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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: U3
第1章:深夜の密会と餌付け

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第7話 営業一課の「炎の女王」

 オフィスビルの空調が、唸りを上げている気がした。

 いや、それは空調の音ではない。

 フロアの中央で対峙する二人の女性から発せられる、熱気と冷気がぶつかり合う音だ。


「納得できません。なぜ一課のクライアントリストを、二課が共有しなければならないんですか? これは私たち一課が、足で稼いだ財産ですよ!」


 フロアに響き渡る、情熱的でハスキーな声。

 営業一課の課長、山下恭子だ。

 燃えるような赤いブラウスに、タイトスカート。小柄ながら、その全身から発するエネルギーは「炎の女王」の異名に相応しい。


「共有ではありません。『一元化』です。会社の資産を部署ごとの縦割りで管理するのは非効率的です。機会損失を防ぐための、全社的な施策ですよ」


 対して、氷のような冷静さで返すのは、我が営業二課の課長、李雪だ。

 ダークネイビーのパンツスーツに、一点の乱れもないまとめ髪。

 彼女の周囲だけ重力が強くなっているかのような、圧倒的な静謐さと威圧感。


「効率、効率って……数字ばかり見て、そこにある『人の想い』を無視するから、貴女は『氷の女帝』なんて呼ばれるのよ!」

「感情論で数字は作れません。山下課長、声のボリュームを下げてください。業務の妨げになります」

「むぅーっ! その言い方!」


 山下課長が地団駄を踏む。

 フロアの社員たちは、また始まったかと遠巻きに見守っている。

 二人の対立は日常茶飯事だ。水と油。氷と炎。

 だが、今日の俺――橋本一郎の見え方は、これまでとは少し違っていた。


(……昨日の夜は、あんなに幸せそうにロールケーキ食べてたのにな)


 俺はPCのモニター越しに、プリプリと怒る山下課長を眺め、必死に笑いを堪えていた。

 今の彼女は、全身に棘を生やしたハリネズミのようだ。

 だが俺は知っている。その棘の下に、誰かに正解を教えてほしくて震えている、迷い猫のような一面があることを。


 『ドラえもん!』と目を輝かせて俺にすがってきた、無防備な部屋着姿を。


「……橋本」


 不意に名前を呼ばれ、俺はビクッとして姿勢を正した。

 李課長が、冷ややかな目でこちらを見ていた。


「は、はいっ!」

「何をニヤニヤしているの? 私と山下課長の議論が、そんなに面白かった?」

「い、いえ! 滅相もありません! データの統合について、非常に建設的な議論だと感銘を受けておりました!」


 嘘八百を並べ立てる。

 李課長はジッと俺を見つめ、ふいっと視線を外した。


「……ならいいわ。このリストの重複チェック、今日中にお願い」

「承知しました」


 書類を受け取る際、彼女の指先がわずかに俺の手に触れた。

 その瞬間、彼女の瞳がほんの一瞬だけ揺れ、俺にしか分からない角度で「……あとで」と訴えかけてきた気がした。

 

 言葉には出さない。

 だが、そのサインの意味は分かる。


 『あのうるさい女の相手をして疲れたから、今夜は覚悟しておきなさいよ』


 そういうことだ。


 俺は小さく頷き、業務に戻った。

 山下課長は「まだ話は終わってないわよ!」と食い下がっているが、李課長はすでにスルーモードに入っている。

 強烈な二人の上司。

 その両方の「オフの顔」を知ってしまった俺の毎日は、以前よりも数倍、スリリングで――そして、どこか愛おしいものになりつつあった。


 深夜24時15分。

 

 夜風が心地よい。

 ネクタイを外し、眼鏡をポケットに入れる。

 背筋を伸ばし、会社での「冴えない橋本」から、深夜の「コンシェルジュ」へ変身する。


 自動ドアをくぐると、彼女は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。

 えんじ色の芋ジャージに、ボサボサのお団子ヘア。

 今日のTシャツには、達筆な文字で『諸行無常』と書かれている。


 ……昨日の今日で、悟りを開こうとしているのだろうか。


「こんばんは、師匠」

「……遅い」


 彼女は雑誌を棚に戻し、恨めしげに俺を見た。


「待ちくたびれて、煩悩が消えるところだったわ」

「それは良かったじゃないですか。『諸行無常』ですし」

「良くないわよ。煩悩が消えたら、ここに来る意味がないじゃない」


 彼女は口を尖らせて抗議する。

 その顔は、昼間の「氷の女帝」とは別人のように幼く、無防備だ。


「で、今日のオーダーは? 言っておくけど、今日はかなり消耗してるわよ。あの『炎上クイーン』のせいでね」


 彼女はため息をついた。

 名前は出さない。それがルールだ。

 だが、その「炎上クイーン」が、昨夜俺が餌付けした「迷い猫」と同一人物であることを、俺たちは暗黙の了解として共有している。


「分かってますよ。あの人の熱量は、周囲の酸素を奪いますからね」

「本当にそう。……酸欠で頭が痛いわ」

「なら、今日は『酸味』で対抗しましょう」


 俺は彼女を連れて、カップ麺コーナーではなく、チルド惣菜のコーナーへ向かった。


「今日は、これです。『黒酢の酢豚』」

「……酢豚?」

「はい。豚肉のビタミンB1で疲労回復。そして黒酢のアミノ酸とクエン酸が、疲れ切った脳と体をリフレッシュさせてくれます。何より、この黒酢のコクのある酸味が、イライラした気分を鎮めてくれるはずです」

