第8話 真夜中のカップ麺論争
深夜24時10分。
コンビニの自動ドアが開く音と、入店チャイムの電子音が、俺の背中を押した。
店に入ると、レジカウンターの中には、昨夜俺を「マエストロ」と呼んで戦慄させた店員、長谷川が立っていた。
彼女は頬杖をつき、けだるげな視線をこちらに向けたかと思うと、意味ありげに口の端を吊り上げた。
……挨拶はない。ただ、その視線だけで「いらっしゃいませ、マエストロ」と言われた気がした。
俺は極力彼女と目を合わせないようにして、店内へと進んだ。
カップ麺コーナーの前には、すでに先客がいる。
えんじ色の芋ジャージに、ボサボサのお団子ヘア。
李雪だ。
今日のTシャツの文字は、達筆な筆文字で『一刀両断』。
……また会社で誰かを切り捨ててきたのだろうか。
「こんばんは」
俺が声をかけると、彼女はカップ麺の棚を睨みつけたまま、小さく頷いた。
「……こんばんは、師匠。待ってたわ」
「今日は、随分と殺気立ってますね」
「ええ。今日は一日中、効率の悪い会議と、感情論で喚く『熱い人』の相手で消耗したから」
彼女はため息をついた。
「熱い人」こと山下課長のことだろう。昨日の今日で、またバトルがあったらしい。
「だから今日は、暴力的な味が欲しいの。……これとか、どう?」
彼女が指差したのは、『激辛麻婆麺・地獄味』と書かれた真っ赤なパッケージの商品だ。
確かに暴力的だが、今の彼女の胃袋に入れるには刺激が強すぎる。
「却下です。ストレスで荒れた胃にカプサイシンを直撃させたら、明日の朝、後悔することになりますよ」
「じゃあ、どうすればいいの。この煮えたぎる破壊衝動を、どこにぶつければいいわけ?」
「破壊ではなく、包容力で包み込むんです。……これにしましょう」
俺は棚の隅に残っていた、最後の一個の『海鮮ちゃんぽん』を指差した。
「魚介と野菜の旨味が溶け出した白濁スープ。これに『牛乳』を少し足して、さらに『バター』を一欠片落とします。クリーミーで濃厚な、クラムチャウダー風ヌードルになりますよ」
李雪の表情が、見る見るうちに緩んでいく。
『一刀両断』の険しさが消え、食いしん坊の顔に戻る瞬間。
「……いいわね。採用」
彼女が手を伸ばそうとした、その時だった。
「待ちなさいよ! そのちゃんぽん、私が狙ってたやつなんだけど!」
背後から、聞き覚えのあるハスキーボイスが飛んできた。
振り返ると、そこにいたのはグレーのパーカーにショートパンツ、モコモコスリッパという完全なる部屋着スタイルの女性。
山下恭子だ。
「あ、ドラえもん! 昨日はどうも! おかげで生き返ったわ!」
山下は俺に気づくと、パァッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
俺のことは完全に「深夜のドラえもん」として認知しているらしい。
「こんばんは。……ちゃんぽん、狙ってたんですか?」
「ちなみになんだけど……」
山下は俺の問いには答えず、鋭い視線を李雪に向けた。
李雪の手は、ちゃんぽんまであと数センチのところで止まっている。
「それ、ラスイチよね?」
「……ええ。タッチの差で、こちらの……お連れさんが確保するところでした」
俺が李雪の方を示すと、山下は初めて李雪をまじまじと見た。
瓶底メガネに、ダサいジャージ。
会社での「氷の女帝」とは似ても似つかない姿に、山下は首を傾げる。
「……ふーん。ドラえもんの連れ? ……なんか、どっかで見たことあるような……」
山下の野生の勘が働きかけた瞬間、李雪が低い声で言った。
「……譲りません。これは私が、師匠に選んでもらった『処方箋』ですから」
「はあ? 師匠? ……何よ、随分と心酔してるじゃない。でもね、早い者勝ちなのは認めるけど、まだ貴女の手の中にはないわよね?」
山下が一歩踏み出し、李雪の手と商品の間に割って入るように手を伸ばす。
李雪も負けじと手を伸ばすが、山下の手が邪魔で掴めない。
二人の手が、最後の一個の前で交差し、膠着する。
「どきなさいよ」
「貴女こそ。私が先に目をつけたのよ」
火花が散る。
会社でのスーツ姿の対立とは違う、ジャージと部屋着の意地の張り合いだ。
在庫が一つしかないという事実が、二人の闘争本能に火をつけてしまったらしい。
「あの、半分こというわけには……」
