第一章②
「いい緑色、濃くもなく、薄くもなく、比奈もようやく匙が分かってきたな」
「褒めてくれるなんて、機嫌がいいのね」
比奈がクスクスと笑う。笑いながら比奈は真奈を見ていた。真奈の隣には比奈ではなく、ミソラがソファにお尻を沈ませていた。ミソラは比奈のいれた緑茶を薬指でかき混ぜていた。随分器用なことをするなぁと思った。ミソラは黒いハイニーソックスで包まれた細い足を組んでいた。態度はベンチャー企業の社長だった。あまりに横柄な態度に、真奈はあのときのミソラだとは思えなかった。噴水の前で小ウサコを泣きながらウサコに返した、あの女の子には。
真奈はとりあえず隣に座っているが、居心地が悪くて仕方がない。なんだか口の中が乾く。一言も言葉を交わしていないのに、この女の子は苦手だと分かる。
「真奈と言ったな」
言い方が馴れ馴れしい。真奈は首をすくめて肯定のサイン。
「緊張するな」ミソラは真奈の茶色の髪を指で梳いた。人形の髪にブラシをするようにしつこく梳いた。ミソラの方が、体が小さいのに変な感じだ。
「緊張なんてしてない、ただちょっとイラついているだけ」真奈はわざと溜息を付いた。
「その理由をぜひ聞きたいな」
「わざわざ言わない」嫌味っぽく言った、
「原因は私にあるのだろう?」
「それは、……どうだろう、でも、もしあんたに理由が合ったらココであんたに説明しないね、あとで寮に帰ってウサコに徹底的に愚痴る、訳わかんない、クソガキに会ったって」
「嫌いになるのは当然だ、私は真奈を苦悩させる様々なことをしたからね、でも真奈はここにこうして穏やかに座っていてくれる、私は一仕事終えた気分だよ、いや、実にうまくことが運んだ、比奈と梨香子とかなえのときと比べれば、なんて表現しようか、真奈は聞き分けがよくて助かった」
確かに真奈はレズと呪いと喧嘩に明け暮れていた女の子たちよりは聞き分けがよいのかもしれない。「……なんでそんなことしたのよ」
「なんでだと思う?」
「どうしてそんな風にしゃべるの? 似合わないからやめた方がいいよ」
「……真奈は、」ミソラは今気付いたという風に言う。「寮に帰りたいのか?」
「当たり前だっ」真奈はいーっと睨みつける。
「……そうか、」少し真顔に戻る。「いい記念写真が撮れたから、真奈も、ほら、こんなに魅力的に撮れている、だから、てっきりもう私のものになったのだとばかり……、」ミソラは絶世の美少女が五分でプリントしてきた記念写真を一瞥して真奈に見せた。この写真を撮った本人は講義に出席するため出て行った。「いや、けれど、すでにもう手が届くところに真奈はいるじゃないか、何を心配することがある」
ミソラは真奈の肩に腕を回す。
「あんまり気安く触らないでよ、」真奈は拒絶する。「殴るよ、あんたが男だったらもう殴ってるよ」
ミソラは手を引っ込めて、緑茶で濡らした薬指を舐めて真奈を見ながら何かを考えている風だった。赤ちゃんみたいな癖だ。きっと赤ちゃんのときの癖を誰にも躾されないまま、大きくなったのだろう。それからミソラは躰を弾ませてソファに深く腰掛けた。「単刀直入に言うのはとても恥ずかしいんだが、真奈を謹慎に処すように仕向けたのは、真奈、私のコレクションになれ、と、そういうことだ、そういうことだから、分かるね? せいぜい私に様々な真奈を教えてくれ」
尊大に言った。そして平然としていた。生まれながらに貴族みたいな生活をしているから庶民との接し方が分からないのだろう。真奈みたいな田舎の庶民はミソラの言うことが何もかも理解できなくて足りない頭を無理やり回転させなければならない。それはひどく疲れる作業だ。とりあえず真奈はミソラの全身を改めて眺めた。ミソラの豪奢な衣装は黒くて、フリルの沢山ついた、俗に言うゴスロリっていうタイプのものだった。ミソラはそれを完璧に着こなしている。オーダーメイドだろう。艶やかな緑髪が衣装に綺麗に纏わりついて絵描きには堪らない被写体になっている。こんなことがなければ、真奈はミソラに見とれていただろう。事実、昨日の黄昏時はミソラに見とれた。コレクション・ドールはミソラ、あんたの方じゃない?
