第二章⑥
一人で寮に引きこもっているとどうにかなりそうだったので、ウサコはつなぎにオレンジのバンダナの衣装でウサギ小屋に出向いた。
「ああ、ウサコ、」後藤ちゃんがウサコに気付いて小屋の中から手を振った。「今日も来てくれたのか、助かった」
隣には飼育委員のチームカラーを身に纏ったミソラがいた。後藤ちゃんに仕事の手解きを受けているようだった。
「どうしたのですか?」ウサコが小屋の外から見上げて言った。
ミソラがウサコに軽く会釈をした。ウサコの小さく首を前に傾ける。
「……さえない顔つきだな?」後藤ちゃんが金網に近づき、しゃがんで言った。
ウサコは真奈のことを話そうと思ったが仕事を中断させるのも悪いので、きっと飼育委員の皆は真奈がいなくなったと言えば昨日みたいに大総力で捜索するに違いない、だから、ウサコはそれを呑み込んだ。「後藤さんの方こそ」
「ああ、そうなんだ、周防さんに新入りの教育係を仰せつかったのはいいんだが、」後藤ちゃんは額を触って深刻そうな表情をする。「いかんせん、私は他人に何かを教えるのが苦手だ」
ウサコは小さく微笑んだ。「了解です」
「悪いな」
ウサコは小屋に入って、再度ミソラに挨拶をする。「こんにちは」
「こんにちは」ミソラは弁天という獰猛なオスウサギを胸に抱えていた。五秒に一度弁天は腕の中で暴れ、餌をねだった。
「ミソラ、」と後藤ちゃんは若干命令口調だ。「教育係はたった今から私ではなく、ウサコに変わる、私が教育した二十分間のことは全て忘れろ、人によって仕事のやり方が変わるからな、混乱しないように、じゃあ、ウサコ、あとは頼んだ」
後藤ちゃんはウサコの肩をポンっと叩いて小屋から出ていこうとする。
「あれ? 後藤さんは?」
「豚小屋だ、」ウサギ小屋の前に止まっていたチャリに後藤ちゃんはまたがった。大分サドルの位置が高いような気がする。「周防さんが苦戦している」
そう言い残すと後藤ちゃんは立ち漕ぎで行ってしまった。
「……どうしましょう」ウサコは少し考えてミソラに向き直った。
ミソラは緊張しているのか、顔がこわばっている。弁天がミソラから飛び降りた。「あっ、弁天っ」
ミソラは弁天を捕まえようと走った。
「ミソラさん、」ウサコはバンダナをきつく締め直して仕事モードになる。「仕事は段取りが命ですよ」
ウサコはミソラにまずルーチンの流れを説明し始めた。やらなければいけないことは膨大だから段取りを考えながら仕事を進めていかなければならない。どうやったら効率よく仕事が終わるか、二度手間になるようなことをしないためにどうするか、ウサギ小屋では何が起こるか分からないから優先順位を常に考えるようにとウサコはかなり真剣にわずかに大げさに教育した。ミソラは逐一メモを取って『はい、はい』と熱心に聞いていた。ウサコはミソラとの距離がどんどん縮まっていくような気がした。途中からミソラを可愛いと思うようになった。日暮れまでにはあらかたの仕事は終わってウサコとミソラは小屋の外のベンチで休憩していた。空はオレンジ色だった。温い風がわずかに吹いていた。
「お仕事はどうでしたか?」ウサコが尋ねる。「疲れました?」
「はい、疲れました、」ミソラは舌っ足らずな口調で言う。「こんなに大変だとは思いませんでした、今まで生きてきた中でベスト3に入ります」
「すぐに慣れますわ」ウサコは笑った。「もう帰られます?」
ミソラは首を振った。「もうちょっと休んでからにします」
「ジュースがいい? アイスがいい?」ウサコは立ち上がって言う。「近くに自販機がありますの」
「アイスがいいです」ミソラは嬉しそうに立ち上がった。
アイスを買ってきてまた元のベンチに戻る。ミソラはハムハムとチョコクッキーのアイスをかじる。
「明日も来てくれるの?」ウサコはミソラに尋ねた。
「はい、明日も、宇佐美さんは?」
「ウサコでいいですよ」
「じゃあ、ウサコさんは?」
「明日は豚小屋だったけれど、この調子だと後藤さんが代わってくれると思うわ、うん、そうしましょう、明日もウサギ小屋です」
「そういえば、今日はあの人は?」
「あの人?」
「セーラー服の」
「ああ、真奈さん、」ウサコはミソラに顔を見られないように少し俯いた。「飼育委員じゃないですから、昨日は少し手伝ってくれただけです」
「いつも一緒じゃないんですか?」
「え?」
「ウサコさん、寂しそうです」
「そう見えますか?」
「何かあったんですか?」
「ミソラさん、聞いたら、すぐに忘れてくださいね、」ウサコはそう切り出し、真奈が姿を消したことを話した。宮古とのやり取りも余すことなく話した。きっと誰かに話を聞いてもらいたかったんだと思う。「正直、私、どうしたらいいか、分からなくて」
ウサコはスカートを握りしめる。
「本当に監視カメラは細工されていなかったのですか?」ミソラは真面目な顔で言う。
「ミソラさん、ありがとう、ミソラさんは関係ないのだから考えなくていいのですよ」
ミソラは首を振った。「真奈さんは私を友達といいました、関係ないことはありません、ウサコさんだって飼育委員の仲間です」
「……ありがとう」後輩に励まされると思わなかった。少し感動して、胸の奥が動く。
「もしかしたら、」とミソラは推測を語る。「誘拐されたのかもしれません、身代金目当てか、あるいは真奈さん自体が目的で、セーラー服が変態に好印象を与えたのかもしれません、真奈さんは魅力的です、女の私から見ても魅力を感じました、中毒になるくらい」
「そうかもしれないですね、」ウサコは中毒という単語に笑った。私だって真奈さんの中毒者かもしれないと思った。もちろん、ミソラは冗談を言って元気づけてくれようとしているのだろう。「でも、そんな変態さんはこの学園にはいらっしゃらないんじゃないかしら?」
「じゃあ、ウサコさん、」とミソラは舌っ足らずに問う。ウサコはミソラのそんなしゃべり声が嫌いじゃない。「もし、そんな変態が真奈さんを誘拐していたら?」
ウサコはそのイフを想像した。怒りに似た感情が沸くのを感じた。「命を懸けてでも、真奈さんを救いに参ります」
「……そうですか」
ウサコは時計を確認した。時刻は午後六時三十六分。「……そろそろ帰りましょうか?」
ウサコはミソラの横顔に声をかけた。ミソラは沈むオレンジ色の光を瞳にじーっと映していた。昨日にもまして眩しい光だった。思わず目を細めるくらいに眩しい。どうしてだろうか。この時だけ、ミソラの瞳はガラス玉のようで、
「ウサコさん、大丈夫ですよ、きっと真奈さんは、」と私に微笑んだミソラの心は嘘をついているんじゃないかと思った。「あなたのもとへ帰ってきますよ」
ウサコは微笑み返せなくて僅かに頷いた。




