プロローグ⑦
真奈が噴水の前と聞いて迷うことなく走ったのは、かなえに呪いの部屋に連れて行かれる時、廊下の窓の外にちらりと噴水の陰を見たからだった。目的地が見えるところにあればさすがの真奈も迷うことがなかった。優雅に噴水の舞う中庭に出るためには、旧校舎の渡り廊下の深緑色の柵を押す。噴水の前に白いペンキのはげかかった木製のベンチがあり、そこにウサコがこっちに背を向けて座っていた。真奈は手入れの行き届いた芝生を歩いて近づく。噴水の周りは花で溢れていた。それぞれの植物が宝石みたいに輝いていた。
「ウサコっ」と呼ぶ。「お待たせっ」と顔を覗き込む。
『…………』
座っていたのはウサコじゃなかった。まるきり別人だった。見つめ合うこと二秒、真奈は冷や汗をかいた。なんて言っていいものやら、考える。とりあえず笑う。にこっ。
にこっ。向こうも笑い返してくれた。間違えたのはウサコに髪の毛の感じが似ていたからだ。でも近づいてよく見るとこちらの方の髪は質がしっとりとしている。ウサコの黒髪は無邪気な感じだ。顔立ちも全然違っていて、こちらのお嬢様は可愛い、というより綺麗っていう感じだった。目尻が切れ長で形容するなら大和撫子。同じ高等部の生徒なのに随分大人びて見える。上級生だろうか?
「きっと、」竪琴のような優しい声音だった。「人違い、かしら?」
「えっと、ごめんなさい、人違いでした、その、ココで待ち合わせをしていて、他に誰か来ませんでしたか?」
と言ったところで、真奈は気が付いた。大和撫子の膝の上に一匹のウサギがいるのに気付いた。ウサギは気持ちよさそうに大和撫子に撫でられていた。
「他に誰か? いいえ、私以外誰もココにはいないはずだけど、」
「そ、そんなことより、」慌てて聞く。
「?」という何も知らない表情。
「そのウサギ、どうしたんですか?」
「このコ?」大和撫子はウサギを抱き上げる。
「そうです、このコ」
「うーん、」子供の頃の楽しかったことを思い出す感じで大和撫子は少し唸った。「そうね、いつもみたいにぼんやりと噴水を眺めていたら、急に膝の上に暖かいものが乗っていたって感じかなぁ、何をしても逃げないし、可愛くて暖かくてふわふわだからずっと撫でてたの」
「ウサコの小ウサコかもしれない」
「ウサコの小ウサコ?」
「あのっ、ルームメイトがウサコってあだ名で、飼育委員のウサコが飼育を担当しているのがウサギの小ウサコなんです、小ウサコがウサギ小屋から脱走したんで、皆で探してたんです」
「よかったぁ、逃がさなくて、」大和撫子はギュウっとウサギを抱きしめた。「もう離さないぞっ」
「とりあえず、ウサコに確かめてもらわないと、」真奈はインカムのボタンを押した。「皆、ウサコ、小ウサコかもしれないウサギを確保しました、至急、噴水の前までお願い」
返事が返ってくる。
『真奈さん? 今どこですか? 私はもう噴水の前にいるのですけれど』
真奈は周囲をぐるりと見回した。もちろん、いない。
「噴水の前って……、いないよね、誰も」もう一度、ボタンを押す。大和撫子は静かにウサギを抱いている。「ウサコ? 私も噴水の前だよ、どこにいるの?」
真奈は素早い動きで噴水の向こう側を確かめる。クルクルと行き違いになっていないか確かめるためだ。でも、中庭の小さな噴水に行き違いになるほどの円周はない。真奈は一周全力疾走した。大和撫子は興味深げに真奈を目で追っている。
『真奈さん、私も噴水の前にいますよ、もしかしてからかってま、』
その時、急にイヤホンがピーと煩く鳴った。バッテリー切れだ。こんなときに、ついてない。真奈はイヤホンを外した。「もう、肝心なときにぃ」
「どうしたの?」大和撫子が聞く。「何か奇妙なことがあったみたいだけど」
