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ヒートボット現象

作者: 空見タイガ
掲載日:2026/05/23

 俺はおかしいという自覚があるせいで、みんながおかしいと気づくのに時間がかかった。夏の暑さのせいかと思ったが、これだけは見逃せなかった。

「熱中症の怖さを教えてやろうか。ゆで卵が生卵に戻らないように脳が受けたダメージは不可逆なんだ」

 日差しを強く感じるようになってから全員がそう言い出した。事あるごとに脳を生卵にたとえ、熱中症の注意喚起をしていた。

 今日も教室に入るまでに声をかけられた。

「ゆで卵はけっして生卵には戻らないんだ」

「気をつけろ。脳がゆで卵みたいになるぞ」

「脳はゆで卵だ」

 しかも日に日に情報が劣化している気がする。

 原因はうすうすわかっている。二年の始業式から一ヶ月遅れでやってきた転入生、(みかど)の言動に影響を受けているのだ。

 挨拶がわりの注意喚起から逃れるように窓際のすみっこまで大股で進む。机に乱暴に鞄を投げる、と前の席の男が不細工な横顔を段階的に見せつけるようにカクつきながら振り向いた。

「ゆでたまごが好物だ」

 そして後頭部に戻る。

 俺のおとなりの巾木(はばき)は突っ伏し、中途半端な量をちょっぴり束ねたふわふわのツインテールをぶらつかせていた。俺はひとりではないのにひとりになった気がして、すでに開かれていた窓からグラウンドを眺めた。

 視線の先、まるで俺が見下ろすことを予期していたかのように、帝が校舎を見上げていた。遠目から見てもその立ち姿には独特な威圧感があった。

 彼は大きく手を振った。俺は窓をぴしゃりと閉めた。


 梅雨入りと発表されてからも晴天が続いていた。でも夕方には予測できない大雨が降った。それまでの太陽を取り立てるように、性急に、容赦なく、どす黒い色の雲が明るさを奪っていった。俺は昇降口で待っていた。雨が止むのを? 硬いもので背中を突かれて振り向くと、不機嫌そうな半端(ハーフ)ツインが立っていた。

「おい、入れてやろうか」

 待っていた……傘に入れてくれる人を。

 黒か。背の低い巾木のかわりに傘を持つ。女子と相合い傘、今は違う意味でピリピリしている。

 先に切り出したのは巾木だった。大雨で灰色がかってより色褪せた飽き飽きした町並み、ちょうど信号が赤になって長く待たされることになった、その間隙を突くかのような一言だった。

「みんなボットになっちまった」

 そのぼやきはぐっしょりした重さでぼとんと落ちた。そっと拾い上げる。

「ボットン?」

「自動化されている。収集した誰かの言葉をそのまま繰りかえすだけで、そこに人間性はないんだ」

 なるほどね、と返した自分の言葉が淡泊すぎないか気になった。巾木の横顔は何も気にしていなさそうで、それでいて何もかもを気にしていそうだった。

「でもおまえはボットじゃない」

「空気を読めないだけだよ」

「じゃ、わたしも空気を読めていないのか」

 初めて目が合った気がした巾木の表情はキリっとしていて、ちょっと強そうだった。それでも俺だけはかわいさを見いだせる、とクラスの男子の半数がとろけていそうな子。

 俺はフツーにこわがっちゃうけど。

渡野(わたの)だってわかってるだろ。あいつらは帝にあやつられているんだって」

 よく名前を知っていたな。ちらっと思って我ながら男子高校生だと自嘲せずにはいられなかった。俺もこいつの名前を知っていた。話の通じそうなやつが周囲にひとりしかいなかったら気になるし、話したくなるし、頼りたくなる。

