第一章④
「あっ、やっと来た」
真奈とかなえがバスタオルを首に巻きながらリビングに戻ると洋風のいい匂いが漂っていた。ホットケーキの匂いだ。リビングからキッチンを覗くと比奈がコンロの前に立っていた。比奈は制服の上からフリルの沢山ついた純白のエプロンを纏っていた。ドレスのようだと思った。とても似合っている。「遅かったわね、あっ、もしかして、皆でエロいことしてたんでしょ? ちぇっ、私も濡れればよかった」
比奈は自分の言動が素敵な容姿の魅力を半減させていることに気付かないのだろうかと真奈は思った。
「わぁ、ホットケーキだ」かなえが手の平を合わせて喜ぶ。
「うん、いい匂い、」真奈はお腹がペコペコなことに今更気付いた。時計を見るともうそろそろ十時。朝食には遅すぎる。「朝はいつもこの時間なの?」
「謹慎の醍醐味よ、朝は遅く起きて、夜は遅くまで起きてる」
「もうすぐ出来るから」比奈は巨大なフライパンを軽々と操って、直径五十センチ以上のホットケーキを返した。思わず手を叩きたくなるような芸当だ。いや、ただの力持ちなのか?
「洗い物でもしようか?」かなえが言う。
「二人はリビングで待っていろ」右の冷蔵庫の影から声がした。ミソラが紅茶を入れていた。花柄のカップに理科の実験をするように細心の注意を払って紅茶を注いでいた。ミソラなりのこだわり、もしくは流儀があるのだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」かなえは真奈の顔を見てリビングに体を戻した。どういう意味を含めて真奈を見たのか分からない。けれど、真奈は壁にもたれ腕を組んで少しミソラを見ていた。ミソラのことを考えていたのだ。かなえは愛を受け止めろという、すぐに魅力に気付く、という。けれど、かなえの言葉はまだ真奈にとっては説得以上のものではなかった。納得はしていない。かなえがそう説得するから静かに考えているだけで、かなえの言葉を呑んでいるわけではない。確かにこうやって少し離れて眺めている分にはミソラは魅力的だ。それは外見的に優れている、という意味だ。かいがいしく紅茶を入れている様は画になる。魅力的な女の子だ。でも、かなえが言う魅力的とはそういうものではないだろう。うまく説明できないけれど、けれど、そういう魅力は上手く説明できないものだ。音楽とか絵とか、いくら言葉を並べて素晴らしいと言ったって、見て聞いて触って感じなければその魅力は百万分の一も伝わらない。それと一緒で人の魅力なんて実際に会ってみなければ分からない。会ったって見つけるのは難しい。眺めていたところで分かるはずはないのだ。言葉を交わしたり、触ったり、もっと踏み込まなきゃいけない。……いや、踏み込んでどうする? 私はウサコと私の部屋に帰りたいのに。これじゃあ、まるで、私がミソラと一緒にいたいみたいじゃないか。努力してどうする。……考えるのはやめよう。
「わっ、ホットケーキだ、」いつの間にか真奈の隣に梨香子がいた。かなえとほとんど同じリアクションで喜んでいる。「洗い物でもしようか?」
「もう終わってるわ、」比奈がこっちを振り返り得意げに言う。「なにせ比奈さんは手際がいいからね」
「比奈はすぐにでもお嫁にいけるね」梨香子が褒める。
「そんなに褒めんな、」比奈は喜んでから、すぐに難しい顔で振り返る。「……もしかして皮肉だった?」
「ホットケーキを作ってくれる人にアイロニなんて言わないよ」
「そうだよね、えへへっ」比奈はまたフライパンを返した。ホットケーキが発射されて一回転。何度見ても見事だ。
「上手いもんですね」真奈も思わず褒めてしまった。「料理は全部比奈さんが?」
梨香子が首を横に振った。「無論当番制、でも割合は比奈が半分以上を占めるね」
「土日は皆でやるじゃない」比奈が言う。
「焼肉とすきやきとしゃぶしゃぶは料理って言わないよ」梨香子が笑う。
