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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: U3
第1章:深夜の密会と餌付け

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第5話 金曜日の背徳アフォガート

 金曜日。

 それはサラリーマンにとって、ゴールテープであると同時に、最も過酷なラストスパートを強いられる日でもある。


「橋本。来週の上海との定例会議、資料の英訳は終わっている?」

「はい。先ほど最終チェックを完了し、サーバーにアップしました」

「……早いわね。じゃあ、追加でこの市場調査データも分析しておいて。月曜の朝イチまでにお願い」


 無表情で追加タスクという名の爆弾を投下してくるのは、我が営業二課の絶対君主、李雪リー・シュエ課長だ。

 一週間の疲労が蓄積しているはずの金曜日の夕方だというのに、彼女の背筋は定規で引いたように伸びており、メイク崩れの一つも見当たらない。

 まさに「氷の女帝」。鉄の女。

 周囲の部下たちが「鬼だ……」「悪魔だ……」と小声で嘆いているのが聞こえる。


 だが、俺だけは知っている。

 その完璧なポーカーフェイスの下で、彼女が今、猛烈に「甘いもの」を欲していることを。

 デスクの下で、彼女のヒールのつま先が貧乏ゆすりのように小刻みに動いているのは、糖分不足によるイライラのサインだ。


(……もう少しの辛抱ですよ、課長)