「ウサコがココにいないのにココにいるって言うんです、もう噴水の前にいるって言うんです」
大和撫子も周囲を見回した。「私たち以外、誰もいないね」
「誰も、いませんよね」
「からかわれてるんじゃない?」
「ウサコはそんなこと、多分、しません」
「このウサギさんが、実はウサコちゃんだったりして」
「そんなバカな、」言いつつ真奈はじーっとウサギと見つめ合った。「そんなバカなぁ」
そんなバカな話があるはずがない。あるはずはないのだが、噴水と宝石にのように輝く花々と目の前の少しチャーミングな大和撫子のせいで、人間がウサギになっちゃったりする不思議の世界に迷い込んでもおかしくないんじゃないっていう気分になる。呪いの部屋の出来事がちらつく。頭を振る。何か嫌な予感がする。早くウサコのところにいかなきゃって思った。でも、どこにいるの? 噴水の前? …………。真奈はやっと思い至る。『ここ以外に噴水があるのかも!?』こんなに広い学園だもの、噴水の八つや九つあっても不思議じゃない。
「あのっ、お名前は?」
「比奈、浅間比奈よ、いきなりどうしたの?」
「私は赤城真奈です、今日、転校してきたばかりの転校生です」
「あっ、だからセーラー服なんだ、どうしてなんだろうって気になってたんだぁ」
「比奈さん、ココ以外に、噴水ってありますか?」
「噴水、だったら、各校舎の中庭に一つずつ、あっ、そうよね、よく考えたらウサコちゃんは別の校舎の噴水の前にいるってことよね、うっかりしてた」比奈は自分の頭をコツンと叩いた。
「ウサギ小屋が初等部にあったってことは、きっと合流場所は初等部校舎の中庭の噴水の前、比奈さん、どうもありがとうございます、」真奈はお辞儀をして「ではっ」と小ウサコかもしれないウサギを抱えて比奈さんから立ち去ろうとした。けれど、比奈さんはウサギを放してくれない。「なぜ!?」
「うふふっ」比奈さんは笑う。「……」真奈はちょっと強い力で引っ張る。比奈さんは放してくれない。ウサギを中心にした無言の押し問答、コレは一体何なんだろう?
「もうっ、比奈さんからかってるんですかっ!? こっちは急いでるんですっ」
「急ぐ必要なんてないじゃない」ふんわりとした笑顔。
「急ぎますよ、」片や眉間に皺が集まってきそうな余裕のない真奈の顔。「一刻も早くウサコを安心させてあげないとっ」
「でもウサギさんなら私がちゃんと抱いているから安心よ、もうどこにも行かせないわ」
比奈さんはウサギをギュウと抱きしめる。比奈さんはこのウサギともうちょっと一緒にいたいのだろうか?
「だったら比奈さんも一緒に来てください、初等部の噴水まで、あっ、ついでに案内してください、転校生なのでいかんせん、どこをどうやったらそこまで行けるのか分からなくて」
「あらっ、それは大変、」ご案内します、って続くような気がしたのに「じゃあ、転校生の真奈さん、ココでしばらく私とおしゃべりをしましょう」と脈絡のないことを言った。「隣にどうぞ」
比奈はベンチの中央から少しズレて、真奈が座れるスペースを作った。真奈が困惑の顔でなかなか座らないでいると、比奈は少しいらだたしげに言った。「分からないの? 転校生の真奈ちゃんは私がいないと初等部の噴水までいけないんだよ、だったら、私の気の済むまでおしゃべりの相手になってくれなきゃ」
「……分かりましたぁ」全然わからないけれど、とにかく比奈の隣に真奈はちょこんと座った。横目で比奈さんを窺う。比奈さんは上目遣いでこっちを見ていた。かなえとは何か違う、身の危険を感じる表情だ。「……で、何をおしゃべりするんです?」
「真奈のことが知りたいな」いきなり甘えるような口調。しかも呼び捨て。なんだか体が近い。
「スリーサイズは?」
「スリーサイズ?」
