第37話 お揃いのマグカップ
秋が一段と深まり、朝夕の冷え込みが肌を刺すようになってきた頃。
俺の自宅のリビングでは、ちょっとした「破壊活動」が日常茶飯事となっていた。
「……痛っ。こら、レオ。それはパパの指だ。おやつじゃないぞ」
生後半年を迎えた豆柴のレオは、現在絶賛『噛み噛み期』の真っ只中にある。
乳歯から永久歯へと生え変わるこの時期は、どうしても歯茎がむず痒いらしく、とにかく目につくもの全てをガジガジと噛みたがるのだ。
スリッパの端、テーブルの脚、クッションの角、そして俺の指先。
まだ小さな牙とはいえ、本気で噛みつかれるとチクッとした鋭い痛みが走る。
「だーめ」
俺が指を引っこ抜くと、レオは「むきゅぅ」と不満げな声を上げ、麻呂眉をへの字に寄せて俺を見上げた。
そのつぶらな瞳は「どうして噛ませてくれないんだ」と理不尽を訴えているかのようだ。
「ほら、これを使え」
俺が木製の犬用歯固めおもちゃを与えると、彼は短い前足で器用にそれを挟み込み、一心不乱にガリガリと削り始めた。
木片を削る小気味よい音がリビングに響く。
削りカスがカーペットに落ちるが、家具を破壊されるよりはマシだ。
夢中になっておもちゃと格闘する小さな背中を見守りながら、俺は苦笑して休日の朝のコーヒーを淹れる準備をした。
その日の午後。
俺はレオをキャリーバッグに入れ、李雪の住むマンションを訪れていた。
合鍵を使って玄関を開けると、奥から「いらっしゃい」という穏やかな声が聞こえてくる。
最近は、週末になるとこうして彼女の部屋で過ごすことが増えていた。
リビングに入ると、李雪はゆったりとしたアイボリーのニットワンピース姿でソファに座っていた。
会社での「氷の女帝」としての張り詰めた空気は一切なく、休日の柔らかな日差しに溶け込むような、年相応の女性の姿がそこにある。
「レオくん、いらっしゃい。今日も元気ね」
キャリーバッグから出たレオが真っ先に彼女の足元へ駆けていくと、彼女は嬉しそうに目を細めてその頭を撫でた。
レオは彼女の指先を甘噛みしようとしたが、「こら」と優しく窘められると、大人しく彼女の膝に顎を乗せて尻尾を振った。
俺の指は容赦なく噛むくせに、彼女には妙に行儀がいい。少し理不尽を感じる。
「……師匠、コーヒー淹れるわね。少し待ってて」
彼女は立ち上がり、キッチンへと向かった。
最近、彼女は俺に教わった通りにハンドドリップでコーヒーを淹れる練習をしている。
お湯を注ぐ手つきはまだ少し危なっかしいが、その真剣な横顔を見るのは俺の密かな楽しみでもあった。
やがて、香ばしい香りとともに二つのカップがテーブルに置かれた。
一つは、彼女がいつも使っているシンプルな白いマグカップ。
もう一つは、来客用の、少し味気ない無地のグラスマグだ。
「いただきます」
俺がグラスマグを手に取ろうとした時、彼女がふと、自分の白いカップの縁を指でなぞりながら言った。
「……ねえ、師匠」
「はい?」
「このカップ、そろそろ買い替えようかと思って」
彼女の白いマグカップは、特に欠けたり汚れたりしているわけではない。
俺が不思議そうに首を傾げると、彼女は少し視線を泳がせ、耳たぶをほんのりと赤く染めた。
「……その、どうせなら。師匠の分のカップも、ちゃんとこの部屋に用意しておきたいなって、思って」
その言葉の意味を理解して、俺の胸の奥がじんわりと温かくなった。
来客用のグラスマグではなく、俺専用のカップをこの部屋に置く。
それは、俺がこの場所の「一時的な客」ではなく、「定常的な住人」として迎え入れられているという、彼女なりの不器用な意思表示だった。
「……すごく、嬉しいです。ありがとうございます」
