第三章①
目が覚めて、枕元のアナログ時計を見ると時刻は五時だった。寝起きでうまく働かない頭で考える。地下で外の風景がどうなっているのか分からないから窓を開けてお日様を見て時刻が午前か午後かを判断することは出来ない。体は一日中寝続けたようにだるかった。いろいろなことがあり過ぎて疲れていたのだろうか? その代わり頭が回り出すとつっかえていたものがとれたようにスッキリしていた。ベッドから出て背伸びをすると走りたくなった。オレンジ色のランプが照らす寝室には誰もいない。真奈だけだった。真奈が鍵をかけたから、皆、ソファで眠っているのだろうか? いや、かなえも一緒にここにいたんだから、そういうわけではないだろう。きっと今は夕方だ。講義をサボって寝ていたのに何も罪悪感はない。やっぱり憑き物が落ちたようだ。なんなんだろう、この感じは。いい夢でも見たのだろうか?
真奈は寝室の扉を開けた。鍵は外れていた。リビングへ向かう。裸足だからあまり足音はしない。リビングには比奈しかいなかった。ミソラもいなかった。梨香子とかなえは、労働とかいうのに出向いているのだろうか?
「比奈」
「わっ、ビックリした、」比奈は読んでいた漫画雑誌を畳んで振り向く。「もうっ、脅かさないでよ」
真奈は比奈の隣に座った。比奈は白のダボダボのアディダスのジャージを纏っている。胸元までファスナーが降りるタイプのジャージで比奈のブラは丸見えだった。「何読んでるの?」
「百合姫」
「ゆりひめ? 童話?」
「真奈は知らなくてもいいよ」比奈はクッションの下に百合姫を隠した。
「梨香子さんとかなえは?」
「図書館で労働中」
「……今、夕方?」
「うん、そうだよ、よく眠るのね、うらやましい」
「若いから、比奈は寝れないの?」
「こらっ、」比奈は柔らかそうな拳を作って真奈の二の腕に当てた。「まぁ、なんていうか、夢を見るのが怖くて」
「怖い?」
比奈は頭を振った。「ううん、なんでもない、別に不眠症っていうわけじゃないし」
「ふうん、」真奈はテーブルのマグカップのコーヒーを飲んで口を潤す。「大変そうだね」
「それ、」比奈が言いづらそうに言う。「私の」
「あ、ごめん、全部飲んじゃった、」真奈は何でもないように言う。「新しく入れるよ、コーヒーメーカーでもあるの?」
「いいよ、別に」比奈は真奈を探るように見ていた。
「……どうしたの?」
「レズの飲みかけのコーヒーだよ、嫌じゃないの?」
「え、何も、嫌とかないし」
「一体どうした?」比奈がずんと顔を近づけてくる。「真奈ってそういう女の子だっけ?」
真奈は比奈を押し返しながら言う。「そういうって、どういう女の子?」
「説明するのは難しいけれど、」比奈はボリュームのある髪の毛を整える。「真奈って、もっと敏感だったでしょ?」
「敏感って、何が?」
「講義をサボるのも気にしてたじゃない、レズも嫌がってたでしょ、露骨に」
「そうかな? まぁ、確かに比奈は初めてのレズだったから露骨な反応をしちゃったけど、今は嫌に思ってないよ、きっと比奈がいきなり現れていきなりレズをしようとしたからだよ、でも、今は比奈と少しだけ話した後から、私、どっちかっていうと順応性が高い方だし、細かいこともあんまり気にしないし、真面目だとはよく言われるけど」
「いや、」比奈は大きい動作で首を振る。「やっぱり何か変わったぞっ」
「そうかな? 気付かないなぁ、なんだろう?」真奈は考える振りして目を逸らす。「よく寝たからかな、頭も体もスッキリしてる」
「……ミソラのチュウのせいかな?」
真奈はドキリとする。「……そういえばミソラは?」
「屋根裏に籠って何かしてるんじゃない?」
「何かって?」
「エロいこと」
「ふうん」真奈はシミひとつない白い天井を見る。
「やっぱりなんか変わった、」比奈は訝しげに言って時計を見て、立ち上がって伸びをした。「さて、そろそろ私も働きに出ますかっ」
「私も手伝っていい?」
「別にいいけど、比奈さんと二人っきりよ」
「比奈は優しくて綺麗な先輩、全然、大歓迎だ」真奈はわざとキャピキャピした。別に意味はない。
「なんだ、その反応、……からかいがいがないってもんだよ、いちいち拒絶して悲鳴でも上げてくれなきゃ、」
「つまんないの?」真奈は後ろ手を組んで比奈を上目で見る。
「別にこのままで構わないですよぉ、」比奈は困ったような顔で髪を束ねて二つにした。仕事用の髪形なのだろう。「結構大変だよ、仕事」
「比奈は何をしてるんだっけ?」
「洗濯」