誰かのことを知るときに、普通、スリーサイズから聞くものだろうか? 真奈はグラビアアイドルなんかじゃないし、まして目の前の比奈は明らかに真奈よりも圧倒的にスタイルがいい。圧倒的な女の子は他の女の子のスリーサイズなんて興味ないのが普通だ。比奈は被服部にでも在籍していて、真奈の一張羅でも作ってくれるとでも言うのだろうか? ともかく真奈はウエストのサイズをちょっと控えめにして、上から教えてあげた。
「へぇ、結構、おっぱい大きいんだぁ、」なんかエロい目線。「ねぇ、触ってもいい?」
「ええっ?」別に深い理由はないけれど、こんなところでっていうのは「い、嫌です」真奈は胸元を両腕で隠す。「お風呂場とかだったらいいですけど、」
「いいのっ!?」男子みたいな反応。「行くっ、絶対行くっ、真奈はどこの寮なの?」
「わざわざおっぱい触りに来なくていいですよっ」
「ねぇ、どこの寮?」執拗に聞く。
「確か、」真奈はうる覚えの記憶を辿る。でも、寮の名前は思い出せない。「鳩……なんとか寮だったような」
「……私に来られたくないんだ」比奈は口を尖らせてすねる。よく分からない。
「本当に覚えてないんですって、ほら、私、転校生だから」
「転校生だからって何でも許されると思ってるの?」
「いや、分からないものは分からないし」
「そう、」比奈さんはまだ訝しげな顔で真奈を見ている。「……じゃあ、分かったら私に教えること、真奈の家庭教師やってあげるから」
「なんで?」思わず聞いてしまう。こっちは家庭教師なんて頼んでもいないし、今のところ勉強に困ってはいない。
「私は二年生よ」やっぱり上級生だった。「二年生が可愛い一年生の勉強の面倒を見るのは、ココ、明方女学園ではとても日常的なことよ」
どうしてだろう、比奈さんが冗談を言っているように感じてしまう。
「こう見えて、テストの点数だけはいいの」自慢にもならない、という感じで比奈さんは言った。これは本当だと思った。失礼ながら比奈さんはテストの点数だけはよさそうな雰囲気がある。「そうでしょ? だから、家庭教師やってあげる」
「まぁ、勉強に躓いたら」言いながら真奈は家庭教師ならウサコだなとか考えていた。その横で比奈さんは喜んでいた。不思議だ。いくら真奈が転校生だからと言って、普通、ココまで急接近してくるのかと。
「転校してきたのは、前向きな理由? それとも後ろ向きな理由?」
「どちらかと言うと、……後ろ向きです」
「じゃあ、聞かない」こういう分別がついたところには好感が持てた。真奈も小さく笑う。
「前はどんなところに住んでたの?」
「ド田舎です」
真奈は前住んでいた場所がどれほど田舎で、この学園とかけ離れているかを様々な比喩表現を使って教えた。比奈さんはいちいち驚いてくれた。その反応は楽しかった。「ドンキホーテもスターバックスもないの? それじゃあ、時間が潰せないじゃない、私は田舎では暮らせないわぁ」
比奈さんは別の世界から来た人を見るような目で真奈を見ていた。それは日本人の大多数がすれ違った白人に見せるものに近い。聞けば、比奈さんは幼稚舎からこの学園にいるらしい。幼稚舎からずっとココに通い続けている女の子は少なくないけれど、ほとんどの女の子はココでの優雅で上品で何不自由ない自由な暮らしに満足しきっているようである。比奈さんは、ソレそれではいいこと、と言う。「女の子たちが綺麗に育つために、ここは物凄くいい環境、でもね、皆少なからず価値観が均一化してしまうの、ここの女の子たちに個性がないって言ってるんじゃなくて、むしろこの学園には個性的過ぎる女の子が大勢いる、なんていうかな、この学園の生徒の数は多いから同じ学園でも会ったことのない子とかいるわけだけど、いざ会った時に初めましてって感じはしないの」
