第四章③
ブロンドの長い髪、黒目を覆うブルーのカラーコンタクトレンズ、ドレスの様なつくりのブラウスの襟首から伸びる細いグレイのネクタイ、くるぶしまで届くロングスカート、コンクリートの地面を鳴らす迷彩柄のミリタリーブーツ、それらが武尊天樹の外見上の特徴であり、武尊天樹は平日の日中は大抵講義をサボって『天樹探偵事務所』で居眠りをするという習性がある。天樹は他の女の子に比べて頭の回転が速く、記憶力がいい。だから一年中居眠りをしていても単位を落とすこともなければ留年することもなかった。とりあえず天樹は高等部の一年生という肩書を持っている。
「ん~ん、」天樹は机の上に投げ出していた足を畳みながら伸びをして目を覚ました。瞼がハッキリと開かない。カラーコンタクトが乾いて少し痛む。外そうと思ってそのまま寝てしまったのだ。ミリタリーブーツも脱いでいない。この季節、きっと臭いの発生源になるだろう。ロングスカートはしわくちゃだ。またアイロンをかけなきゃならない。ネクタイは結び目がほどけていた。机の上は文明が一度滅んだような有様だった。昼寝中にミリタリーブーツが滅ぼしたのだ。いや、その前から確か酷かった。天樹は整理整頓掃除洗濯料理といった嫁らしいことが苦手だ。早急に嫁を求む。冗談。天樹は手首のGショックを見た。「……もう放課後か」
天樹の声はアニメのキャラクターの様に個性的だった。笑っても泣いても叫んでもどーでもいい独り言をつぶやいても歌声のように聞こえる。外見だけで他の女の子と一線を画しているのに、そのアニメ声のせいで、天樹の存在はさらに三次元らしくない、と誰かが言っていた。
「……帰ろうかなぁ」天樹は背後の窓を開いて風を浴びた。そろそろ日没だ。何かを始めるにはとても遅い時間である。何かをする気分じゃない。『天樹探偵事務所』はそんな無気力が充満していた。
事務所の場所は部室塔の四階の一室で、広さは四畳半よりは広めだが六畳もない感じ。南側の窓を背にして天樹の椅子と机が置いてある。両方ともインターネットで海外から取り寄せた特注品で主に大企業の部長クラスが愛用するレベルのものだった。つまり、居眠りには最適。左右の壁にはいつでも深い眠りにつけるようにソファがあり、その間に申し訳程度に長方形のテーブルがある。主にこのテーブルを挟んで天樹は依頼主の相談に応じるのだが、今現在はジェンガの様にものが積まれてタワーになっていた。溜息を付いただけで崩れそうだった。
廊下へ出る扉の左には掃除用具入れのような横幅の狭いクローゼットがあり、右には食器棚のような本棚があった。どちらももともとこの部屋にあったもので、天樹はいつからこの部屋にあったのか知らない。けれど古いものだということは分かる。部屋とすっかり同化してしまっているからだ。本棚もクローゼットも天樹の私物でパンパンである。ちなみにココは角部屋、隣は第二文芸部なので居眠りをするには最高の場所なのだ。
「うー、よいしょっ」綺麗な夕日をブルーのカラーコンタクトレンズに映して天樹は帰り支度を始めた。支度といってもカバンからポッド的な携帯音楽プレイヤーを取り出すだけであるが。
その折り、ドアノブが回って急に扉が開いた。
ノックもしないで勝手に部屋に入ってくるデリカシーのない女の子は一人しかいない。
幼馴染で、一つ年上で、いつでも頭痛が痛い奥白根麻美子だ。
「ああ、天樹、やっぱり私はもう限界かもしれない、」麻美子はスタスタと天樹の机の前までやってきて片手をついて訴える。「もう無理だ、私の正義感が権力の正当化を許さない」
「現場一筋の公務委員みたいに悩んでるね」天樹はイヤホンを耳に入れながら言った。
「何?」麻美子は天樹のイヤホンを指にコードを絡めて引っ張った。「もう帰る気だったの?」
「もう放課後だぞ、家に帰ってゴロゴロしたい気分なのだぁ」
「今日も一日中寝てたんだろ? 講義をサボって」
「少し言い過ぎ、お昼過ぎに起きておやつを食べた、バニラクッキー」
「……もう一度謹慎するか?」麻美子はイヤホンをペチッと天樹の顔に投げた。天樹は素早い手の動きでソレをキャッチしてポッド的な音楽プレイヤーに巻いてカバンにしまった。麻美子はソファに腰を下ろした。天樹も向かい側のソファに座る。机の上に積まれたいろいろなものが二人を隔てる。邪魔だ。麻美子はブルドーサーの要領で左腕を使って机の上を掃除した。一瞬でタワーが崩れ、いろいろなものは床に散乱した。机の上はスッキリした。
