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尾池玄蕃

「玄蕃どの?玄蕃どの?」


 切迫した雰囲気をにじませた声が俺を呼んだ。

 声は品の良い中年女のもので、母上様のものだと脳裏によぎる。

 讃岐国で生まれ落ちてから、かれこれ二十年。ほとんど毎日その声を聞いている。

 でも、今の俺にはなんかしっくりこない。

 母上様って、母ちゃんのことだっけ?

 まどろみの中、涼やかな母上様の声と、騒々しい母ちゃんの思い出が行ったり来たり。

 次第に意識が覚醒してきたので、母上様の必死な声に、なんとなしの理由もこじつけてみる。

 そりゃまあ大騒ぎしたって不思議じゃないよな。だって、俺は撃たれたんだし。

 そのまま惰性で直前の記憶を浮かび上がらせる。

 死にかけだった俺の目に飛び込んできた光景は、母ちゃんの泣き顔だ。

 潜んでいた狙撃班から頭を撃たれ、即座に脳がやられて、指先すら自由にならない身体となったが、開いた瞼の隙間から、半狂乱になった母ちゃんの姿が見えた。

 俺に向かって歩みだそうとして、母ちゃんは腰が抜け、その場にへたり込む。

 母ちゃんの表情に見た何かで、俺に激しい感情が走り、まどろみはどこかへと消えた。

「母ちゃんっ」

 布団を跳ね飛ばして起き上がった俺。

 あたりを見回すと、そこがよく見慣れた城の中であるとわかった。

 俺は広い板の間の中央に敷かれた布団の上にいた。そして、布団の傍らには呆気にとられ口も半開きの女が一人。女は、齢四十を超え、今時分では年寄りとされる頃であったが、かつての美貌はそこかしこに残り、今も人の目を惹きつけてやまない何かを備えている。

 その女が訊いた。

「母ちゃんとは、わたくしのことですか?」

 俺はそれを考えて、こめかみに痛みを感じた。

 眼の前の女、烏丸小侍従と呼ばれる人は、俺の母上様だ。

 そして、俺は、讃岐国横井城の主、尾池玄蕃。当年とって二十歳。

 ん?





 天正十三年の五月。

 ここ数年、面倒続きの讃岐国は、またも風雲急を告げる事態に陥っていた。

 先年の長宗我部による四国統一も収まりきらぬこの時に、本州の最大勢力である羽柴家が牙を剥いたのである。

 恐るべきはその大軍であり、総勢は八万とも十万ともいわれ、中国の雄と名高い毛利すらも動かして未曾有の水軍が動員されているとも聞く。

 尾池玄蕃の城も、昨今に見る長宗我部の隆盛に膝を屈して臣従していたが、このたびのいくさでは肝心の長宗我部が長い防衛線維持に固執して、水際戦術を展開し、いくさが始まっていくらも立たないうちに味方劣勢の報が流れてくる。

 一昨日には、宇喜多秀家が総大将を務める羽柴方の讃岐方面軍二万余が上陸。海岸からほど近い喜岡城は衆寡敵せず即日落城という有様で、次は植田城か、この横井城か、と城内の一同が身も世もなく震え上がっていた中、昨日の早朝に空を眺めた尾池玄蕃は決断した。

 すなわち、もはや長宗我部の敗北は避け得ぬこととし、寄せ手にいち早く降伏する。

 寄せ手としても、讃岐の粗末な山城に時を費やすより、いくらかでも長宗我部の根拠地に迫り、阿波や伊予など他方面の軍よりも先んじたいところであろう。

 であるなら、できる限り早い段階で恭順を示し、場合によっては開城すらためらわずにおこなうべきと考えた。そして、横井城から最も近くにあった敵陣、淡路五万石の領主仙石秀久のもとへ出向いて、出来うるならば所領安堵の口添えをもぎ取りたい。

