第三章②
真奈と比奈がミソラのコレクションルームに戻るとリビングには明かりがついていて、その明かりからミソラが真奈に向かって走ってきた。
「ミソラ、ただいまっ」
言う間もなく、ミソラは真奈を抱きしめて真奈の胸に顔をうずめた。
「……おかえり」ミソラは真奈の匂いを吸っているようだった。真奈はどういうことだろうと思った。
「なぁに、いきなり?」真奈は小さく笑う。
「……どこに行っていた?」ミソラは上目遣いで言う。
「洗濯工場よ、」比奈が言う。「労働に行ってたの、真奈も行きたいっていうから」
「思っていたより、かなり大変だった、」真奈が明るく笑う。「でも、また働きたい」
「ダメ」ミソラが真奈の胸元で囁いた。
「え?」
「真奈はもうここから出てはダメだ」
「はぁ? なんでよ、ココから出ちゃいけないなんて聞いてない」
「真奈も労働しなきゃ外に行ける時間が作れないよ」比奈が隣でミソラに言う。
「いいんだ、真奈は外に出なくて」ミソラは真顔で訴える。
「そうですか」比奈は頷いた。相変わらずミソラには従順だ。
「ちょっと、人のことを勝手に決めないでよ」
「真奈、外は危険なんだ、分かってくれ」ミソラの態度は初等部の低学年を説得する教師のものだった。尊大さと横柄さが感じられない。不思議だった。
「なんの理由があって?」真奈は聞いた。
「外の世界には仇がいる」
「仇って」
「比奈、もう真奈を洗濯工場に連れて行くな」
「うん、分かった、」比奈は再度簡単に頷いた。「ミソラの命令ならば」
「ちょっと、比奈」
「真奈、カレンダーを三回、いや、二回、捲る間だけでいい、外に出ないでほしい」ミソラは真奈を必死に説得する。「我慢してくれ」
「ミソラ、どうしてそんなに必死で、弱気なの? 朝と違うじゃん」
ミソラは真奈から離れて後ろ手を組んだ。「……誠意の現れだ」
どうやら照れているようだ。必死で弱気を他人に見られたくないのだろうか?
「なんで外に出ちゃいけないの? それを説明してよ」
ミソラは困った顔をしていた。真奈はそんなミソラを可愛いと思った。額を撫でた。無意識のことで真奈は自分の手に驚いた。ミソラも驚いていた。でもすぐに猫みたいに目を三秒瞑った。開けてから言った。「私は真奈と離れたくない、ずーっと一緒にいたいんだ、だから外にはいかないでくれ、頼む、お願いだ、分かれ、言うことを聞いてくれ」
「あらまっ」比奈はそう言ってリビングに消えた。楽しそうだ。
真奈の気持ちもなんだかルンルンしていた。笑顔が簡単にこぼれないように唇を噛み締める。唇を噛み締める理由はミソラに気持ちを知られたくないから。それはミソラよりも優位な立場に立つためだ。どうして、そんな風に思うの? 自分の感情を認めたくないから? ミソラを困らせたいから? 真奈は自分の不可解な感情に困った。いや、深く考えれば分かってしまう単純な気持ち。でも、真奈はまだその気持ちに素直になれない。だって、だって、まだ出会ってから時間が経っていないから。一度蹴り飛ばしたら、溢れそうだけれど。
「……離れたくないんだ」ミソラの声は掠れていた。「約束してくれ、外出はしないって、そうしないと安心して、部屋に引きこもって作業が出来ない」
「そうだ、」真奈の視線は廊下の角の風景画に届いていた。「じゃあ、ミソラも、例えば一緒に洗濯工場に行くっていうのはどう? 私は外に出られるし、ミソラは私と一緒にいれる」
真奈は自分で提案していてとても恥ずかしかった。
「それは無理だ、私が労働なんて、考えられない」ミソラは首を振った。
「働いた後でアイスを食べるの、そして夕焼けを見るの、素敵よ、今日も素敵だった、ミソラは損してる、毎日部屋に引きこもっているだけなんて、こんなに世界は素敵なもので溢れているのに」
「真奈が傍にいてくれればそれでいい、それで私は素敵な世界にいると感じる」
「嬉しいけど、」思わず言ってしまった。「私はミソラと一緒に素敵な風景を見たいな、それこそ、記念写真になるじゃない」
「無理だ、」ミソラは心を無理やり立て直したような口調で言った。重さがないのだ。「いいか、真奈、もう外に出るんじゃないぞ」
「嫌よ、外出を許してくれないんだったら、私、ミソラのこと嫌いになる」
真奈は言ってから、どうしてこんな恥ずかしいこと言ったんだろうと思った。まるでミソラの彼女の台詞だ。おかしい、おかしいと真奈は心で自分の頭を叩く。でも、本心って抑えようとするほど漏れてくる。
「別にそれでも構わない、」言った直後は表情に覇気があった。けれどミソラは少し考えて首を振って絶望的な表情になる。涙腺が緩んでいるようだ。「やっぱり嫌だ、真奈、私を嫌いにならないでくれ」
どういう心境の変化だろうか? 今朝の抑圧的な態度がすっかり消えている。やっぱり、あのお凸へのキス、のせい? ミソラも、きっと私も、昨日と違う。今朝とも違う。変わったのだ。具体的に、ミソラのことは全然分からないけれど。お互いに、何か、一線を、超えた?