 だけど馴染めない同士だよ。

「帝はカリスマなんだろうな。つまらない話でも大胆かつ魅力的に聞こえる」

「なんだァ、渡野まで帝を支持するのか」

 巾木がこちらの顔を覗きこみ、俺は傘の持ち手が急に滑りやすくなるのを感じた。

「口ずさんでしまう曲なんだよ。知らないアーティストのカバーでも喜んでしまう」

「わたしはカバーなんて聴かない。男に曲をつくってもらっている女の歌も」

 過激派だ。アニメの主題歌なんてほとんど聴けないだろう。編曲も女縛りか? それは――たいへんだ。

「俺だってうさんくさいと思っているよ。悪いやつじゃないのかもしれないけど、まあ、ああいう状況に慣れているのならイヤなやつかもしれないな」

「文責のない批評だ」

「おまえは男みたいな話し方をするんだな」

「はあ、口語に特定の性別みたいな話し方があるものかね。父親と男兄弟しかいないわたしには不利な戦いだ」

 へえ。性的虐待とかされているのかな。

 信号が変わった。巾木はすぐに歩きだした。

「わたしはおかしいと思う。おかしいと思うわたしがおかしくても」

 小さな歩幅に合わせて白と黒のしましまを踏んでゆく。となりで揺れている巾木のふわふわしたツインから垂れ耳の犬を連想する。あの耳をぺろんとめくったら、くさいのだろうか。

 かすんだ前方を眺めながら、学校からも住宅街からも駅からも近くない、ただ通過するだけの場所にもビルやマンションが並び、ぽつんぽつんと自転車屋やブティックが存在することを再発見し、これまで背景になっていた世界にも生活があるのだと感じ入った。

 家の前までやってきた。俺んちはここ、を省略した「だからもういいよ」が微妙に伝わり「遠慮するな」とふたりで気まずく立ち止まる。

「もう到着したから」

 巾木は「折りたたみぐらい買え」と荒っぽく傘を俺から奪いかえした。

「晴れると思ったから置いてきたんだ」

「携帯しないのになんで折りたたまれたんだろうな。おまえの傘は」

 そこまで言わなくてもいいじゃないか。去りゆく巾木の背中を見送りながら俺はひとりですねてみた。無意味な行動だった。無意味な会話でもあった。でもほっとしていた。


 蒸し暑くなると誰かが憎くなる。そうやって自然のせいにすることで自分のせいにも誰かのせいにもしないようにしているが、自然現象への憎悪(ぞうお)にスライドさせることで現状がますます増悪(ぞうあく)してゆく気もする。

 どこかで下敷きがぶわんぶわんとたわむ音に合わせて俺までゆがんでゆくようだ。暑い。とにかく暑い。冷房の設定温度が絶対に間違っている。でもボットたちは教師に直談判しない。彼らの視線は黒板や教科書ではなく教室の中心にいる帝に集まっている。そもそも転入生の席がなぜ真ん中に。その不可思議な座標の男がいきなり振り向いた。意味ありげな微笑を口元に浮かべ、控えめに手を振ってくる。ボットたちも風を受けた偽物の鶏がくるっと回転するようにこちらを見た。食い入るように、しかし何の思惑もない顔で。俺を凝視したって涼しくはならないのに。

 さらに暑苦しく感じる。


 授業から解放されて逃げるように校舎から走り去る。坂を下りながらデタラメを叫ぶ。ちんことまんこががっちゃんこまれにおしりとちんこでうんこっこ! どうして学校は高いところにあるんだ!? そのせいで熱がのぼって集まってきている!! 夕立が近づこうとしている。