 それには、喜岡城を攻め落とした彼らが、余勢をかってこちらへ向かう前に、他の城主を出し抜いていち早く参陣せねば。


 決断してからは早かった。

 横井城において、城主である玄蕃の立場は絶対的なもので、前城主にして養父の尾池光永にすら一言告げるだけで良かった。


「こたびは、忍従したいと存じまする」

「あいわかった。良いようになされよ」


 時が惜しい玄蕃は、養父から重臣たちへ伝えおいてくれるよう頼むと、供回りの二騎を連れて一路、三里先の仙石陣へと駆けた。

 これまでに見たこともないほどの人が朝餉を煮炊きする陣中に踏み入れ、気圧されながらも名乗りを上げると、すぐに大将のもとへと通された。敵方の一城主が現れたというのに、玄蕃に投げかけられる目も生ぬるい。前日に落とされた喜岡城があまりにも脆く、四国のもののふがなめられていたのだ。

 天幕の中、起き抜けだったのか、陣羽織どころか鎧下に袖を通しただけの仙石権兵衛が現れる。背丈はまわりと比べても頭一つ分抜けていて、涼し気な目元の二枚目である。


「横井城の主とな?なにようだ」

「ハ。横井城主、尾池玄蕃にございまする。こたびのいくさにおいて、我ら尾池一党は羽柴内府様の御下知に従う所存にて…」

「なるほど。モノは言いようだな。上様の力の前に臆したから、仲間に入りたいと申すわけか。だが、いくら讃岐が長宗我部と縁の浅い土地というても、一度は臣従した身であろう。そのようなものが立場を転々と変え、都合の良いことを申したとて上様は信用なさるまい」


 長宗我部が四国を統一したのは羽柴が攻めこむ直前のことであった。とくに伊予や讃岐の地侍は、四国統一を急いだ長宗我部に対し、形ばかりの臣従を決め込むものも多かった。実際、尾池一党も、長宗我部とはほとんど無縁であり、時流に合わせて傘下に加わっただけのことだ。それが再び立場を変えると言い出したのだから、信用されるわけがない。

 玄蕃はあらかじめ考えていた唯一の手を惜しまず使う。


「それがしは皆様と轡を並べ、命を惜しまず槍働きに励みたく存じまする。もしも、信用いただけなくば、即刻、我が城を明け渡して、証だて致しましょう」


 玄蕃が言うと、仙石秀久は唸った。城を落とすも手柄であるが、調略するも手柄となる。とくに今は一刻も早く長宗我部の本拠地、土佐へと攻め込みたいところであろう。玄蕃はそれを見越して申し出たのである。


「なるほどそうであったか。そなたら一党がどれほどの力を持つか知らぬが、それほどの覚悟で参ったのなら話は別よ。わしの口から、讃岐方面の大将、宇喜多秀家様へ伝えておこうではないか」

「ハ。かたじけなく存じまする」


 そういって飛び出していった仙石秀久を見送って、待っていたのは半刻ほどだった。

 上機嫌に戻ってきた仙石秀久は、二人の侍を伴ってきて言った。


「尾池玄蕃といったな。喜べ。そなたの言は宇喜多秀家様にお許しを頂いた。そこまでの気概で陣に加わろうというのだ、感じ入られた秀家様は、そなたら一党の城を安堵できるよう、取り計らっていただけるそうじゃ」

「それは、身に余るお心遣いにございます」


 考えていた中で最も良い形に収まり、安堵と感謝から、その場で平伏しようとした玄蕃。仙石秀久は押し留めながら、


「よいよい。ついては、城の明け渡しはないのだが、城の中をひと通り見せてもらいたい。米、馬、兵、そういった事柄を軍監の黒田官兵衛どのにお知らせせねばならぬのだ」

 と、面倒くさそうな態度を隠さずに行った。武辺の男らしく、軍師として名高い黒田官兵衛が軍監を務めることが煙たいのだろう。

 玄蕃としても面倒であったが、隠し立てすることもないので了承する。


「どうぞ、すみずみまでお調べいただいて、結構にございまする」

「そうか。ならば、ここにいる二人を連れて城に戻られるがよろしかろう。ともに戦場を駆けるのが楽しみじゃのう」


 はい、と答えようとしたその時だった。

 玄蕃に異変が起こったのは。

 突如として激しいヒキツケを起こし、叫んだ。


「母ちゃん!」


 そうして、その場で意識を失って倒れたのである。





 俺が竜次であった頃の記憶と、尾池玄蕃となった自分に折り合いをつけられたのは、母上様が向ける心配そうな表情があったからだ。

 竜次だったオレも、玄蕃な自分も、母に対する思いは同じ。

 どんな理不尽があったって、ひとまず棚上げになる。


「母ちゃんとは、わたくしのことですか?」


 さっきの俺は、ゆめうつつで母上様の声に刺激され、ついうっかりと竜次だった記憶から、母ちゃんと叫んでしまったらしい。それを真っ正直に説明しても心配をかけるだけだろう。