俺が困り果てて仲裁に入ろうとした、その時。
ウィーン、と自動ドアが開いた。
同時に、熱帯の風のような熱気が店内に吹き込んできた。
「Ola!(オラ!) Japanese Midnight!」
底抜けに明るい声と共に現れたのは、蛍光色の派手なランニングウェアに身を包んだ、長身の外国人女性だった。
燃えるような赤毛のウェーブヘア。健康的な小麦色の肌。
汗ばんだ肌が、店内の照明を反射して輝いている。
彼女は軽快なステップで店内に入ってくると、睨み合う俺たちの集団を見つけて、目を輝かせた。
「Wow! 何これ? Staring contest?(睨めっこ?)」
彼女は迷わず俺たちの輪に飛び込んできた。
あまりの勢いに、李雪と山下が呆気にとられ、商品に向けていた意識が一瞬逸れた。
シュッ。
風を切るような音がしたかと思うと、棚に残っていた最後のちゃんぽんが消えていた。
「Oh! Last one! Lucky!」
赤毛の女性は、棚からさらったカップ麺を高々と掲げてニカッと笑った。
「Hi! You look delicious!(美味しそうね!)」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
「私のちゃんぽん!」
李雪と山下が同時に叫ぶ。
だが、女性は悪びれもせずにウインクをした。
「Sorry girls! First come, first served!(早い者勝ちよ!)」
正論だ。
睨み合って手を止めていた二人の隙を突いて、彼女が最初に「確保」したのだから。
彼女はそのまま、俺の顔を覗き込んだ。
「Hi! You are tall!(背が高いわね!) Nice body! アメフト選手? それとも柔道?」
「……ただの会社員です」
俺が英語で答えると、彼女は「Oh! English OK? Great!」とさらにテンションを上げた。
距離が近い。パーソナルスペースという概念が存在しないかのようだ。
汗と、柑橘系の香水の匂いが混じった甘い香りが漂う。
「私はフェルナンダ! 夜のランニング中にお腹が空いちゃって。……ねえ、これ貰っていい? お腹ペコペコなの!」
「いや、それは……」
「Please, Boss!」
フェルナンダは俺の腕に抱きついてきた。
李雪と山下の顔が、同時に引きつる。
「駄目に決まってるでしょう! 返しなさい!」
「そうよ! それは私たちが命懸けで争ってた聖杯なのよ!」
「Holy Grail? Wow, sounds serious!」
フェルナンダは豪快に笑い、俺の背中をバンバンと叩いた。痛い。
カオスだ。
ジャージの女帝、部屋着の女王、そしてラテン系のランナー。
最後のちゃんぽんを巡って、深夜のコンビニの一角で俺を囲んでいる。
これは何の罰ゲームだ。
「……あの。他のお客様のご迷惑になりますので」
俺が冷や汗をかきながら場を収めようとすると、フェルナンダは「OK, OK!」と頷き、しかし俺の腕は離さずにイートインコーナーの方へ引っ張っていく。
「じゃあ、座ってシェアしましょ! 美味しいものは分かち合うのがブラジル流よ! Please, Teacher!」
「え、いや、俺は帰らなきゃ……」
「逃がさないわよドラえもん! 私の分を確保しなさいよ!」
「師匠……この泥棒猫から私の夕飯を取り返してください」
山下が反対側の腕を掴み、李雪がジト目で背中からプレッシャーをかけてくる。
逃げ場はない。
俺は観念して、イートインコーナーの椅子に座らされた。
結局、ちゃんぽんは「所有権を持つ」フェルナンダがメインで食べることになり、李雪と山下には俺が別の商品を提案することになった。
テーブルの上には、三者三様のカップ麺が並ぶ。
李雪には『濃厚鶏白湯ラーメン(柚子胡椒添え)』。
山下には『旨辛担々麺(お酢ドバドバ)』。
そしてフェルナンダが確保した『海鮮ちゃんぽん(マヨネーズ追加)』。
「Itadakimasu!」
フェルナンダが手を合わせ、器用に箸を使って食べ始める。
一口食べた瞬間、彼女は目を丸くした。
「Oh my god! Spicy! But delicious! マヨネーズがコクを出してる! 天才の味ね!」