「おい、そこのヘンタイ」

 前方を見据えたまま減速とともに声量を抑え、下りきった平地にて足を止める。俺のとなりには涼しげな顔の巾木が立っていた。

「なんで無視したんだ」

「俺に話しかけているとは思わなかったんだ」

 見え透いた嘘だった。巾木も「ヘンタイがそんなにいるもんか」と嘲笑ってくる。

「叫んでいただけだ」

「意味の通じない叫びを奇声と呼ぶ」

 だったら俺たちの想いは奇声なのか。ボットたちにはけっして届かないこの叫びは。

 いつの間にか巾木が俺の顔を覗きこんでいた。大きな目をさらに見開き、俺をそのまま取りこむ勢いで近づいてくる。

「雨が降りそうだな」

 まぎれもない事実だ。うめくみたいに「ああ」と認める。

 それ以上は何も言えない。

「わたしが傘を差してやるから、おまえは叫んでいたらどうだ」

 いや。反論したほうがいいだろう。

「きちんと持ってきたから」

「そんな小さな折りたたみ傘でおまえのでかい図体を守れるか。貸せ。へし折ってやる」

「なんでだよ」

 巾木はぱっと離れてニッとした。

「やっと笑った」

 ほんとうに笑っているか、自分でもわからなかった。でも巾木がいればどんな悪天候だって一瞬で晴れてしまうに違いない。そんな、痛々しい感傷にひたった。

 現実は厳しかった。傘も役に立たないほどの雨、巾木は屋根を求めてシャッターが閉められている店舗のテントの下に入っていった。が、先客がいる。色黒のじいさんだ。

 俺が言える立場ではないが、巾木もなかなか変なやつだった。なんと知らないじいさんに話しかけたのである。

「いやになっちゃいますよね」

「この国も核兵器を持たんといかんのだ」

 ちらりと巾木が目くばせした。首を横に振ってみたが、何を勘違いしたのかやつは食い下がった。

「核兵器があってもわたしたちには何もできませんよね。今は雨にすら負けているわけで」

「このままでは外国の言いなりだ。核兵器を持ってはじめて対等にやりあえる」

「おじいさん、この国はあらゆる機能が一極集中しているから首都を攻撃されるだけで終わるんですよ。だいたい食料もエネルギーも自給率が低いのだから攻撃しなくても――」

「オマエは売国奴か」

「はあ」

「けしからんぞ、太陽光発電」

 まだ話を続けようとする巾木を俺の傘下に引っ張り、その場を立ち去る。

「なんで話しちゃうんだよ」

「もしかしたら話せるかなと思ったんだ」

 見るからにしょげた巾木は持て余した長傘を左右に振った。

「せっかく長く生きても、経験を伴わない知識をくりかえすだけのボットになる」

「インターネットに影響されたんだろ」

「わたしだってインターネットを使っている。渡野と同じ教室にいる。でもボットじゃない」

「いいことだ」

「ほんとうにいいことなのか」

 何が悪くて何がいいのかわからない。そのためらいをためらわないものが上書きする。長考や負荷に耐えられない怠け者の正当化ばかりが拡散され、どうせ何もわからないのだからわかろうとする必要はないと最初から諦めることが美しくなる。

 せせら笑うように夏だけが着実に成長している。

「ボットと対話したって前進しない」

「次はわたしが話したことを話しだすかもしれない」

 暑すぎて優しくできない。

「自分の言うことを聞かせたいだけか」

 巾木は濡れるのも厭わずに一歩、俺から離れて手持ちの傘を開いた。

「それは今、おまえがわたしにやっていることじゃないか」

 いや寒くても俺はこれか。

 ひとりになっても斜めの土砂降りは続いていた。やがて俺の折りたたみは突風に流されて裏返った。勢いよく走り去る車に水をはねられもした。

 ずっと敗北していた。


 もう乾いたとは言えなかった。昨日を引きずってじめっと暑く、教室に入っても呼気や汗でびちゃびちゃになっている気がする。また夕方に降るだろう。この時期の運動部はいったい何をやっているのか。おそるおそる前の席のクラスメイトに尋ねる。

「落雷に気をつけなさい。ぱっと見は無事でも中がどうなっているかわからない。だから雷に打たれたらすぐさま病院に行け」

 そんな忠告は求めていない、そう言ったところで聞いてもらえない。声を荒らげるほどでもない。拳をふるうほどでもない。迫害されているわけではない。公正さが失われているわけでもない。

 ただ俺がいる意味がない。

 俺がボットにうんざりして頭がおかしくなりかけている一方で、ボットは俺を認識すらしていない。その非対称性が何かを削り取ってゆく。


 運動部より早く教室から出たときの、各クラスの賑やかさと相反する廊下のしんとした空気でようやく息継ぎできる。どうせ逃げても変わらない明日が来る。わかっていても現在から距離を取るように走る。が、ちょうど校門を抜けたところで横から呼び止められた。

