンチレストランでとった。父親は、先にテーブルに着いていて、やさしい眼差しで私を迎えた。私の沈んだ様子を察した父親はメニューをさっと見て、前菜、メイン、デザートまで私の好物をウエイターへ伝えた。途切れがちの会話の中、早速前菜が運ばれてきた。スモークサーモンにラタトゥユが添えてあり、食欲はなかったが無理やり口に運んだ。事情を聞くことを遠慮しているが、心配している様子がありありとわかった。メインの真鯛のポワレは、ほとんど手をつけられなかった。

「時計を見るのをやめなさい」

私は、食事の最中たびたび時間を気にしていた。時計は午後二時を指していた。佐々木が娘にピアノを教える時間だった。

「お父さん、私・・・」何から話そうかと迷っていると父は、フォークとナイフを置いて昔話を始めた。

「万里子が、言葉をしゃべり始めた赤ん坊の頃、お母さんとお父さんは競争していた。「ママ」と「パパ」、どちらを最初にしゃべるかってね。お父さんは、仕事で家に帰ってくるのがいつも遅かったから、万里子と会うのは万里子がいつもぐっすり眠っている時間になる。だから、万里子が起きてもいてもお父さんの顔を覚えていないんじゃないかと心配だった。朝もね、すぐに出て行ってしまうから半分はあきらめていた。それである日の休みに、お母さんが美容室に行っている間、お父さんは万里子と公園に行こうと思った。二月の寒い日で風邪をひくといけないから外に行くなと言われていたんだが、その日はとても天気が良くてね。ベランダから富士山が見えて、空気が澄みわたっていた。お母さんの忠告も聞かず、万里子と公園に行こうと決めたんだ。あったかい格好をさせようと上着を着せている時だった。万里子が「パパ」ってしゃべったんだ。お父さんは、空耳じゃないかと疑った。でもそうじゃない。確かに万里子は「パパ」としゃべったんだ。お父さんは、嬉しくて万里子を抱きしめた。強く抱き締めすぎて万里子は泣いてしまったが、お父さんも泣いていた。こんなに嬉しいことはなかったよ。その日万里子がしゃべったことをお母さんには黙っていた。あの日からあっという間だ。時間はあっという間に過ぎる」

 私は、父親の話を聞きながら泣いていた。佐々木の娘は、ピアノ教室に通っているにも関わらず、父親の佐々木にその成果を披露したがっていると聞いた。だから日曜日の午後二時から夕方までどんな事があっても佐々木は、娘の為にスケジュールを空けていた。娘が熱をだしたり、急遽何かの都合で会いに来ることが不可能になると佐々木は、一人で時間をつぶせなくなり私を呼び出すようになった。そして、私もその時間を期待していた。佐々木は、自分の部屋へ呼ぶことを避けており、二人で向かう場所は、佐々木の両親が所有していて今はほとんど利用されなくなった三浦のリゾートマンションだった。時代に取り残されたような古びたリゾートマンションは、何もかもが色あせていたが、バルコニーから見渡せる海の景色だけは変わることはない。都合よく呼び出されて抱き合うだけでもかまわない、それが慰めでもかまわない、自ら望んだことなのに私は次第に哀しみを抱くようになった。

佐々木は娘を愛している。そして娘も佐々木を愛している。私が父親を愛しているように。佐々木がそろそろケジメをつけるべきだと離婚をほのめかす様になってから、私の気持ちは更に揺れた。どうして良いかわからなかった。私が父親の恋人の存在を知った時受けた衝撃を私は忘れてはいなかった。私は、リオを自分と重ね合わせてしまう。例え慰めだけの対象だったとしても。こんなケースは世間にあふれていて、もっと上手くやれる女性もたくさんいる。だがわたしは、クールになれない自分を持て余し壊れそうだった。

「万里子、お父さんは何があっても万里子のお父さんだし、何があっても万里子の味方だから、それだけは忘れないでほしい」

 デザートのパッションフルーツタルトが運ばれて来た時、父はそう言った。私は、泣きやんでいたが、再び涙がこぼれおちた。結局なにも話せなかった。しかし、父は私の絶望をわかっていた。

 佐々木が離婚を決意した時、私も佐々木と別れることを決めた。佐々木の愛はいつまでたっても娘より優先されることはあり得ないと思った。永遠に私だけのものにはならないから。


「定刻どおりだ。そろそろ行こうか」中谷が立ちあがった。

「ねえ」

「何?」

「なんでもない」

「なんだよ」

「この荷物持ってくれるとうれしいな」

私は、佐々木の事を話す代わりに二泊分の着替えとモバイルPCが入った大きめのトートバックを持ちあげた。

「しかたないなあ」

 中谷が私のトートバックをもって搭乗ゲートに向かう。私も立ちあがり中谷の後に続いた。

そして中谷は、突然振り向き「言い忘れるところだったけど、明日パーティーがあるんだ。結構人が来るとおもう。万里子もそのつもりでいて」と言った。

「楽しそうね。何のパーテー?」

「それが良く分からないんだけど、あえて言うなら引っ越しパーティーかな」

「中谷達のパーティーで良く分からないってどういうこと?」

「ギャラリーとカフェの正式オープンはまだ先なんだけど、アキの彼女が先週から休みを取って突然現れて、皆集めてパーティーをしましょうということになったんだ。俺もアキも瀬戸内に移ってからいろんな準備で忙しくて余裕がなくてさ、一応近所には挨拶はしたんだけど、ちゃんとしないといけないって彼女が言うんだよ」

「それでパーティー」

「そう。そのアキの彼女のみゆきちゃんが仕切っていて。元プロのプランナーである俺の立場がまるでないんですよ。最近はただの料理人だからな」

 中谷の言い方がおかしくて、私は機内に入ってもずっと笑っていた。

「万里子、笑いすぎ」

 


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