「うーん、なんとなく分かります、村で知らない人に会っても、人口の少ない同じ村に住んでいるから新鮮じゃないっていうか、村の外から来た人を見るとすごく新鮮だった」
「そうね、そういう意味で真奈はすごく新鮮、新しい風、みずみずしい」
比奈は手のひらで真奈の頬を包んだ。肌の潤いとか弾力とかを確かめるように頬をなぞる。くすぐったい。真奈が舌を出して笑うと比奈さんも目を細めた。いろんなおしゃべりをしたからだろうか、真奈の比奈に対する警戒心はすっかりなくなっていた。見つめ合っていた。なんだか瞼が重くなる。それなのに気持ちは訳も分からずルンルンする。きっと比奈のせいだと思った。比奈さんは美しい女性だというのが近くで眺めているとよく分かった。全てにおいて極まっているというか、同じ世界にいていいのかと思えるほど。比奈は明方女学園という世界の女の子で一番素晴らしい。それは錯覚? いいえ、そんなことはない。こんなに気持ちがルンルンしているのに。
真奈はしばらく比奈さんに見とれていた。だから、セーラー服のタイをほどいているのにしばらく気付かなかった。比奈が胸元に手を入れてきたところで、真奈ははっと我に返った。
「ひ、比奈さんっ!?」本当におっぱいを触られると思っていなかったから、驚いてベンチから落ちる。地面が芝生だから痛くないけれど、起き上がれないまま比奈さんを呆然と見つめる。比奈はニコニコしていた。「……いきなり、何を?」
「駄目だった?」比奈さんは髪を掻き上げながら言う。「ごめんね、てっきり、もう準備が済んだんだと思って」
「準備?」一度は解けた警戒心が真奈の中で再度点滅し出した。「何の?」
「いつまで芝生に座っているの?」比奈さんは手を差し出した。それを掴まずに真奈は立ち上がった。嫌な予感がするけれど、比奈さんの横に座る。相変わらず比奈さんはニコニコしている。警戒する真奈を楽しんでいるようだった。
「……そろそろ、行きませんか? ほら、日もそろそろ沈みそうですし、ウサコも飼育委員の人たちも心配しているだろうし、もう、気が済むまでおしゃべりしましたよね?」
真奈は出来るだけ同意を得られるように明るく話した。比奈さんが笑って頷いてくれるように。けれど、比奈さんは真剣な顔で真奈を見つめていた。そしていきなり言った。
「私、真奈のことが気に入った、どう? 私と付き合ってみない?」
時間が止まり、頭の中が真っ白になる。
瞳に映る比奈さんは余裕そうに真奈を眺めている。
付き合うって、何?
一緒にトイレに行く、なんてそんなつまらないことじゃないよね?
いや、別につまらなくても、この際、いいと思う。冗談で済めばいいと思う。
比奈さんは私に冗談を言っているのならいいと思う。笑える。
もし、コレが、愛の告白みたいにピンク色でハートマークなものなら、笑えない。
「……え? ちょっと待ってよ」
「出来れば返事は、今、ココで聞きたいな」
「ちょっと待ってってば」
「ため口? いいよ、比奈って呼んでくれていいよ」
「ちょっと、待って、比奈、ストップ、落ち着いて」
「真奈、落ち着くのはあなたの方じゃない? 深呼吸よ、深呼吸」
真奈は大きく息を吸って吐いた。少し落ち着く。けれど、完全に落ち着いたりはしない。「……比奈っ! 付き合うって何よっ、訳が分かんないっ」
「言葉の通りだけど、一緒にデートしたり、キスしたり、エッチするためには付き合ってるっていう前提が必要でしょ?」
「え、エッチってっ」真奈の顔は沸騰した。「エッチってっ」
「私ってそんなに見境なく見える?」
「え? なんのことぉっ? 私に分かりやすくしゃべってよっ」
「だから誰とでもやりたいようにやっているって、そういう雰囲気がある?」
「ええっ? やるって、ええっ? そりゃあ、比奈は美人だし、モテるだろうし、だからって別にそういう雰囲気はないんじゃない!? 少し近寄りがたいようなオーラもあるし……、って何言ってんだ、私」
