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2.僧侶編-4

「それは、まあ、そうだね。なんの罪もない、善き人々が害されることは悲しいことだから」

「ですが、悪い人たちが悪いことをするのは理由があります。生活が苦しいから、餓え故に仕方なく、ということもあるでしょう? 司祭様達は彼らに施しもしているではないですか」


魔物によって故郷を追われた者達への炊き出し。

親を失った子を育てる孤児院。

善き人々が善きままであれるように。

悪しき道へと落ちないように。

エリス教は、そういった境界にいる者達への救済も行っている。

この数日の間に、ディーンにくっついて孤児院を見学したビリーからは、特に実感のこもった意見が出た。


これに対しても、ディーンは声を荒げることもなく答える。


「そうとも。人は得てして簡単に悪へと堕ちる。それは誰にでも起こり得ることだ。だけど、悪へと落ちないよう導くことと、既に悪となってしまった者から善き人々を守ることは、全く違うことだよ」

「でも、ディーン」


子供がでもでもだってと、破綻した理論をこねくり回すのはよくあることだ。

慣れているはずなのに、ディーンはどうにも苛立ちを抑えきれずにいた。


ビリーが見た目の年齢よりも随分と大人びた発想をするからだろうか。

ディーンは、無意識に察していた。

口を開いて出てくる言葉が、己の心を強く揺さぶるものであることを。


「悪い人たちを嫌うことは当然だという。それなのに貴方はなぜそんなに苦しそうなのですか、ディーン」


倉庫と倉庫の間。

背の高い建物は日を遮り、細道はより一層暗がりとなっている。

そこへ踏み入ろうと近づいていた子供の姿さえ、朧気だ。


米神に冷たい汗が流れるのがわかった。


「いつもより、声が大きかった」


暗がりに寄り添うように、子供の姿は溶け込んでいる。

黒髪の隙間から、底の見えない蒼がディーンをまっすぐに見つめていた。

深く、深く。

彼女が沈んでいったように。


「海になにかイヤな思い出でもありますか?」

「君は本当に、……どこまで知っているんだい」


恐怖による身震いは、久しぶりのことだった。

ディーンの問いかけに、子供は愛らしい笑顔で返すばかりだ。




「妻は、海で亡くなった」


倉庫街から離れ、ディーンとビリーが腰を落ち着けたのは、聖堂前の広場であった。

平日であるからだろう。

見晴らしのいい平地を通りすがる人はまばらだ。


これまでの信頼からか、後ろをついてきていた従者は姿を消していた。

こんな会って数日のおじさんに護衛対象を任せるな、とも言いたかったが、正直なところ、今のディーンにはありがたかった。

大人が同席していれば、ディーンは話すのをためらっただろうからだ。


「妻の遺体はひどいものだった。海水に長時間浸かっていたのもそうだが、明らかに危害を加えられた傷があった」


不自然なほどに白く膨れた肌。

滴り落ちる水滴と、同じように落ちていくふやけた肉片。

魚に突かれたのか、特に目の辺りは人間の形を保っていなかった。

かろうじて彼女とわかったのは、手に握られていたペンダントトップがあったからだ。

ディーンが送った、おそろいのロケットペンダントだった。


「引き上げてくれた者達は事故だと言っていた。岸壁から身体を打ち付けながら落ちたのだろう、と」


そんなわけがない、とディーンは叫びたかった。

叫ばずとも、似たようなことは口走ったかもしれない。

ただの事故ならば、太ももの辺りにあんなにくっきりと、人の手形としか思えないような鬱血が残っていたはずがないのだ。


誰かがいるのだ。

彼女に危害を加え、無慈悲に海へ打ち捨てた誰かが。


「埠頭にはこの国の籍がなく、素行の悪い者も多い。だがその中の誰が、という確証はないんだ」


あるのはただ、疑いだけ。

しかしそれがディーンを解放してくれない。

疑いを抱いた全てを刺々しい視線で見てしまう。

叶うのならば、妻と同じ目に。

思いが形になる前に、何度かき消したことかわからない。


「悪いのは私だ」


ディーンはそんな自分が嫌いだった。

疑わしいというだけの人を憎んでしまう前に、全てから距離を置いた。


「妻が一人になるのを良しとしてしまった私だ。教会に行くという言葉を信じて軽く考えた私が悪かったんだ」


わかりやすい言葉もない、ただ心に留まっていた感情を吐き出しただけの行為。

おおよそ子供へ向ける言葉ではないが、しかしビリーは退屈そうな顔をするでもなくディーンの傍で聞いていた。


「がんばったのですね」


やがて話し終えたディーンに向かってかけられた言葉は、余計な装飾を削ぎ落とされた、ひどくこざっぱりとした感想だった。


「貴方は優しい人だ、ディーン。身近な、それも奥方を亡くされて動揺しない者はいない。全く関係のない者にその苛立ちをぶつけたって、事情を知る者は同情を込めて貴方を見るばかりでしょう。なのに、自分が悪いと内側に封じ込めるなんて」

