第38話 嵐の前の静けさ
木々が色づき始め、吐く息がわずかに白みを帯びてきた晩秋の日曜日。
俺は、自宅の玄関で靴紐を結びながら、足元にまとわりつく黒い毛玉を宥めていた。
「……くぅ〜ん、わんっ!」
愛犬の豆柴、レオだ。
俺が外出用のコートを着ているのを見て、自分も連れて行ってもらえるのだと勘違いし、リードの置いてある棚を見上げて尻尾を振っている。
その期待に満ちたキラキラとした瞳を裏切るのは心苦しいが、今日ばかりは仕方がない。
「ごめんな、レオ。今日はパパ、一人で出かけるんだ。お留守番、頼むぞ」
「……きゅぅ?」
俺が申し訳なさそうに頭を撫でると、レオは露骨に耳をペタンと下げ、この世の終わりのような悲しげな顔をした。
そして、「抗議」の意味を込めて俺の靴下を軽く甘噛みする。
「痛い痛い。……帰ってきたら、新しいおやつをやるから。な?」
俺は後ろ髪を引かれつつも、なんとかレオをケージに誘導し、家を出た。
冷たい秋風が頬を撫でるが、俺の足取りは驚くほど軽かった。
無理もない。今日は、李雪との「デート」なのだから。
深夜のコンビニでの密会でも、お互いの家での「おこもり」でもない。
昼間の街を、二人で堂々と歩く。
あの日、お揃いのマグカップを買いに行って以来、俺たちの関係は確かな安定期に入っていた。
会社では厳しい上司と冴えない部下。しかし、オフの時間は心を許し合えるパートナー。
そのメリハリが、日々の生活に心地よいリズムを生み出している。
待ち合わせは、少し離れた繁華街にある映画館のロビー。
俺が少し早めに到着して待っていると、人混みの中から、目を引く女性が歩いてきた。
ベージュのトレンチコートに、深みのあるボルドーのタートルネックニット。
ボトムスは落ち着いたチェック柄のタイトスカートで、足元は黒のショートブーツ。
髪は緩く巻いて下ろしており、大人の女性の艶やかさと、休日のリラックスした空気が絶妙にブレンドされている。
すれ違う男性たちが、思わず振り返るほどの美しさだ。
李雪だ。
「……お待たせ、師匠」
彼女は俺の姿を見つけると、ふわりと花が咲くような笑顔を見せた。
会社での「氷の女帝」の面影は、そこには微塵もない。
「おはようございます。……すごく、似合ってますよ」
俺が素直に見惚れながら言うと、彼女は少しだけ頬を染め、コートの襟元を直すふりをした。
「……ありがとう。貴方も、今日は一段と胸板が厚く見えるわね。コートの上からでも分かるくらい」
「からかわないでください。……さあ、行きましょうか」
俺たちは自然な動作で並び、シアターへと向かった。
選んだ映画は、少し複雑なプロットが話題の本格ミステリーだ。論理的思考を好む彼女のチョイスである。
売店に立ち寄る。
「ポップコーン、どうします?」
「もちろん、Lサイズで。味は……キャラメルと塩のハーフ&ハーフがいいわ」
彼女は即答した。
さすがは隠れ食いしん坊だ。映画館のポップコーンというジャンクな誘惑に抗うつもりは毛頭ないらしい。
「飲み物はホットティーで。冷えるから」
「了解です」
俺は大きなポップコーンのバケツと飲み物を持ち、彼女と共に薄暗いシアター内へと足を踏み入れた。
指定された席は、後方の見やすい位置。
二つのシートの間にある肘掛けを上げ、ポップコーンのバケツを二人の間に置く。
やがて照明が落ち、本編が始まった。
スクリーンに映し出される映像と、迫力のある音響。
俺たちは無言で画面に見入りながら、時折、間に置かれたポップコーンに手を伸ばした。
甘いキャラメルの香りと、塩気の効いたバターの香り。
暗闇の中、バケツの中で俺の手と彼女の手が偶然触れ合う。
俺がハッとして手を引っ込めようとすると、彼女の細い指先が、俺の指にそっと絡みついてきた。
「……っ」
俺は息を呑み、隣を盗み見た。
彼女の視線はスクリーンに向けられたままだ。その横顔は真剣そのもので、映画の謎解きに集中しているように見える。
だが、俺の指を握るその手は、温かく、そして力強かった。
俺は彼女の体温を感じながら、そっとその手を握り返した。
映画のストーリーが、半分くらい頭に入ってこなくなったのは言うまでもない。
映画が終わった後、俺たちは近くの落ち着いたカフェに入った。
アンティーク調の家具が並ぶ、コーヒーの香りが漂う静かな店だ。
「……あのトリック、途中で気づいた?」
彼女はブレンドコーヒーを一口飲み、少し興奮した様子で聞いてきた。
「俺は最後の種明かしまで完全に騙されてましたよ。……でも、アリバイの崩し方は見事でしたね」
「でしょう? 私は中盤で『あの時計の時間が怪しい』って睨んでたの。……ふふ、やっぱり私の論理的思考力は正しいわね」
彼女は得意げに笑い、俺が注文したモンブランのケーキをフォークでつついた。
自分の分のチーズケーキがあるのに、俺のケーキも味見したいらしい。
本当に、よく食べる人だ。
「……師匠」
ケーキを頬張りながら、彼女が不意に声のトーンを落とした。
「はい?」
「……なんだか、すごく平和ね」
