Don’t trust anyone over thirty
ハワイがどんなに素敵ですばらしいところか師走から聞かされ、年が明けてからもずっと由果の頭の中は、ハワイで一杯だった。とうとう4月のハワイ旅行を年明け早々に約束させられ、祝日の今日も僕の部屋に来てからDELLのPCでハワイのサイトを飽きもせず、ネットサーフィンしている。「やっぱり、アコモはホテルよりコンドよね」とか「朝は、マラサダ食べて」とか「ゴルフもいいけど、マカハショアーでサーフィンもいいよね。で、夜は、ワイキキのクラブに行くっていうのはどう?」と夢一杯の由果が同調を求めるが、僕は、ほとんど生返事だった。僕は、それよりも腹がへってしかたがなく、もう一台あるMAC Bookで料理のレシピを検索していた。そして、ランチに何が食べたいか由果に聞いた。
「オムライス」
由果は、ネットから目をそらさず即答した。
「この前もそうだったよね。他にもレシピあるけど」
「知ってる、でも中谷君のオムライスが好きなの」
僕は、またかと思いながら、由果のリクエストに応え、オムライスを作る準備を始めた。由果はホテルよりコンドミニアムに宿泊したいらしいが、仮に実現したとしても料理を作るのは、結局僕の役目であることは、目に見えていた。
僕は、年末・年始を台湾で過ごした。同じ広告代理店に勤務する同期入社の台湾人から仲の良い同期達が誘われ、僕は仲間達とニューイヤーを台北で迎えた。たびたび開催される同期会を今回は、優雅に台湾で開催したわけだ。台湾人同期が手配した101ビル近くのコンドミニアムに仲間達が集まり、カウントダウンが始まった。カウントダウン後、101ビルの各階からイルミネーションのような花火があがりそれを僕達はベランダから眺めた。そして僕達は、デリバリーされた台湾料理を平らげ、酒を飲み、朝まで麻雀をし、ふらふらで帰国したのだった。色気のない男だらけの年末年始は、同期同士の気のおけない仲間だったこともあり、学生の頃のように楽しかった。しかし、直接利害がある同期同士だとそうはいかない。僕は、クリエイティブグループでプランナーをしており、同じグループでもチームが違うと隣のチームが何の案件を手掛けているか知らない。もちろんうすうすわかるが、基本的に秘密主義で会社は利益を上げるために、競争させ切磋琢磨させる。予算が高い案件ほど喜ばれ、実際会社からの評価はそれのみに尽きる。そして、アートワークが業界の賞を受賞すると妬みや嫉妬の嵐が吹き荒れる。いつもの同期のメンバーは、台湾人がシステムエンジニアで、その他2人が管理部門の人事、財務に所属しており、もう一人が最近になって僕と同じクライアントを担当することになった営業だった。そして、もうこんなことはそうないだろうな、と思っていた。由果には同期会があるから年末・年始は一緒に過ごせないことを伝え、しぶしぶ納得させた。僕が世間でいう特別な日を過ごさなかったのは二度目で、クリスマスイブも適当な理由をつけて由果を煙にまいた。仕事でどうしても出席しなくてはいけないパーティーがある、そのパーティーは業界の人間しか参加できないと。本当はそんなことはなかった。由果は女の直感で、僕が由果と離れたがっているのではないかと気がかりで、浮気をしているのではないかと疑っているふしがあったが口に出せないでいた。由果は、そのもやもやをハワイで埋めようとしている。あたっていなくもない。僕は、卵を丁寧に溶きながら、ハワイとは全く別の場所の事を考えていた。
僕が皿を洗っている間、由果がコーヒーメーカーからスターバックスのハウスブレンドを二人分マグカップに注いでいた。僕は、ロイヤルカスタマーといっていいほど、その日の気分で出勤前にラテだったり、モカだったりと必ずオフィスビルに入っているスタバでコーヒーを買っていた。だからと言って、コーヒー好きというわけではない。ただそれが、習慣になってしまっていた。その習慣がきっかけで由果と話すようになり、気が付いたら一緒に「パイレーツ・オブ・カリビアン」を観に行き、三宿で飲んで、その日僕の部屋に泊まっていた。なぜそうなったか不思議でしかたないが、僕のいい加減さが由果の乗りの良さと相性が良かったというしかない。