「ふふっ、ありがとう、真奈の分析の通り、私は浮気なんてしないよ、一途っていったら語弊があるけど、でも、彼女が出来たら私はその人に精一杯尽くすわよ、今はフリーだから得意の微笑みをいかして女の子たちを誘惑しちゃうけどね」
比奈はその得意な微笑みを真奈に見せた。一瞬、うっとりとしてしまう。いや、いけないっ。眠気を覚ますように首を振る。比奈は何も言わずに微笑んでいる。その微笑みは直視できない。直視したら何かいけないことになりそうで。だから、
「……あの、ちょっと待って、」真奈は手の平で比奈の微笑みを静止する。「一つ、確認させてっ」
「一つと言わずに、私の全てを確認したら?」
調子を崩されそうだから、比奈の言葉には乗らないで、人差し指を立てて聞く。
「比奈は女の子が好きなの?」
「ええ」即答。少しは躊躇ってほしかったような気がする。でも会話の内容を考えたら比奈はそういう普通とは違うことを秘密にしたり悩みにしたりしている様子はなかったから当然と言えば当然だろう。でも、少しは躊躇ってほしかった。比奈がただの素敵な先輩だったらよかった。おっぱいを触ってもいいから普通に仲良くしてくれる先輩だったらよかった。
「いわゆる、……レズビアンってやつですか?」
「どうして敬語? なんか距離を感じるなぁ、」比奈は不満そう。でも真奈の反応には慣れている感じ。「うん、真奈の言うとおり私はレズ、女の子が大好き」
「そ、そんなの駄目ですよっ!」
「何がいけないの?」やっぱり真奈の反応には慣れている感じ。「女の子が女の子を好きになっちゃいけないの?」
「お、女の子が、」真奈はこんなことを大真面目に言う日が来るとは思ってみなかった。「女の子を好きになっちゃいけないでしょっ!」
「……ふふっ」比奈は真奈の大真面目に言った台詞を優雅な笑いで吹き散らした。「真奈のそういう真っ直ぐなところ、好きだな」
「す、好きだなって、」正直言って狼狽えた。心が否定したものを受け入れたがっている感じがしたから。「何よ、簡単に言ってくれちゃって」
「真奈はこの学園に来たばかりだし、田舎者だから理解が追い付かないかもしれないけれど、この学園の八割の女の子はレズビアンよ」
真奈は比奈が嘘をついていると分かった。「嘘ばっかりね」
「あはは、どうして分かったの」レズビアンは嘘が下手なようだ。「そうよね、そんな女の子ばかりだったら、私も旧校舎の中庭の噴水の前で悩んだりしないもの」
真奈は比奈がココにいた理由を初めて聞いた。でも、なんとなく嘘のような気がする。
「でもね、この学園のほとんどの女の子は寮に入るし、休日でも部活とかで学園に留まっていることが多いから、ある意味で閉鎖的なの、男の子と接する機会もあまりないし、レズビアンの素養がある女の子は結構多い気がするな」これは本当。「女の子って誰かの一番になって、その人を常に独り占めしたいっていう願望があるじゃない? 二人組になりたがるでしょ? ルームメイト同士でいつも行動している子たちもよく見るな、多分、告白とかしてないんだと思うんだけど、一緒にいないと不安なんだろうね、自分以外の誰かと一緒にいられるのが嫌なんだろうね、私はそういう子たちを見て、いつもニヤニヤしている」
真奈は自分とウサコのことを思い浮かべた。多分、そういうのには当てはまらないはず。でも、近くにいないと不安なのは本当だ。真奈は自分とウサコが肩を並べて歩くところを比奈に見られて、そういう風に想像されていると思うと、なんというか、まんざらでもなくなってくる。こういうことは考えない方がいいのかもしれない。
「返事はまだ?」