「関係のない者に危害を加えれば、それは悪だ、ビリー」

「それはどうでしょう?」


ぽつり。

投げかけられた疑問に、ディーンは眉をひそめて隣へと視線を向けた。


「例えば、女神エリス」


子供は、ディーンの方を向いてはいなかった。

自身に向けた問答のような問いかけは、どこかに見本文でもあるかのようにつらつらと言葉が重ねられている。


「かの神は勇者を導き、魔王を倒させたと言います。しかしそこまでの道のり、勇者も無傷とはいかなかったでしょう。むしろ途中で死んでもおかしくなかった任務を成し遂げ、生還したからこそ、勇者は称えられたのです。

そんな苦難を与えた女神エリスは、悪ですか?」

「そんなわけはない」


なにを言うのだと、ディーンはぎょっと目を剥いた。

おおよそ勇者に憧れを抱き、親元を離れて観光まで行った子供の言うことには思えない。

それとも、憧れだからこそその存在に苦難を与えた女神エリスが嫌いなのだろうか。


「女神様は、勇者を偉業へとお導きになったのだよ。彼ならできるとわかっていたから、あえて苦難の道を進ませたのだ」

「わかっていたから。では、女神エリスは、全ての人間の行動を見守っておられるということになりますね」


ディーンは子供がどういう意図で発言しているのかわからない。

故に、真意を読み取ろうと会話を続けた。


「人を正しき道へと導くのが女神エリス。ならば、善い行いの者には褒美を与え、悪しき行いの者には罰を与える。それは当然の摂理では?」

「……経典に女神がそのようなことをするとは、載っていない」

「勇者の話も載っていませんよ」


反論は、できなかった。

この数日何度も話題に出た物語だ。

純粋な憧れを抱く幼子に対して噤んだ口を、今更開くことはできない。


「良い子には聖人からプレゼントがもらえる。悪い子には怖い魔物がやってくる。絵本を開いて聞かせてくれたことは、全て嘘ですか?」

「そんな、ことは」

「それなら人々の心には、多少の差はあれどあるはずですよ。『あいつは悪いことをしたから罰が当たったのだ』と、人の不幸を当然のこととする気持ちが」


いつの間にか日は傾き、斜陽の橙が広場を照らす。

世界が同じ色に染まっていくにも関わらず、ビリーの瞳は青のままだった。


海が、囁く。


「ディーン。貴方の心は、許される」


言葉は無用だと、目を離せぬままディーンは直感的にそう思った。

海に向かって叫んだところで、なにも返ってこないように。

おそらく彼は、全てを受け入れるだろう。


孤児院の子供達に言って聞かせるようにはいかない。

訪れる訪問客へ説教をするようにもいかない。

与えられているのは、こちらだ。

なんだこの状況は、と働かない頭が疑問符を浮かべる。


「今すぐ全てを解放するのは、無理かもしれません」


やがて二人が見つめ合う時間は、ビリーが目を細めて微笑んだことで唐突に終わりを迎えた。


「ですがディーン、まずは少しづつでいい。試してみてください。悪い行いには悪い結末がついてくることを望む貴方の心を、許してあげて」


そうしてビリーは、ベンチから跳ねるように立ち上がった。

本職の方相手に、長々と語ってしまいました。

ごめんなさい、とビリーは頭を下げ、駆け出す。

その先には待機していた従者達がいた。


「また明日、会いましょう! それまでに元気になっててくださいね!」

「あ、ああ、……転ばないように気をつけて」


突然の動きに、ディーンはそう注意することしかできなかった。

いつの間にか固く握りしめていた拳を解き、ビリーの後ろ姿に手を振る。


駆け出す子供。

隣接する乗合馬車の駅。

思い出したのは馬車と接触してしまったビリーと、初めて会った時だ。

ほんの数日前であるというのに、まるで遠い過去のように記憶が朧気に感じる。


そういえばあの時以降、ビリーに怪我を負わせた運転手の顔を見ていないな、とディーンは気づく。

頬に傷のある男だったから、会えば印象に残っているはずなのに。


「まあ、……そういうこともあるか」


毎日つぶさに馬車の運転手を観察しているわけではない。

ディーンは呟くと、その気づきを他の考え事の下に送りこんだ。

少しむくんだ足を動かし、帰路へつく。


また明日。

爽やかな笑顔の少年が、次はどこに行こうとするのかを予想しながら。



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