「あはは、」天樹はタワーが崩れるのを見て天真爛漫に笑う。「麻美子ってば、乱暴」
「謹慎はどうだった?」麻美子は足を組んで尋ねた。「少しは懲りた?」
「懲りたも何も、天樹、なーんにも悪いことしてないし」天樹は懲りていない顔で言う。
「そう、」麻美子は頷く。「でも、天樹、講義をサボるのは悪いことだと思うよ、ニートってやつだよ、私は天樹にそんな風になってほしくないな」
「テストはいつも学年トップ、テストの点数だけはいいから大丈夫」
「どこかのレズみたいに控えめに自慢するんだな」
「レズ?」
「なんでもない、一週間は短かったかな?」
「読書が捗った、村上龍も森博嗣も吉本隆明も、あーいう暗いところでしか読めないからね」
「どーいう意味、それ? 私、頭硬いから分かんないな、でも、いい、天樹を謹慎させても何もならないことが分かったからいい、それが分かっただけでも、私は嬉しい」
「なに、感傷的になってるの?」天樹は無邪気に笑顔だ。「探偵としていい経験になったよ」
「ただ自分の部屋が欲しくて訳の分からない探偵事務所を立ち上げた女の子の言葉とは思えないな、達成感を言葉に込めるのが上手、お上手」
「すでに探偵歴は三年、」天樹がこの探偵事務所を立ち上げたのは中等部一年の春だった。「部屋にトランペットを三年間置いていたら嫌でもロッキーのテーマがふけるようになる、それと同じ、三年間、この探偵事務所を当てにして様々なトラブルの解決を依頼してくる女の子たちを相手にしていたら嫌でも探偵になれるっしょ」
「天樹はセラピストに向いていると思う、白衣を着て、眼鏡をかけて」
「天樹に眼鏡は似合わないよ、」天樹はひらひらと手を振った。「謹慎中は眼鏡だったけど、ああ、でも屈辱だったなぁ、でも、まぁ、裏を知れた、という点で非常に重要だったな、学園の問題児しか知りえない明方の裏事情とかを、それに、名探偵が名探偵であるためには過去に牢獄に入っていたり危ない人間と知り合いだったり恋愛が下手だったり誰かの骨を折っていたり、そういうダークな面がなきゃいけないと思わない? 天樹はこの謹慎経験で、牢獄を知り、危ない問題児たちと交流することが出来た、つまり名探偵に近づいた」
「恋愛は? それから誰かの骨を折った?」
「それはまだコレからの話」天樹は指を立てる。
「ふ~ん」麻美子はつまらなそうな顔。
「とにかく、武尊天樹の歴史はこの謹慎以前と謹慎以後に便宜上、区別できるわけだ、後世の大学生は私の謹慎以前と謹慎以後の比較研究に頭を悩ませるに違いない」
「待たなくていい、天樹は私を悩ませる素敵な女の子だから未来の大学生を困らせなくていいよ」麻美子はつまらなそうな顔をして溜息を付く。言いたいことが言えないからだ。
「何飲む?」天樹がアニメ声で聞く。
「何がある?」
「ココア」すでに天樹は引き出しを開けてココアの粉末の入った袋を取り出し机の上のポットを操作している。
「それ以外」
「これしかないぞ」
「じゃあ聞くな、」麻美子は手をひらひらとさせ天樹に言った。「ココアでいいよ、甘いの嫌いだけど」
「砂糖は四つ?」
「うん、今日は滅茶苦茶甘くして」麻美子はぞっとするほど可愛い声で言ってソファの上に置かれたモコモコのクッションを抱きしめる。
「麻美子、」天樹は笑顔を硬直させたまま何かを言おうとして躊躇う。やっぱり言う。「ちょっとキモイ」
「あーあ、どうして私は天樹みたいに可愛くないんだ!?」麻美子はクッションを叩く。
「えー、」天樹は口を尖らせる。「麻美子は美人じゃん、スタイルもいいし、それでいておっぱいが大きいし」
麻美子は頬杖ついてじーっと天樹の胸を確認する。「天樹のおっぱいも日々成長してるじゃないか、一週間前より若干成長してないか?」
「ふふふ、それは違うのだよ、」楽しいのか、悲しいのか、どっちなのか分からない顔で天樹がマグカップを二つテーブルに置いた。ココアの匂いが湯気と一緒に漂う。「確かに成長はしている、しかし成長しているのは胸ではない、成長しているのはおっぱいが大きく見える技術だよ、まみにゃん」
「誰がまみにゃんだ、こら」