「そりゃあ、好きになってもらえるのは嬉しいけれど、」少し躊躇う。傷つけてしまうかもしれないから? そうじゃないことは、真奈が一番分かっていた。真奈はきっと目の前の素敵で強引な女性に好きでいてもらいたいと思っている。親友以上恋人未満がいい。『私は比奈の恋人にはなれない』っていう台詞を飲み込んで、少しずるい台詞を使う。「少し時間が欲しいな」
時間を引き延ばして、心地のいい絶妙な距離を保ちたい。
けれど、比奈はソレを許してくれないようだ。
「あげない、私には時間がないの、真奈が私を拒絶すれば、私は真奈を忘れられるわ」
「拒絶って、忘れるって、そんな大げさな」
「色恋沙汰ってそういうものじゃない? ハッキリしないとどっちも不幸になる」
「よく分かんないし、」真奈は口を尖らせた。「誰でも淡白なのがいいっていったら違うと思う」
「ドロドロしたいの? それともロミオとジュリエットみたいなファンタジーがお好み?」比奈は真奈を見つめる。キスされる。直感的に思った。顎を支えられた。体の力が抜けるツボでも触られたのだろうか、真奈は比奈に身を傾けなければならなくなった。「私は、どっちも好きよ」
頭の中がボーっとしてくる。
目の前の素敵な女性にキスされてもなんでもされてもいいような気分になってくる。
瞼が重い。
真奈は目を瞑って唇に訪れる感触を待った。
「ソレは、ダメェえええええええええええええええええ!」
絶叫。悲鳴。ウサコだった。ウサコは全力で真奈の唇と比奈の唇がくっつかないように行動した。真奈を後ろから羽交い絞めにして、強引に芝生の上に一緒に倒れこんだ。ウサコの体は華奢で柔らかかった。
「ウサコ?」真奈の頭の中は十三時間睡眠の目覚めだった。「なんで? ウサコが、ココに?」
「ソレはこっちの台詞です! どうして小ウサコを見つけたはずの真奈さんが、皆と噴水の前で習合しているはずの真奈さんが、この人とキスしようとしている真奈さんになっちゃってるですか!?」
「……キス?」真奈は消されかけていた夢の出来事をぼんやりと思い出す。「……私、一体、なんで? なんでキスなんてしようとしてたんだろう?」
次第に鮮明に分かってくる。確かに真奈は比奈とキスしようとしていた。真奈はハッキリとしてきた頭で混乱した。なんで私、比奈とキスをしようとしていたんだろうって。
「とぼけるんですか?」初めて拝む、ウサコの冷たい目。「私には真奈さんがこの人に完全に身を委ねているように見えました、拒む様子もなく、むしろ欲しがっていました、気持ちよさそうにトロンとしていました」
ウサコは自分の瞳を指差し、何もかもを目撃したと主張している。こういう瞳は、例えば浮気者を糾弾する若妻の瞳。怖い。だから言い訳が必要になる。焦る。浮気をした男じゃないのになんでだろうと自分でも思った。とりあえず否定する。「違うんだよ、ウサコ」
「違うって何ですかっ!」
「ちょっと、ウサコ、冷静になって」鷹揚に諌めようとする。
「私は冷静に真奈さんの理解できない行動を理解しようとしています、でも、理解できません、どうして真奈さんがこの人とキスしようとしていたのか、理解できない」
ウサコにズバッと人差し指を指された比奈はニヤニヤしながらこっちを見ていた。ウサコに様々なことを説明する気はさらさらないようだ。説明されてもややこしくなりそうだからいいけれど。でも、この状況も随分ややこしい状況だ。「ウサコ、少しだけ黙ってて、その間に私が理解できない行動をした理由とか流れとかを説明するから、えーっと、とりあえず少しだけ時間を頂戴」
言うとウサコはつぶらな目を少しだけ濡らして、唇に力を入れるようにして黙った。聞き分けのいい幼稚園児みたいで可愛いと思った。可愛いと思う以外に、比奈とのキスの件を説明するのは物凄く難しいんじゃないかって思った。途中で意識がふっとどこかに飛んでいったなんて説明しても、それは比奈に見とれていたんじゃないかって責められるのがおちだ。「あのね、ウサコ、正直に話すとね、途中から意識がふっとどこかに飛んでっちゃって、」