 母上様の問いにはこう答えた。


「ちと、うなされまして、わけの分からぬことを申しました」


 竜次だった頃には考えられない言葉遣いだった。違和感がないといえば嘘になるが、よどみなくスラスラと出てくるのだから、自分の中に根付いていることは確かだろう。

 妥当な言い訳かと思ったんだが、母上様はかんばせに浮かんだ憂いを取り払うことはなかった。もう体調に心配はないので、大丈夫だっていくら言っても変わらない。

 竜次の記憶にある母ちゃんも、いつだって俺を心配してくれていた。どこであれ、いつであれ、母ってものは、こうなのか。ふと感傷的になってそんなふうに考えてもみたが、玄蕃の記憶にある母上様は普段ならもう少しアッケラカンとしている性格だから、これはちょっとおかしいと、違和感を感じた。

 問いただしてみると、母上様はとつとつと語り始める。


 内容は、いまや尾池玄蕃となった俺にとって、青天の霹靂だった。

 すでに昨日のこととなったが、仙石秀久の前で卒倒したあと、玄蕃の供回り二人がどうにかここまでかついで帰ったらしい。が、あまりにも異様な倒れ方をしたために目の当たりにした仙石秀久は、玄蕃が妙な病を持っているのではないかと怪しんだ。

 そのような者を大切ないくさ場に連れ出して、肝心なところで卒倒されてはかなわない。けれど、讃岐方面の大将である宇喜多秀家には、尾池一党の恭順が伝えられているし、今さらなかったことにもできない。

 怪しげなものを推挙したとあっては仙石秀久の面目にもかかわるため、事態を打開する方法として、尾池一党の当主であり、城主である玄蕃から、別の者へ家督を譲らせろと言い出したのだ。

 義父上は、差し向けられた使者に対しても、


「玄蕃は健康な男子であり、こたびのことは幾らか横になっていれば回復する」


 と、言葉を尽くしてくれたようだが、そもそも時間がない。羽柴方は、長宗我部を討ち、四国を平定できればいいのだから、吹けば飛ぶような尾池一党など相手にしている場合ではないのだ。まして、他方面の軍勢が進めば進むほど、讃岐方面を任された大将、宇喜多秀家に焦りが生まれるのだから。

 とにかく取り急ぎ家督を譲らせ、代わりの者を立てよと言われて、ついに従わざるをえなくなってしまった。幸いなことに、尾池氏には義父に男子があり、すぐにも送り出すことができたものの、こうなると、もはや玄蕃は当主でもなければ城主でもない。


「では、それがしは、隠居の身なのでございますか?」


 丸一日寝ていた間に、急転直下、人生の大きな節目を迎えていたと聞かされて、尾池玄蕃として昨日まで生きてきた俺は言葉も無い。


「隠居と申して良いのか、わたくしにもわかりませぬ」


 問われた母上様はしょげ返ってしまった。俺と母上様にとって、この城の中で血のつながりがあるのは互いのみ。義父上のご厚意で尾池の姓どころか、家督まで譲られてどうにか生きてきたが、これからどうなるのか皆目見当がつかない。


「仏門に入れなどとは言われぬと思いまするが、さて、どうしたものか」


 まさか突然卒倒し、遥か未来の何者かと融合してしまったことは予想外もしていない怪異だったが、起こってしまったものはどうしようもなく、今となっては竜次であった記憶もまた自分のことと思えるために、記憶を失いたいとも思わないのだ。いや、竜次の記憶を主に考えるなら、戻るべき身体は死んでいるし、なかったことにされたらそれこそ一巻の終わりだ。縁起でもない。

 不幸中の幸いは、玄蕃だった自分がおおむね予定していたとおりに交渉が終わったか。尾池一党は羽柴家に恭順することに成功し、今のところ城の安堵も約束されたと見て良いだろう。当主としての役目は果たしたと考えるべきだ。

 あとは俺と母が食っていければ何よりなのだが、知らぬ間に義弟へと家督が移っていたとなればこれまで通りに生きていくわけにもいかないかもしれない。なにしろ、俺と母上様は義弟と血の繋がりがない。義弟とはいささかのしこりもなく、うまくやってきたつもりなのだが、尾池の血を継がずに当主となった俺に不満を持つものもいないとは言い切れないのだ。

 他にも疑えばキリがなく、一例を挙げれば、近い将来に義弟が嫁を取り、子供がうまれ、新たな身内が増えてきたなら、一族の中で若い先代当主が居座ることに反発が生まれることも考えられる。

 どう考えても、俺と母上様が横井城に居座るのは障りがある。

 だが、だからといってどうしたらいい?