「どーだ、」と天樹は自分の胸をプッシュした。ブラウスの胸元の生地は空気が抜けた風船のように凹んだ。「このネクタイも実はトリックなんだ、このネクタイをぶら下げていると人間の目には胸が大きいように見えるんだ」
「天樹、凄い、それはとても凄い発明だ」二人は黙り甘いココアを三十秒間くらい味わった。
「で、麻美子、」と天樹は切り出した。「何が限界で無理なの?」
「あっ、覚えてたんだ」麻美子は微笑む。
「ソコまで下衆じゃないよ、例によって私に相談事っしょ?」
「なんだか相談事に慣れている雰囲気がちょっとイラッと来るね、イラッと」
「天樹はセラピストに向いてるって言ったのは麻美子だよねぇ!?」
「あっ、覚えてたんだ」麻美子は微笑む。
「もうっ、天樹を弄りにきたの? それなら天樹、もう帰るよ、もう空がオレンジ色からブルーに変色してる」
「今から愚痴ることは全て外部に漏らすでないぞ」麻美子は前のめりなって言った。
「うん、わかったから、何?」天樹もキスできるくらいに麻美子側に前のめりになる。
「ぜーったい内緒にしてよ」
「うんうん、で何?」
「昨日……いや、一昨日、転校生が来たんだ」
「へぇ、でも珍しくないよね、ココには一か月に十人の転校生が来たこともある」
「ミソラがその子のことが欲しいって言い出した」
「なるほど、」麻美子は天樹に内緒といってミソラのことを全て愚痴ってある。「で、どうしたの?」
「昨日の朝、御用」
「とんだ悪だったんだ、やることが早い」
「違う」
「何が?」
「分からない? 私がこんなに悩んでいるんだから推理してよ」
「面倒くさいなぁ」
「無理やり謹慎の理由をでっち上げて捕まえたんだ」
「えっ!?」天樹はマグカップに伸ばした手を止めて驚く。「それ犯罪じゃん!」
「しっ、」麻美子は慌てて人差し指を立てる。「アニメ声がうるさい、普通にしてても天樹の声はよく通るんだからぁ」
「うん、」天樹は腕を組んで何かを納得するように頷いている。「麻美子、昔はやんちゃ坊主だったもんね、うん、まぁ、とにかく安心して、誰にも言わねぇからよ」
「坊主って、おいっ、それに、天樹は少し私のことを勘違いしているようだなぁ」
「幼稚舎の頃は天樹、麻美子のこと男の子だと思ってて」
「女の子しかいなかっただろ」
「麻美子だけ特別枠だと思ってたんだよ、幼心に」
「話を戻すよ」麻美子はココアで口を濡らした。
「ね、覚えてる、」天樹は無邪気に笑う。「あの頃交わした結婚の約束」
麻美子は少量のココアを吹いた。「はぁ? そんなことした?」
「きたなっ、」天樹はテーブルを拭く。「え? 覚えてないの?」
「覚えてるかよ、そんな昔のこと」
「麻美子がいきなり手書きの婚姻届持ってきたんだぞ」
「えっ? 私からか!?」言われて麻美子はうっすらとそんなことを思い出した。少し顔が熱くなる。すでに鮮明に思い出していた。「私から、そんなことするはずないじゃないかっ」
「えー、絶対麻美子からだって」
「嘘をつくな、嘘を、」麻美子は嘘をついてしまった。「私がそんな恥ずかしいことするはずがないじゃないかっ」
「いや、ぜーったい麻美子だね!」
「天樹だ!」
「よーし、」と天樹は人差し指を立てる。「じゃあ、賭けをしよう」
「賭けってなんだよ、」その賭けが成立しないことは分かっていた。証拠となる手書きの婚姻届は確かくしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てたからだ。どーして捨てたかといえば、それはお察しの通りである。「タイムマシンにでものらなきゃそんなこと分からないだろ」
「そのとーり、」天樹の声は天国まで届く声だ。「タイムマシンで確かめに行こう」
麻美子は少し呆れる。「タイムマシンなんてあるはずないだろ」
「出来ないかもしれないけれど、でも出来るかもしれないっしょ、私たちが生きている間にね、そのときにこの賭けは成立する」
天樹が真顔で言うから麻美子は吹き出した。「随分気の長いこと」
「ゆえにレートは高いよ」
「何を賭ければいいの?」麻美子は調子を合わせる。「私のファイヤーバード?」
「それもいいけど、」天樹は勿体ぶってからアニメ声で言う。「お前だ!」
指差され、「はぁ?」と麻美子は返答。
「お前は天樹の嫁だぁ」
「うん、」麻美子は天樹が婚姻届に判を押さなかったのを未だに根に持っている。それなのに今更、という態度で言う。「で、私たちは何の話をしてたんだっけ?」
