プロローグ⑤
初等部のグラウンドから校舎へ、校舎裏の焼却炉へ、それから職員通路を渡って特別教室の集まった静かな廊下、アリーナの方角へ、と真奈はウサギが飛んでいきそうな場所へ思いつくままに行った。インカムは小ウサコの発見を中々伝えてくれない。耳に伝播してくるのは見つからなくて業を煮やした周防先輩と後藤ちゃんの不毛なやり取りだ。その不毛なやり取りに、
「真面目に探してください!」
と怒鳴ったのは十分前のウサコ。それからインカムは静かだ。それにしても、いくらこの学園が広いからとはいえ、こんな大人数で探して見つからないことがあるだろうか? 真奈は思った。「もしかしたら、誰かが連れてっちゃったんじゃないかな?」
後ろでカメラを飽きずに構えているアリスに言う。「これだけ探してもいないんだもん、初等部の女の子とか、自分のものにしたくて持って帰っちゃったのかも」
「…………」
「もし、そうだったら、」真奈は廊下の窓から顔を出し、植込みの陰を探した。「こんなことしてても仕方ないよね、インカムで周防先輩に言おうか?」
「…………」
「もうちゃんと返事してよ、アリ、」真奈は振り向いた。「……アリス?」
けれどソコにはカメラを回しているアリスはおろか誰もいなくて、夕日に照らされた廊下が向こう側に延々と延びているだけだった。真奈は急に心細くなった。思うままにこの廊下まで探しに来たけれど、転校生の真奈にはココがどこか分からない。ここからどうやってウサギ小屋に戻ればいいか分からない。アリスがいるからと思って、ヘンゼルとグレーテルみたいにパンくずを落とすこともしなかった。「アリス?」
真奈は小走りで階段の踊り場とか柱の陰とかトイレとかを探した。「ちょっと、止めてよ、アリス、からかってるの?」
小声で言う。急にいなくなるのっておかしいし、セーラー服の真奈が慌てふためくのをどこかで撮っているんだと思ったからだ。誰かの視線も感じる。でも、アリスはいない。
「もうっ」真奈は不愉快な声を上げた。声は廊下に反響して広がってすぐに静かになった。真奈は校舎の見取り図を探して走った。ウサコが最初に見せてくれたような案内板がどこかにあるはずだ。でも、不思議とどこにも見つからない。そういえばこの校舎にはエスカレーターもなければ掌形認証みたいなハイテクなセキュリティは見当たらない。床も壁も老朽化しているわけじゃないけれどなんだか古い。だから、そういう転校生に優しいものはないのだと思った。困った。真奈は方向音痴だ。勘を頼りに進んで目的地にたどり着けないタイプだ。真奈は何回も田舎の山道に迷って自分の悪いところを知っているから、潔くインカムのマイクのボタンを押した。ごめんなさい、迷子になっちゃいました。そうマイクに囁こうとした。そのとき、
「真奈さん? こんなところで何してるの?」
肩を叩かれた。マイクのボタンから指を離し、ビックリして振り向くとそこには女の子が立っていた。肌が白くて、おさげ髪のお人形のような女の子。前髪が眉毛を隠すくらい長くて目元に陰があったから一瞬この世の女の子じゃないんじゃないのかなって思ってしまった。でもすぐに思い出した。この子は同じクラスの「えーっと、」
「妙義かなえ」
「そうそう、かなえ」今日の五限目はロングホームルームでクラスメイトが真奈のためにちょっとした歓迎会を開いてくれたのだった。お菓子を食べながらクラスメイトは真奈に明方女学園の様々なことと彼女たちの様々なことを教えてくれた。かなえもその一人だが、積極的に近づいてくるタイプではなかったから正直言ってあんまり印象に残らない子だった。
「こんなところで何してるの?」
「あら、質問を同じ質問で返すの?」
「ああ、私は、その、恥ずかしながら道に迷ってしまって、へへっ」
「迷ったって、え? 迷って、こんなところまで来たの? 旧校舎だよ、ココ」かなえはクルクルとおさげを弄りながら顔を近づけてきてクスクスと笑った。見かけと違って意外と親しみやすい性格なのかもしれない。ともかく、クラスメイトが隣にいてくれるだけで真奈は安心した。それにしても色が白い。涼しい木陰が似合いそうな気品漂うお嬢様って感じ。