由果は、スタバをとっくに辞めて、今は横浜の実家近くのテレセールスの会社でバイトをしている。アウトバウンドの機能を持たない企業に成り変わり、電話でセールスをする仕事だ。由果の声は、押しつけがましさがなく、張りや明るさやトーンも丁度よい。とりあえず一通り話を聞いてもよさそうだと思わせるニュアンスの声の持ち主だった。だからなのか、顧客とアポイントを取るというテレセールスにとってのゴールであるリード獲得率が他のメンバーより高いらしい。スタバで初めて由果の声を聞いた時、その声がとても印象的だった。しっかり訓練すれば、ドキュメンタリー映像のナレーションも出来そうだった。一度そんな事を進めてみたが、由果には全くその気がなかった。横浜の実家近くの職場で且つ残業がない仕事で満足していたのだ。そして、僕の三軒茶屋の部屋には、電車1本で来られるという利便性もあり、いつの間にか僕達は一緒にいた。
「中谷くん、最近変わったみたい」
由果が、マグカップにコーヒーを注ぎ終わると言った。オムライスを向かいあって食べている間も何か言いたくてしかたなさそうにしていたが、無理やり「やっぱり、これで正解」と言って誤魔化していた。まだ、23歳の由果は、大人の対応を必死でしている。その感じが可愛らしい。
「どんなふうに?」
僕は、マグカップのコーヒーを受け取りリビングのソファーに座った。由果は、PCの設置してあるデスクに座る。
「なんていうか、一言で言うとね、乗りが悪くなった感じ。仕事が忙しいのはわかるけど、それは今に始まったことじゃないでしょ?今までは、私に合わせてくれてたのかな?メールもあんまり返信してくれなくなったし。それとも何かあった?」
由果のキャラメルブラウンの長い髪はつやがあり、僕はその髪に触れるのが好きだった。その髪に触れられなくなるかもしれないと思うと一抹の寂しさがある。
「森羅万象は移り変わるわけで、植物は水を与えなければ枯れるし、行きつけの店もある日突然閉店する。流行りは、あっという間に変わるんだ」
当たり前のようにいろいろな事が移り変わる。物事も人の心も。昨日AIRが、すべての音楽活動終了を発表した。僕は、先ほど料理のレシピを検索する前に、ニューヨークにいる友人にメールで伝えたところだった。この先も続いていくと思っていた事は確実に変わるのだ。
「つまり、私は中谷くんの流行りじゃなくなったってこと?」
「例えが悪かったね。ごめん。そんな風には思ってないよ。ただ、ハワイには行けない。ホントにごめん」
由果の瞳がみるみる涙でうるみ、ついにこぼれおちた。僕は、胸が痛んだがしかたがない。ハワイには行けないのだから。
「他に好きな人ができたの?」消え入りそうな涙声でも由果の声は、相変わらずきれいだ。
「そうじゃない。東京を離れることにしたんだ」
「どこに?」長いまつげが、涙でぬれていた。その涙を薄手のラベンダー色のニットの袖で拭う由果。ネイルも同じラベンダー色だった。
「瀬戸内海の小さな島」
「どうして?」
「う~ん、あんまりうまく説明できない。ごめん」
「じゃあ、いつ行くの?」
「春になったら」
「私はそこには行けないの?」
「たぶん」
止めようとしていた涙が再びあふれ、しばらく止まらなくなり、ひとしきり泣いた後、由果が立ちあがった。僕は声をかける代わりにティシュペーパーを渡した。こんな展開になるとは予想もしていなかった。由果ならあっけらかんと僕を罵倒しマグカップのコーヒーを投げつけ、帰っていくのではないかと想像していた。元カノが残していったファイヤーキングのマグカップを投げつけられれば、僕の罪の意識も薄れると都合の良い事を考えていた。由果はティシュッペーパーで涙をぬぐい、鼻をかむと「今日は帰るね。また、来ても良い?」と目を真っ赤にしながら涙声で聞いた。
「いいよ」
ずるいと思ったがそう答えていた。いつか痛い目にあうと覚悟しながら、僕はいつだっておいしいところだけをつまみ食いする。