「おい、夏から逃げたって殺されるだけだぞ」

 そこには平然とした顔つきの巾木が腕組みして立っていた。なぜ帰宅部なのか、陸上部どころか瞬間移動部のエースになれるのに。

「雨に降られたくないだけだ」

「あれも夏の手下だ。目下の敵は夏なんだよ」

 これ以上、生きていても死ぬだけだ。季節には勝てないんだから。

 ぼやきそうになった俺を遮るように「だから」と巾木は胸元でぐっと右拳を固めた。

「夏を倒しにいこう」

 どうせ汗ばんで終わりだ。悪態をつくのも億劫な太陽の下、返事も待たずに歩きだした巾木を追いかける。

「扇風機でも回しにいくのか」

「ああ、それもいいな」

 何がいいのかわからないまま、俺たちは徒歩と電車で繁華街の一角にある何階か建ての家電量販店まで行った。とてつもないスピード感に翻弄されている俺に対し、巾木は展示品の扇風機群を眺めながら「この辺だけ冷房を切ったらいいのに。そしたら風がより冷たく感じて販促になるぞ」と祖父母の家にあった旧型の扇風機のように首を左右に振っていた。

「冷やかしはやめろよ」

「たしかに、一介の高校生であるわたしには家電なんて何ひとつ買えない。でもいいじゃないか。別のフロアには文具コーナーもあるんだし」

「別のフロアにな」

「わたしは家電量販店が好きだ。新製品の必要なさそうな新機能を知るのも白物家電の白さに感動するのも」

 巾木はしみじみと扇風機群を見つめたのち、急激に飽きたのか小走りでどこかへ向かった。揺れるふわふわツインの軌跡を辿った結果、本体は液晶タブレットでエビフライを描いていた。

「なあ、夏は倒さないのか」

「今、倒している」

 絶対に嘘だ。

 とりあえず真横でお絵かきの経過を観察するつもりでいた俺を巾木は面倒くさそうに一瞥した。なめやがって。仕方なくマウスの陳列棚の前で棒になって時間をつぶす。ボールころころ(トラックボール)って内部にすぐゴミがたまりそうじゃないか。いらぬ心配をしつつ巾木の様子を窺えば、揉み手をした若い男店員とおしゃべりしていた。

 女子高生に話しかけるか、普通。

 ふたりのあいだに割って入って店員をにらみつける。にっこりしていた男はたちまち青白くなり、ごにょごにょと抜かしながらその場を去った。背中に隠していた巾木がひょこっと顔を出す。

「この液タブ、もう展示品しかないらしいぞ」

「金があっても欲しくないな」

 何も買わずに家電量販店をあとにする。今から帰れば雨に遭わずに済みそうだが、巾木は行く先を告げずにぐんぐんと先に進む。目的地がわからないし暑いしで怒りをはらんだ早足はアーケードの日陰に入ってぐんと遅くなる。

 馴染みのない商店街の途中に耳慣れない名前のスーパーがあった。入り口前に置かれている自転車群に圧倒されつつ、かごを持たずに入店した巾木についてゆく。

 雑然としたスーパーだった。他の客とすれ違うのも苦労するほど狭い通路の左にも右にも低きにも高きにも商品がある。歌詞付きの曲がずっと流れていたのも混沌に一役買っていた。巾木はややゆとりがある壁際の調味料コーナーの前で立ち止まって天井を指した。

「きっとこの店のBGM担当は音楽に詳しいんだ。渡された曲を歌うだけのやつらを絶対に選曲しない。だから信頼できるプレイリストがわりによく聴きに来ているんだ」

「冷やかしはやめろよ」

 小刻みにうなずきはじめた巾木を無視して向かい側のアイスショーケースに近づく。他のスーパーより安いような安くないような。どちらにせよ夏の暑さに殺されるやつが増えれば増えるほどアイスメーカーは潤うのだ。違う位置に置かれたアイスを元に戻していると後ろから話し声が聞こえた。

 またか。すぐさま巾木のとなりに立ち、なぜかすでに苦々しい顔の男店員を追い払う。

「何かお探しですかと聞かれてな、BGMを堪能しているだけだと答えたら気まずくなった」

「そりゃそうだ」

 何も買わずにスーパーをあとにする。もうそろそろ降ってきてもおかしくないが、巾木は行く先を告げずにぐんぐんと先に進む。アーケードを抜けて大通りに面したゲームセンターへ。ようやく高校生らしくなってきた。

