無彩色の世界の中で Cut, A
『白と黒しかない僕の世界
そんなちっぽけな世界がそれでも大事だった
君が僕にくれたのは 目が眩むほどの有彩色
それが感謝してもしきれないくらい嬉しかったのに
僕がもたもたしてたせいで
君は今 ここにいない――――――』
「ねぇ『モノクロワールドエンド』って知ってる?」
「知ってるよー! ネットの中だけで活躍する謎のバンド集団でしょ? メンバーの人数はおろか顔写真もないっていう」
「そーそー! 動画投稿サイトの再生回数もすごくてさー!」
そんな会話を繰り広げる女子高生が俺の傍らを通り抜けた。
俺――――、榛名透弥が緩慢に振り返った時には、女子高生二人組の姿はとっくに見えなくなっていた。
数十メートル先に広がるのは車の行き交う大道り。歩行者信号機が青になったのを合図に、向こうからもこっちからも人の塊が歩き始めた。
信号機の青が点滅していても渡ろうとするのは別段珍しいことじゃない。そんな光景、今までだって腐るほど見てる。
わざわざ走ってまで渡ろうという気にはなれなくて、点滅する信号機に従って足を止めた。
立ち止まった俺の周りでも慌ただしく忙しく横断歩道を渡る奴は何人もいて。
俺のすぐ傍らを駆け抜けた女の子も、その手の奴だった。
「…………――――」
『点滅する信号
駆け抜ける影法師
ノイズだらけの空間に あの子の声だけが僕に届く』
名前も知らない女の子とすれ違う刹那に聞こえてきた鼻歌は、人込みの騒がしさに紛れてまず絶対に気付かないほどだったのに、何故か不思議なほど鮮明に俺の耳に飛び込んだ。
そして。横断歩道に足を踏み出した女の子の片腕を無意識のうちに掴んでいた。
「何やってんの……!?」
「へ……っ!?」
見れば、信号機はちょうど赤に変わって車が走り始めていた。俺がとっさに吐いた「何やってんの」という台詞も一応意味のある言葉に変わった。
「あー……、赤だ……。危なかった……」
女の子が呆然と呟き、唐突に俺の方へ振り返った。
「ありがとうございました。助けてくれて」
にこっと人懐っこく笑った顔が一瞬だけ、懐かしい女の子のそれと重なった。逃げるように思わず目を伏せて、腕を掴んだ手を離しながら必死で言葉を探した。
「あの……、さっきの鼻歌……」
そのたった一言で女の子が満面の笑みを浮かべた。その表情がまた彼女に似ていて体の最奥が何かを訴えるように鈍く痛んだ。
くそ。いちいち面影重ねんな、俺。
自分自身にイライラしていた時。
「あなたも好きなんですか?」
この子の歌っていた歌が好きだから声をかけた訳じゃない。ただそのメロディーを、歌詞を、脳に焼き付くほど聞いていただけで。
あなたもってことは――――――。
「あたし、モノクロワールドエンドってバンド、大好きなんです!」
こんなところで、彼女と似た面差しの子からその名前を聞きたくなかった。
だってそれは俺の……俺たちのことだから。
一体どれだけの人が信じるだろう。
ネットの中だけで活躍するバンド集団『モノクロワールドエンド』。メンバー数も顔写真も、名前すら明かされず、しかし中高生の間で絶大な人気を博している特別な集団のボーカルが、どこにでもいるような平凡な青年の俺だなんて――――――。
「メロディーも歌詞も、ボーカルの人の声も大好きで! 聞かない日はないってくらいずっと聞いてます!」
何も知らない女の子がただ嬉しそうに話し出した。
俺 今、どんな顔してる?
痛いのを我慢して無理矢理笑ったような顔してんじゃないの?