ジョニーデップとキティが好きな由果。由果の携帯は、キティのデコレーションできらきらしていた。僕は、突然切なくなり由果を抱きしめたい衝動に駆られたが、何とか堪えた。ここで由果を抱いてしまうと、僕の決意も揺れてしまいそうだった。
日に焼けた畳の上で仰向けに寝転んで天井の染みを眺めていたら、いつの間にか眠ってしまい、寒さで目が覚めた。マンションと違って気密性が高くない古い一軒家は、そこらじゅうから隙間風が入り、春でも夕方になると冷え込む。僕は、簡単に掃除を済ませるとようやく通ったガス・水道・電気を点検するためにそれぞれの部屋を見て回った。ほぼ半年無人のこの一軒家は、まだ人のぬくもりがかすかに残っていた。
母方の祖母が亡くなって半年が過ぎた。僕に祖母との想い出はほとんどない。祖母は祖父が亡くなってからも、一人で瀬戸内海の小さな島にあるこの一軒家に住んでいた。高松にいる伯父がときどき様子を見に来ていたようだが、僕達家族が訪れたのは、僕が覚えている限り一度か二度だった。家族関係が希薄で、僕が祖母に最後に会ったのは、まだ僕が幼稚園生の頃だったと記憶している。
祖母の告別式は、祖母の自宅ではなく高松の斎場で行われた。入院していた高松市の市民病院で亡くなった祖母は、そのまま伯父の自宅に引き取られ、そこで通夜を済ませ、出棺し火葬場で荼毘にふされた。箸でつかむとぽろぽろと砕けそうなもろい祖母の骨を拾った。斎場での葬儀は淡々進んだ。読経の間、焼香が始まると寂しい晩年だったろうと思い込んでいた僕は、思いのほかお悔やみに訪れた人々が多い事に驚いた。そして僕は、これまでの仕事の中に冠婚葬祭ビジネスに携わったことはなかったなと不謹慎な事を思ったりした。一通り葬式を済ませた後、最終便で僕は東京へ帰るつもりで、急いで斎場を出た。外はすっかり暗くなり空に満月がでていた。闇の中にぽっかり浮かび上がる中秋のみごとな名月だった。僕は、ネクタイを緩めしばらく満月を見上げた。その時、ふと祖母の暮らしていた家に行ってみたいと思った。なぜそう思ったのか説明がつかない。カミユだって「異邦人」の中で殺人は太陽の所為だと言わせている。説明できないこともある。
僕が小学校に上がると僕のスケジュールはお稽古事で一杯になった。教育熱心な両親が、兄と同じ学習塾、情操教育の一環で絵画教室、更に基礎体力造りの為のスイミングスクールに通わせ一週間のスケジュールは埋まっていった。そして高学年になると中学受験に向けた戦いが始まり、僕のスケジュールは過密になり、にっちもさっちもいかなくなった。母親は、それに付き合い、父親は兄の時と同じように僕に過剰な期待をした。それが、過剰な期待だと知りながら。父は都市銀行に勤めており転勤もあったが、単身赴任をしていた。僕達兄弟は、たまの週末に帰ってくる父親を見かけても楽しそうに過ごしている姿を見た記憶がなかった。それでも僕達は、両親の期待に応えようとした。しかし、それも中学校までだった。父親不在をよいことに、兄はそれまでの抑制された生活から一気に開放されたいと願った。高校に進学すると自由を求め帰宅は真夜中になり、ゲームセンターにいるところを何度か補導され、両親を戸惑わせ落胆させた。しかし、停学にはなったもののどこにでもいる高校生の夜遊びで大事にはならず、エスカレーター式で進学した大学を卒業した後、何を思ったのか公務員に収まり、今ではすっかり大人しく役所で淡々と仕事をこなしていた。兄は、基本的に保守的なタイプだった。反抗はだれにでもある一種の病みたいなものだ。手遅れにならなければ、自然と治癒する。僕は、中学受験をパスしたことで目標を失っていたが、兄のようにはならなかった。僕は、大人に反抗してもたいして自分を取り巻く環境が変わらない事を知っていた。むしろ、自分が損するだけだ。残るものは、無力な自分とそれに気付いた時の敗北感と虚しさだけ。本当は何が不満で、何から自由になりたいのか確固とした理由などなく漠然としている。精神と肉体が未熟なうちは、賢い生き方ではない。僕は、このまま付属の大学まで何の迷いもなく行けるだろうと思っていた。兄のように夜遊びするでもなく、夢もなく、退屈な日々の繰り返しを経て。だが、人生は予定調和とはいかない。