「ウサギを探していたの、ウサコの小ウサコ、逃げちゃったんだ」
「逃げちゃったの? ウサコの小ウサコ?」
かなえも小ウサコのことは知っているようだった。
「うん、今飼育委員が総動員で探しているの、だから私も加勢したら、」
「迷っちゃったの?」
「そう」
「確かにこの学園は無駄に広いからね、この旧校舎だって文化遺産とかいって残してるんだよ、平安生まれのお寺じゃあるまいし取り壊して食堂にでもすればいいのに、女の子は文化遺産より目の前のハンバーグ定食の方が好きに決まってるのに」その文化遺産の中にいて罰の当たるようなことを平気で言う。旧校舎の怨霊に祟られてもいけない。真奈は「あはは」と受け流す。
「アリスが一緒だったんだ、アリスが一緒だったからどこへ探しに行っても大丈夫だと思ったんだけど、アリスってば急にいなくなったりして」
「今日はずーっと真奈さんのことを撮っていたよね、ドキュメンタリーでも作るのかしら」
「さあ、どうだろう」出来たとしても起伏のない普通の転校生ドキュメンタリーだ。人が見て情熱大陸的に感動するような、おかしいようなことは、多分、何もしてないから詰まるものには決してならないだろう。まぁ、作られて上映されても困るけど。
「題して、『赤城真奈密着二十四時』?」かなえがふざけて、真奈のセーラー服に手を伸ばしタイをほどこうとする。「セーラー服を脱いだらどうなってしまうのでしょう」
「あはは、止めてよ」
かなえも一緒に笑いながら、一度ほどいたタイをギュッと締め直した。「ねぇ、もしかしたらどこかで真奈さんのことを隠し撮りしているんじゃない? アリスならやりかねない」
「私もそう思ったんだけど、」真奈は再び周囲を見回し、素早い動きで柱の陰とか、いろんなところをくまなくチェックする。かなえの手をとって一緒に探す。細い指だ。どこにも見当たらないことを確かめると『ねっ』とかなえと目を合わす。「御覧の通り、こっちを盗撮出来そうな場所にはアリスは見当たりません」
「いきなり消えたの?」
「うん」
「あやしいな、」かなえは楽しそうにニヤついた。「アリスを舐めない方がいいよ、あの子はなんでもビデオカメラの中に入れたがるからね、欲しいと思った映像を撮るためなら犯罪すれすれのこともする、いや、犯罪かしらね、同性だから許されているだけで」
「そんな、大げさなぁ」
「事実、」真奈の笑みがこわばる顔と口調だった。「私は撮られたよ、」でもかなえはすぐに笑顔に戻った。「でも、もう許したけどね、あはは」
つられて真奈も笑う。でも、真奈は何か感じた。感じてしまった。かなえちゃんの奥にある黒くて怖いもの。女の子なら誰しも持っているダークな部分。話題を変えようと思った。アリスの出てこない、どーでもいいことに。
「あっ、そういえば聞きそびれていたけど、かなえはどうしてここにいるの?」
真奈はどうしてこの時に、こんなことを聞いてしまったんだろうと後で悔やむことになる。考えてみればそれ以外でもよかったはずだ。『得意教科は?』とか、『部活は?』とか、『好きなロックバンドは?』とか、当たり障りのないことは何でもあったはず。『小ウサコを一緒に探してくれない?』でも、むしろその提案が正解だった。けれど、かなえのダークサイドにビビッて何も考えず、真奈は脊髄反射的に言ってしまった。「かなえちゃんはどうしてここにいるの?」って。
「知りたい?」優しい声音。でもかなえの目は全然優しくなくて、冷たくて、なんというか、井戸の底を覗いたときのように不気味で、ぞわっと全身に鳥肌が立った。女の子と会話していてこんなことになったのは初めてだった。
「うん」と頷く。頷く以外なかった。『やっぱりいい』とか、冷静に判断できる雰囲気じゃなかった。
「じゃあ、」かなえは真奈が逃げられないように、真奈はそう感じた、手首を握った。痛みを感じるくらい強く。「私に付いてきて」