「私、好きだよ、洗濯」
「量が物凄いんだ」
「二人でやれば早く終わるよ」
「ケタが違うんだ、」比奈はやっぱり探るように真奈を一瞥してからリビングの黒電話のダイヤルを回した。レトロだ。「まぁ、いいや、麻美子さんに電話しよう」
「あ、許可がいるんだっけ?」
「そう、あ、麻美子さん? あ、棗田か、……いいよいいよ、呼ばんで、うん、……新しい労働者の登録だけ、うん、……あかぎまな、……違う違う、赤城山じゃくて、あかぎまな、……うん、そうそう、私と一緒に洗濯するから、……へ? 焼却炉? そんな真奈にゴミ処理係なんてやらせられないわ、いくら人が足りないからって、え? 洗濯もゴミ処理も同じ汚いものを扱う仕事だって? ノンノンノン、汚い女の子の下着は汚くないのよ、とにかく、今日は洗濯だから、よろしくぅ」比奈は受話器を置いた。「オッケー、じゃあ、真奈、準備して」
「準備?」
「その格好で行くつもり?」比奈はジャージのファスナーを首まで閉めた。
真奈は自分の格好を見た。そういえばパジャマだ。「制服乾いてるかな?」
「私のジャージを貸そう」比奈はタンスを開けて臙脂色のジャージを取り出して真奈に渡した。体に当ててサイズを確かめる。少し大きめだけど着れないということはない。真奈はその場でパジャマを脱いでジャージに着替えた。比奈のいい匂いがする。
「やっぱり変、」比奈が呟く。「レズの前で服を脱いだり、レズのジャージを躊躇いもなく着るなんて」
「何ぶつぶつ言ってるのさ、」真奈はファスナーを上げてズボンのひもを結んだ。「よし、じゃあ、行こう、あー、やっと外に出れるんだ、もう何年も引きこもっていた感じだよ」
ミソラのコレクションルームの扉は風紀委員の棗田が開けてくれた。扉を開けるためだけにいちいちご苦労だと思った。エレベータに乗り、比奈が一階のボタンを押した。エレベータがゆっくり上がっていく。
「手伝うって言ったのは、外に出たいから? 講義に出たいから? やっぱり寮に帰りたい?」
「帰りたいって言ったら帰してくれるの?」
「ミソラが絶対に許さないでしょうね」
扉が開いた。廊下に出る。放課後の雰囲気だった。窓を開けて顔を出すとグラウンドでは女の子たちがボールを投げたり、ハードルを飛び越えたり、スウィングをしていた。真奈は深呼吸をした。
「真奈、こっち」比奈が袖を引く方向に真奈は歩いていく。
比奈の後をついてやってきたのは町工場のような二階建ての建物だった。換気扇のけたたましい音が外からでも聞こえた。比奈が水色の金属の扉を開けた。中に入る。思わず目を瞑ってしまうほどの熱気を感じた。クーラーガンガンの部屋から夏の廊下に出たような感覚だった。真奈は建物の中を見回す。そして驚いた。
「うわぁ……」
中央の人一人分が歩けるスペースを挟んで、左に二列、右に二列、アイロン台が並び、白衣を纏った女の子がブラウスやTシャツにアイロン掛けをしていた。圧倒される。工場の生産ラインを見学しているような気分だった。アイロンは一般家庭用の物みたいにカラフルじゃなくて、銀色で巨大だ。重たそうだが女の子たちは器用に操ってブラウスの襟を仕上げている。また、アイロン掛けする以外にボタンを付けたりスカートのほつれを修復している女の子たちもいた。建物の中は真奈の通っていた中学くらいの広さだった。蛍光灯の数が最初から足りていないようで薄暗い。ずーっとこんなところにいたら目が悪くなりそうだ。
「どう? ビックリ?」
「うん、スケールが大きいね」
比奈は真奈の反応を楽しみながら真っ直ぐに反対の入り口まで歩いていく。真奈はキョロキョロしながらついていく。これだけの女の子が謹慎中だと思うと頭がクラクラしたけれど、表情を見るとどの女の子も楽しそうで上から目線で安心した。コレも自由な学園生活のあり方だと受け入れている顔が多い。時折、比奈を凝視したり、比奈の名前を呼んだり、比奈に手を振る女の子がいる。
「皆、比奈のお手付き?」真奈はからかうように言葉を投げた。
「さあ?」比奈ははぐらかした。「ほら、私、綺麗だから、自然にファンが出来ちゃうのよ」
反対側の扉に着いた。再び外へ出る。ソコもまた騒がしかった。
後ろにリヤカーのついたカブが整然と横に並び、そのリヤカーに積まれた荷物を受け取るために女の子たちが台車を押して並んでいる。荷物はパンパンの青いビニール袋だった。きっと中身は洗濯物なのだろう。平均して一人二袋台車に乗せられていた。それを支持するのはパッド的なコンピュータ機器を持った白衣の女性。画面に作業の割り当てでも映しているのだろうか。