中学をなんとなくやりすごし、高校に進学してからも何の興味ももてなかった。その頃は、とっくにすべてのお稽古事から解放されていて、時間はありあまっていた。暇つぶしに今では骨董化してしまったセガサターンのソフトを攻略し、飽きると大友克洋や浦沢直樹の漫画を夜が明けるまで読んで、そのまま学校に行っていた。当然授業はまともに受けられず居眠りばかりしていた。外面だけは良く、適当に同級生達と付き合うが、物事に執着がなく醒めていた。かといって高校生にはありがちな根拠のない自信も内に秘めた情熱もない。ただ心は堕落していた。だがある日何の前触れもなく、切れたバッテリーが徐々に充電するように僕の中にも何か満ちてきた。
或る日の早朝、部屋のカーテンを引き窓を開けると風の匂いで、季節が確実に春に向かっているのを感じた。ミントのような清涼感の匂い。僕のすべてが鈍感だったが、まれにそんな風に感じることもある。調布の僕の部屋からは、多摩川が見わたせ、サイクリングコースをランナーが走っていた。ランナーをぼんやり見ていたら、僕も走りたくなった。それまでの堕落から抜け出す唯一の方法だと思った。スタバのコーヒーと一緒で習慣になってしまうとそれが当たり前になる。僕は、走ることで自分の中にある何かを探そうとしていた。特に何も見つからなかったが、ましなものといえば、絵を描くことくらいだった。僕はそれまで流され続け、進路について疑問もわかなかった。親の言いなりと言えばそれまでだが、執着がなかったのだからしかたない。だが、走ることにより見つけたましなものに対して、僕は真剣に向き合ってみようと思った。それが美大を目指すきっかけとなった。付属の大学ではなく美大を受けたいと両親に話した時、ひと悶着あったが最終的に両親は折れ、僕の希望を叶えてくれた。おそらく僕が自分の意思をはっきり伝えた最初だったと思う。僕は、当時兄が時代の潮流に乗り遅れまいと購入してはいたが、インテリアの一部になっていたPCをインターネット接続させ、美術に関わるものを徹底的に検察し、広告デザインの世界にたどりついた。廉価な商品でもパッケージデザインやコピーでイメージは変わり、人は騙される。ひねくれた僕の性格にはぴったりだとその時は思った。実際は、そんな単純なものではなく、調べ上げられたマーケティングデータと考え抜かれたアイデアおよび計算されつくされた戦略があり、デザインに至っては、ほとんどが子会社のデザイン事務所に丸投げでクリエイターと呼ばれる職業の人々は徹夜もしている。しかし、高校生の頃は、そんなことはわからない。僕は、クリエイターという響きにわけもなく憧れ、まずはグラフィックデザインだと思い込みグラフィックデザイナーになりたいと両親に話した。嘘にきまっているが、子供の頃にお稽古事で通っていた絵画教室の影響が導いたと付け加えることも忘れなかった。その言葉は、案の定両親の自尊心をくすぐった。僕は美大を受験しなんとか合格した。その美大で出会ったのが、ニューヨークでアーティスト活動をしている破天荒な秋幸だった。
祖母の葬式から二カ月たったある日、僕はボスの佐々木と銀座八丁目の飲み屋にいた。佐々木と行くこの店に他の同僚とは来たことがない。佐々木の隠れ家的店で、小料理屋だった。クリエイティブデレクターの佐々木と二人で来る時は、大抵社内の人間に聞かれたくない話しが中心だった。冷酒にふぐ鍋をつつきながら、佐々木は軽井沢の72でクライアントの役員と接待ゴルフをした時の話をし、それが一段落した後に、僕は会社を辞めようと思っていると切り出した。
「引き抜きか?」
佐々木は、僕が他の広告代理店、あるいは関連業種企業にヘッドハンティングされたのではないかと疑った。
「まさか。個人的な事情です。それに、俺に引き抜きなんかこないっすよ」
「そうかな。啓志ならありえると思うが。それがダメだって言っているんじゃないんだ」
「マジで引き抜きじゃないですから。仮に引き抜きの話があっても他に移る気はありませんでした」
「本当か?」