「それはこの人に見とれちゃったってことですか?」
真奈は一瞬黙り、「いや、違うって」と目を逸らした。半ばお手上げだった。そんな真奈にウサコは苦悩させるさまざまな質問を浴びせかける。真奈はまとまりのない説明を正直に返す。ウサコは納得せずにズバズバと突っ込んでくる。そのたびに真奈は「違うって」と返す。ウサコも持ち前の優しさで引いてくれればいいのに、全然引く気配がない。ウサコの新しい一面はある意味魅力的だが、結構厄介だった。白旗があったらひらひらと掲げたい。
「ともかく、全部小ウサコを取り戻すために」
「えっ? 小ウサコが? どこにいるんです?」真奈が比奈の胸元を指差す。「あっ、あんなところにっ!」
そんな折り、優雅に真奈とウサコのやりとりを傍観していた比奈がニヤニヤと口を開いた。
「なんだか、ふたり、夫婦みたいね」
真奈は『ああ、もうっ、余計なこと言うな』みたいな視線を比奈に送った。比奈はその視線を、首を傾けて避けた。真奈の口からを思わず舌打ち。比奈の口からは次々に適当なことがポロポロと出てくる。「真奈も言ってくれればいいのに、気の合う素敵な女の子がいるんだったら私だって言い寄ったりはしなかったわ、少し残念だけど、でも、真奈には私よりもウサコちゃんよね? ウサコちゃんの方が合ってると思うな、ウサコちゃんは真奈ちゃんを絶対に裏切らないでしょ、真奈はウサコちゃんをずっと守りたいって思ってるでしょ、コレ以上の相思相愛は明方女子であんまり見たことないな、でさ、ふたりはもう付き合ってるの?」
「適当なことをあんまりベラベラしゃべらないでよ、よくないよ、そういうの!」
真奈は比奈が本当に適当なことばかり言うから怒鳴った。「ね、ウサコっ」
「……そうですよ」一方のウサコは白い美肌が真っ赤だった。
「ん? ウサコ、どうしたの?」
「し、知らないっ……」ウサコは顔を背ける。
「???」真奈にはウサコの心の動きがよく分からなかった。
「初々しくて、可愛いねぇ」
比奈は頬杖ついてこっちを眺めてニコニコしていた。比奈は私とウサコがいろんなことをしているのを想像して喜んでいるんだと真奈は思った。そんなの絶対に有り得ないのに、不愉快だった。ウサコもきっと嫌がっている。「ウサコ、もうこんな人ほっといて皆のところに帰ろう」
「……えっ、ええ、そうですね、そうしましょう」ウサコは頷いて両手で赤い頬をおさえていた。きもそぞろという感じだった。噴水に近づいて冷気を浴びている。
「あっ、もう行っちゃうの?」比奈は心底残念そうに首をすくめる。わざとらしい。
「世界がオレンジ色だもの」もう黄昏時だ。
「ウサギさんはいいの?」ウサギは比奈に抱かれて眠っていた。
「……そうだった」真奈は面倒くさそうに首を振る。比奈は相変わらず簡単にウサギを引き渡してくれそうにない。「簡単には、渡してくれないんだよね? ……キスしたらいいの?」
真奈はもう比奈とキスしたって小ウサコが取り戻せれば何があってもよしみたいな気分だった。別に女同士でキスなんて小さい頃は友達とよくしていたし、余計なことを考えなければ些末なことだ。相手が比奈だっていうことが問題なだけだ。何も考えずに、手を握るように、唇を重ねればいいだけ。
「私にしなくてもいいよ、」決心がついた折り、比奈が言った。「ウサコちゃんにして」
「ウサコに?」ウサコは噴水の冷気をまだ浴びていた。「ウサコとキスすれば、小ウサコを返してくれるのね?」
「ええ」
「絶対?」
「うん、絶対」