「真奈、」比奈が呼ぶ。「私たちも並ぶのよ」
台車を押しながら列の最後尾について洗濯物を受け取るために待つ。前に十五人くらい並んでいるだろうか。真奈の後ろにも女の子が並び始めた。リヤカーつきのカブも次々に入れ替わる。「カブの人が女の子の制服をココに回収してくるの、で、私たちはそれを向こうの建物の中で仕分けしてドラム式に放り込むの」
「比奈さん、おはようございます」
「あっ、おはよう、アンちゃん」
アイロンのときもそうだったが、どうやら比奈はここの人気者らしい。レズだと知られてないのか、それとも知られてのことか。ともかく真奈は他人を装った。
「皆に紹介するね、」比奈は真奈を集まっていた四五人の女の子に紹介した。「赤城真奈ちん」
「ああ、よろしく」真奈はぎこちなく笑う。他人を装っていたからだ。
それから女の子たちは真奈を苦悩させる様々な質問を浴びせてきた。謹慎の理由とかも聞かれた。にんじんが食べられなくて、と言ったら大笑いされた。ムカついたが、あまりにストレートに感情を発散する女の子たちばかりだからすぐに楽しくなった。
「こらっ、ソコ!」叫んだのはコンピュータ機器を持った白衣の女性。「もう一度並び直しなさい!」
仕方なくもう一度最後尾について、今度は静かに台車を押した。
「このコ、始めてなの」番が回ってくると比奈は白衣の女性にそう告げた。
「ええ、そんなの聞いてないわよっ」耳がキンキンする高い声で反応する。
「さっき風紀委員に連絡したんだけど、その最新型のコンピュータで確かめたら?」
白衣の女性は指先を器用に使って画面を操作しているようだ。「……確かに、ある」
「どうしよう? 私が教えながらやった方がいいかな」
真奈は仕事の内容をまだ把握していないから何も言えないで黙っている。白衣の女性は真奈を一瞥する。またコンピュータを操る。「そのコには洗い終わった洗濯物を回収させましょう、一人欠員が出てる」
比奈が口を開けた。「……初めてだと、大変じゃない?」
「それでいい?」白衣の女性は真奈に聞いた。
「うん、私はいいよ」
真奈は頷いたことをすぐに後悔した。仕事を覚えるのは簡単だった。洗濯機から洗い物を回収してから別のフロアにある乾燥機まで持っていく、ただそれだけのことだった。それだけのことなのだが、仕事が遅れると仕分け作業をしている女の子に文句、いや罵声を浴びる。洗濯が終わってすぐに回収しないと時間に無駄が出来、ノルマが終わらないのだ。だから真奈は洗濯物を抱えて階段を駆け上がらなければならない。罵声は何回くらったか分からない。真奈が不慣れなせいもあるが、もともと少ない人数で回しているらしい。ともに走っていた女の子は途中で仕分け組に怒鳴り込んでいった。それで仕事が中断し、現場はカオスになった。女の子たちのけなし合いを見るのは心底愉快だったが、笑えないほど疲れた。
比奈の肩を借りて真奈はどこかのベンチに座り込んだ。いや、近くにウサギ小屋があった。一度来たことがある場所だった。
「ご苦労様、アイス買ってきてあげる」
比奈が近くの自販機まで走っていく。夕日はオレンジ色で眩しかった。目を細めて景色を堪能する。ミソラと一緒に見たい景色だと思った。……いや、そんなことはない。
真奈はベンチから立ち上がり、ウサギ小屋に近づいた。ウサギは小屋の奥で寝ているのだろうか、見えるところに飛び回っていなかった。真奈はウサコのことを考えていた。心配しているだろうか?
「ひゃっ、」真奈は悲鳴を上げた。比奈が首筋にアイスを当てたのだ。「……冷たい」
「チョコミントがいい? チョコクッキーがいい?」
「チョコミント、」真奈は比奈からアイスを受け取ってかじった。「うまっ!」
「元気なら、もう帰るよ」比奈は真奈の手を引く。
「えー、もう少し外にいようよ」真奈は少し比奈に甘えている。
「駄目ぇ、ここにこうしている時間だってカウントされて減っていくんだから」
「時間は大切だね」
「タイム・イズ・マネー」比奈の発音は初等部レベルだ。
「普通に過ごしていた毎日もかけがえのないものだったんだね、」真奈は自分で言って笑う。労働をして気分が少しハイになっている。だから思いついたことが口から零れる。「比奈、やっぱり人は外に出るべきなんだよ、引きこもりもいいけれど、こんなにきれいな夕日が見れるんだから外に出るべきなんだよ、ミソラも外に出るべきなんだ、ミソラはきっときっと損してる」




