2.僧侶編-2
ひひん!
馬の鋭い嘶きが聞こえた。
次の瞬間、鈍い衝突音。
「わあ!」
小さな悲鳴が聞こえた。
それが子供のものだと気づいた時、ディーンは咄嗟に声の方向へと走り寄っていた。
停留所には馬車が二台。
壊れてはいないが、御者らしき男達が慌てている。
彼らの視線の先には、うずくまる子供が一人いた。
どうやら彼が悲鳴の主らしい。
「どうしましたか」
「ああ、司祭様! な、なんでもないんです、この子が転んじまっただけで」
「何言ってんだ馬鹿野郎、お前がぶつけてきたせいだろうが!」
現場の状況と男達の言葉で、ディーンはおおよその事情を察した。
停留所にて客を降ろそうとした乗合馬車に、もう一台の馬車が接触。
降りようとしていた子供がその衝撃で転んでしまった、ということだろう。
「怪我の手当てをしましょう。その子をこちらへ」
「おお、そりゃありがてえ」
「も、もういいだろ? その子も擦り傷程度で大したもんじゃなし、馬車だって無事だったんだ。俺はもう行くぜ」
さっと見た限り、膝から血が出ている程度の外傷だ。
男の言うことに嘘はない。
しかし、あんまりな言い方にディーンは眉間に皺を寄せた。
馬車をぶつけたという男へ向き直る。
御者の頑丈なコートは長く使われたというよりも乱暴に扱われたせいで皺や染みが目立つ。
頬に傷跡のある、全体的にみすぼらしい印象の男であった。
「貴方は御者のこの方とこの子にまず謝りなさい。馬車がぶつかったせいでこうなっているのですよ」
「な、なんだってんだよぉ、俺が悪いってのか? どいつもこいつも学がねえからってバカにしやがって!」
今回に関して言えば明らかに悪いし、学がないことは関係ないのだが。
頬傷男の言い分に指摘を入れる前に、動く者がいた。
「あの、ぼ、ぼく大丈夫ですっ」
へたり込んでいた子供だ。
痛みと衝撃から解放されたのか、ディーンの脇をすり抜けて走り去ろうとした。
「待ちなさい、大丈夫かどうかはまだわからないよ」
「そういやこの子のママやパパさんはどこだ? ……あっ!」
馬車をぶつけられた側の男が声を上げた。
見れば、頬傷男が隙をついて馬車に乗り込み、逃げようとしている最中であった。
加害者が謝罪もなく逃亡しようとしているのは腹立たしいが、ディーンの身体は一つだけだ。
であるなら、優先すべきことは決まっている。
ディーンは薄い肩を優しく抱きとめ、男のしかけた質問を繰り返した。
すなわち、保護者はどこか、と。
「いません。ここへはぼく一人できました」
「それなら尚更だ。傷の手当てをさせておくれ」
痛くなくなる、すぐに終わると説得しても、子供の顔色はどこか青ざめたままだ。
知らない大人の男に引き止められているのが怖いのだろうか、となお抵抗の力がこもる身体を早く解放してあげたい一心で、ディーンは擦りむいた膝に向けて手をかざす。
温かな色の光が生まれる。
使い手の魔力を引き金に生み出される奇跡、大衆向けに言うならば『回復術』。
聖職者として女神に認められた者が使える術が、子供の傷を癒すべく広がっていく。
「いっ……!」
ところが。
子供が上げたのは歓声ではなく、苦痛のうめき声であった。
傍にいたディーンにも当然その声は聞こえた。
同時に、声の原因も把握する。
重たげな瞼が持ち上がり、驚愕に見開かれた。
「あの、司祭様?」
ずっと事の成り行きを見守っていた御者の男が、動かない二人に怪訝そうな声を掛ける。
頬傷男のようにあからさまではないものの、彼も中断している仕事を再開したそうに目線をちらちらと彷徨わせていた。
「わっ」
その声ではた、と我に返ったディーンは、子供を抱えあげる。
子供がバタつかせる手足を押さえ、男に顔を向けた。
「この子はこちらで預かります。貴方は仕事に戻りなさい」
「へぇ、司祭様がそうおっしゃるなら……」
すっくと立ち上がったディーンが、先ほどの優しげな様子とは打って変わって言葉少なに指示する。
急激な変化を不思議に思いながらも、異論はないと男はその場を離れていった。
一方で。
ディーンは子供に対して、なにも言葉を掛けず足早に歩き出す。
固い表情で歩を進めるのは、先ほど出てきたばかりの大聖堂であった。
「は、はなして、はなしてください」
抱えられたままの子供は、なおも抵抗を止めない。
しかし威勢が良いのはもはや言葉のみとなっていた。
バタつかせていた手足はすっかり力をなくし、薔薇色がよく似合うはずの頬は青ざめてしまっている。
「ぼくは、」
それでもディーンが止まろうとしないのを察し、子供はその時初めて、解放の要求とは違う言葉を放った。
「ちかいます、司祭様。ぼくはちかって、神のご意思に背くようなことはしておりません」
指先が白くなるほど握り込んだ両手は、まるで沙汰を待つ罪人のよう。
ぎゅうとつむった表情は、これから待ち受ける己の運命を覚悟しているものだった。
そして、ディーンは初めて歩みを止めた。
そこは大聖堂に入ってしばらく行った場所にある、懺悔室だった。
名前と顔が分からぬよう、壁に仕切られた空間は、逆に言えば何が起きても気づかれにくい場所とも言えた。
子供の顔色が、更に悪くなる。
「ここで、待っていなさい」
長椅子に座らせ、ようやく子供を解放したディーンの第一声は、簡潔なものだった。
懺悔室の扉は開いたままだ。