俺が素直に礼を言うと、彼女は照れ隠しのように「コホン」と咳払いをした。
「だ、だから、今日の午後は買い物に行きたいの。……付き合ってくれる?」
「もちろんです。最高のカップを探しましょう」
俺たちは顔を見合わせて、小さく笑い合った。
会社の人間に遭遇するリスクを減らすため、俺たちは電車に乗って少し離れた街――吉祥寺のインテリア雑貨店が立ち並ぶエリアへと足を運んだ。
秋の涼やかな風が吹き抜ける通りは、休日を楽しむカップルや家族連れで賑わっている。
レオは自宅のケージでお留守番だ。
俺たちは並んで歩きながら、何軒かの雑貨屋を巡った。
肩が触れ合うか触れ合わないかの距離感。
ショーウィンドウを覗き込む彼女の横顔は、とても楽しそうだ。
「あ、このお皿、素敵じゃない? 深さがあるから、パスタにも煮物にも使えそう」
「そうですね。縁のリムが広いから、盛り付けた時に余白ができて綺麗に見えますよ」
「……さすが師匠。見るところがプロね」
彼女は感心したように頷き、食器を眺める。
まるで、新生活を始める夫婦が家具を選んでいるような、そんな甘く穏やかな空気が俺たちの間に流れていた。
やがて入った、路地裏の落ち着いた雰囲気の陶器専門店。
木製の棚には、全国の作家が焼いた温かみのある器がずらりと並んでいた。
そこで、彼女の足がピタリと止まった。
「……これ」
彼女の視線の先にあったのは、ぽってりとした丸みのあるフォルムのマグカップだった。
土の質感を残した、手作りの温もりが伝わってくるデザイン。
同じ形だが、色は二種類ある。
一つは、深い夜の海のような瑠璃色。
もう一つは、夕焼けの空のような温かみのある琥珀色。
「……どうかしら、これ」
彼女は二つのカップを両手に持ち、俺に見せてきた。
「すごくいいと思います。持ち手のカーブが絶妙で、手にしっくりと馴染みそうだ。……それに、色が綺麗ですね」
「でしょ? ……私、この琥珀色にする。師匠は、この瑠璃色でいい?」
「ええ。俺もそれがいいと思ってました」
俺たちがカップを選んでいると、年配の女性店員がにこやかに近づいてきた。
「お目が高いですね。そちらは、同じ窯で焼かれた夫婦マグなんですよ。お二人のような素敵なカップルに選んでいただけて、器も喜んでいると思います」
『夫婦マグ』『カップル』という単語に、李雪の肩がビクッと跳ねた。
彼女は顔をカッと赤くし、慌ててカップを棚に戻そうとする。
「あ、いえ、あの、私たちはそういう……ただの、同じ会社の……!」
会社の上司と部下です、などと言い訳をするのはあまりにも不自然だ。
俺は彼女の言葉を遮るように、店員に向かって微笑んだ。
「ありがとうございます。これ、いただきます。……別々に包まず、一緒の箱に入れてもらえますか?」
「かしこまりました。ご自宅用ですね」
店員が去った後、李雪は俺の袖をギュッと引っ張った。
「……ちょっと、師匠。否定しなくてよかったの?」
「あそこで『違います』ってムキになる方が、変に怪しまれませんか? それに……」
俺は声を潜め、彼女の耳元で囁いた。
「俺は、『夫婦マグ』って響き、嫌いじゃありませんから」
その言葉に、彼女の顔はさらに真っ赤に染まった。
彼女は「……ばか」と小さく呟き、俺の腕を軽く叩いた。
その強さは、レオの甘噛みよりもずっと優しかった。
夕暮れ時。
マンションの部屋に戻ると、待ちくたびれたレオが「遅いぞ!」と尻尾を振って出迎えてくれた。
俺はレオを存分に撫でてやりながら、買ってきたばかりのマグカップを洗ってキッチンに立った。
お湯を沸かし、豆を挽く。
深煎りのマンデリンの香りが、部屋の空気を満たしていく。
新しいカップにコーヒーを注ぐと、瑠璃色と琥珀色の内側で、黒い液体が美しく揺れた。