かなえの足取りは大股でかつ早かった。地面を壊すようにかなえの上履きは地面を叩いていた。真奈は抵抗できないで正体の分からない恐怖に顔を青ざめていた。かなえはとある部屋の前で足を止めた。かなえは慣れたしぐさで南京錠を開けた。立てつけの悪い扉を開いた。湿った空気と何かが燃えたような匂い。暗幕のカーテンのせいで部屋の奥の方は何も見えない。かなえに促されて中に入る。かなえが扉を閉める。マッチをこする音。かなえの手元に明かりが灯る。かなえは部屋の燭台に火を移していく。部屋の全貌が明らかになる。広さは田舎の高校の部室くらいでテーブル、椅子、本棚とかも何もなかった。異様だったのは部屋の両脇の壁一面に埋め込まれるようにしてくっついている大小さまざまな丸太棒。その丸太棒にはフェルト生地の女の子を象った人形が五寸釘で打ちつけられていた。頭とか首とか胸とか手とか足とかを執拗に打ちつけられているものもある。その人形の胴体には油性マジックで女の子の名前が殴り書きしてあった。真奈は扉を背にして倒れた。気を失わなかったのが不思議だ。「どう? 分かった? 腹の膨れない文化遺産に私がいた理由、俗に言う、丑の刻参りってやつでしたぁ」
真奈の奥歯はガチガチとぶつかる。一方のかなえはお気に入りのお人形を友達に自慢する幼稚舎の女の子の様に無邪気だった。「お参りを始めたのは中等部の頃だったかな、最初の人は寮長をしていた先輩だった、いろんなことに細かくてうるさくて、お天気屋で言うこともコロコロ変わってすぐに怒って、皆のためって言って余計なことばかりして、とりあえず今考えてもサイテーな人だった、だから私が皆のために呪ってやろうと思ったの、図書館で民俗学の本を借りて、呪いの勉強を一晩して、最初はこの学園の近くの美郷神社でお参りを始めたの、きっちりと丑の刻に、美郷神社の大木に藁人形を五寸釘で打ち付けたわ、力一杯、カンっカンっカンって、やってるときはすごい罪悪感なんだけどね、でもね、すごく興奮したの」
かなえは自分の両腕を抱きしめて震え、嬉しそうに笑った。「効果はすぐに表れたわ」
「……し、しんじゃったの?」真奈は声を震わせて聞く。
「ううん、」かなえは残念そうに首を振った。「残念ながら死にませんでした、その代わり、その先輩、転校しちゃった、お父さんの会社が倒産したらしくてね、皆大喜びで私を卑弥呼みたいに祭り上げたわ」
真奈は少なからず安心した。正直、呪いなんて信じられないけれど。「そ、そうなんだ……」
「うん、考えたら、私、五寸釘を打つとき、いなくなれ、いなくなれーって念じていたけど、死ねぇーとは念じていないのよね、だからそのとき分かったの、念じ方で人に与える不幸を変えられるって」
「へ、へぇ」
「だから、もう一度、呪いの力を試したくなるじゃない?」
同意を求められても困るばかりだ。真奈は引きつった顔で頬骨を上げる。「……さぁ、どうかな」
「今度のターゲットはバスケ部のキャプテンだった、キャプテンがいなければ私が試合に出れるのにって寮の子が言っていたの、だから呪ってやった、キャプテンはインターハイの前日、右手の人差し指を捻挫して全治一週間のケガ、もちろん試合には出れなくて、同じ寮の子が試合に出たんだけど、無邪気に喜んでた」
かなえは嬉しそうに笑う。「喜んでもらえるとね、またやってあげたくなっちゃうのよね、それにスリルも味わえるし、正直いってもう中毒になっちゃたの、やめようと何回も思ったんだ、いい加減見つかったらまずいって思ったんだ、でも、呪いを必要としている女の子は大勢いて、どこからか知らないけれど噂を聞きつけた女の子が私に頼みに来るのよね」
一見、純粋無垢なお嬢様ばかりの明方女学園と言えども、浮世の例外じゃないんだな、とか真奈は思った。
「だから私は新しいルールを作ったの、この部屋がそう、」見て、と言わんばかりにかなえは両腕を広げる。「呪いはこの世から少しズレたあの世との契約、何も神社で五寸釘を打つばかりが呪いの手続きである必要はない、要は呪いの力と見合ったリスクを踏んだらいいわけよ、女の子の呪いなんて小さなことばかり、わざわざ美郷神社にまでお参りする必要はないの、だれかの死なんて、よほどの恨みがなければ望まない、まぁ、例外はいないこともないけれど」
かなえはクスリと含み笑いをした。笑顔は可愛いのに真奈の背筋は凍った。その例外の女の子の望みをかなえは叶えてあげたとでもいうのだろうか?
