第36話 レオの散歩とご近所さん
休日の昼下がり。
秋の涼やかな風が吹き抜ける、表参道の裏通り。
俺は、お洒落なスペインバルのオープンテラス席で、目の前の「太陽」のような女性に圧倒されていた。
「Oso! 遅いじゃない! 私の貴重な休日を何だと思ってるの?」
不満げに唇を尖らせながらも、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
スペイン発のアパレルブランド『SOL』のマーケティング担当、カルメン・ベガだ。
彼女は背中が大きく開いたテラコッタ色のワンピースを着こなし、昼間から赤いサングリアのグラスを傾けていた。
「急に呼び出さないでくださいよ、カルメンさん。俺にも休日の予定というものが……」
「いいじゃない! 最高のタパスを見つけたから、Osoの意見がどうしても聞きたかったの! ほら、座って座って!」
俺が席に着くや否や、テーブルの上には色鮮やかな小皿料理が次々と運ばれてきた。
オリーブオイルとニンニクの香りが食欲を刺激する。
「まずはこれよ。タコのガリシア風。食べてみて!」
俺は勧められるままに、一口大に切られた茹でダコをフォークで刺し、口に運んだ。
柔らかく煮込まれたタコに、上質なオリーブオイルとパプリカパウダーの風味が絡みつく。岩塩のジャリッとした食感が、タコの甘みを極限まで引き出している。
「……美味い。茹で加減が絶妙ですね。パプリカの香りもすごくいい」
「でしょう!? さすがOso、分かってるわね! ここのシェフ、私の地元の味を完璧に再現してるのよ!」
カルメンは嬉しそうに身を乗り出し、俺の肩をバンバンと叩いた。
相変わらずパーソナルスペースが狭い。
周囲の客たちが、グラマラスな外国人美女と楽しそうに食事をしている俺に、好奇の視線を向けているのを感じる。
「……で、本当の用件は何ですか?」
俺がマッシュルームのアヒージョをつまみながら尋ねると、カルメンはグラスを置いて、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「用件? ただのデートの誘いじゃ不満かしら?」
「俺には、手のかかる『飼い主』がいますから」
「あはは! Lee-san(李さん)のことね。……相変わらず、Osoは彼女に一途なんだから」
カルメンは面白そうに目を細めた。
以前、夜の公園で俺たちが一緒にいるところを彼女に目撃されて以来、カルメンはすっかり俺たちの「秘密」を楽しんでいる節がある。
「あの日、私からOsoを奪い返した『メスライオン』。……元気してる?」
「ええ。相変わらず仕事の鬼ですが、元気にやってますよ」
「そう。Osoの料理で、しっかり餌付けされてるみたいね」
カルメンは生ハムを上品に口に運びながら、少しだけ真剣なトーンになった。
「……Osoは魅力的よ。優しくて、料理が上手で、いざという時は頼りになる。スペインに連れて帰りたいくらい。……Lee-sanが油断してたら、本当に私が奪っちゃうかもしれないわよ?」
彼女の大きな瞳が、挑発的に俺を捉える。
ラテンの情熱。
もし俺がただの独身男なら、この誘惑に抗うのは難しかっただろう。
「……光栄ですが、俺の胃袋とスケジュールは、すでに予約でいっぱいです」
俺が苦笑して答えると、カルメンは「Oh, 残念!」と大げさに肩をすくめた。
「まあいいわ。私は気長に待つタイプだから。……さ、冷めないうちにアヒージョを平らげましょ!」
太陽のように明るい彼女とのランチは、仕事の疲れを吹き飛ばしてくれる活力に満ちていた。
俺たちは美味しいタパスを味わいながら、他愛のない会話を楽しんだ。
夕方。
カルメンと別れた俺は、少し急ぎ足で李雪の住む高級マンションへと向かった。
あの日、彼女から渡された合鍵。
ポケットの中のその金属の重みが、俺の歩幅を自然と大きくさせる。
エントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。
カチャリ、と鍵を開けて中に入る。
「……お邪魔します」
静かな声で告げると、リビングの奥から「タタタタッ!」と爪がフローリングを叩く音が近づいてきた。
「ワンッ!」
豆柴のレオだ。
成長期の真っ只中にある彼は、体つきもすっかり柴犬らしくなり、日ごとに力強さを増している。
彼は俺の足元に飛びつき、千切れんばかりに尻尾を振って歓迎してくれた。
「ただいま、レオ。いい子にしてたか?」
俺が屈み込んで頭を撫でてやると、レオは嬉しそうに俺の顔を舐め回した。
その背後から、気だるげな声が降ってくる。
「……おかえりなさい、師匠。随分と遅かったじゃない」
ソファの上に、膝を抱えて座る李雪の姿があった。
今日は薄手のグレーのニットに、黒のレギンスというリラックスした部屋着姿だ。
髪は無造作なお団子にまとめられている。
「すみません。少し、知人に捕まってしまって」
「……知人ね。随分と甘い柑橘系の香水を漂わせてる知人だこと」
彼女は鼻をひくつかせ、ジト目で俺を睨んだ。
さすがの嗅覚だ。カルメンと隣の席で食事をしていた時の香りが、俺の服に移っていたらしい。
「表参道で、カルメンさんにランチに付き合わされたんです。タパスの味見役として」
「……ふーん。あの太陽女と」