「遊ぶのか」

「まあ見てろ」

 店先のカプセルトイには目もくれずに中に入る。新鮮味のない場所でも今日は巾木がいるから身構えてしまう。もし人のプレイをのんびり見物するだけで終わってしまったら……。

 出だしから不穏だった。巾木は後ろで手を組んでクレーンゲーム機をゆったりと眺めながら歩いていた。その斜め後ろからおずおずと伺う。

「何を探しているんだ」

「今はこういうのが流行っているんだなって調査している」

 プレイ見物のほうがマシだった。

 角を曲がった巾木を追いかけることなく、俺は手近のクレーンゲーム機をうつろに見やった。人気キャラクターのぬいぐるみだ。これを巾木に取ってやる未来があったかもしれない。

 いや、ない。あいつはそういう女じゃない。ボットではないだけで、こいつともわかりあえないのだ。

 どん底の真っ暗闇の中で神経が研ぎ澄まされるようだ。今度は二人組か。駆けつけてみれば案の定、巾木は両替機のそばで他校の男子と打ちとけていた。

 むだに通りがかりを装って挨拶する。男たちはそそくさと店内の奥に消える。巾木がいたずらっぽく覗きこんでくる。

確率機(三本爪)の確率を調べているらしいぞ」

「なあ、おまえ、いつもこんなことしてんの」

 巾木は不安げな面持ちでこちらを見つめた。でも止まれなかった。

「女がひとりで出歩くんじゃねえよ」

 俺はいつも間違っている。それはわかっている。目の前の巾木だって曇っている。

「わたしは、ただ、わたしが楽しいと思うことを渡野と共有したかっただけなんだ」

 今にも泣きだしそうな顔で、巾木はむりやり笑った。

「そんなこと、言われるつもりじゃなかったんだ」

 とぼとぼと歩く、小さな小さな巾木の背がさらに小さく見えなくなってから俺はゲームセンターを出た。

 途端に土砂降りが直撃した。

 白っぽくなった世界で、制服も鞄も重たくして靴をぐじゅぐじゅにさせながら帰った。

 雨に打たれたって何も流れてはくれないぞと閉じたままの折りたたみ傘で自分の太ももをなんども殴りつけながら。


 夏を倒せなかったせいで、朝から草も木も花も虫も鳥も肉球が心配になる散歩中の犬もその飼い主も俺もうなだれるほどに暑かった。母親が持たせてくれた弁当が学校に向かうまでに高速でだめになる気さえした。焦りが俺を学校まで走らせる。

 加速した先に何がある。揺り戻しがあるというのは楽観的な見方だ。時はだいたい過去から未来の方向に流れ、死んだあとに生きることはなく、始まったものは終わり、新鮮なものは腐ってゆく。

 校門を通り抜けたとき、すべてが腐っているように感じた。新品の制服を着て、初めて高校の校門をくぐった日もそうだった。中学のときにもやったことだ。きっと大学生になっても会社員になってもそうだろう。このマンネリズムからはもはや逃れられず、俺はボットのように日常を繰り返してゆくしかないんだ。

 新しいものを与えてくれようとした女の子を、俺は、わかってやれなかった。

 進んだ先には何もないと知っているのになぜ進まなければならない。足が重くなる。廊下でのんきな同級生たちに抜かされ、時に突き飛ばされる。

 このままふけちまおうか。教室の前で逡巡していたが、やけに静かなことが気になり、ドアの窓からそっと窺った。

 クラスメイトたちが輪をつくるように教室の中央に集まっていた。

 机は椅子をのせて端に寄せられていた。帝がみんなを集めて良からぬ冗句(ジョーク)でも吹きこんでいるのか。

 巾木はどこだ。

 教室に入っても誰も振り向かない。どいつもこいつも夢中でひそひそ話をしていた。次第に声が大きくなり、盛り上がりが生まれ、熱を帯びる。いったい何をやっているんだ。俺は教壇に立ってやつらが囲んでいるものを見た。