「安心して、私は今のところ、誰も呪い殺してはいないから」
かなえは真奈の頭をそっと撫でた。人肌の感じない手のひらだった。「でもぉ、」と言いながらかなえは手を離す。「私はこれから誰かを呪い殺さなきゃいけないわ」
その一言に真奈は震えた。呪い殺すなんてそんなこと出来るはずがないじゃない。そう思いたい一方で真奈はかなえの呪いをほとんど信じていた。かなえが嘘をついている風には見えない。真奈をからかっているようなそぶりもない。サプライズにしてはこの部屋の雰囲気は生々し過ぎる。何より、かなえが怖い。呪いが嘘か本当か分からないけれどでも、かなえが誰かを呪い殺しても不思議じゃないくらいに怖いのは事実だ。
「私の呪いのルールだと、旧校舎に入ってこの部屋で釘を打ちつけて出るところまで、その間、誰にも見られちゃいけないんだぁ、見られちゃうとどうなるか知ってる? 有名だよね、呪いが成立しないのはもちろん、その呪いが当の本人に帰ってくるんだって、うわぁ、大変なことになったなぁ、どうしよう、私、呪い殺されちゃうのかなぁ、嫌だなぁ、まだ死にたくないなぁ、真奈さん、私の心がざわついているのが分かる? 分かんないよね、分かってほしいな、とにかくね、私の今の気持ちを一言で現すと、」かなえは不敵に笑って、凍りつくような表情で真奈を呪うみたいに見る。「『じゃますんなボケっ、あんた何様?』……っていう感じ、かな?」
真奈は生きている心地がしない。金縛りにあっているみたいに体が動かない。
「でもね、降りかかる呪いから身を守る方法っていうのがあってね、それはね、呪いの目撃者を呪い殺すことなんだ、あら、なんて簡単なんでしょう、でもそれは辛いことだわ、私は真奈さんを呪い殺さなきゃならなくなってしまった」
かなえは人差し指を立てて説明してから、わざとらしくガクンと肩を降ろし、頭を抱えてうつむいた。それから三秒間の沈黙。
「……ふひひひひ」かなえは急に笑って部屋の壁の丸太棒に打ち付けられた人形の一つを触って、乱暴に引っ張った。人形は首がちぎれて胴体だけになった。かなえはその胴体を真奈に見せた。名前が書いてある。
宮藤アリス。
「真奈さんにさっき言ったでしょ? アリスを甘く見ない方がいいって、アリスは私の呪いを見たどころか、カメラに納めた、私は私の呪いに呪い殺される前に宮藤アリスを呪い殺さなきゃいけなかったの、そして真奈さんが私の呪いの途中に現れたことによって、私が呪い殺さなきゃいけないのはアリスだけじゃなくなった、真奈さん、私はあなたを呪い殺さなきゃいけなくなったの」
真奈はもう泣いていた。どんなホラー映画を見ても、お化け屋敷に入っても、田舎のお墓に肝試しをしても泣いたことのない真奈だったが、この時、初めて、恐怖で泣いた。目の前が涙でよく見えない。
「真奈さん、泣かないでっ」かなえは急に真奈の手を両手で握ってきた。「ひぃいいいぃっ」悲鳴を上げてしまった。顔はとてつもない不細工だったに違いない。かなえの手はとても冷たかった。真奈は必死にかなえから離れようとする。でも腰が抜けて、どうにもこうにもならない。不細工な顔をさらに歪ませて、顔を背けるのが精一杯だった。
「私は真奈さんを呪い殺したくはないの、だから、安心して、一つだけあるの、私も真奈さんも呪い殺されない方法が」
「………………え?」真奈は恐る恐る瞼を開けた。かなえは笑っていた。真奈もつられて安心してしまう。殺されない? よかったぁ、って安堵する。でも、ことは簡単じゃなかった。