梨香子は青色のパジャマを着ていた。真奈は赤。かなえは黄色。比奈は白のエプロンで、ミソラは深緑色のエプロンをしていた。ミソラが真剣に紅茶を注ぐカップのふちにも、その五色がそれぞれに確認できる。バスタオルもそうだ。洗面所の歯ブラシもそうだった。そうやって色で物を分けているのだと分かった。真奈は赤が好きだからそれについては異論がない。苗字が赤城だから昔から故意に赤いものを選んでいたこともあるし、……いけない、ココでのコレからの生活のことを考えている、と真奈は首を振った。
「……真奈ちゃん」梨香子が小さい声で言った。
「はい?」梨香子の方に振り向くと困ったように笑って、リビングの方を指差していた。いや、正確にはリビングのソファに座って雑誌を捲るかなえの背中だった。
「真奈ちゃんがいないと私はソファに座れない」梨香子は真奈に耳打ちする。
「ああ、」そういえば二人は喧嘩中、というか、痴話喧嘩中だった。かなえの背中からは梨香子を徹底的に無視する雰囲気が感じられる。梨香子がソファに座ったらリビングの空気は最悪になるだろう。しかし真奈が間に入れば最悪にはならないだろう。「はい、お安いご用です」
「助かるよ」梨香子は濡れた髪を掻き上げた。魅力的だ。真奈はリビングへ体を向けた。
「……信じられないな」声がして振り返るとミソラが丸いお盆の上を持って立っていた。カップと銀のスプーンとシロップを整然と五つずつ並べている。真奈を見上げていた。何が信じられないのだろう。しかし、独り言のようだ。真奈は気にしないようにした。
「あっ、私が持っていこうか?」ミソラに尋ねる。
「まさか、これほどとは……、想像以上だ、ええい、どうしてこう肝心な時にカメラマンが不在なんだ、そもそもこの学園にはカメラマンが少なすぎる、仕方ない、ここは、私が、ああ、もう、両手が完全に塞がっているではないか!」
「はい?」真奈はミソラからお盆を受け取った。なんだか困っている風だったからだ。
「ああ、真奈すまないな、それは私の仕事なのに、いや、私の仕事だ、真奈の手を煩わせるわけには」
「え? じゃあ、はい?」真奈はお盆を返した。
「ああ、これじゃあ、身動きが取れない!」ミソラは髪を振り乱して混乱していた。
「もうっ、なんなのよ、いいよ、私が持ってくから!」真奈はお盆を再度受け取る。
「すまん、少し、気が、動転している」
ミソラはサイバーショットを構えて真奈を正面から三回撮った。リビングで紅茶を並べているときも真奈は被写体にされた。突然、芸術家が目覚めたのだろうか? 変な奴、と思いながら面白い子だなってミソラを肯定的に認識している真奈がいる。「いきなり、どうしたの? 私ばっかり何枚も撮ったってしょうがないでしょ?」
「記念写真だから、」ミソラは早口で言った。サイバーショットをポケットにしまう気はないようだ。「今の真奈はまたとないんだ、真奈だって、私だって変っていく、私は今の真奈を鼓膜に焼き付けた、記憶も完了した、けれど、記憶は当てにならない、色あせて劣化する、忘れてしまうかもしれない、だから写真を撮る、今の真奈を忘れたくないから」
「バッカじゃないの?」言葉とは裏腹に真奈の頬は緩んでいた。恥ずかしいことを言われた。照れ隠しだ。なんで照れてるんだろうと思った。
「バカじゃない、こっちは真剣なのだっ」
テーブルの上にはホットケーキの乗った大きな皿が中央に置かれ、比奈と梨香子とかなえと麻美子とミソラの前に小皿とフォークが用意された。
「ミソラ、一旦カメラを置いて」
比奈が言ってソファに腰を掛け、手の平を合わせた。ミソラはカメラをテーブルの端に置く。梨香子もかなえも自然な動作で手の平を合わせながら目を瞑った。比奈が真奈にウインクを送る。真奈は慌てて真似した。
「では、」比奈が麗らかな声で言う。「比奈と梨香子とかなえ、それと真奈がずーっと素敵でありますようにミソラに祈りながら、このまたとない午前十時の朝ご飯をいただきましょうっ」
『いただきます』
瞳を開けると比奈がナイフでホットケーキを器用に五等分していた。
「はい、真奈」