「……なるほど」


 彼女はパッケージを手に取り、真剣な眼差しで成分表示を確認する。


「さらに、これに合わせるのは『ジャスミン茶』です。華やかな香りでリラックス効果を高めます」

「中華で攻めるのね」

「ええ。相手が『炎』なら、こっちは『歴史と伝統』で対抗するんです」


 俺が適当な理屈を並べると、彼女はクスリと笑った。


「ふふ。いいわね、それ。……採用」


 彼女はご機嫌で商品をカゴに入れた。

 俺は自分の分の夜食を手に取り、二人でレジへと向かう。


 レジカウンターの中には、見慣れない店員が立っていた。

 いつもは無気力な外国人留学生か、眠そうな店長なのだが、今日は若い女性だ。

 

 年齢は20代半ばくらいだろうか。

 ゆるくウェーブのかかった明るい茶髪を、無造作に高い位置で束ねている。

 色白で、目鼻立ちがくっきりとした美人だが、どこか気だるげで、アンニュイな雰囲気を纏っていた。

 制服のエプロンも、どことなくルーズに着崩している。


(新人か? いや、手際は良さそうだ)


 彼女は流れるような手つきで商品をスキャンしていく。

 ピッ、ピッ、という電子音がリズミカルに響く。


「……温めますか?」


 声はハスキーで、低い。

 マニュアル通りのセリフだが、どこか詩を朗読しているような独特の響きがあった。


「あ、酢豚だけお願いします」


 俺が答えると、彼女は無言でレンジに商品を入れた。

 レンジが回る数十秒の間、沈黙が落ちる。

 俺と李雪は、並んでカウンターの前に立っていた。

 距離感は、他人以上、恋人未満。

 会社の人間に見られたら言い訳できない距離だが、この時間は「他人」のフリをしているため、あえて不自然に離れたりはしない。


 レンジの音が止まる。

 店員が温まった商品を取り出し、袋に詰める。

 そして、会計を済ませたその時だった。


 彼女が、不意に顔を上げた。

 前髪の隙間から覗く大きな瞳が、俺と李雪を交互に見つめる。

 その視線は、客を見る店員のそれではなく、まるで興味深い実験動物を観察する学者のようだった。


「……いつも仲が良いですね、お二人」


 ボソリと、彼女が呟いた。


「…………え?」


 俺と李雪の声が重なった。

 今、なんて言った?


 「いつも」?


 俺はこの店員を、今日初めて見たつもりだった。

 シフトが変わったのか、それとも俺が気づいていなかっただけか。

 だが彼女の口ぶりは、俺たちが「常連」であり、しかも「二人連れ」であることを以前から知っているかのようだった。


「あ、いえ、別に仲が良いとかじゃ……たまたま一緒になっただけで……」


 俺は慌てて取り繕った。

 設定上、俺たちは「コンビニで偶然会うだけの他人」だ。店員に「仲が良い」と認定されるのは、カモフラージュ失敗を意味する。


 だが、店員――名札には『長谷川』とある――は、どこか面白がるように口の端を歪めた。


「そうですか。……失礼しました」


 彼女は淡々と言ったが、その目は笑っていなかった。

 いや、笑っていたのかもしれない。ただ、その笑いの意味が、「社交辞令」ではなく「観察対象への嘲笑」に近い気がした。


「……またのお越しを。マエストロ」


 去り際、彼女は俺にだけ聞こえるような小声でそう付け加えた。


(マエストロ……?)


 俺は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、逃げるように店を出た。

 自動ドアが閉まる背後で、あの店員がまだこちらを見ている気配がした。


 店の外に出ると、李雪が不安そうな顔で俺を見上げてきた。


「……ねえ、師匠」

「はい」

「あの店員さん……私のこと、見てたわよね?」

「……見てましたね」

「ジャージ姿、覚えられちゃったかしら」


 彼女は自身の『諸行無常』Tシャツを見下ろして、恥ずかしそうに身を縮こまらせた。

 会社では完璧な彼女が、こんな姿を特定されるのは恐怖だろう。


「大丈夫ですよ。コンビニの店員なんて、一日に何百人も客を見てるんです。いちいち覚えてませんよ」


 俺は努めて明るく言った。

 だが内心では、あの『長谷川』という店員の、全てを見透かすような瞳が気になっていた。

 「いつも」と言った。

 そして俺を「マエストロ」と呼んだ。

 ただのバイト店員にしては、雰囲気が異質すぎる。


(……まさか、俺たちの関係を最初から観察していたのか?)


 考えすぎだと思いたい。

 だが、俺たちの「秘密の共犯関係」という聖域に、予期せぬ第三者の視線が入り込んでいたという事実は、俺の心に小さな棘を残した。


「……そうね。気にしても仕方ないわね」


 李雪は気を取り直したように、袋の中の酢豚を見つめた。


「それより、早く帰りましょう。せっかくの黒酢が冷めちゃうわ」

「そうですね。……冷めたら効果半減ですから」


 俺たちはいつもの交差点まで歩き、別れた。


「おやすみなさい、師匠」

「おやすみ」


 彼女の後ろ姿を見送りながら、俺はふと、コンビニの方を振り返った。

 ガラス張りの店内。

 レジカウンターの中には、あの長谷川という店員が頬杖をついて、こちらを見ているのが見えた。

 目が合った気がして、俺は慌てて視線を逸らし、家路を急いだ。


 李雪、山下恭子、石井ミチル。

 そして今夜現れた、謎めいた店員・長谷川真琴。

 俺の「深夜の安息」は、少しずつ、しかし確実に、カオスな方向へと転がり始めている気がする。


 今はただ、その温もりと、コンビニで買ったおにぎりの味だけを信じよう。

 俺は夜風の中、少しだけ早足になった。

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