第五章⑪
天樹と麻美子とウサコはベンチの裏の茂みの中で息を殺し、機会を待っていた。ベンチまでは少し距離があるが、遠くはない。声を上げれば簡単に気付かれる距離だ。歩いて十歩の距離だ。心臓の鼓動が聞こえているかもしれない。そう考えてしまうくらいの距離だ。
真奈たちの会話はよく聞こえた。会話の内容はよく分からなかったけれど、ウサコは真奈が思っていたよりも元気だということにショックだった。ショックというのは言い過ぎだろうが、もっと、なんていうか、私みたいに悲しんでいて欲しかった。悪い考えが浮かぶ。
でも、しかし、真奈を部屋に連れ戻せば、こんな、歪んだ気持ちは消えるに違いない。
真奈が立ち上がり、アイスの棒をゴミ箱に投げた。
ウサコは茂みの中から飛び出した。天樹も麻美子も飛び出す。両者は顔を見合わせて笑みを作った。タイミングが絶妙だったのだ。
「それじゃあ、帰ろうか」真奈が天樹と麻美子とウサコたちの方に振り返って言った。
ウサコはベンチを挟んで真奈の前に立って、息を殺していた分の声量で言った。
「ええ帰りましょう、真奈さん、私たち、二人だけの部屋に」
「ウサコ?」真奈の顔は驚いていた。もっと嬉しそうな顔をしてほしかったんだけどなってウサコは思った。ウサコは真奈の右手を掴んだ。絶対に離すもんかって強く優しく握った。
「行きましょう」とウサコは真奈を引っ張った。
「え?」真奈は戸惑っていた。真奈はウサコと一緒に走り出してくれない。
「だ、だめぇ!」声を上げて真奈の左手を掴んだのは比奈だった。
「ホールドアップ!」叫んだのは麻美子だった。モデルガンを突き付けると比奈は「きゃっ」と悲鳴を上げて真奈の左手を離した。
「走れ!」麻美子は地面を揺らすくらいの大音量で叫んだ。真奈がびくっと体を震わせた。真奈の背中を麻美子は乱暴に押した。真奈はウサコに引っ張られるがまま走り出した。麻美子もその後に続く。
パンっ! 一発の威嚇射撃。
「バカっ!」梨香子はモデルガンに騙された比奈に言った。比奈は抜かした腰をどうにもできなくてベンチから動けないでいる。梨香子は舌打ちして走り出した二人を追おうとする。「クソっ!」
「ココから先は行かせないっす!」
梨香子の前に天樹は躍り出てパッと両手を広げた。「あれ? こういうときはなんていうんだけ? えんがちょ? 指切った? ……あ、思い出した、とおせんぼ、とおせんぼ!」
「邪魔っ!」梨香子は天樹を躱そうとする。何度も。
けれど、天樹はスカートに付いたホコリみたいだった。梨香子は十秒で躱すことを諦めた。殴る方が手っ取り早いと思ったからだ。梨香子は天樹と対峙して天樹を観察し始める。長いスカートに、黒光りするミリタリーブーツ、細いネクタイ、青い瞳、金髪、だが、顔つきはハーフじゃない、長い金髪に隠れているのは子供っぽい端正な顔立ち、非常に個性的な姿をしている、それと後ろ盾のない自信に満ち溢れている表情、つまり何を考えているのか分からなくて、困る。いや、ただ虚勢を張っているだけなのかもしれない。
梨香子を前にしてそういう表情をするやつはいない。
かなえはもっと梨香子を困らせる表情をするが、いや、とにかく、天樹はファイティングポーズを取っていた。
覇気のないファイティングポーズ。
やる気だろうか?
なんだか昔の記憶が溢れてくる。
昔の様に体が動くか心配だ。乾燥機のせいで少し反射神経が鈍っている。普通だったら真奈が走り出している前に、どうにかしていたはず……、考えても仕方がない、後悔はしばらく後でいい。梨香子は錆を振り払うように、強く拳を握った。硬く、硬く、硬くする。
ファイティングポーズを構えた。
梨香子のファイティングポーズも天樹と同じように覇気がない。
でも、梨香子の感覚は昔に近づいている。
コレクションドール以前、モダンライフ以前の血の気の多いあの頃に戻っている。
訳もなく、喧嘩に明け暮れた、あの頃に。
梨香子は跳ねた。
つま先に体重を乗せて、
一回、二回、三回、小さく跳ねた。
そうしながら間合いを取る。
梨香子が優れているのは間合いの取り方。
筋肉なんかじゃない。
梨香子の腕はモデルみたいに細い。
優れているもの、もう一つ。
その細い腕に超ド級の威力を込めるための、ばね。
梨香子はその優秀な二つの武器で、生き延びてきた。
「通してもらうよ」
梨香子は右ストレートを繰り出した。目で追えない速度。軌道は完全に天樹の顎を捕えていた。
が、その瞬間、左腕に激痛が走った。
不意打ち、梨香子にしてみればそうだった。
クールな顔が歪む。
側頭部を狙う、天樹の一撃必殺の回し蹴りだった。
梨香子は天樹の蹴りを全く予想していなかった。
乾燥機の疲労のせいだろうか?
天樹のキックは、とてもゆっくりだった。梨香子には確かにそう見えた。
とてもゆっくり襲ってきた。それははっきりと見えていた。
梨香子が右ストレートを繰り出し、左腕が下がり、ガードが開いたところを狙われたのだ。
油断、それもある。
目の前の女の子は隙を窺っていたのかもしれない。
途中まで、といっても右ストレートの一秒もない時間の間だが、天樹のキックは途中まで全く見えなかった。
くるぶしまで隠す、ロングスカートが右脚の軌道を隠していたのだ。
ロングスカートの模様も距離感を惑わず細工がなされているのかもしれない。
天樹の脚は目測以上に長かったようだ。
それも言い訳。
細い足が見えてから、それに襲われるまでの映像は梨香子の中でゆっくりと、何回も再生される。
スローモーションという言葉がしっくりくる。よく見えていたのだ。躱しきれなかったのは躰のせい。しかし、スローモーションと言っても左腕の激痛の原因である。本当にゆっくりなわけがない。
天樹のキックが見えたのは、黒光りする、硬そうな、実際硬い、ミリタリーブーツが梨香子の身長の上をいく高さに達し、梨香子のこめかみに向かって鋭く降下してきたときだ。
梨香子はよく見えていたから、反応は出来た。反応速度は明らかに鈍っていたが、左腕でガードすることは出来た。
しかし、ガードしたが、戦車のキャタピラにも耐えられるように硬く補強されたミリタリーブーツは梨香子の左腕を砕いた。
ミリタリーブーツだけのせいじゃない。
天樹の回転から繰り出されるキックは鞭のようにしなやかで、刀のように鋭かった。
そうでなかったら、激痛とともに、嫌な音が全身を駆け巡るはずはない。
梨香子はその場で蹲った。
そして呻く。脂汗が全身から噴き出している。それでも尚、梨香子は闘争心を失っていない。
奥歯を噛んで、必死に天樹を見上げた。
しかし、そこにはもう、天樹の姿はなく、梨香子の脳裏にはかなえが浮かんだ。




