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足利幕府

 それが良かったのか悪かったのか、明石景盛に俺の出自を伝えると、備後鞆の浦までの船はつつがなく仕立てられる運びとなった。

 その際、このたびの隠居にまつわる出来事が、あくまでも仙石秀久による独断であり、宇喜多家の与り知らぬことであって、逆に宇喜多秀家は尾池一党の恭順を認め、寛大な処置をとったことの確認がなされた。

 どうやら、明石景盛は俺の出自に必要以上の警戒心を抱いたらしく、一介の浪人であっても将軍の遺児となれば、相応の権威付けがされ、場合によっては旧幕臣などがケチを付ける口実としかねないと考えたようだ。なんといっても、結果的に俺は隠居をせまられ、仕官先を探す身に落とされてしまったのである。宇喜多家に忠義を尽くす明石景盛としては、トラブルの種を未然に取り除いた格好である。

 ここにきて、俺は竜次の軽い性格が徐々に表出していることに頭痛を覚えた。将軍の遺児などといえば、余計なことを考える輩もいるのはわかっていたはずだ。にもかかわらず、初対面の相手に漏らすなど、迂闊にもほどがある。

 明かされた側の明石景盛と又兵衛は、いずれも俺に一定の謙譲を見せており、思慮深くもありそうなので、そうそう簡単に言い触らす心配もないだろうが、俺も余計なことを言ったものだと後悔した。なお、明石景盛による速やかな手配によって、船で瀬戸内を渡るころには落ち込んだ気分もいくらか慰められたのであった。ご丁寧にも目的地近くまで日をまたいで付き合ってもらえるとのことで、初日に備前下津井に入り、一泊ののち、備後鞆の浦へと俺を運んでくれることになっている。





「こんなものしかなくて、すまねぇことで」


 下津井で一軒の農家に世話になることとなり、幾らかの駄賃で夕飯をもらったのだが、羽柴の四国攻めのため、米という米が買い上げられて、庶民は安価な雑穀を口にしているようだった。

 それを知らなかった俺は、差し出された器にある赤い飯を、赤飯か、赤米と思ってかきこんだが、口の中は細かいつぶつぶが弾けるプチプチという不快な食感に占領された。

 保衡の記憶には、食感はともかく、味に覚えがあった。これは、赤もろこしである。

 赤もろこしとは、竜次の知るようなトウモロコシとは似ても似つかない別種の植物で、渋みが強く、とても不味い。しかし、山間の日照時間が短い痩せた土地でもよく育ち、凄まじいことに穀物に目がないはずの鳥が食わないという利点がある。

 救荒作物として心強い存在ではあったが、とにかく味が悲惨なものだから、粉に挽いてほかの食材と混ぜて使うのがせいぜいというもので、それが殻を軽く潰しただけで炊いてあるのだから、仰天するような味覚になっていた。

 穀物では、年貢におさめる商品価値の高い米のほか、味の落ちる赤米、キビ、アワ、ヒエなどが一般的だが、赤もろこしは最悪のシロモノである。

 農家の大家族は鍋に群がり、子供たちは大興奮の様相を呈しているものの、一城の主として米中心の食生活だった保衡にとっては食べなれないものだ。当然、飽食の時代を生きてきた竜次の記憶にはかけらも存在しなかった。

 この時代、主食である穀物は、平成の日本よりも食事に占める割合が大きく、女でもどんぶりめしを食っているのが普通である。普段ならば俺も山ほど米をかきこむところ、今日に限っては器に盛られた分を片付けるのが精一杯で、礼を言ってすぐに横になってしまった。

 俺からの駄賃もあったことから、普段よりもたくさん炊いていたらしく、大量に残った鍋の赤もろこしは、一家にとって久々の贅沢となり、和気あいあいと団欒を囲んでいる。

 まさか、浪人とはこのような暮らしを続けねばならないのだろうか。俺は不安に思いながらも、自分に強く言い聞かせた。

 帰農したならば、母上様にもこの暮らしをさせることになる。今の苦しみは、いっときのことに違いないのだ、と。

 明けて翌日、浪人の身となった不幸はより深刻な形で現れてしまう。

 さすが、鳥も食べない穀物と言われるだけあり、挽かずに炊いたアレが、食べなれない俺の中でうまく消化されず、腹痛を伴って用便に奔走させられることとなった。

 生憎なことに明石景盛から付けられた船は、今日中に鞆の浦まで俺を送って返さなければならず、まことに不恰好極まりないことながら、その日、俺は船縁からケツを突き出して用足しをするという、保衡としての人生で最大の恥辱を味わうことになった。

 もちろん、船頭を務める高松の漁師には、幾らか握らせた上で、黙っておくように念押しをしたが。





 船のお陰で予定していた旅程は大幅に圧縮され、城から出ること正味二日で備後鞆の浦までたどり着いたが、体調が戻らずそのまま鞆の港で二日を過ごし、肝心の津之郷へ向かったのは横井城を出てから、五日目のことだ。