嬉しいはずの褒め言葉が、好きだと言ってくれた女の子の言葉が、深く深く突き刺さる。
「最近新曲ないから寂しいんですけど……」
もう永遠に、新曲なんて出ないよ。
だって隣にいたはずの彼女が、もうここにいないから。
俺の書いた下手な詞に、毎度聞き惚れるような曲を作ってくれた彼女が、もうここにいないから。
「そっか」
何に対しての「そっか」なのか自分でも分からない。
「あのすいません、お名前聞いてもいいですか?」
女の子が遠慮がちにそう切り出した。
フルネームを名乗るか、名字だけ名乗るか、一瞬の間だけ逡巡し――――――。
「……榛名」
結局、名字だけしか名乗らなかった。
「それ、名字ですか、下の名前ですか?」
「さあ、どっちでしょう?」
特に意図することもなかったが明確な答えをはぐらかした。
「まあいいや。ハルナ君。あたし、高宮天音です」
数分前と変わらずに人懐っこく笑う天音との出逢いが、止まっていた俺の時間を進めさせることになるなんて、この時の俺は予想だにしなかった――――――。
部活に入っていなかった天音とは決して少なくない頻度で会うようになった。
天音の方からは自分の学年やクラス、学校の様子などを話してくれるが俺からそういった話を投げ掛けたことは一度もない。俺がどんどん天音に関する情報を自動的に得ている中で、天音は俺の名字しか――――、名字か名前かも分からない平仮名三文字の言葉しか知らない状態だった。
それでも天音が俺に深く追求することはなく、『モノクロワールドエンドが好きな男の人』という位置づけで早数週間が経過した。
「ハルナ君の声、『モノクロ』のボーカルの人に似てるよね」
唐突にそんなことを投げ掛けられて息が止まった。
「……そう?」
「似てる似てる。あたし好きだな、ハルナ君の声」
『あたし、君の声すごく好き』
「…………っ!」
瞬間、記憶の奥から這い上がってきた懐かしい声に喉が詰まった。ヒュッ、と露骨なほど息を呑む音が響く。
「……え、どうしたの……?」
隣で天音が俺の顔を覗き込んだ。大丈夫、何でもない。そう言おうとしたのに、声が出ない。
前のめりになって荒っぽい呼吸を繰り返す俺に、天音がある一点を指差した。
「あそこの図書館の中庭、行きませんか? 椅子あったし休めるかも」
ほんの数十メートル先の市立図書館に覚束ない足取りで歩を進める。天音が確保してくれたのは、椅子とテーブルのセットが置かれた区画だった。
椅子に座るやいなやテーブルに突っ伏した俺の向かいの席で、天音が申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい……、何か、ひどいこと言っちゃったみたいで……」
違う。違う。あんたは何にも悪くない。勝手に俺が思い出して、勝手に俺が苦しんでるだけだ。
彼女がいなくなってから何度も苦しめられてきた呼吸の乱れをやり過ごしていると、ふわっとした暖かいものが俺の頭の上に置かれた。
「……っ」
思わず肩が跳ね上がった一瞬で、自分が天音に撫でられていることに気付いた。
誰かに頭を撫でてもらうなんて何年ぶりか。それがこんなに安堵できるものだなんて誰も教えてくれなかった。
いつもは十分以上続く苦痛が、この日僅か数分で治まったのは天音に撫でられた効果もあったのかも知れない。
『純粋な優しさに甘えるだけ甘えた
その結果君を失って
今こんなに苦しんでるんだから
自業自得もいいところだ』
「…………っ!」
その日の夜、数ヶ月ぶりに詞を書いた。
頭の中に湧き上がる感情そのままを紙にぶつけて書き上げたそれは、お世辞にも綺麗な歌詞とは言い難いものだった。
作詞は俺の仕事、作曲は彼女の仕事。
彼女がいなくなった今、俺が曲を求めて頼るのは――――――。
携帯電話から、もう二度と関わらないと決めていた相手の電話番号を呼び出した――――――。
俺が歌詞を書き上げたその日から、天音と会う機会は確実に減った。
俺の本名すら知らない天音は「ごめん、今日ちょっと忙しくて」という下手すぎる嘘に気付かずに、あるいは気付いていない素振りで「分かりました」と返してくれた。
そして、下手な嘘を吐く期間が終わりを告げた日に。
「これ」
俺が天音に手渡したのは一枚のCDケース。