「でしょう。カロリーは旨味ですから」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに俺の肩に頭を乗せてきた。
「I like you! 貴方、私の専属シェフになりなさいよ」
「……お断りします」
「Why? 私のパッションを受け止められる男は、日本では貴重なのよ?」
彼女は上目遣いで俺を見る。その瞳は挑発的で、魅力的だ。
だが、その向かい側で、二つの氷点下の視線が突き刺さっているのを俺は肌で感じていた。
「……馴れ馴れしいわね、その人」
李雪がボソリと呟き、ラーメンを音を立ててすする。
山下も不満げに箸を動かす。
「本当よ。どこの誰だか知らないけど、ドラえもんは日本の公共財産なんだから、独占禁止法違反よ」
「公共財産じゃありません」
俺が突っ込むと、フェルナンダは不思議そうに首を傾げた。
「What are they saying? 彼女たち、怒ってるの?」
「……お腹が空いてるだけですよ」
「Haha! I see! Hungry girls are dangerous!(腹ペコ女子は危険ね!)」
フェルナンダは笑い飛ばし、自分のちゃんぽんを二人に差し出した。
「Hey, try this! シェアしましょ。横取りしちゃってごめんね」
「……いらないわよ」
「マヨネーズなんて邪道よ」
二人は拒否するが、フェルナンダは引かない。
強引に小皿に取り分け、二人の前に置く。
「Just one bite!(一口だけ!)」
その熱意に負け、李雪がおそるおそる箸を伸ばす。
口に入れる。
一瞬、眉をひそめたが、すぐに目が驚きに見開かれた。
「……あら。意外と……悪くないわね」
「でしょ!? マヨネーズがMagicなのよ!」
「……悔しいけど、美味しいわ。海鮮とマヨネーズ、合うのね」
山下も認めざるを得ないといった様子で頷く。
美味しいものは、国境も派閥も越えるらしい。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
だが、その騒がしさがピークに達した時だった。
「……あの、お客様」
冷ややかな、しかし通る声が上から降ってきた。
全員の動きが止まる。
見上げると、レジカウンターにいたはずの店員、長谷川が立っていた。
彼女は腕に小さな籠を抱え、気だるげな表情で俺たちを見下ろしている。
「当店は多国籍バーじゃありませんよ。……盛り上がるのは結構ですが、他のお客様の視線も気にしてください」
言われて周囲を見渡すと、入店してきた他の客たちが、この異様な集団を遠巻きに見ていた。
ジャージ女、部屋着女、派手な外国人、そしてそれに囲まれる大男。
確かに、怪しすぎる。
「すみません……」
俺が小さくなって謝ると、長谷川はふっと息を吐き、籠の中身をテーブルに広げた。
「……これを食べて、少し落ち着いてください」
置かれたのは、新商品の『一口チョコレート』の試供品だった。
キラキラした包装紙に包まれた、宝石のようなチョコ。
「え、くれるの?」
山下が目を輝かせる。
「はい。今週の新作です。カカオ80%のビター味。……口に物が入っていれば、少しは静かになるかと思いまして」
長谷川は毒を含んだ言葉をサラリと言い放ち、意味深に俺を見て、ニヤリとした。
「『餌付けは平等に』が、私のモットーなので」
彼女はそう言い残し、ヒラヒラと手を振ってレジへと戻っていった。
残された俺たちは、顔を見合わせる。
「……変な店員」
「でも、チョコは美味しそうね」
「Lucky! Dessert time!」
三人の女性は、それぞれのペースでチョコの包みを開き始めた。
口に放り込み、「ん〜!」と声を上げる。
その表情は、三者三様に幸せそうだ。
俺はため息をつきながら、自分の分のチョコを口に入れた。
ほろ苦いカカオの香りが広がる。
李雪、山下、そしてフェルナンダ。
さらに、全てを見透かしているような店員・長谷川。
俺の「深夜の聖域」は、もはや聖域ではなく、カオスな交差点になりつつある。
李雪がこっそりとテーブルの下で、俺の足をつんつんと突いてきたのは、きっと「早く二人になりたい」という合図だったのだろう。
だが今は、この嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。