真奈と比奈は見つめ合った。それぞれ形の違う瞳での駆け引きだった。
「……よし、いいだろう」真奈は比奈の『絶対』を信じた。真奈は噴水の冷気を浴びるウサコに近づいて後ろから、
「ウサコっ」と呼んだ。
振り向きざま、そっと、キスした。一瞬だったけれど、唇に感触とかいろいろなものが残る。なんだか甘くて、気を抜くと変な気分になりそう。背景の噴水は狙ったように盛大な変化を見せていた。花火のフィナーレの様に一瞬のキスを演出していた。
一方のウサコは何が起こったのか理解できない顔のまま、じっと真奈のいろんなところを観察している。
「これでいいでしょう?」真奈は聞いた。
「うん、満足」本当に満足した顔をしていた。けれど、次の瞬間に眉をひそめて何かの企みを失敗したような表情をして静かに呟く。「……ごめん、不満足」
「なんでよっ」怒鳴る。「ウサコとキスしたでしょ! さっさと小ウサコを渡しなさいよ!」
「真奈さん! 勝手に条件をとりつけないでください!」ウサコは顔面を真っ赤にして真奈に怒鳴る。「心臓が止まるかと思いました!」
「あー、アングルが悪くて」
「アングルって!」
「よく見えなかったの!」比奈はなんだか投げやりに五指を組んで頼み込んできた。「だから、もう一度お願い、お願いします」
「これで本当に、」真奈は腕を組んでご立腹のポーズ。「キスしたら、小ウサコを返してくれるんでしょうね?」
比奈は頷いた。「しゃーない、ウサコ、ごめんだけど、もう一度」
「べ、別に謝らなくてもいいです、小ウサコを返してもらうためです、キスくらい、女の子同士でもよくしますからねっ、おっぱいを触り合うフィーリングでねっ」
ウサコはちょっとナチュラルハイな感じだったけれど、そう割り切ってくれるんだったら真奈も気が楽だった。じゃあ、さっそく、……というときだった。
ウサコがイヤホンに指を当てて、真奈に向かって『まて』のサイン。
「?」
「りょーかいです、」ウサコはマイクに返答し、ボタンを切ると真奈の前から比奈の前に行き、不正を正すように監査委員のように厳格に言った。「この子は私の小ウサコじゃありませんね?」
比奈の顔が一瞬で綻んだ。笑いながら言う。「なんで?」
「連絡がありました、他の場所で見つかったそうです、中等部の噴水で見つかったそうです」
「あっ、そうなんだ、……確かめてみる?」比奈はウサギを持ち上げてウサコに渡した。ウサコはすぐに判断した。
「この子は小ウサコじゃありません、よく確認すればよかったです、似ていますけどこの子は小ウサコじゃありません、額のつむじが逆回転です」
「そっかぁ、飼い主が言うんだからこの子は小ウサコちゃんじゃないんだね」
比奈は残念そうに言う。でも、あんまり残念そうでもない。比奈は真奈に向かって小さなウインクをした。サッパリ意味が分からない。ともかく、ウサコとまたキスをしなくてもよくなったわけだ。
「この人質に意味はなくなったなぁ、」言いながら比奈は小ウサコじゃないウサギをぎゅうっと抱きしめていた。なかなか放さなかったのはウサギともう少し戯れていたかったからかもしれない。「この子、どうしようか?」
「毛並みがきちんと手入れされてますから、飼い主がいると思うんですけれど、」ウサコがウサギを撫でながら答えた。「飼育委員の掲示板に貼り出して飼い主を捜しましょうか? それまではウサギ小屋で面倒見ましょう」
「それがいいわね、ウサギ小屋に私が行ってもいい? この子を抱かせてくれる?」
「もちろんです、皆のウサギさんたちですから、いつでもお声をかけていただければ」
「そう、ありがとう」比奈は朗らかに笑ってウサギをくすぐった。そして比奈に手渡す。「お願いね、ウサコちゃん」
「はい、」ウサコは優しく抱いた。「では、真奈さん、皆のところに」
「うん」