「ありがとう」真奈は比奈に小皿を差し出した。五等分してもホットケーキの角は小皿の淵からはみ出た。出来立てだからホットケーキ特有の甘い匂いが香る。真奈はバターを乗せ、シロップをかけた。こぼれないように注意しながら、生地に甘いのが染み込むのを待つ。フォークで小さく切って口の中に入れる。
「どう?」比奈が自信満々に尋ねる。「おいしいでしょ?」
真奈は口をモグモグさせながら頷いた。ホットケーキそのものを再確認させるおいしさだった。飲み込んで、生ビールを一気したサラリーマンの様に堪らないなぁという表情を作る。「チョー、うめぇ!」
パシャリ。ミソラが横でサイバーショットを構えて、真奈の『うめぇ!』の顔を撮っていた。
「そう、よかった、ほっとした、」比奈は済ました言葉とは裏腹にとても喜んでいた。「おかわりもあるからじゃんじゃん食べてね、よく食べるコは好きよ」
比奈に好かれたいわけじゃないけれど、真奈はホットケーキをじゃんじゃん食べるつもりだった。『うめぇ』からだ。「うん、頂くっ」
「それに引き替え、」比奈は梨香子とかなえにチラチラと視線を送りながら言う。「梨香子もかなえちゃんも、どうしてそんなつまらなそうに食べるの?」
梨香子とかなえは黙々とフォークを口に運ぶのみ。
「あーあ、嫌んなるなぁ、まぁ、いつもだって真奈みたいに新鮮なリアクションはくれないけどさ、せめてまずそうに食べないでほしいなぁ」
『いつも、』かなえと梨香子の声が被った。両者ともに口をつぐみ、両者ともに相手の出方を気のないそぶりで窺っている。口を開いたのは梨香子だった。「いつも通り、素敵な味だよ、比奈」
「かなえちゃんの意見も聞きたい」
「……」小さな欠片のホットケーキを静かに飲み込みながらかなえは何かを考えているようだった。けれど何も思い浮かばなかったようだ。「……素敵な味です」
「梨香子とかぶってるし、あんまり新鮮じゃないなぁ」
「リカちゃんがつまらないこと言うから忘れちゃったの、新鮮な感想」
「私のせい? なんで?」梨香子は挑発的に言う。
「なんでって、言わないけどっ」かなえはソファの上に膝をたたんで小さな欠片を食べる。かなえは最初に小さな四角形に分けてから食べているようである。
「あっ、別に、もういいよ、感想なんて、」なんだか、険悪なムードに気付いたのか(遅い)、比奈が慌て始めた。「それより、ミソラ、真奈にいろいろなことを聞いたら?」
「……ん、なんだ?」ミソラはホットケーキに手を付けないまま真奈の食事風景をビデオに収めていた。
ミソラはなんでカメラを回し続けるのだろう、中毒か? カメラジャンキー? もしくは私? 赤城ジャンキーなのかな? 真奈はそんなことを思いながらも『うめぇ』とホットケーキを頬張る。「ねぇ、ミソラ、食べないんだったら私が食べてもいい? もったいないでしょ」
ミソラはこっくりと頷く。
「少し行儀が悪いよ、」梨香子が控えめな強い口調でかなえに言った。「足をソファから降ろすんだ」
かなえは無視を決め込んだようだ。疲れそうな姿勢で一心不乱にホットケーキを口に運ぶ。
「ねぇ、真奈、私のいろいろなこと聞きたくない?」比奈がフォークを真奈に向けながら聞く。
「別にいい」そっけなく言った。
「ひどい」比奈はフォークをくにゃっと曲げた。
「……ええぇ!?」真奈は驚いた。「このフォーク、結構、いや、大分固いと思うんだけどな」
「ふてくされてるの?」梨香子がかなえに向かって言う。「拗ねてるんだ」
「は? なんで私が拗ねなきゃいけないの? 意味が分かんない」一応ソファからかなえの足は床に戻った。
「ちょ、ミソラ」
いきなりミソラが真奈の髪を触ってきたからびっくりしたのだ。こっちは食事中。
「あ、悪い、……少し、気になって、この映像は長く残るからな、些末なことだが大事なことだ、髪の毛が少し、一本、乱れている」
「……ねぇ、ミソラ、私、茶髪は似合わないかな?」真奈はテーブルの上に皿を置いた。フォークは握っている。「被写体としてどう映る?」