「その方法はね、私が真奈さんにふるった呪いを真奈さんが誰かにふればいいわけ、つまり、真奈さんが私の呪いと一緒に誰かを呪って、呪い殺せば、私と真奈さんが呪い殺されなくて済むの、簡単でしょ、要は誰かに呪いを全部引き受けてもらえば言いわけ」
「そ、それって、」頭の回転率の低いこの状況でも真奈は分かった。「結局、誰かが死んじゃうってこと?」
「うん、そうなるかな、」かなえはあっけらかんと言う。「まぁ、簡単でしょ」
簡単なわけがない。
「そ、そんなの、駄目に決まってるじゃないっ!」
「何が駄目なの?」
「人を、」真奈はこんなことを大真面目に言う日が来るとは思ってみなかった。「人を殺しちゃいけないでしょ!」
見つめ合うこと二秒。
「…………ふっ、ふふっ、あははははははははははははっ、」真奈が大真面目に言った台詞をかなえは大きな声で笑い飛ばした。「真奈さんってばおかしい、お腹痛いっ」
かなえは実際にひーひーお腹を押さえていた。
「な、何がおかしいのよぉ!」訳が分からなくて声がひっくり返る。
「だ、だって、」かなえはまだ苦しそうだった。「殺すって言っても呪いだよ、首を絞めるとか包丁で刺すとか毒を盛るとかじゃなくて呪い殺すだけだよ、首を絞めたり包丁で刺したり毒を盛ったりするのは犯罪だけど、呪いは犯罪じゃないんだよ、警察に捕まらないんだよ、だったらいいじゃん、捕まらないんだったら殺しちゃえばいいじゃん」
かなえの狂気じみた言動と笑いに、ああ、この子はもう普通っていう曖昧な尺度を飛び越えちゃってるんだな、異常なんだな、と思ってまた泣きそうだった。
転校生なのに、こんなのってないよ。
「いいね、じゃあ、さっそく、」かなえは真奈の同意を待たず、真新しい人形に『赤城真奈』と書いて丸太棒に据えて、五寸釘で打ち付け始めた。真奈は何も見ないように目を塞いだ。耳も塞いだ。けれど、金槌の残酷な音は嫌でも耳に入ってくる。『儀式は誰にも見られちゃいけないんじゃないの?』とか思ったけれど、そんなこと言える雰囲気じゃなかったし、そんな些末なことすぐに忘れた。気のせいだと思うけれど胸に釘が打ちつけられているかのように痛む。「はい、じゃあ、次、真奈さんの番ね」
かなえは金槌と五寸釘と人形を差し出した。真奈は何も言えずに受け取った。何も言えずにかなえを見上げると、「ああ、マジックね、」と案の定、真奈の気持ちを何も分かっていない。マジックを持たされて真奈はどうしていいか分からない。「…………」
「しっかりと恨みを込めながら書くのよ」
「…………」
「…………早く書きなさいよ」苛立たしげに命令してくる。真奈はいやいやと首を振った。
「もうっ、誰かいないの、呪い殺してもどーでもいいやつ、十五年も生きてきたんだから一人や二人いるんじゃないの? それともあなたは心清らかなマリア様?」
マリア様じゃないけれど、幸いなことに真奈は呪い殺してもいいと思えるほど嫌な人に会ったことがなかった。田舎生まれ、田舎育ちだからだろうか? 都会は呪い殺してもどーでもいいやつがたくさんいるんだろうか? ……いた、目の前の妙義かなえ。でも、やっぱり殺したいなんて思えるはずがない。
「もうっ、貸して、」業を煮やしたのか、かなえが真奈の人形をひったくって名前を殴り書きした。えっ、私が書かなくていいの?