真奈はニッコリと微笑んで、
「バッカじゃないのっ!?」と思いっきり罵倒した。「なんでもかんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いなんだからねっ! 今は誰の言うことを聞かなくても、勉強をしなくても、マラソン大会に出なくても、核シェルタに引きこもっていてもいいかもしれないけど、このつけは必ず自分に降りかかってくるよ!」
ミソラは黙って真奈の目を見つめていた。効き目があったのか、瞳は潤んでいた。真奈は怖い顔を解除した。別に本気で怒っているわけじゃない。いや、半分本気だ。いや、でも、コレは、真奈に降りかかった様々なことは所詮女の子の多少面倒くさい悪戯だ。真奈はミソラの肩に両手を置いて諭すように言う。「ミソラだって、もう大きいんだから、いつまでもこんなことばかりしちゃ駄目だよ、ミソラだって自分がこのままじゃいけないってことくらい分かるでしょ? ミソラの周りの人たちは何も言わないかもしれないけれど、警察のお世話にならないかもしれないけれど、私の目から見ればね、今だ古臭いセーラー服な田舎の高校生の目にはミソラは健全じゃないよ、歪んでるし、絡まってる、あのタコ足配線みたいにぐっちゃぐちゃ」
ミソラは困ったように目を逸らす。
「踏ん切りがつかない? 気持ちの整理が出来ない? 勇気が出ない? だったらさ、昨日私もミソラに言ったでしょ、私とミソラは友達だよ、私が協力するから、比奈だって梨香子さんだってかなえだってミソラの助けになってくれるでしょ?」
比奈と梨香子とかなえは困ったような顔でサインを送り合っていた。真奈が三人を見回す。とりあえず、といった感じで比奈が手の平を合わせて明るく言う。
「そ、そうね、もちろん、私たちも協力するわ、ミソラのためだもの」
「ほらね?」ミソラに優しく囁く。「ミソラは一人じゃないんだから、こんなに個性的で、長生きしそうな諸先輩方がついてるんだから大丈夫よ」
見つめ合う。ミソラは『アハっ』とおかしそうに吹き出し、笑い顔を隠すように自分のスカートに視線を落とした。真奈は安心した。コレで一件落着ね。
「じゃあ、私はこれで帰るから、まぁ、いつでも呼びなさい、」真奈は腰に手を当て、立ち上がって扉まで歩く。「あっ、ちゃんと飼育委員の活動にも参加するのよ、経緯はどうあれ、いい機会だと思うから、引きこもり生活から脱出するいい機会、うん、健全、コレから夏になるんだし、汗をかかなきゃ、ほんじゃね、ミソラ、とその他大勢っ」
真奈はバッチコーンと大きなウインクを決めて、核シェルタの扉を横の掌形認証に手の平をかざした。緑色のレーザーが真奈の掌をスキャン。金属が割れるような駆動音が鳴り響いて扉は開くはずだ。……が、扉はウンともスンとも、何も変化がない。
「あれ、おかしいな、まだ私の掌は登録されてないのかな?」真奈は呟き振り返る。「かなえ、代わりにお願いできる?」
「……えーっと、」かなえの表情は困っている。誰かの指示を待っているようだ。視線は、ミソラに。「あのね、謹慎しているコの掌は扉の内側の鍵にならないの、だから、その扉を開くには、第三者の掌が必要、もしくは外から開けてもらわなきゃいけない」
ミソラが『アハっ』とまた吹き出した。必死に笑いをかみ殺している。真奈は、コレは一筋縄ではいかないだろうとな悟った。そして半分本気だった怒りが本気に近づいてくる。マジ切れそうだ。「……ミソラの掌は?」
かなえは首を振った。「ミソラも謹慎扱いだから、」
「無理だ、」ミソラは多分、笑いをこらえるのが無理だと言ったのだろう。「コレ以上、はぁ、真奈、君は非常に魅力的だ、はぁ、セーラー服がよく似合っているよ」
「ミソラ、外に連絡して扉を開けてもらってよ、私を寮から連行してきた頭痛持ちの人とか、風紀委員の麻美子さん、だっけ? あと私をココに連れてきた、あの変な名前の二人組とかに扉を開けてもらってよっ」
「歓迎会はいつにしようか?」
