表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: U3
第4章 公私混同の同棲生活

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/38

第38話 嵐の前の静けさ

 木々が色づき始め、吐く息がわずかに白みを帯びてきた晩秋の日曜日。

 俺は、自宅の玄関で靴紐を結びながら、足元にまとわりつく黒い毛玉を宥めていた。


「……くぅ〜ん、わんっ!」


 愛犬の豆柴、レオだ。

 俺が外出用のコートを着ているのを見て、自分も連れて行ってもらえるのだと勘違いし、リードの置いてある棚を見上げて尻尾を振っている。

 その期待に満ちたキラキラとした瞳を裏切るのは心苦しいが、今日ばかりは仕方がない。


「ごめんな、レオ。今日はパパ、一人で出かけるんだ。お留守番、頼むぞ」


「……きゅぅ?」


 俺が申し訳なさそうに頭を撫でると、レオは露骨に耳をペタンと下げ、この世の終わりのような悲しげな顔をした。

 そして、「抗議」の意味を込めて俺の靴下を軽く甘噛みする。


「痛い痛い。……帰ってきたら、新しいおやつをやるから。な?」


 俺は後ろ髪を引かれつつも、なんとかレオをケージに誘導し、家を出た。

 冷たい秋風が頬を撫でるが、俺の足取りは驚くほど軽かった。

 無理もない。今日は、李雪との「デート」なのだから。


 深夜のコンビニでの密会でも、お互いの家での「おこもり」でもない。

 昼間の街を、二人で堂々と歩く。

 あの日、お揃いのマグカップを買いに行って以来、俺たちの関係は確かな安定期に入っていた。

 会社では厳しい上司と冴えない部下。しかし、オフの時間は心を許し合えるパートナー。

 そのメリハリが、日々の生活に心地よいリズムを生み出している。


 待ち合わせは、少し離れた繁華街にある映画館のロビー。

 俺が少し早めに到着して待っていると、人混みの中から、目を引く女性が歩いてきた。


 ベージュのトレンチコートに、深みのあるボルドーのタートルネックニット。

 ボトムスは落ち着いたチェック柄のタイトスカートで、足元は黒のショートブーツ。

 髪は緩く巻いて下ろしており、大人の女性の艶やかさと、休日のリラックスした空気が絶妙にブレンドされている。

 すれ違う男性たちが、思わず振り返るほどの美しさだ。


 李雪だ。


「……お待たせ、師匠」


 彼女は俺の姿を見つけると、ふわりと花が咲くような笑顔を見せた。

 会社での「氷の女帝」の面影は、そこには微塵もない。


「おはようございます。……すごく、似合ってますよ」


 俺が素直に見惚れながら言うと、彼女は少しだけ頬を染め、コートの襟元を直すふりをした。


「……ありがとう。貴方も、今日は一段と胸板が厚く見えるわね。コートの上からでも分かるくらい」


「からかわないでください。……さあ、行きましょうか」


 俺たちは自然な動作で並び、シアターへと向かった。

 選んだ映画は、少し複雑なプロットが話題の本格ミステリーだ。論理的思考を好む彼女のチョイスである。


 売店に立ち寄る。


「ポップコーン、どうします?」


「もちろん、Lサイズで。味は……キャラメルと塩のハーフ&ハーフがいいわ」


 彼女は即答した。

 さすがは隠れ食いしん坊だ。映画館のポップコーンというジャンクな誘惑に抗うつもりは毛頭ないらしい。


「飲み物はホットティーで。冷えるから」


「了解です」


 俺は大きなポップコーンのバケツと飲み物を持ち、彼女と共に薄暗いシアター内へと足を踏み入れた。

 指定された席は、後方の見やすい位置。

 二つのシートの間にある肘掛けを上げ、ポップコーンのバケツを二人の間に置く。


 やがて照明が落ち、本編が始まった。

 スクリーンに映し出される映像と、迫力のある音響。

 俺たちは無言で画面に見入りながら、時折、間に置かれたポップコーンに手を伸ばした。


 甘いキャラメルの香りと、塩気の効いたバターの香り。

 暗闇の中、バケツの中で俺の手と彼女の手が偶然触れ合う。

 俺がハッとして手を引っ込めようとすると、彼女の細い指先が、俺の指にそっと絡みついてきた。


「……っ」


 俺は息を呑み、隣を盗み見た。

 彼女の視線はスクリーンに向けられたままだ。その横顔は真剣そのもので、映画の謎解きに集中しているように見える。

 だが、俺の指を握るその手は、温かく、そして力強かった。


 俺は彼女の体温を感じながら、そっとその手を握り返した。

 映画のストーリーが、半分くらい頭に入ってこなくなったのは言うまでもない。


 映画が終わった後、俺たちは近くの落ち着いたカフェに入った。

 アンティーク調の家具が並ぶ、コーヒーの香りが漂う静かな店だ。


「……あのトリック、途中で気づいた?」


 彼女はブレンドコーヒーを一口飲み、少し興奮した様子で聞いてきた。


「俺は最後の種明かしまで完全に騙されてましたよ。……でも、アリバイの崩し方は見事でしたね」


「でしょう? 私は中盤で『あの時計の時間が怪しい』って睨んでたの。……ふふ、やっぱり私の論理的思考力は正しいわね」


 彼女は得意げに笑い、俺が注文したモンブランのケーキをフォークでつついた。

 自分の分のチーズケーキがあるのに、俺のケーキも味見したいらしい。

 本当に、よく食べる人だ。


「……師匠」


 ケーキを頬張りながら、彼女が不意に声のトーンを落とした。