 鞆の港では、漫然と横になっていただけではない。ほんの数年前まで、この地は叔父上が要害に迎え入れられて、鞆幕府、鞆御所などと言われ、足利氏の根拠地となっていた場所である。現在の叔父上が鞆から津之郷へ移ったことは人づてに聞き知っていたが、具体的にどのような場所で、どのような生活を送っているのか、情報収集も行なっていた。

 地元の者に聞かされて不思議だったのは、叔父上一行が津之郷では館を構えるどころか、さほど大きくもない荒れ寺を占拠しているとのことだった。鞆幕府と呼ばれていた頃には近くは毛利、遠くは薩摩の島津や甲斐の武田までが有形無形の支援を行い、足利公方いまだ衰えず、と名を轟かせていたというのに、どうにも鞆の人々は叔父上のことをよく思っていないらしい。

 中にはこのようなことまでいう老婆もいた。


「公方様は疫病神じゃ。この一帯の爺どもを集めては夜な夜な酒盛りばかりしくさって」


 何かの間違いではないかと思い、津之郷までの道案内を買って出てくれた若者に訪ねてみると、フンとばかりに鼻を鳴らしてから、気炎を上げた。


「公方様は鞆におった頃から、真昼間に酒を飲み、奉公せよというては村のみんなをこき使いやがった。都からきた偉い人だっていうから、最初はそれも我慢してたが、しまいには毛利の殿様まで怒っちまって、鞆からおいだされて田辺寺を乗っ取っちまったってわけさ。ありゃ自業自得だよ!」


 詳しく聞けば、叔父上の周囲には古くからの幕臣が幾人か同行しているようでもあり、何かの間違いではないかとも思っていた。

 人々の話が正しいとわかったのは、寺の前まで来た時である。

 寺が見えた辺りで道案内の若者は引き返しており、骨組みばかりの粗末な山門がうらぶれた雰囲気を漂わせたところ、一人立つ俺のところへ、やんややんやと老人の笑う陽気な声と、酒の匂いも交じるすえた悪臭が流れてきた。

 明らかに酔っている声の中には、しきりに公方様、公方様と呼びかけるものがある。

 まさか、本当にここにいるのかと、いまだ半信半疑で恐る恐る近づくと、破れた障子の向こう、本堂の中に畳を敷いて一段高くなった場所が設けられ、よれよれの烏帽子と、すり切れた直垂を身にまとう貧相な老人がいる。直垂には、大柄の足利二つ引がすき込まれ、老人の出自を表していた。

 畳の上で、うつらうつらと船をこぐ老人のまわりには、これまた烏帽子をかぶって、時代めいた格好の年寄りが幾人もはべり、その周囲を近隣の農家から集まったと思しき古老たちが囲んでいる。かれらは、見間違う余地もなく、酒を浴びるように飲んではくだを巻いている集団だった。

 俺が呆気にとられて、身体が固まっていたところ、ぼろをまとった古老の一人がこちらに気づいて言った。


「おお、くせ者にございまするぞおう」


 顔を真赤にした古老が危うい足取りで立ち上がると、畳の上の叔父上は威勢よく、


「ひっとらえよ。うまくやれば、そなたを小侍所に任じてくれる」


 と、何やら幕臣としての職まで約束する始末だ。

 俺はひっとらえられるわけにもいかず、かといって酔った農民の年寄りを叩きのめすこともできず、わずかに戸惑ったが、酔っぱらいには酔っぱらいの流儀に合わせた対応というものがあるかと思いついて、大仰に声を張り上げ、名乗った。


「お待ちくだされ。それがしは、讃岐国横井城の前城主、尾池保衡と申す者にて、決して怪しいものではございませぬ。皆様、幕臣のお歴々には、ご機嫌麗しゅう、まこと祝着至極に存じ奉りまする」

「おお、これは若いのに、ひとかどのつわものであったか。わしの元へ参じるとは見込みのあることよ」


 老人ばかりに囲まれていた叔父上は、あきらかに現役の武士というふうの俺を見て、機嫌をよくしたらしい。俺はそれに合わせて言った。


「高名な公方様の御下へ参上つかまつるところ、寺の表まで漂いし酒気にあてられ、それがしもお仲間に入れていただきたく、ふらふらと立ち寄りましてございまする」

「それはいい。話のわかる男じゃの」


 叔父上のすぐ傍らにはべる古株の幕臣が声を上げた。


「ならば、酒はもってきておるのか?」


 近隣の古老たちが持ち寄ったであろうどぶろくも貴いと、容器である瓢箪を背中に隠している。

 酒でも持ってくればご機嫌をとれたのかも知れなかったが、あいにくこのような有様とは知らなかったので、俺は酒など持ち合わせていない。


「いえ、酒は持ってきておりませぬ」

「なんだつまらぬ。仲間に入りたいなどと十年早いわ」


 そうだそうだ。十年早い。老人たちは、口々に言い放ったが、理屈が通らぬ酔っぱらいのこととて、皆がそろって喚き立てていたかと思えばいつのまにか陽気な歌となり、愚痴になり、眠り込む者ありで、混沌としていく。