 そこには両手で顔を隠して床にへたりこんでいる巾木がいた。

 俺は教卓を円陣に向かって投げ飛ばした。

「巾木から離れろ!!」

 怒声を浴びせたが、彼らは教卓をぶつけられて転倒したクラスメイトにも俺にも一瞥をくれなかった。ちくしょう。俺は机にひっくり返して置かれていた椅子で手当たり次第、立っているだけで存在した気になっているやつらをぶん殴り、落ちていたスポーツバックのひもで何人かの首を折り、窓の横にいるやつらは全員、頭から放り投げた。

 邪魔者はすべて片付けた。俺はしゃがんで巾木の肩を叩こうとしたが、自分の手が思っていた以上に血にまみれていると気づいてやめた。

 かわりに声をかける。

「なあ、泣かないでくれ。俺はおまえが好きなんだよ」

 巾木が両手を下ろして顔を上げる。あれ、そんなに泣いていない。

「この世界は腐っているし、俺も性根が腐りきっている。それでも好きな人の幸せだけは諦めたくないんだよ」

 言いながら火照る、その照れに気づいてさらに熱くなる。一方の巾木はきわめて冷静な態度で眉をひそめた。

「なんで急に告白してきたんだ?」

「お、俺はおまえを守りたかっただけなんだよ。昨日も今日だって。巾木が泣かされるんじゃないかって心配で」

 辺りを見回して状況を把握した巾木は、ためらいがちに教えてくれた。

「昨日のわたしたちを目撃した子がいて、付き合っているのか聞かれたんだ。わたしは好きだけど渡野に嫌われちゃったんだと答えたら、落ちこんでいるわたしをみんなが慰めてくれてな。次のデートの作戦まで立ててくれて、その優しさで泣きかけていたんだ」

 俺はあらためて自分の手を見た。爪のあいだまでびっしりと赤が詰まっている。

「ゆで卵が生卵に戻らないかなあ」


 ありとあらゆる罰、報復、請求が待ち受けていると枕に顔面を押しつけて震えていた俺だが、翌日になっても翌々日になっても来週になっても何のおたよりも来なかった。がらんとした週明けの教室、おとなりの巾木と首を傾げあっているところに事件当日から高熱で休んでいた帝が入ってきた。立ち上がる俺に「僕まで倒すのはさすがにまずいよ」と忠告し、前の席に腰かける。

「おまえがすべての元凶だっていうのに」

「僕は転校してきただけだよ」

「どいつもこいつもおかしくなった」

「主体性のある人間のほうがヘンなんだ」

 そのうろんな言い回しに影響を受けてあいつらは……俺はできるかぎり小さな声で質問した。

「八人が死んで、三人がじわじわ死に、残りも失明やら人工肛門やら四肢切断になったっぽい、んだけど、あの、音沙汰がなくて」

「ボットに人権はないからね」

 単純明快な答えに俺と巾木が感嘆の声を上げていると担任教師がやってきた。やつは教卓の前に立って人数をわざとらしく数えたあと、教室の鍵についた輪っかを指に引っかけてくるくると回しはじめた。どいつもこいつも。いけ好かないと思いつつも帝に会釈をし、俺たちは先にふたりで帰る。

 問題は何も解決していない。だってからだの内部まで火が通るぐらい日差しが強く、照り返しが厳しく、暑くて、暑くて、暑いから。

「現象に俺たちは無力だ」

「そうか、わたしはそうでもない気がしているぞ。過ぎ去るまで我慢できるとかではなくて」

 俺のとなりを歩く、ご機嫌に揺れるお下げの、横顔に斜め上から問いかける。

「夏を倒しにいくか?」

 巾木はこちらをぱっと向いて、きらきらした目で俺を見た。

「ああ、夏を倒しにいこう!」

 そして彼女は俺の手を取って、からめて、握る。わんぱく少年のような無邪気な笑顔があいまいな形にゆがんで、何かをささやこうとする。

 続きはもうわかっている。その言葉はあまりにも陳腐で、だが、なんど繰り返されようと褪せることなく、俺を熱くさせる。

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