「え? これ何? って言うかよくあたしの家分かったね?」
「家、ここら辺って教えてくれたじゃん。後は表札見ながら『高宮さん』ちを探してた。もう薄暗いからこれ一枚渡すためだけに近くまで出てきてもらうのも気が引けたし」
天音が俺とCDケースを何度か見返した。そして。
「……ありがとう。何かよく分かんないけど、聞かせてもらう」
そう言って家の中に引っ込んでいった天音の背中を見送りながら、ポツリと呟いた。
「……『同じように好きと言ってくれる子に出会えたから』……――――」
どこにでもあるようなCD ケースを眺めながら自室へ続く階段を上り、立ち上げたパソコンに挿入した。
音楽再生画面が映し出され、パソコンと繋いだイヤホンを耳にセットしクリックする。
「――――……」
流れてきた曲に乗せられた声は紛れもなくモノクロワールドエンドのボーカルの声で。
ここ最近、幾度となく聞いてきた、あたしの大好きな声だった。
その歌詞はどんどんあたしの中に入り込んできて。
「――――――っ!」
聞き終わると同時に部屋を飛び出した。制服のまま靴を履くのももどかしく、靴下のまま走り出す。人気のない道をのろのろしたスピードで歩くハルナの姿は簡単に見つけられた。
「ハルナ君……っ!」
息を切らしながら名前を呼ぶと、ハルナが驚いたように振り返った。そして唖然とした顔で目を見開く。
「何で裸足……」
「だって、もたもたしてたら、追い着かなくなるじゃん……」
まだ息が荒い。元々運動なんかそんなに好きじゃないのに全力疾走なんかしたからだ。
「……聞いたよ、CD……」
ハルナが一瞬固まり、その後緩慢な笑みを浮かべた。
「……じゃあ、気付いたよね? 俺がモノクロワールドエンドのボーカルだって」
「気付いたっていうか……、疑問が確定に変わっただけ」
そう言うと、ハルナが乾いた笑いを上げた。
「普段の声、そんなに聞かれてたんだ?」
「あたしがどんだけハルナ君の歌が好きか教えてあげよっか?」
「今知った。贅沢すぎるくらい幸せだと思うよ、俺」
「……幸せだなんて、思ってないでしょ? ハルナ君」
ふいにハルナが沈黙した。先ほどまでの作ったような笑みから、どこか寂しそうな笑みに変わった。
「……モノクロワールドエンドってさ、知られてないけど、俺ともう一人の女の子との二人組ユニットなんだよ」
「え、ちょっ、待って、何でそんな重要なこといきなりあたしなんかに……」
いきなり謎だったモノクロワールドエンドの正体を聞かされて、天音は両手を前に突き出して狼狽えた。
「もう天音に隠す必要ないなって思ったから」
……お願いだからそんな期待させるようなこと言わないで。
じゃないとあたし特別扱いされてるって自惚れる。
「メンバーは小塚芽生って女の子と、榛名透弥って男の二人組」
榛名透弥君。どんなに仲良くなってもフルネームを知りたいとは一度も思わなかったけど、それでもやっと教えてもらったフルネームを頭の中で繰り返した。
「結成に至った経緯話してたら長くなるから省くけど、最初から作詞は俺で作曲が芽生って決めてた。アイツんち音楽一家でさ、兄妹全員ピアノだのギターだの一通りこなせるし、芽生の兄さんに協力してもらってたの」
四人兄妹の末っ子だった芽生が兄たちに担当してもらう楽器を振り分け、芽生自身もベースの担当となって曲を作っていた。レコーディングルームも完備していた芽生の家に朝から晩まで入り浸り、声が枯れる寸前まで歌っていたことも数え切れないほどある。
「最初は全然乗り気じゃなかったけど、動画投稿して、しかもそれが誰かに認めてもらえるとすごい嬉しくて、だんだん楽しいなとか思うようになっちゃって」
名前も知らない誰かが自分たちの曲の話をしているのを偶然聞いてしまった時の、訳もなく体温が上がっていく感覚は今でも鮮明に思い出される。
「けど、アイツが事故で死んじゃってさ」
「……っ!?」
天音が息を呑む音がはっきり聞こえたが話すのは止めなかった。
「歌う気なんか全然なくなって、芽生に関する記憶全部消したくて」
――――――息が苦しい。
芽生が死んだことなんてとっくに理解してるのに、それでもまざまざとその事実を思い出させられ、苦しめられるのは、芽生と自分を繋ぐものが消せずにあるから。