「淹れましたよ」
俺がリビングのローテーブルに二つのカップを置くと、ソファに座っていた李雪が目を輝かせた。
「……やっぱり、いい色ね。コーヒーがいつもより美味しく見えそう」
彼女は両手で琥珀色のカップを包み込むように持ち、そっと口をつけた。
ふうっ、と幸せそうな吐息が漏れる。
俺も自分の瑠璃色のカップを手に取り、一口飲んだ。
土の器の少しザラッとした感触が、唇に心地よい。
自分の定位置、自分の専用のカップ。
この部屋に、俺の存在が一つ、確かな形として刻み込まれた証だ。
「……ねえ、師匠」
しばらく無言でコーヒーを楽しんだ後、李雪がカップを見つめたまま、不意に口を開いた。
「はい」
「このマグカップを使う時、一つ、ルールを決めたいの」
「ルール、ですか?」
彼女はカップをテーブルに置き、背筋を少しだけ伸ばした。
その表情は、いつもの強気な上司の顔ではなく、どこか不安げで、でも真剣な顔だった。
「……私たち、今はこうして上手くやれてるけど。会社では立場が違うし、ライバルもいるし……いつか、意見がすれ違って、本気で喧嘩することもあるかもしれないでしょ?」
俺は黙って頷いた。
互いに正体を知り、秘密を共有しているとはいえ、俺たちは完璧な人間ではない。
些細なことで衝突する日も、きっと来るだろう。
「だから……」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見た。
「もし喧嘩しても。どんなに腹が立っていても……。どちらかがこのカップにコーヒーを淹れて差し出したら、絶対に文句を言わずに受け取ること。そして……」
彼女は少しだけ言葉を区切り、ほんのりと頬を染めた。
「……これを使ってる時は、休戦。意地を張らずに、仲直りすること。……どう、かしら」
それは、彼女なりの「予防線」であり、この関係を絶対に壊したくないという強い願いだった。
仕事では常に論理と効率で他人をねじ伏せる彼女が、こんなにも不器用で、感情的なルールを提案してくるなんて。
俺の胸の奥が、熱いもので締め付けられた。
「……素晴らしいルールだと思います」
俺は深く頷き、自分の瑠璃色のカップを持ち上げた。
「もし俺が意地を張っていても、貴方がこの琥珀色のカップでコーヒーを出してくれたら、俺は絶対に白旗を上げます。……約束しますよ」
「……本当ね? 言ったわよ?」
「ええ。俺も、もし貴方が会社で『氷の女帝』モードになって俺を理不尽に詰めてきたら、家に帰ってすぐ、このカップに並々とお湯を注いで差し出しますから」
「ちょっと、それはやめてよ! 火傷しちゃうでしょ!」
彼女は慌ててツッコミを入れ、それから可笑しそうに吹き出した。
俺も声を出して笑った。
窓の外はすっかり暗くなり、夜の帳が下りている。
部屋を照らす間接照明の光が、二つのマグカップを優しく照らし出していた。
足元では、レオが俺の靴下をくわえて「遊べ」と引っ張っている。
だが、今の俺には、それに対処するよりも優先すべきことがあった。
「……これからも、よろしくお願いしますね。迷い猫さん」
「……こちらこそ。末長くよろしく、師匠」
俺たちは、新しいマグカップを軽く打ち合わせた。
カチン、という鈍く温かい音が、静かなリビングに響く。
この先、ミチルの探偵行動や、山下課長の疑惑など、外の世界には波乱の火種がいくつも転がっている。
だが、この「お揃いのマグカップ」と「仲直りのルール」がある限り、俺たちの小さな『巣』が揺らぐことは決してない。
俺はコーヒーの苦味と、その奥にある深い甘みを噛み締めながら、隣で微かに微笑む彼女の横顔を、いつまでも見つめていた。