「あれ? 麻美子、もしかして怒ってる?」
天樹は焦った。麻美子は天樹を困らせるのが好きだ。風紀委員になって、散々女の子たちに困らせられてきたからだと思う。要は、麻美子は天樹に毒々しいものを浄化してもらっているのだ。天樹は何でも受け止めてくれるから麻美子は甘えてしまう。もちろんそんなことを思っているなんて口にも態度にも出さないけれど。
「転校生を無理やり捕まえてミソラのところに送り込んだの」
「そうだったね」
「だから、私の心は痛んでいるわけ、いくらミソラの命令だとはいえ、ココ、大事よ、ミソラの命令だったの、でも命令だとはいえ従って行動してよかったのかと、転校生の気持ちを考えたら、新しい学校に来てまだ一日しか経ってないわけで、まだクラスの子たちの顔と名前も一致しない、学園のどこに何があるか分からない、分からないことだらけなのにミソラのコレクションにされちゃった」
「案外喜んでるかもだよ」
「そうだったらいいけど、でも、普通の子はそう思わないでしょ? 妙義かなえは呪いで浅間比奈はレズで榛名梨香子は喧嘩でそれぞれ理由があったけれど、転校生の赤城真奈に限っては理由がにんじんだから、きっとそんな風に思えないと思うんだ」
「え? きんしん?」
「にんじん、赤城真奈はにんじんが嫌いなんだ、で、それを謹慎の理由にして捕まえたの、酷い話だ」
「酷い、」そう言いながら天樹は可笑しそうに歯を見せる。「天樹はオニオンでアウトだ」
「ルームメイトの子も可哀そうなんだ、中等生のときに寮に入ってから三年間ずーっとルームメイトがいなくてさぁ、ずーっと誰かが来るのを待ってたんだって、でも待ちわびてたルームメイトがたった一日でミソラのコレクションにされちゃった、可哀そう、きっと部屋の隅でルームメイトの毛布を抱いて心にぽっかり空いた穴を必死で塞ごうとしているんだ」
「天樹だったらルームメイトをミソラから奪い返すけどな」
「ルームメイトはただ謹慎になったことしか知らない、ミソラのことだって知らない、奪い返そうなんて思うはずないよ」
「そうかな?」天樹はブルーの瞳で何かを推測している。「確かに、その子の情報はゼロかもしれないけど、でも、理由が知りたいと思うでしょ? 待ち望んでいたルームメイトが急にいなくなったらそう思うでしょ? それに転校生赤城真奈を取り戻す手段がないわけじゃないっしょ?」
「例えばどんな?」
「今、この天樹探偵事務所の扉を叩く、」天樹は扉を見ながら言った。「それも手段の一つ」
「……じゃあ、」麻美子はもので散らかった部屋を見て言う。「部屋の掃除をしないとだな」
自分で散らかしておきながら、部屋が汚いのを我慢できない麻美子であった。
天樹はパァと顔を明るくした。「ありがとう、麻美子」
「お前もやるんだよ」麻美子は天樹のネクタイを引っ張る。
「えっ、天樹も!?」
二人は部屋の掃除を開始した。麻美子は大容量のゴミ袋を広げ、ゴミのようなものを放り込んでいく。するとプリントの山の下から純白の柔らかい布が出てきた。「……このパンツ、捨てていいの?」
「あっ、返してよぉ!」天樹はパンツをひったくって顔をわざと赤らめてわざと照れる。「もうっ、麻美子のエッチ」
麻美子はソレを無視して瓦礫の撤去作業に戻る。……またパンツが出てきた。「どうしてこうもパンツばかり!」
「替えのパンツだよ!」
とにかく部屋の中はスッキリと片付いた。あとは掃除機をかけるだけで一時間前とは見違えるほど清潔な探偵事務所になるだろう。天樹はカーテンに隠れていた小型のサイクロン掃除機の電源を入れる。麻美子は豚に真珠という言葉を思い出した。サイクロンのけたたましい駆動音。天樹はスイスイではなく、ガチャガチャと不器用にサイクロンを操る。麻美子は雑巾で机の上を拭いていたが見ていられない。『代われ!』と天樹に近寄り、サイクロンを奪う。天樹は武器を奪われたような顔になってソファに横になった。
「よし、完璧だ」麻美子は清潔になった部屋を見回してサイクロンの電源を切った。
その折り、扉を叩く音が部屋に響いた。
麻美子と天樹は顔を見合わせた。麻美子は疑心暗鬼。天樹は何かを確信した瞳で「はーい、」と扉に駆け寄りノブを回す。「こんばんは、天樹探偵事務所へようこそ!」