「マジですって。この業界に留まるつもりがないから辞めるんです。引き継ぎは、ちゃんとします」
「業界から離れたいって、お前が?仕事が嫌になったのか?」
「いえ、自分で言うのもなんですけど、俺達のチームはすごく優秀だと思います。ほとんどのコンペで勝っているし、みんな情熱もあるし、仕事は楽しいです。実際この仕事しているとある種の女の子達にもてるし」
「それはお前だけだろ」
「何言ってるんですか。一般論ですよ。この業界にいると勘違いする女の子はたくさんいるじゃないですか。実際は地味な仕事なのに。佐々木さんだってモテてきてますよね?」
僕は、嫌みのつもりで言ったが、佐々木の表情は全くかわらない。噂を含め僕が知っている佐々木の醜聞は一つや二つではない。現在、提携しているアメリカのPR会社に派遣されている同期の万里子は、佐々木と不倫をしていた。僕は、万里子が自分自身を失っていく過程を見ていた。佐々木とのことは、僕の他に誰も知らないことだが、同期の中でも優秀でしたたかな万里子が、仕事に支障をきたし、冷静さを取り戻すのに、数か月の時間を要した。
いつだったか、翌日のコンペの最終確認を三人で行い、目途がついた後、佐々木に食事に誘われた。佐々木は、僕達二人を佐々木の友人が経営するレストランに連れて行った。中華創作料理を提供するそのレストランの内装は重厚かつ贅沢な作りで、BGMにタンゴが流れていた。なんとなく王家衛の映画を思わせるレストランだった。そこで食事をした時、僕は二人ができていると気付いた。閉店間際にもかかわらず、その店のオーナーがテーブルを融通した変わりに、店に置いてあるグランドピアノで演奏をすることを佐々木は約束させられていた。僕は、佐々木がピアノを弾けることを知らなかったが、万里子は知っていた。僕の方が万里子より佐々木との付き合いは長いはずなのに、佐々木のプライベートをまるで知らなかったのだ。僕達のテーブルにコン・リーのような美しい女主人が挨拶にくると佐々木は、「約束だから酔っぱらう前にひくよ」と言ってグランドピアノに向かった。佐々木がピアノの前に座るとBGMが静まった。そして、佐々木は、指の関節を鳴らし、深呼吸をし、鍵盤に手を乗せるとショパンの「革命」を弾き始めた。激しく揺さぶられる津波のようなむき出しの感情、そんな風に感じた。
「お母様がピアノの先生だったんですって」
僕があっけにとられて佐々木の演奏を聞いていると、万里子が佐々木を見つめながら言った。鈍感な僕でもわかるくらい視線の先にいる佐々木を見つめる万里子の眼は、いつもと違っていた。まさしく愛する者をみつめる女の眼、そのものだったのだ。
入社三年目の春、万里子は僕達のチームに異動になった。クリエイティブデレクターである佐々木だが、万里子の営業センスを見抜き、営業のノウハウを教えたのは万里子の上司ではなく佐々木だった。それからというものほとんどのコンペで勝利し、仕事の幅が増えたのは、鍛え上げられた万里子の営業センスによるところが大きい。彼女の営業センスと情熱がクライアントとの信頼関係を築き上げていた。今は、その万里子の功績を継承しているにすぎない。しかしその万里子がある時から眠れない日々を過ごし、クライアントとの大事な商談を上の空でやりすごした時、僕は頭にきて、万里子をとがめた。万里子の落ち込み方はひどかったが、仕事は仕事で個人的な感情はその場に関係ない。
「私には自信があったの、上手くかわせるって。でも気が付いたらどうしようもなく好きになってた。気が狂いそうなほど」
ようやくその恋愛が佐々木の離婚という形と共に万里子のなかで終焉を迎えた時、万里子の自宅近くのファミリーレストランで、そう言った。万里子は佐々木に翻弄されプライドをずたずたにされた。佐々木は、妻と離婚しても万里子と結婚するつもりは欠片もなかったのだ。
「たとえ万里子とのことがなくても、佐々木さんの家庭は破綻してたよ。だからそこは、責任を感じることはない。あの人の問題だから」