 俺は、この騒ぎが一段落して、叔父上に文を渡したなら、すぐにでもとんぼ返りするつもりになっていた。できることなら、仕官を誘ってくれた明石景盛になんとかつなぎをつけて、いまいちど話をしたいと考えていた。

 しかし、物事はわけのわからぬほうへと転がるのが世の常である。

 古老のひとりが俺に酒を勧めてきて、付き合い程度にひとなめ、ふたなめとしているうちに、どうにも様子がおかしい。雑味の強いにごり酒は、前日まで体調を壊していた俺には、覿面に効いてしまったのだ。

 すると、精神薄弱な竜次の性もあり、テンションが高くなって、公方様へ向けて言ってしまった。


「実はそれがし、烏丸小侍従の息子にして、足利義輝公の遺児と聞かされており申す。叔父上様からは、いかが見えましょう?実父に似ていましょうか?」


 本堂の中はそれまでのどんちゃん騒ぎが嘘のように静まって、叔父上の声のみが空虚な反響をともないながら返ってくる。


「証となるものが、なんぞあるのか?」

「ハ。ここに、母の烏丸小侍従から、公方様への文を預かっておりまする」


 たもとから預っていた文を取り出して、恭しく両手で渡すと、叔父上はすぐにも開いて読み始めた。

 しばらくして読み終わると、


「なるほど。いわれてみれば、どことなく兄上の面差しがあるわい」


 と、俺の顔をまじまじと眺めながら言う。

 その声に弾かれたように本堂の中には歓声が上がり、古株の幕臣は驚くほど上ずった声音で、俺のことを祝いだ。


「これはめでたや。義輝様の御遺児がこのように立派な若者となられたとは」


 叔父上は文にちらちらと目を向けながら、俺に訊く。


「母御の文によると、そなた、故あって浪人に身をやつしておるようだが、わしのところへ出仕させたいと書かれておるのう?」


「なんと、我らのような境遇にありながらも、幕府再興のために働きたいと申されるのか?」


 びっくりした俺が口を挟む前に、幕臣と村の古老たちによる歓声によってその場の興奮は最高潮に達してしまった。

 俺も、酔いの影響で気分ばかりは高揚していたので、無理やりにでもその場を収拾するという発想が浮かばない。ぼんやりしている間に、幕臣の間で俺の扱いが勝手に話し合われ、それを見ていた叔父上が言った。


「よし。文にもあったが、そなたは尾池一族の党首を離れ、玄蕃允を名乗るのをやめたそうじゃの。ならば、このわしの下につき、幕臣として働くのならば、遠慮はいらぬ。以前に名乗っていたという義の通字も許し、義辰と再び名乗るのじゃ。役職も、幕府評定衆に加え、正頭も兼任するが良い」


 おお、と再び本堂の中はどよめいた。

 幕臣の一人がまたも言う。


「では、これより保衡どのは、尾池正頭義辰、と、おなりにあそばされるのか」


 負けじと古老の一人も威勢よく言った。


「これはめでたや。重臣の皆々様や、わしら御相伴衆に、新風が吹き込まれるのですな」


 おお、そうよ、これで幕府の再興はなったも同然じゃ。

 誰が言ったかしらないが、幕府の末席に加えられてしまったことの重大さを、俺はそれから一晩明けて気づいたのである。

 知らぬ間に酔いつぶれ、死屍累々とした風情の本堂で気がつくと、叔父上がいなくなっている。

 誰か、寺の境内で立ち働く気配がして、振り向くと、泥の小山のような粗末なカマドで、昨日騒いでいた古老の一人が飯を炊いていた。

 頭痛に顔をしかめながらも立ち上がり、縁側まで出て、ふと叔父上の姿を目に止めた。叔父上は、カマドのかたわらにしゃがみ込み、茶碗によそられた赤もろこしを旨そうに平らげている。

 俺が起きたことに気づくと、こちらに手を振り、叔父上は言う。


「ほれ、我らの奥(本来ならば土偏に完)飯奉行が支度した飯ぞ。そなたもはよう食え。いつまでも寝ておるのなら、奉公構を出してしまうぞ」


 俺は、背筋が凍る思いがした。

 もしや、すでに津之郷幕府とでも呼ぶ集団に組み込まれ、逃げられないのではないか。

 彼らを見捨てれば義昭叔父が機嫌を損ね、俺に奉公構が出されよう。

 目の前で、乞食同然に赤もろこしを貪る老人も、一応は朝廷より任じられた将軍である。実態はともかく、将軍という名はそれなりの権威があり、奉公構が出されたなら、さらなる仕官は絶望的。俺の将来は終わる。

 こんなところから逃げられず、ここでの将来も闇の中。

 竜次の記憶からブラック企業という言葉が浮かんできた。


投稿直後に地名のミスに気づきましたので一箇所訂正。

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