 尾池一党は貧しく、すでに半農半士のような地侍だが、帰農して生きることができるんだろうか。そんなことになれば、母上様には塗炭の苦しみを強いることにならないか。


「わたくしのことは二の次にお考えなされませ。玄蕃どのの良いように、されるのです」


 母上様はそう仰せだったが、そうはいかない。

 俺一人なら仏門に入ってしまうのもひとつかもしれないが、母上様の生きる道まで考えれば、武士でいたほうが良いはずだ。だが、今回の一件で、俺はいわくつきの身となり、浪人してどこかの家へ仕官しようとて、近傍では難しくなったろう。

 残された道は少ない。いや、無いわけではないが、どこから手を出していいものかな。


「母上様、それがしはまだ隠居するつもりはありませぬ」

「はい。まだ二十になったばかりの若い身空で、子もおらぬ玄蕃どのが隠居などしてはなりませぬ」

「であるならば、ここで腐っていてもしようがないと思うのです。思い切って仕官先を求めて浪人をしようと思いまする」

「それも良いでしょう。どこか、アテはございますのか?」

「まずは叔父上のところへご挨拶に伺い、相談して見とうございます。いまだお会いしたことも無き奇縁ではありまするが、血のつながりもあり、場所も隣国の備後なれば、往復してもひと月かかりませぬ。ご面倒をおかけいたしまするが、母上様のお手にて、一筆文をしたためて下さいませぬか」

「なんと、それは良い考えです。玄蕃どのの叔父上様ならば、顔も広く、良き相談相手となってくださいましょう。わたくしの文などどれほど役に立つやら知りませぬが、そんなことで良ければいくらでも」


 そういって俺の将来に一筋の光明が見えたとばかりに、母上様の憂いが晴れた。とはいえ、言っておかねばならないことがある。


「母上様。叔父上のもとへ行くはさほど遠くもなく、戻るつもりならばいつでも来れましょう。されど、仕官するまではほうぼうを歩きまわるやも知れませぬ。母上様はこの城にて暫くご辛抱いただいて、いずれ、仕官が成った時には、お迎えにあがりとう存じまする」


 横井城に、当主だった俺が居座るから無駄な騒ぎが起こるんだ。原因は母上様じゃない。

 なら、俺がいなくなれば母上様が居たって問題は起こらないだろう。少なくとも、尾池一党にとって、母上様や俺は主筋にあたるのだし、義父上様が存命の間は、丁重に遇されると思う。

 義父上様の尾池光永はカクシャクとしているが、五年先にどうなるかわからない。それまでに俺も身を立てて、母上様においで頂ける屋敷が欲しい。


「玄蕃どの。浪人するとなれば、大変なご苦労もなさるでしょう。されど、母は何時まででも待ちます。待ちますゆえ、せめて文だけでも折に触れて、母のもとへくださらぬか」


 二十一世紀に生きた若者、竜次であった頃、戦国時代になど興味はなかった。

 大河ドラマも見ないし、勉強だって全然しなかったから、科学の知識もないに等しい。

 でも、この時代において、皆が知りたくも誰も知らない歴史的事実を知っていた。

 この乱世を勝ち抜き、時代の寵児となる二人の人物。

 豊臣秀吉と、徳川家康。

 この名前を知っていることは、とてつもなく大きなアドバンテージかもしれない。

 俺は、竜次であった、玄蕃であった、この時代に生きる一人の男。

 竜次であった時の母に対する悔い、名も無き玄蕃として終わった悔い。

 その二つの気持ちを糧に、今生の母上様へ孝行しつつ、できることなら大身、つまりはメジャーでビッグな男を目指そうと思う。


4月29日 読み直してみて変だったところを直したつもりです

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