ミソラは真奈の髪を触って考えている。今の真奈は風呂上がりの関係で前髪を結んでお凸が丸見えの真奈だ。眉の上の小さなほくろもはっきりと見える。
「……からかったことは謝るから、」梨香子は大人の対応を見せていた。「かなえ、機嫌直してよ」
「謝る? 何を?」かなえはまたソファの上で足を畳んだ。
「お風呂で言ったこと、ごめん、私が悪かった」
「だから何が?」
「ごめん」
「先に謝るのは、卑怯だよ、いつもそうやって私の本気を避けようとするんだ、私は幼稚舎の女の子じゃない、そんな風に扱わないで、子ども扱いして、リカちゃんは私を上手に扱えていると思ってるの? 私はリカちゃんの手の平に乗っている人形? なんでもかんでも御見通しな訳? 私がムカつくのも予定通り?」
「かなえ、待ってよ、そんなこと考えたことない」
「私はリカちゃんの手の平の上の人形かもしれないね、対等な関係じゃないもんね、最初から私の一方通行で、リカちゃんは私を期待させるポーズを見せてくれるだけ」
「かなえ、きっと勘違いだよ、思い過ごしだ」
「どうだっていいわよ、別に、もうこれ以上話をしても、」
「整理しよう、絡まっているから、今のかなえの顔は可愛くないんだ」
「だから、今日は、もういい! なんでこんなにムカついてるのか分からないからいい、きっと寝れば治るしスッキリしてリセットできるからいい、私の問題なんだ、リカちゃんは何も悪くないよ、私が勝手に暴走しているだけ」
かなえはテーブルの上に皿を投げるようにして立ち上がった。「ちょっと仮眠する」
かなえは寝室へ向かおうとする。梨香子が進行方向に立って邪魔する。
「ちょっと、かなえ、まだ、話が」
「……だから、寝たら解決するって」
「私はそんな気がしないな、余計こじれてそう」梨香子はかなえに密着して肩に触れようとする。
「邪魔」かなえが梨香子の手を払う。
「かなえ」梨香子が名前を呼んで、
「あらまっ」と突然だった。比奈が脳髄まで届くようなエロティックでセンセーショナルな声を上げた。梨香子とかなえは思わずそっちの方を見る。比奈は口元を隠して潤んだ眼をしていた。その視線の先ではミソラが真奈のお凸にキスをしていた。真奈は固まっていた。右手に握っていたフォークが床に落ちた。
ミソラが唇をお凸から反して目を開けた。うっとりとしていた。
一方の真奈は顔が真っ赤だった。訳が分からないという表情でわなわな全身を震わせていた。
「み、ミソラっ、」喉ちんこがひっくり返ったような声を上げる。「いきなり何なんだよぉ」
真奈は完全に狼狽えていて、ミソラの方を見れない。そんな真奈をミソラはサイバーショットする。「今の髪型が今のところ、一番好きだ」
真奈はドキッとして慌ててお凸を隠す。キスされた部分がまだ何かを感じている。「……茶色も?」
「茶色? 真奈の髪の色は赤毛じゃないのか?」
「……ポニーテールよりも?」真奈は何を聞いてるんだろうと思った。
「……比奈、」ミソラは盲点を突かれた顔をした。「真奈の髪をポニーテールに結わってくれ」
比奈が目を光らせて真奈に近づいてくる。
「いや、いいってもう!」真奈はお凸と後ろ髪を左手と右手で守りながらミソラと比奈から離れて呆然とこっちを見ていたかなえの手を取った。「かなえ、逃げよう!」
「えっ? 私、関係ないのに」
真奈とかなえは寝室に逃げ込んだ。スライド式の鍵を閉め、安心して、扉を背に座り込んだ。かなえはベッドに座って真奈に言った。「大丈夫、真奈さん、ほっぺがピンク色だよ」
真奈はまだドキドキしていた。自分でもよく分からない。なんでこんなにドキドキしているのか。ミソラのキス顔が脳みそから出ていかない。お凸の感触もズキズキと残っている。真奈はゴムをとった。前髪がお凸を隠す。少し安心した。でも、やっぱり、呼吸のリズムが取れないくらいに、心臓の動きが早い。
「……知らない、もう分からない」真奈は目を瞑った。
「真奈さん、ベッドはこっちだよ」かなえは不思議そうに枕を叩く。