僕は、気のきいた慰めの言葉をかけることができなかった。どうして万里子のような女が、そこまで心をかき乱されたのか、不思議でしかたなかった。ヨージヤマモトを着こなし、ピアノがひけ、仕事もできる。確かに魅力的だと思う。それでも、始めからわかっていたはずだ。佐々木のような男は危うい。出口はどこにもない。
「同期としてというよりも友人として言うけど、見返してやれよ。手が届かないくらい良い女になって」
万里子は弱々しくうなずいた。客観的になれない間は、何を言っても聞く耳をもてない。佐々木が長い海外出張に出かけている間、万里子は次のステップの準備をしていた。僕が呼び出されたのは、その準備がある程度整った時期だった。
「新宿のコンコースを歩いていた時にね、ふと周りを見たらみんな速足で忙しそうに歩いてるじゃない、その時思ったの。どんなに辛い事があっても、世の中はいつもと変わらず回っているって。当たり前のことなんだけど、なんだか安心しちゃってね、それで、前に進めそうな気がしたの。透さんと終わりにしないといけないと思ってからは、風景も雑踏の音も全く私に映らなかったし聞こえなかったから」
「ニュートラルゾーンが過ぎたわけだ」
「なにそれ?」
「だからさ、何かが終わり何かが始まるまでの空白の時間」
「そうね、そうだと思う」
「で、どうするの、これから」
「入社した当時から希望をしてた事があって、でもこんなことになっちゃったから気持ちがなえちゃってたけど、会社の海外派遣に応募したらそれが通って。良い機会だから行ってこようと思うの」
万里子は後任が決まるとアメリカに旅立った。その万里子の派遣期間もそろそろ終了するはずだ。
「啓志が万里子の事を言っているなら、お前がどうこう言う筋合いの問題じゃない。万里子は俺が育てたんだ。あの子はお前が思っているほど、弱くない」
佐々木が万里子の話を自らすることが意外だった。万里子を気にかけている?当人同士でないとわからないことがある。もしかしたら今だに二人の仲は続いているのではないかと疑った。
「いいから、啓志の話を続けろよ」
「はい。だから、辞めるのは正直後悔するかも知れないと思ってもいます。でも、辞めるなら今しかないと思って」
「いったい何をするつもりなんだ?」
そう聞かれるだろと予想していたが、僕は上手く説明できなかった。僕は、あくまで個人的な事情で、東京を離れ瀬戸内海の小さな島で暮らすつもりだと言った。
「クライアントに対するプレゼンは上手いのに、どうしてそう自分の事になるとわからない説明をするんだ」
「すみません」
「兎に角、今期はいてもらわないと困る。年末商戦は一段落したが、春商戦もすぐに始まるわけだし、来年の三月までに納得する答えを用意しておけ。それまでは誰にも言わない」
佐々木が納得出来ないのは、よくわかる。僕自身が本当にあの島で暮らせるか自信がなかった。ただ、秋幸にメールで祖母にまつわる話を報告した時、秋幸がそこをギャラリーに出来るのではないかと提案した。偶然だが丁度芸術祭がその島を含め再来年の夏から始まる。そして秋幸はその芸術祭に参加すると言う。荒唐無稽な話だと思ったが、過疎化が進むその島から創造を発信できる。なんとなく何かが始まる気がした。急に心が傾き、それに乗ってみようと思った。
僕は、広告の世界にいてアーティストではない。広告は、あくまでクライアントを理解し、彼らの意思を尊重する。僕達は、それらを踏まえて製品基本戦略立案の段階から企業に介入し、イベントを含む最適なクリエイティブを構築する。僕は当初の希望職種であるデザイナーでもなく、そのプランニングをしていた。あくまで自己の意思で作り上げるアーティストの秋幸とは決定的に違う。だが、秋幸をサポートすることで僕自身も新しい自分に出会えるのではないかと思った。もうひとつ僕には何かが必要だった。
祖母の葬式の翌日僕は、伯父に鍵をかり瀬戸内海の小さな島にある祖母の一軒家に行った。全く記憶にないその港にフェリーから降りた途端、僕は不思議な懐かしさを覚えた。ファイヤーキングのジェードのような色をした海。そして、ここの塩の香りが遥か昔の記憶を呼び起こしていた。ただし、当時の祖母の顔は思い出せず、白髪で顔全体に皺が刻まれたおだやかな遺影の老婆の顔だった。