「金曜日にしよう、」梨香子が答える。「皆のスケジュールが合う」
「今日は何曜日?」
「火曜日」
「時間があるなぁ、盛大なパーティにしよう、偶には私が準備を請け負おうかな、なんてったって真奈の歓迎パーティなんだから」
「私の話を、」真奈はミソラにドスドスと近づき、体を弓みたいに引き絞って叫んだ。「聞きなさいよっ!」
ミソラは全く動じず、真奈を観察するように見上げている。ミソラとの間にはガラスがあって、真奈はショーケースに閉じ込められたコレクション・ドールの気分だった。意思疎通なんて出来やしない。初めから無理だったのだ。住んでいる世界が違う。次元がズレている。だからって、真奈は諦めたり、開き直ったり、そんな聞き分けのいい女の子じゃない。むしろ、痛みとか苦しみとか、そういう人類が共に分かりえる単純なことを伴ってでも自分が感じている不愉快なものを誤解のないように過不足なく伝えたいと考える。真奈はそういう女の子だった。
「おっと、ストップ、」梨香子が間に滑り込んで、真奈の両手を掴んで邪魔をした。「真奈ちゃん、落ち着いて、暴力は、いけない」
「梨香子さんにだけは言われたくないっ」真奈の声はキンキンと耳を刺す。
「冷静になって、」梨香子は息がかかるくらいまで顔とか体を密着させて真奈を宥める。「真奈ちゃんがミソラに痛いことをしてもさ、きっと後悔するだけ」
「私は冷静です、冷静に考えて論理的で合理的な手段に出てるんです、分かり合うにはコレしかないって」
真奈は拳を固くした。梨香子は困った顔をしながらミソラに視線を送る。「ミソラ、部屋に戻って」
「逃げるのかっ!?」真奈がなまったように叫んだ。
「まさか」ミソラはソファに横になって体を伸ばして可愛い欠伸をして真奈を眺める。
「このっ」真奈の気分は高揚する。とても抑えられない。
「もうっ、真奈ちゃん、」梨香子ひとりでは抑えきれなくなってきた。
「真奈さん」かなえは梨香子に加勢する。後ろから羽交い絞めにされた。けれど、かなえの力は弱いから真奈を抑え込むことは難しい。ミソラがココから出て行く気がないなら真奈を寝室とか別の部屋に閉じ込めることが懸命だが、梨香子とかなえだけじゃ難しい。かなえは比奈を探した。ソファの上にいない。いつの間に?
と、なぜかいきなりミソラは傘を開いた。チェック柄の深緑色の傘。かなえには意図が分からない。どこに傘を隠していたのかも謎だ。けれど、こういうことはミソラと暮らしているとよくある。何も考えない方が楽だ。
次の瞬間だった。
「えーいっ」比奈の声だった。途端に体が濡れた。冷たい。「ひゃっ」と悲鳴を上げる。ずぶ濡れ。梨香子と真奈とかなえは動きを止めて、比奈の方を向く。おちゃめな顔をしている。手にはオーソドックスなサイズの水色のバケツ。「だ、だって、こうしないと収拾がつかないと思ってぇ!」
確かに、収拾はついた、ような気がする。真奈は濡れた全身をどうしようかと悩む。
「……へくちっ」かわいいくしゃみが出て、ミソラをどうするかよりもバスタオルが欲しくなる。
パタンっ、とミソラは傘を閉じた。もちろん、ミソラは濡れていない。それが無性に腹が立って真奈は何かを叫ぼうとした。すかさず、ピっ、カシャっ、と電子音が鳴って遮られる。ミソラの手には小さいデジタルカメラ、サイバーショットだ。
「コレもいい記念になる、」ミソラはなんだか満足げだ。真奈のセーラー服が透けていたからだろうか? もしかしてこのコもレズと真奈は考えて胸元を隠した。そこでバスタオルが飛んでくる。梨香子とかなえと真奈に。ミソラが壁際の箪笥から投げたものだった。「風邪を引くなよ、風呂に入って体を温めろ」
ミソラはそういうとリビングから出て行った。きっと屋根裏に籠ったのだろう。真奈はバスタオルにくるまってしばらく、といっても三秒くらいだが、何も考えられなかった。複雑に様々な考えが絡まったからだ。「……へくちっ」
とりあえず、真奈は風呂に入りたかった。