彼女はカップの縁を指でなぞりながら、窓の外を眺めた。
色づいた街路樹の葉が、風に揺れている。
「会社にいると、毎日が戦いで……常に誰かを評価して、自分も評価されて。気を張ってないと潰されそうになるけど」
彼女の視線が、俺に戻る。
「貴方とこうしていると、鎧を全部脱ぎ捨てられる。……ただの『私』でいられる気がするの」
その言葉は、俺の胸の奥をじんわりと温めた。
彼女にとって俺が、そういう「安全基地」になれているという事実が、何よりも嬉しかった。
「俺も同じですよ。……貴方といる時が、一番自然体でいられます」
俺が静かに返すと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
「……私たち、すっかり『共犯者』が板についてきたわね」
「ええ。もう、誰に見られても誤魔化し通す自信がありますよ。あの時みたいに」
あの時――深夜のコンビニでミチルに目撃された時や、公園で山下課長たちに遭遇した時のことだ。
スリルはあったが、今となっては二人の結束を強める良いスパイスになっている。
「そうね。……もしバレたら、その時はその時よ。堂々としていればいいんだから」
彼女は力強く頷き、残りのコーヒーを飲み干した。
その表情には、迷いも恐れもない。
ただ、今のこの幸福な時間を純粋に楽しんでいるようだった。
夕暮れ時。
俺たちは駅の改札前で別れを告げた。
「今日はありがとう、師匠。……良い気分転換になったわ」
「こちらこそ。楽しかったです。……レオにもお土産を買えましたし」
俺の手には、ペットショップで買った新しい犬用のおもちゃが握られている。
「ふふ。レオくんによろしくね。……じゃあ、また明日。会社で」
「ええ。また明日、李課長」
会社での呼び名。
だが、その響きは以前のような冷たいものではなく、俺たちだけに分かる甘い秘密の合図のようだった。
俺は人混みの中に消えていく彼女の背中を見送りながら、満ち足りた思いで帰路についた。
俺たちの関係は、今、最高に安定している。
この幸せな日常が、いつまでも続くような気がしていた。
――しかし。
俺たちは忘れていたのだ。
「嵐の前の静けさ」という言葉の意味を。
同じ頃。
日曜日の夕暮れを迎えた、とあるワンルームマンションの一室。
部屋の主である石井ミチルは、デュアルモニターが輝くゲーミングデスクの前に座っていた。
普段ならFPSゲームに熱中している時間だが、今日の彼女はゲームを起動すらしていなかった。
彼女の視線は、手元のスマートフォンに釘付けになっていた。
画面に映し出されているのは、一枚の写真。
あの日、深夜のコンビニで「見知らぬイケメンとジャージの女」に遭遇した帰り際。どうにも気になったミチルが、店を出ていく二人の後ろ姿を、半ば無意識にスマホのカメラで盗撮してしまっていたものだ。
遠くからズームで撮ったため、画質は粗い。
背が高く、ガタイの良い男性。
そして、えんじ色のジャージを着た、小柄な女性。
女性の手が、男性のシャツの袖をしっかりと握りしめている。
「……」
ミチルは無言のまま、スマホの画面をピンチアウトして、写真を限界まで拡大した。
彼女のゲーマーとしての並外れた動体視力と観察眼が、粗い画素の中から「ある真実」を抽出していく。
拡大された、男性の腕。
袖を捲り上げたその腕に巻かれている、黒いデジタルウォッチ。
量販店で売っている、何の変哲もない安物の時計だ。だが、ベルトの端に付いたごく小さな擦り傷の形まで、ミチルの目には見覚えがあった。
彼女がミスをするたびに、優しくキーボードを叩いて修正してくれる、あの大きな手首に毎日巻かれているものと完全に一致している。
さらに、彼女の指は、ジャージの女性の手元を拡大する。
男性の袖を掴む、その白くて細い指。
中指の第二関節にある、ごく小さな、ペンだこのような薄いアザ。
それは、いつもバインダーを叩きながら厳しく指導してくる、完璧な上司の指先に刻まれた努力の証。
ミチルは、息を吐き出した。
点と点が、完全に線で繋がった瞬間だった。
「……やっぱり」
薄暗い部屋に、ミチルの乾いた呟きが響く。
彼女はスマホを机にコトリと置いた。
ヘーゼルナッツ色の瞳に、複雑な感情が渦巻いている。
「……やっぱり、そうですよね。……橋本センパイ」
驚き。混乱。
そして、ほんの少しの、胸の奥がチクッとするような痛み。
深夜のコンビニ。
冴えないはずの先輩の隠された素顔と、恐ろしい鬼上司の信じられない姿。
二人は、あんな真夜中に、あんなに親密な距離感で一緒にいたのだ。
「……どういうことなの、これ」
ミチルはゲーミングチェアに深く背中を預け、天井を仰いだ。
この「決定的な証拠」を前に、彼女の探偵ごっこは、もはやただの遊びではなくなってしまった。
営業二課の根幹を揺るがすかもしれない、巨大な秘密。
彼女の指先が、無意識にスマートフォンの画面をトントンと叩く。
その規則的な音は、営業二課の平穏な日常に終止符を打つ、時限爆弾の秒針のように静かな部屋に響き続けていた。