まだ僕が四歳くらいだった。母親と兄と僕で母親の実家である祖母の家に遊びに来ていた。夕方、祖母が僕の手を引いてどこかへ出かけた。おそらく近所の製麺店まで素麺を買いに出かけたのだと思う。祖母が近所の人に話かけられた。孫を連れてどこに行くのかと。祖母は、素麺が足りないから買いにいくと答えていたような気がする。僕の歩幅で祖母と一緒に海を見ながら漁港沿いをゆっくり歩いていた時、海から一瞬きらきらしたものが飛び上がり落下した。まだ四歳の子供は無垢だ。好奇心は危険を凌駕する。僕は、祖母の手を振りはらい、低い堤防にかけ上がり海の底を覗き込み、先ほど見た正体を確かめようとした。そして、僕はそのまま海に落ちた。その後の記憶はどこをどう探しても全くない。
僕達家族が瀬戸内海の祖母と疎遠になったのは、それからだとその葬式の翌日祖母の家を訪ねた時に気付いた。どうして今まで気付かなかったのだろう。僕は、小学生にもかかわらず、遊ぶ暇もないほど忙しかったから瀬戸内に来る時間がなかったのだと思っていた。あれは、子供の好奇心意外のなにものでもない。一緒にいたのが祖母でなくても、きっとつないだ手を振りはらい、僕は海の底を覗き込んでいた。きつい性格の母親は、必要以上に祖母を責め、祖母は自分を責めたに違いない。誰かに助けられなければ死んでいたはずなので当然と言えば当然だが、僕は今確実に生きている。祖母の葬式の翌日までそんな事はとっくに忘れていた。祖母がまだ生きていた時に、何度でもジョークであの事件を笑い飛ばすことができたはずなのに、そんな機会もないまま祖母は亡くなってしまった。
年が明けた二月の中旬辞表を提出したが、佐々木は、僕を慰留した。学生の頃バイトとしてこの会社にもぐりこみ雑用をこなした。主に佐々木のアシスタントのような仕事し、そのまま僕は就職した。佐々木には、恩がある。しかし、僕の決意は変わらなかった。
「啓志のようなフレキシブルなタイプの人間に辞められるのは痛いが、仕方ないな。やるからには徹底的にやれ。田舎もんになってもお前らしくいるんだぞ」
佐々木は、最後にそう言って僕の辞表を受け取った。僕は、担当していたクライアントの春商戦に向けた広告戦略が一段落した三月上旬、関係者各位に退職のメールを打ち、盛大な送別会をしてもらい、バイト時代を含め約十年間勤務した会社を去った。決意してしまうと思いのほか寂しさや不安よりも、これから始まる未来にわくわくしている自分に気づき意外に思っていた。そして、更に意外だったのが母で、僕の瀬戸内暮らしを賛成し、祖母の家を売却するという伯父まで説得すると言ってくれた。不安定極まりない暮らしを始める事に猛反対した父や兄とは正反対だった。
「啓志の人生なんだから、好きにすればいいわ。本当にあそこは良いところなのよ。兄さんには私からお願いしておくから」
一度こじれてしまった関係を修復するのは容易ではない。特に家族は厄介だ。だが母親は祖母と最後まで和解しなかった事を後悔していた。葬式の時、母は涙一つこぼさなかったが、しばらくして僕が実家に戻った時、西日のあたるリビングのソファーでぼぅとしている母をみた。見てはいけないものを見た気がした。涙を浮かべているようだった。テーブルの上に、祖母の家の前で写した僕達家族と祖母が映った古いアルバムのページが広げられていた。
祖母の遺品は、古い桐のタンスを残してすべて処分されていた。1週間後、秋幸が到着する前に最低限暮らせるだけのライフラインは整っている。二階の2間は、寝室兼アトリエになるだろう。そして、一階はギャラリーになり、生活費を稼ぐためのカフェにもなる。
由果からは、彼女が僕の部屋で号泣して以来電話はもちろん一通もメールがこなかった。したがって、一度も僕の部屋には来ていない。これで良いのだ。僕みたいな恣意的な男と一緒いることはない。「Don’t trust anyone over thirty」兄貴が昔ヘビロテで聞いていたそんなタイトルの曲を思い出した。三十歳なんてずいぶん先だと思っていた頃、兄貴の部屋でよくかかっていた曲だった。僕は先週三十歳になった。