 俺は心の中で彼女に語りかけながら、追加の仕事を淡々と処理していく。

 今夜の「処方箋」はもう決めてある。

 この一週間の激務をねぎらい、そして週末への活力を注入する、最高に背徳的なデザートを。


 しかし、今日の俺には、仕事を早く終わらせて帰らなければならない、もう一つの重大な理由があった。


「よし、終わった」


 時計の針が22時を回った頃、俺は猛スピードでPCをシャットダウンした。

 いつもなら、李課長が帰るまでなんとなく残ってフォローを入れるところだが、今日ばかりは一刻を争う。


「お先に失礼します!」

「あら、珍しいわね。橋本が逃げるように帰るなんて」


 李課長が怪訝そうな顔でこちらを見た。

 俺は「野暮用でして」と曖昧に笑って誤魔化し、逃げるようにオフィスを飛び出した。

 すまない、課長。

 深夜のコンビニでの約束は守る。だがその前に、俺にはどうしても確認しなければならない「小さな命」があるのだ。


 自宅マンションのドアを開けた瞬間、その「理由」は熱烈な歓迎で俺を出迎えた。


「――キャン! キャンキャンッ!」


 玄関まで転がるように走ってきたのは、黄金色の毛玉――ではない。

 ゴールデンレトリバーの子犬だ。

 生後3ヶ月。名前は『レオ』。


「ただいま、レオ。いい子にしてたか? 寂しかったか?」


 俺がしゃがみ込んで手を広げると、レオはちぎれんばかりに尻尾を振り、俺の懐に飛び込んでくる。

 温かい体温。ミルクの匂い。そして、無条件の愛。

 仕事の疲れが一瞬で浄化されていくのを感じる。


 実はつい3日前、今週の水曜日に有給を取って、ブリーダーの元から引き取ってきたばかりなのだ。

 もともと犬を飼うためにこのペット可のマンションを選んでいた俺にとって、これは念願の生活の始まりだった。

 だが、独身男の一人暮らしでパピーを育てるのは、想像以上にハードだ。

 まだトイレも完璧ではないし、長時間留守番させるのも心が痛む。ここ数日、俺は定時ダッシュと育児に追われ、てんてこ舞いの日々を送っていた。


「よしよし、腹減ったな。飯にするか」


 俺はスーツを脱ぎ捨て、部屋着に着替える。

 レオにご飯をあげ、トイレシートを替え、少しだけおもちゃで遊んでやる。

 やがて満腹になったレオが、ケージの中のベッドで丸くなって寝息を立て始めた頃、時計の針は深夜24時を少し回っていた。


「……やばい、遅れた」


 俺は眠る子犬の頭を指先で優しく撫でてから、慌てて立ち上がった。

 ここからは、大人の時間だ。

 もう一人の、お腹を空かせた「迷い猫」を待たせてしまっている。


 俺はスウェットの上にパーカーを羽織り、眼鏡をかけずに家を出た。

 向かう先は、いつものコンビニだ。


 深夜24時15分。

 コンビニの自動ドアをくぐると、彼女はすでにそこにいた。

 アイスクリームケースの前。

 ガラス蓋にへばりつくようにして中を覗き込んでいる、えんじ色のジャージ姿。

 李雪だ。


 今夜のTシャツには、力強い筆文字で『解脱』と書かれている。

 一週間の労働という苦行を終え、涅槃へ至ろうという強い意志を感じる。


「こんばんは、師匠」

「……遅い」


 彼女は振り返りもせずに言った。

 その声には、明らかな不満の色が滲んでいる。


「待ちくたびれたわ。アイスが溶けるかと心配した」

「ケースに入ってるんだから溶けませんよ。……すみません、家でちょっと『小さな同居人』の世話をしていて」

「同居人?」


 彼女がバッと振り返った。

 瓶底メガネの奥の目が、驚愕に見開かれている。


「ちょ、ちょっと待って。貴方、同棲してるの? 彼女?」

「まさか」


 俺は苦笑して否定した。

 ここで変な誤解をされると、この「共犯関係」にヒビが入りかねない。


「犬ですよ。子犬を飼い始めたんです。……つい3日ほど前から」

「……犬?」

「ええ。ゴールデンレトリバーのパピーです。名前はレオ。まだ来たばかりで手がかかるもんで、つい」


 俺がそう言うと、彼女の表情が一気に緩んだ。

 安堵と、そして隠しきれない好奇心。


「な、なんだ……犬なの。……ふーん、犬ね。ふーん」

「興味あります?」

「べ、別に? 私、どっちかというと猫派だし。媚びてくる生き物は苦手よ」


 嘘だ。

 目が「見たい」と言っている。

 だが、ここで写真を見せるのは野暮というものだろう。まずは彼女自身の空腹を満たすのが先決だ。


「それより、今夜のオーダーです。お待たせしたお詫びに、とびきりのやつを用意しました」


 俺は話題を戻し、アイスケースを指差した。


「今日は金曜日。一週間のストレスと疲労を洗い流すための、特別な儀式が必要です」

「儀式?」

「はい。まず、この『プレミアム・バニラアイス(カップ)』を手に取ってください」


 彼女は素直に、高級アイスの代名詞である金色の蓋のカップを取り出した。


「そして、レジで『ホットコーヒー(Sサイズ)』を注文します」

「……コーヒーとアイス?」

「別々に食べるのではありません。……かけるんです」


 俺はニヤリと笑った。


「熱々のコーヒーを、冷たいアイスの上から注ぐ。イタリアのドルチェ、『アフォガート』をここで再現します」


 彼女が息を呑むのが分かった。

 

「……かけるの? あの高いアイスに? 溶けちゃうじゃない」

「溶かすんです。溶けて混ざり合う、その瞬間こそが至高なんです」


 俺は彼女を促し、レジへと向かった。

 会計を済ませ、店の外にあるベンチへ。

 深夜の冷たい空気が心地よい。


 彼女は膝の上にアイスのカップを置き、蓋を開けた。

 真っ白で滑らかなバニラアイスが顔を出す。

 そこに、俺が買ってきた淹れたてのホットコーヒーを差し出す。


「さあ、どうぞ。……躊躇してはいけません。一気にいくんです」


 彼女はゴクリと喉を鳴らし、コーヒーのカップを傾けた。

 黒い液体が、白いアイスの上に注がれる。

 ジュワッ、という微かな音と共に、湯気が立ち上った。

 アイスの表面が熱で溶け、白と黒がマーブル状に混ざり合っていく。

 甘いバニラの香りと、香ばしいコーヒーの香りが、夜気の中で渾然一体となる。


「……綺麗」


 彼女はスプーンを差し込み、トロトロになった部分をすくい上げた。

 そして、口へと運ぶ。


 その瞬間。

 彼女の肩がビクッと跳ねた。


「…………っ!」


 言葉にならない声。

 彼女は目を閉じ、天を仰いだ。

 口元からこぼれる吐息が白い。


「……何これ。……冷たいのに、熱い。甘いのに、苦い」

「どうですか?」

「……罪の味がする」


 彼女は夢うつつのような声で呟いた。


「脳みそが痺れるくらい美味しい。……あぁ、一週間の疲れが全部、この黒い液体に溶けていくみたい」


 彼女は夢中でスプーンを動かし始めた。

 冷たいアイスの芯と、溶けたスープ状の部分、そしてコーヒーの苦味。一口ごとに味が変わる魔法。

 無防備だ。

 あまりにも無防備すぎる。


 瓶底メガネは湯気で少し曇り、口の端には白いクリームがついている。

 ジャージの膝を揃え、猫背になってスイーツに没頭するその姿。

 昼間、オフィスで部下たちを震え上がらせている「氷の女帝」と同一人物だとは、誰も信じないだろう。


(……この顔だ)


