第六章⑤
「あ、お渡しするのを忘れていました」渡されたのは部屋の鍵、合鍵。
真奈がこの部屋の住人であること示す、何よりの証拠。
絶対になくしてはいけないもの。
真奈の生活は元に戻った。元に戻ったといっても、ホームルームに出たり、講義を受けたり、明方の大多数の生徒と同じような一日のスケジュールを全うしたのは初日だけだったから、ココで言う元に戻る、という言葉の意味は、初日に思い描いた予測しうる未来へ進むルートに真奈が舞い戻ったという意味になる。
ウサコとの日常である。
それはにんじんケーキを食べさせられる毎日だった……、というわけでは決してなかった。
真奈がにんじんを克服するために、確かにウサコはにんじんを砕いて混ぜた料理を何品か作って真奈に強引に食べさせようとした。真奈は断固として口にはしなかったが、ウサコの執拗なにんじん攻撃は三日もすればなりを潜め、真奈は普通においしいものだけを食べられるようになった。
寮の皆やクラスメイトは突然姿を消した真奈がまた突然現れて興味津々なようだったが、それに関わる質問攻めも、真奈が断固としてミソラのことを口にしなかったから、一時間もしないうちに下手な愛想笑いでごまかさなくてもいいようになった。明方女学園の女の子は忙しいから、真奈の消失のことなんて三日で記憶の奥の方に行ってしまったらしい。
その三日のうちにミソラ、比奈、かなえ、梨香子、ウサコに協力していた元風紀委員の麻美子さんからの接触はなかった。本当に何もなくて、何もなさ過ぎて、真奈はグラウンドを全力疾走するくらいだった。
つまり、真奈の明方女学園での普通の生活は順調に再スタートしたわけだ。
ウサコとずっと一緒だった。
講義も、昼休みも、放課後も、お風呂も、布団の中も、ずっと。
それくらい仲良しだった。
一緒にいないと周りからも心配された。『あれ、一人?』な具合に質問されてしまうことも多かった。
そんなときに、真奈は決まってこう答えていた。「ウサコならトイレか、美容室か、小ウサコのところね」
ウサコと真奈が離れる場合はそういうときだけだった。
が、そういうとき以外で離ればなれになるときが急に来てしまった。
七月の一日、真奈が明方女学園に転校してから一か月になる金曜日だった。
ウサコには原因不明の流行病に見えただろう。
真奈の症状はこうだ。
熱はない。咳はでない。鼻水も出ない。お腹も痛くない。頭痛もない。ただ、顔色が悪く、何をするにもやる気が出なくて、ふとした拍子に涙が出る。
「真奈さん、大丈夫ですか?」朝、制服姿のウサコが真奈の頬を擦りながら心配そうに聞いた。
真奈は肯定も否定もせずに、虚ろな目でウサコを見ながら言った。「ウサコ、遅刻するよ」
「でも、真奈さんをほっとけません、看病します」
「遅刻は駄目よ、欠席も」
真奈に言われ、ウサコは仕方ない、という感じで部屋を出た。「講義が終わったらすぐに帰ってきますから」
「うん、ありがと」真奈は布団から手だけ出した。
部屋は一気に静かになる。寮には誰もいない。真奈は目を瞑って、こみあげてくる感情と葛藤する。
愛すべきウサコの後ろに隠れているのは、等間隔に並んだ人形のシルエット。
ノスタルジアで、胸が溢れる。
それを抱き締めると、羽根の様に広がる、あの日見た、またとない美空。
ミソラのコレクションルームに帰りたい。
真奈の病はホーム・シックだ。