「はい?」


「……なんだか、すごく平和ね」


 彼女はカップの縁を指でなぞりながら、窓の外を眺めた。

 色づいた街路樹の葉が、風に揺れている。


「会社にいると、毎日が戦いで……常に誰かを評価して、自分も評価されて。気を張ってないと潰されそうになるけど」


 彼女の視線が、俺に戻る。


「貴方とこうしていると、鎧を全部脱ぎ捨てられる。……ただの『私』でいられる気がするの」


 その言葉は、俺の胸の奥をじんわりと温めた。

 彼女にとって俺が、そういう「安全基地」になれているという事実が、何よりも嬉しかった。


「俺も同じですよ。……貴方といる時が、一番自然体でいられます」


 俺が静かに返すと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。


「……私たち、すっかり『共犯者』が板についてきたわね」


「ええ。もう、誰に見られても誤魔化し通す自信がありますよ。あの時みたいに」


 あの時――深夜のコンビニでミチルに目撃された時や、公園で山下課長たちに遭遇した時のことだ。

 スリルはあったが、今となっては二人の結束を強める良いスパイスになっている。


「そうね。……もしバレたら、その時はその時よ。堂々としていればいいんだから」


 彼女は力強く頷き、残りのコーヒーを飲み干した。

 その表情には、迷いも恐れもない。

 ただ、今のこの幸福な時間を純粋に楽しんでいるようだった。


 夕暮れ時。

 俺たちは駅の改札前で別れを告げた。


「今日はありがとう、師匠。……良い気分転換になったわ」


「こちらこそ。楽しかったです。……レオにもお土産を買えましたし」


 俺の手には、ペットショップで買った新しい犬用のおもちゃが握られている。


「ふふ。レオくんによろしくね。……じゃあ、また明日。会社で」


「ええ。また明日、李課長」


 会社での呼び名。

 だが、その響きは以前のような冷たいものではなく、俺たちだけに分かる甘い秘密の合図のようだった。

 俺は人混みの中に消えていく彼女の背中を見送りながら、満ち足りた思いで帰路についた。

 俺たちの関係は、今、最高に安定している。

 この幸せな日常が、いつまでも続くような気がしていた。


 ――しかし。


 俺たちは忘れていたのだ。


 「嵐の前の静けさ」という言葉の意味を。


 同じ頃。

 日曜日の夕暮れを迎えた、とあるワンルームマンションの一室。


 部屋の主である石井ミチルは、デュアルモニターが輝くゲーミングデスクの前に座っていた。

 普段ならFPSゲームに熱中している時間だが、今日の彼女はゲームを起動すらしていなかった。


 彼女の視線は、手元のスマートフォンに釘付けになっていた。

 画面に映し出されているのは、一枚の写真。


 あの日、深夜のコンビニで「見知らぬイケメンとジャージの女」に遭遇した帰り際。どうにも気になったミチルが、店を出ていく二人の後ろ姿を、半ば無意識にスマホのカメラで盗撮してしまっていたものだ。

 遠くからズームで撮ったため、画質は粗い。

 背が高く、ガタイの良い男性。

 そして、えんじ色のジャージを着た、小柄な女性。

 女性の手が、男性のシャツの袖をしっかりと握りしめている。


「……」


 ミチルは無言のまま、スマホの画面をピンチアウトして、写真を限界まで拡大した。

 彼女のゲーマーとしての並外れた動体視力と観察眼が、粗い画素の中から「ある真実」を抽出していく。


 拡大された、男性の腕。

 袖を捲り上げたその腕に巻かれている、黒いデジタルウォッチ。

 量販店で売っている、何の変哲もない安物の時計だ。だが、ベルトの端に付いたごく小さな擦り傷の形まで、ミチルの目には見覚えがあった。

 彼女がミスをするたびに、優しくキーボードを叩いて修正してくれる、あの大きな手首に毎日巻かれているものと完全に一致している。


 さらに、彼女の指は、ジャージの女性の手元を拡大する。

 男性の袖を掴む、その白くて細い指。

 中指の第二関節にある、ごく小さな、ペンだこのような薄いアザ。

 それは、いつもバインダーを叩きながら厳しく指導してくる、完璧な上司の指先に刻まれた努力の証。


 ミチルは、息を吐き出した。

 点と点が、完全に線で繋がった瞬間だった。


「……やっぱり」


 薄暗い部屋に、ミチルの乾いた呟きが響く。

 彼女はスマホを机にコトリと置いた。

 ヘーゼルナッツ色の瞳に、複雑な感情が渦巻いている。


「……やっぱり、そうですよね。……橋本センパイ」


 驚き。混乱。

 そして、ほんの少しの、胸の奥がチクッとするような痛み。


 深夜のコンビニ。

 冴えないはずの先輩の隠された素顔と、恐ろしい鬼上司の信じられない姿。

 二人は、あんな真夜中に、あんなに親密な距離感で一緒にいたのだ。


「……どういうことなの、これ」


 ミチルはゲーミングチェアに深く背中を預け、天井を仰いだ。

 この「決定的な証拠」を前に、彼女の探偵ごっこは、もはやただの遊びではなくなってしまった。

 営業二課の根幹を揺るがすかもしれない、巨大な秘密。


 彼女の指先が、無意識にスマートフォンの画面をトントンと叩く。

 その規則的な音は、営業二課の平穏な日常に終止符を打つ、時限爆弾の秒針のように静かな部屋に響き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