第五章⑮
鳩笛寮はとても懐かしかった。もうずっと、昔の世界に戻ってきたような感じだった。ウサコは人目を避けるように、真奈の背中を押して部屋まで連れて行った。部屋も懐かしい、机も、ベッドも、何もかも。真奈は部屋を見回し、椅子の背もたれに触れた。ウサコがパタンと後ろ手で扉を閉めた。
空気の流れが止まる。
どっちつかずの世界だった真奈の世界が固定されたようだった。
帰ってきたのだ、そういう感慨。
ウサコとの日々に引き戻される。
それはミソラとの日々を夢のような日々にすること。
熱が冷めたようだった。
部屋は凄く静か。
コレクションルームみたいに雑然としていなくて、スッキリとしている。
何か、足りない。
チョコレートのように、後を引く、あの毒のようなものが足りない。
「あ、制服がないんだ、どうしよう」真奈は洗濯工場のまま、ジャージ姿である。
「おかえりなさい」ウサコは扉の前に立ったまま言った。
真奈は首だけ振り返って微笑んだ。「うん、ただいま」
ウサコは八重歯を覗かせて笑った。「コレを機会に明方の制服に変えてみたらいかがです、予備がありますからどうぞ、私のを使ってください」
ウサコはクローゼットから制服を取り出した。
「いや、でも、そんなの悪いし、セーラー服も気に入っててくれたし、」真奈は、主語は曖昧にして、思わず言ってしまう。「取りに戻ろうかな」
「戻るって、」ウサコは俯き加減で制服をしわくちゃにした。「ミソラさんのところに、ですか?」
「うん、荷物も全部そっちにあるし、」真奈はミソラのコレクションルームに戻りたかった。熱を冷ましたくなかった。あの日当たりの最悪の部屋に戻りたい。でも、ウサコは私がいなくなったら泣いてしまうだろう。そうでなきゃ、真奈を取り戻しに行動を起こしたりなんてしないだろう。真奈がコレクションルームで思っていた以上に、ウサコは真奈を求めている。でも、真奈の気持ちは片方に傾いている。「ウサコ、知ってた、私、無期謹慎なんだ、それであんなところにあんな人たちといたんだ、謹慎になった子はね、労働して部屋から出る時間を稼ぐんだよ、私は洗濯工場で働いているの、まだ四時間だけだけど、だから私は四時間以内に帰らなきゃいけない、そもそも謹慎中は寮に来ちゃいけないんだ」
「真奈さんが、」ウサコは床を見ながら言う。髪の毛で目元が見えない。真奈が『戻る』なんて言うから悲しい気持ちになっているのだろう。その気持ちと一緒に、真奈がウサコから感じるのは『絶対に行かせない』という決意。「にんじんを食べてくれれば、それで謹慎は解けるのではないんですか?」
ウサコは謹慎のふざけた理由を知っていた。真奈は困る。言い訳に、だ。「そうだけど、うん、でもウサコが思っているより私はにんじんが嫌いなの、絶対に無理、前に言ったでしょ」
「真奈さんが食べられるように、私、ケーキを作ります」
「ケーキでも駄目なものは駄目よ」
「じゃあ、クッキー」
「クッキーでも自信ない」
「じゃあ、グラッセ!」
「ぜーったい無理っ! バターと砂糖で味付けしただけじゃん!」思わず怒鳴ってしまう。「にんじんから何も進歩してないじゃん!」
「いかないでよ!」急にウサコは真奈を強く抱きしめた。真奈は怒鳴った自分を最低だと思う。「ごめんなさい、真奈さん、お願いですから、私を、置いて、もうどこにもいかないで下さい、もう、一人は、嫌です」
「……ウサコ、大丈夫?」真奈はウサコの後頭部を優しく撫でた。
「……はい」小さな返事。
ウサコを悲しませてしまった。真奈の心は物凄く痛い。きつい抱擁を緩めて、真奈はウサコの顔を見る。瞳は充血していて真っ赤だった。そこに溜まった涙は紅い。紅い涙が一筋、頬を落下する。
こんな紅い涙はもう見たくないと思った。
ウサコは目を閉じて、キスをせがんでいる。
真奈はこんな紅い涙はもう見たくないと思った。
次の日の朝、ウサコが目を覚ますと隣には誰も寝ていなかった。
一瞬、慌てた。
でも、見上げると、明方の制服を身に纏った真奈がいた。ウサコに向かって微笑んでいる。
「おはよう、ウサコ、どう、似合う?」真奈は一回転して色気のないポーズを取った。両手で耳を作って「ぴょんぴょん」とウサギの真似。幸せ過ぎて涙が出た。