「いいのよ、あなたが釘を打てばそれでいいのっ」
なんかさっきまでの話とは妙に食い違っているような感じがした。あの世との契約はこんなに雑でいいのだろうか、と。
「いいからさっさと打ちなさいっ」
人形を渡されるとそんな些末な違和感のことはすぐに消えた。その人形には『宮藤アリス』って書いてあったからだ。なんで、どうして?
「アリスも私が呪い殺さなきゃいけないし、面倒だからアリスに呪いを全部かぶってもらおうと思って、さ、真奈さん、ちゃっちゃとやっちゃってよ」
そんな、にんじんの皮むきじゃるまいし、ちゃっちゃと釘が打てるわけがない。アリスを呪い殺す? そんなことできるわけがない。でも、狂気染みたかなえのことが怖くて真奈は人形を丸太棒に据えてしまった。こうなるともう、言い訳とか謝罪とかしか考えられなくなる。アリスが呪いで死んじゃった後のことを考えてしまう。アリス、ごめん、でもね、仕方なかったんだ、アリスを呪い殺さなかったら、きっと私が……、ってな具合に。でも、嫌だ。そんな気持ちを背負って生きていたくない。アリスも死んじゃいけない。でも、でも、でも!
「アリスを殺せるくらい、恨みを込めなさい」
かなえが言った。真奈はかなえを見る。こっちをじっと見つめている。早くやれと怖い目で促している。真奈は人形に向き直った。様々な気持ちが竜巻みたいに心をかき混ぜる中、真奈は金槌を構えた。
『真奈さん、今、どちらですか?』
インカムが真奈にウサコの声を伝えた。真奈の動きが止まる。「…………」
「ん? 早く打ちなさいよ」
『……真奈さん、聞こえていますか?』返事がないから、ウサコが心配している。『真奈さん、真奈さん? 返事してください』
「真奈! 早くして!」かなえが怒鳴った。
「やっぱり、嫌ああああああああああああああああああああああああああ!」真奈も怒鳴った。
「…………」かなえは丸くて可愛い目で真奈を見ている。いきなりどうしたんだ、コイツ? みたいな感じで。
ピッ。真奈は金槌も五寸釘も人形もポイッと捨てて涙目でインカムのボタンを押して、
「ごめん、ちょっと取り込んでて、あっ、まだ小ウサコ見つからないや」と言った。返事はすぐに返ってきた。
『合流しませんか? 場所は中庭の噴水の前で』
「中庭の噴水の前、うん、りょーかい」
インカムを切る。「じゃ、そーいうことだから、かなえ、今日のところは大目に見てよ」
真奈は恐怖を振り払うことが出来た。ウサコの声を聞いたから、多分、きっと、そう。
「呪いはどうするのっ!?」かなえが怒鳴る。ビクッてなった。でも、怖くなかった。かなえの調子も乱れているみたいだった。かなえは癇癪を起した可愛いお嬢様だ。そう思えば、言いなりになることはない。
「べ、別に、」必死に声の震えを抑える。「今すぐアリスを呪い殺す必要もないでしょ?」
「そーだけど、」かなえは一度頷いた。でも慌てて怖い顔を作った。「……いや、そうじゃない、そうじゃなくて、呪いはもうすぐに真奈さんを殺すわよ!」
説得力がない。さっきまで呪い殺すって言っていたのがウソみたいだった。ボロが出ている。逃げるなら今だと真奈は判断した。
「殺すわよ!」
「じゃあ、かなえ、」真奈は精一杯、明るいスマイルでテンションを上げた。「アリスを呪い殺すのはまた今度にしよっ」
真奈はかなえのおさげを触って部屋から走り出た。腕を掴まれたけど真奈は振り切った。