「芽生が作曲した歌を歌う俺の声が、俺は一番嫌いだった」
芽生が好きだと言ってくれた俺の声が、俺自身を苦しめる。
彼女のメールアドレスを消しても、彼女に関する記憶の全てを封印しても、俺の声だけは消すことも封印することも出来なくて。
憎くて憎くて仕方ない自分の声。失えるものなら失ってしまいたいと願うほどに。
「芽生の兄さんたちは何の前触れもなく妹に死なれてすごい悲しんでて、けどモノクロワールドエンドの活動に意欲的になってくれてて」
妹を失った寂しさや悲しさを紛らわすのが、音楽好きの彼らにとってはバンド活動だったのだろう。
芽生が亡くなって数ヶ月が経った頃、新曲を作らないかと彼女の長兄に提案された。
芽生が行っていた作曲は自分が引き受ける。けど歌詞はお前が書いてくれ。あんな歌詞が書けるのはお前だけだから、と。
自分の声を憎くなるほど嫌って、一歩も動けてなかった俺は、その提案を拒み続けてきた。
「何ヶ月ぶりかに作詞して、芽生の兄さんに頼んでみたんだよ。どの面下げて頼んでんだって思われるの承知で。けどすごい嬉しそうに引き受けてくれて、猛スピードで完成していってさ。それで出来たのがあの曲」
あの曲、というのは数分前に天音に手渡したCDだ。
突然こんな話を聞かされた天音は終始無言だった。日も完全に落ちたこの時間帯に、靴も履かずに制服姿で突っ立っている女子高生。第三者から見ればかなり珍妙な光景だろう。
「……榛名君、今何歳?」
予想外の天音からの質問に面食らいながら、頭の中で自分の年齢を思い出した。
「……今年十九になる」
「じゃあ、あたしより一つ年上なだけなのに、すんごい大変な思いしてきたってことだよね?」
所々省きつつもそれなりに細かく話してきた内容をかなり短くまとめられた。
「ごめん、あたしボキャブラリー少ないから」
ごめん、と再度繰り返し、取り繕うように笑った天音の目にうっすら涙が滲んでいることに、気付かなきゃいいのに気付いてしまった。
「……ごめん、泣かせた」
「……泣いてないよ。コンタクトが乾燥して目が痛いだけ」
俺も十分嘘が下手だと思ってたけど、天音ほどじゃない。
天音が気分を落ち着かせるためか一度大きく息を吸った。
「……あたし、ホントはがっつり責めるタイプなんだよね」
「はあ?」
意味が分からず思いっきり胡乱げな声が出た。
「榛名君が未だに芽生さんに片思いしてるの分かってる」
「…………」
片思いなんかしてない、とは言い切れなかった。
芽生のことをどう思っているのかと聞かれればその答えは「嫌いじゃない」。
芽生のことが好きなのかと聞かれればその答えは「分からない」。
俺自身が、俺のことを一番分かってない。
「分かってる、けど!」
ふいに口調を強め、天音が俺を見据えた。
「いつか絶対あたしに惚れさせてやるから。あたしがいなかったら溺れちゃうくらい、どっぷり」
思わず目を見開いた。やっぱすごいな、と心の中で感嘆する。
芽生がいなくなってから前へ進むことを放棄した俺の手を、天音が見つけて掴んでくれた。
それがどれだけ嬉しかったか、多分天音は気付いてない。
――――――今だって、俺は結構、あんたに惚れさせられてるんだけど。
「…………期待してる」
殆ど無意識のうちに口元を緩めた俺に、天音は涙の残った顔に満面の笑みを浮かべた。
『白と黒しかない僕の世界
そんなちっぽけな世界がそれでも大事だった
僕に有彩色をくれた君は
もうこの世界から姿を眩まして
恩返しもしてない僕だけが残された』
『前にも後ろにも進めずに 取り残されてる僕を見て
君は何を想うだろう』
『僕に出来ることは拙い言葉を吐き出して紡ぐだけ
世間体なんかどうでもいい 嗤いたいなら嗤えばいい
感謝と後悔が入り混じる 自己満足の僕の歌』
『こんなことが恩返しだなんて思ってない』
『だけど君が好きと言ってくれた僕の声を』
『同じように好きと言ってくれる子に出会えたから』
『僕はようやく一歩だけ 踏み出すことが出来たんだ』
【モノクロワールドエンド/無彩色の世界の中で】
この物語はcut.B(過去編)に続きます。
気に入って頂けた方はこちらの方も読んでもらえると嬉しいです。