「じゃあ、真奈、」ミソラは目頭を押さえて言った。「外出の条件を出そう」
「条件?」真奈ははっとなった。ミソラと自分のさまざまなことを考えてぼーっとしていたからだ。「ああ、外出する条件ってこと?」
「外へ出るときは、」ミソラは真奈の小指に強引に小指を絡ませた。「梨香子と一緒だ」
指切りなんて、いつ以来だろう。小学校の低学年の時に、大事なことを友達と約束した。その時に指切りを交わした、それ以来だ。つまり、この約束は破れない、大事なものになってしまった。
「さぁ、真奈、」ミソラは少し安心した様子で言ってリビングへ向かう。「夕食を作ろう、比奈はすでに包丁にアルコールを吹きかけているはずだ」
「どうして梨香子さんと一緒ならいいの?」
「梨香子は頼りになる、いい女だ」
「……なるほど、」納得して、真奈はふと思った。そんなことあってほしくはないけれど、ミソラに聞く。「あ、もしかして私って、誰かに狙われている?」
ミソラは背中を向けたまま振り返らずに言った。「真奈を狙わない女の子はいない」
「へぇ」真奈は意味が分からなかったが頷いておいた。お腹はアイスだけじゃ物足りなくて空腹を訴えている。「身代金なんて出ないのにね」
「そうだった、」ミソラはいきなり立ち止まって振り返った。真奈はぱふんとミソラに激突した。ミソラは瞬きを三回してからポケットに手を突っ込んでポッド的な音楽プレイヤーを取り出して言った。「真奈、『愛の奇跡』という歌を知っているか?」
「どこにでもありそうなタイトルだね」
「意外とそうでもないぞ」ミソラは音楽プレイヤーを真奈に押し付ける。
「そうなの? で、私にその歌を聞けと?」真奈は音楽プレイヤーを受け取った。
「パーティは金曜日の夜だ」
「なんの?」
「真奈の歓迎パーティに決まっているだろ」
「へぇ、そんな粋なことしてくれるんだ、感動しちゃうな」言いながら真奈は鳩笛寮の歓迎パーティのことを思い出していた。楽し過ぎて何をしてもらったとか、具体的な記憶は飛んでいるけれど、とても楽しかったという気持ちだけは覚えている。昨日のことなのにずっと昔のことのように思えた。ミソラとの世界と寮での新しい学園生活の始まりは次元がかなりかけ離れているからそう感じるのだろうか? 保存しているフォルダがきっと違って関連性のない別々の場所にあるのだろう。田舎に暮らしてたときのことも関ヶ原を描いた歴史小説のようにすでいリアリティに欠けている。考える以上に私は遠いところに来てしまったようだと思った。ミソラのコレクションルームは異世界だ。
「真奈、どうした?」ミソラが顔を覗き込んでいた。
「あ、なんでもない、少しいろいろ考えて」
「『愛の奇跡』、金曜の夜までに覚えるんだぞ」
「え、なんで?」
「一緒に歌うんだ」
「皆で?」
ミソラは首を振って真奈を指差してから自分を指差した。「デュエットだ」
「いやだ、何それ、恥ずかしい」真奈は自分の頬を両手で包んだ。
「真奈はロザンナだ」
「ロザンナ?」
「女性パートがロザンナ、私は男性パートを歌う、真奈は女性パートを覚えておいてくれ」
真奈は不器用な指先でホイールを動かした。ヒデとロザンナ。入っていたのは『愛の奇跡』の一曲だけ。真奈はイヤホンを片方だけ耳に入れて再生する。途端に軽快なギターが鳴り、楽しい気分になった。コレは、ミソラとデュエットしたい。真奈はイヤホンを外した。「いいよ、一緒に歌ってあげる」
「当たり前だ、」口調とは裏腹にミソラはとても嬉しそうだった。「私がパーティの準備をするんだから、女の子たち私の言うことを聞く、それは当たり前のことなんだ」