 俺の中に、暗い優越感が頭をもたげる。

 会社では誰も見ることのできない、李雪の素顔。

 鎧を脱ぎ捨て、ただの食いしん坊な女性に戻った瞬間。

 これを見ることができるのは、世界で俺一人だけだ。


 俺は自分の分の缶コーヒーを飲みながら、彼女の横顔を眺めた。

 彼女がスプーンを舐める仕草、「ん〜っ」と喉の奥で鳴らす満足げな声。

 その全てが、俺の独占欲を満たしていく。


 知っている。

 彼女が今、どれほど幸せか。

 そして、その幸せを与えたのが自分であることを。


「……ふぅ。美味しかった」


 やがて、彼女は空になったカップを名残惜しそうに見つめ、深く息を吐いた。

 メガネの曇りを指で拭い、俺を見る。

 その目は、とろんと潤んでいた。


「師匠。……貴方、やっぱり天才ね」

「恐縮です」

「あーあ。こんなの知っちゃったら、もう普通のアイスじゃ満足できない体になっちゃったじゃない。どうしてくれるの」


 彼女は拗ねたように唇を尖らせた。

 その仕草が、不意に家で待っている子犬と重なる。


「……そうだ」


 俺はスマホを取り出し、写真フォルダを開いた。


「さっきの話の続きですが……見ますか? うちの同居人」

「……え? ああ、犬?」


 彼女は気のないフリをしながら、それでも体ごと俺の方へ寄せてきた。

 俺はさっき撮ったばかりの、レオの寝顔の写真を見せる。

 ヘソ天で無防備に腹を晒し、半開きになった口から舌が出ている、間抜けだが愛らしい一枚だ。


「…………」


 彼女が息を呑んだ。

 そして、震える指で画面に触れる。


「……何これ」

「レオです」

「……反則よ。こんなの、可愛いに決まってるじゃない」


 彼女は食い入るように画面を見つめ、それからクスリと笑った。


「でも、なんか似てるわね」

「え? 俺にですか?」

「ううん。……私の部下の、あの『小動物みたいな子』に」


 ああ、と俺は納得した。

 石井ミチルのことだ。

 確かに、ミチルのあの落ち着きのなさと、愛嬌だけで生きている感じは、ゴールデンのパピーにそっくりだ。


「手がかかるところも似てますよ。トイレ(仕事のミス)の始末をするのは、いつも飼い主(俺たち)ですから」

「ふふっ。違いないわ」


 彼女は楽しそうに笑い、俺のスマホを返してくれた。


「いいわね、犬。……癒やしがあって」

「貴方にも必要なんじゃないですか? 癒やし」

「私には……」


 彼女は言葉を切り、夜空を見上げた。

 そして、ボソリと呟く。


「……私には、この時間があるから。今はそれで十分」


 その言葉に、俺の胸が少しだけ高鳴った。

 この時間。深夜のコンビニでの、ほんの数十分の密会。

 それが彼女にとっての「癒やし」であり、生活の支えになっている。

 子犬にも負けないくらいの存在意義を、俺は彼女の中で占めているのかもしれない。


「……そうですか。なら、よかったです」


 俺はあえて淡白に返した。

 これ以上踏み込めば、お互いの正体を知っていることを隠しきれなくなりそうだったからだ。


「じゃあ、そろそろ行きましょうか。湯冷めしますよ」

「そうね。……ありがとう、師匠。今夜も最高だった」


 彼女は立ち上がり、軽く伸びをした。

 ジャージの裾から、白いお腹がチラリと見える。

 ……本当に、無防備すぎる。

 俺は慌てて視線を逸らし、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。


 帰り道。

 俺たちはいつもの交差点で別れた。


「おやすみなさい」

「おやすみ」


 遠ざかる彼女の背中は、来た時よりも軽やかに見える。

 俺はそれを見届けてから、自分の家路を急いだ。

 家にはレオが待っている。

 そして、来週の月曜日には、また「氷の女帝」が待っている。


 二つの顔を持つ上司と、二つの顔を持つ部下。

 そして新たに加わった小さな家族。

 俺の日常は、ますます賑やかで、そして美味しくなっていきそうだ。

 ポケットの中でスマホを握りしめ、俺は夜風の中を走り出した。

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