閉塞感はわずかばかり軽減され、子供は小さく息を吐く。
そして、司祭の様子が急変した原因であろう箇所を見下ろした。
半ズボンを履いた足。
あまり健康的とは言いがたい白い肌は、薄暗い教会では一層目立つ。
繊細なステッチで押さえられた裾からは、ほっそりとした腿、膝、ふくらはぎと靴下で覆われた足首と続く。
問題なのは膝だ。
馬車同士がぶつかったせいでできた擦り傷は、子供自身が転んだだけで、男達のいうように大したものではなかった。
しかし今は違う。
薄皮が剥けた皮膚は赤く爛れ、浸潤液が滲み出している。
なんともなかったその周囲も、腫れて熱を持ち始めていた。
回復術を施すと、稀に治るどころかこういった反応を示す身体の持ち主がいる。
回復術の魔法に対して、拒否反応を示すのだ。
治癒能力を活性化させるはずの魔力を敵と捉えて攻撃してしまうため、こうした炎症や怪我の悪化が起こる。
原因は術者の魔力と相性が良くないか、もしくは身体に魔力がない体質のため。
後者に関しては、隠す者が多く、根深い問題となっている。
魔力がない身体というのは、魔物もそうであるからだ。
魔物や人間の身体の構造について造詣が深くなかったがゆえに起きた迫害であり、過ちである。
そして厄介なのは、その迫害は根絶してはいないということ。
特に教会ではつい最近まで『回復術で傷を悪化させる者、それすなわち人間に化けた魔物なり』という文が公的に出回っていたほどだ。
震えながら荘厳なる大聖堂にて待ち続けて、数分。
子供にとっては千秋に近い時間が流れた頃、足音が聞こえた。
「待たせてしまったかな」
同時に、瓶や器具の擦れる音も。
救急箱を抱えたディーンが、そこに立っていた。
「怯えなくていい。私は君を害するつもりはない」
患部を流水で洗い流し、回復術にて与えてしまった魔力を魔力吸引器によって吸い取る。
脱脂綿である程度浸潤液を吸い取ってから消毒を施し、などの一連の治療を行いながら、ディーンは子供へ話しかける。
「すまないね、本当だったら傷口を洗って清潔にしておけば治っただろうに」
「いえ、……」
言いよどみ、続きの言葉を紡ぎかねている子供。
沈黙に嫌な顔をすることもなく、ディーンは丁度よい大きさにガーゼを切り取った。
そして、
あ! と突然の大声を上げる。
「えっ!?」
「あっ、その! すまない! 怖がらせて!」
いや今も怖がらせたんだろうけど! と慌てる様子からは、先ほど険しい顔をしていた厳しい雰囲気は霧散している。
大げさな手振りで、つまんだままのガーゼがぴろぴろと風に吹かれていた。
「きみは自分が人と違う体質だということは理解しているのだろう? そしてそれが伝わったら怖い目に遭うかもしれない、とも」
「っ、はい」
「だとしたらその怖い目に遭う原因は、教会だよなぁ……怖がる子を無理やりお化け屋敷に連れてきたみたいになっちゃったなぁ、ごめんなぁ」
失敗しちゃった、と肩をがっくり落とすディーンが苦い顔をしていると、前方からくすりと笑う声。
見れば、子供のこわばっていた顔がようやく笑顔に変わっていた。
「えっと、安心しました。司祭様でも、失敗するんですね」
「安心してくれたならなによりだ。妻に何度も言われているが、間が抜ける癖が治らなくてね。私もドジをした甲斐がある」
それに対し、ディーンもようやく笑みを取り戻す。
頬の赤みは羞恥によるものという、なんとも情けない仕上がりであったが。
「それにしても」
幾分か力の抜けた子供へ治療を施しながら、ディーンは会話を更に重ねる。
「保護者の方はどうしたんだい? 心配しているだろうに」
発覚した状況によっては、迫害されかねない体質。
孤児院の子ども達よりも上等な身なりを見るに、放置されているとも思えない。
今頃親御さんはさぞや、と眉尻を下げるディーンに対し、返ってきたのはこれでもかと泳ぐ視線であった。
「……まさか」
「お父さん、お母さんはこの町にはいません」
顔色を変える大人をなだめるように、子供は両手を上げる。
それは降参のポーズにも、立ち上がったディーンから身を守ろうとしているようにも見えた。
「ちゃ、ちゃんと許可はもらってます。どうしてもこの町に観光に来たくって、大人の従者と一緒なら行ってもいい、って」
「そのお目付け役の従者は?」
「どっか行っちゃった……」
「どっか行っちゃったのは君の方だよ!」
ぺしん、と最後にガーゼを強めに貼り付けたのは、せめてもの折檻代わりである。
なにせ自分の体質を理解しながら大聖堂のある町まで来てしまうような行動力だ。
痛みに膝を抱える姿は大した反省をしているようには見えない。
深くため息を一つ。
気持ちをリセットすると、ディーンは涙目の子供へ、手を差し伸べる。
「もうじき日も暮れる。宿は取っているのだろう? 従者のところまで送るよ」
え、と声を上げた理由は、会ったばかりの他人にどうしてそこまで、という戸惑いだろうか。
口にせずとも伝わる疑問に、ディーンは微笑みながら答える。
「勇者様ならきっとそうしたさ」
夕陽の射し込むステンドグラスは、橙にその色を染めて降り注ぐ。
神を象った光は、暖かな熱の色を伴って、眩くディーンを飾った。
「なにせここは勇者様のお生まれになった町だ。教会の者がその精神を見習っても不思議じゃないだろう?」