李雪は不機嫌そうに唇を尖らせ、クッションを抱きしめた。
「休日の昼間からデートなんて、随分と優雅ね。私なんて、たまった書類のチェックをしてたっていうのに」
「デートじゃありませんよ。ただのランチです。……それに、俺が本当に一緒に食事をしたいのは、貴方だけですから」
俺がなだめるように言うと、彼女は「……口だけは上手いんだから」と顔を赤らめてそっぽを向いた。
先日のエレベーターでの「充電」以来、彼女は以前にも増して、俺に対する独占欲を隠さなくなってきた気がする。
その変化が、俺にはたまらなく愛おしかった。
「さて、レオの散歩に行きましょうか。秋の風が気持ちいいですよ」
俺が提案すると、李雪は小さく頷き、立ち上がった。
「……そうね。私もずっと部屋にこもってたから、外の空気が吸いたいわ」
彼女はクローゼットを開け、着替え始めた。
数分後、現れた彼女の姿に、俺は目を丸くした。
ダボッとしたオーバーサイズのマウンテンパーカーに、ゆったりとしたボーイフレンドデニム。
頭にはキャップを深く被り、黒縁の伊達メガネをかけている。
まるで、スケートボードでも乗り回しそうなストリート系の若者のようだ。
「……随分と、思い切った変装ですね」
「休日に会社の人に見つかると面倒でしょ。これなら、ただの近所の若者に見えるはずよ」
彼女は得意げにキャップのつばを直した。
確かに、会社での「氷の女帝」の面影は微塵もない。
だが、その小柄な体型と隠しきれない顔の小ささが、逆に目立っているような気もした。
「じゃあ、行きましょうか」
俺たちはレオにリードをつけ、秋の夕暮れが迫る街へと歩き出した。
近くの大きな公園は、休日を楽しむ家族連れや犬の散歩をする人々で賑わっていた。
レオは久しぶりの広い公園に大興奮だ。
「ふんふん! ふんっ!」
彼は鼻先を地面に擦りつけるようにして、熱心に『クン活』に勤しんでいる。
落ち葉の匂い、他の犬の残り香。
すべての情報が新鮮なのだろう。短い尻尾をピンと立てて、右へ左へと忙しなく動き回る。
「こら、レオ。あんまり引っ張るな」
俺がリードを引くと、レオは「ちぇっ」という顔をして立ち止まり、ブルブルッと体を震わせた。
その隣で、李雪がクスクスと笑う。
「元気ねぇ。……なんだか、見ているだけで癒やされるわ」
彼女のキャップの下の横顔は、とても穏やかだった。
夕日が彼女の白い肌をオレンジ色に染めている。
並んで歩く。ただそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
だが、そんな平和な時間は、長くは続かなかった。
「あっ、橋本主任補佐!」
不意に、前方から聞き覚えのある声が飛んできた。
ビクッとして顔を上げると、そこにはスーパーのレジ袋を提げた若い男性が立っていた。
営業二課の若手社員、高田だ。
よく李課長に書類のミスを指摘されては涙目になっている、あの高田である。
(……しまった)
俺は内心で舌打ちをした。
高田の家がこの辺りだということは知っていたが、まさかこんなタイミングで遭遇するとは。
「高田か。奇遇だな、こんなところで」
俺は努めて平静を装い、いつもの「冴えない先輩」のトーンで応えた。
隣を歩いていた李雪は、高田の声を聞いた瞬間、サッと俺の背後に身を隠した。
キャップをさらに深く被り、顔を完全に伏せている。
「ええ、近くのスーパーに買い物に来てまして。……あれ? そのワンちゃん、橋本さんのですか? めちゃくちゃ可愛いですね!」
高田は人懐っこい笑顔で近づいてくると、しゃがみ込んでレオに手を伸ばした。
レオは愛想よく尻尾を振り、高田の手をペロペロと舐めている。
番犬としては完全に失格だが、今はその愛想の良さが少しだけ助かった。
「……ああ、最近飼い始めたんだ。やんちゃで手がかかるけどな」
「へえ〜、いいなぁ。……あれ?」
高田が立ち上がり、俺の背後に隠れている小柄な人影に気づいた。
彼の目が、好奇心に満ちて丸くなる。
「そちらは……? もしかして、橋本さんの彼女さんですか?」
心臓が嫌な音を立てた。
背中に隠れている李雪が、俺のパーカーの裾をギュッと強く握りしめるのを感じた。
彼女も緊張しているのだ。
ここで「彼女だ」と答えれば、明日には「橋本主任補佐にストリート系の小柄な彼女がいる」という噂が社内を駆け巡るだろう。
それが巡り巡って、万が一にも李課長と結びつけられるようなことがあれば、彼女の立場が危うくなる。
かといって「ただの友人」では、休日の夕方に犬の散歩を共にしている説明としては不自然だ。
俺の脳が高速で回転し、一つの「設定」を弾き出した。
「……いや、妹だ」
「えっ?」
高田が目を瞬かせる。
俺の背中の李雪も、一瞬「は?」というように俺の服を引っ張った。
「ああ。最近、田舎から上京してきてな。俺が仕事で遅い時なんかは、こうして犬の散歩を手伝ってもらってるんだよ」
俺はすらすらと嘘を並べ立てた。
妹。
これなら、一緒にいても不自然ではないし、変に詮索されることもない。
「へえ〜! 橋本さんに妹さんがいらっしゃったんですね!」
高田は完全に信じ込んだようで、背後の李雪に向かってペコリと頭を下げた。
「はじめまして! いつもお兄さんには、会社で大変お世話になっております! 同じ営業二課の高田と申します!」
李雪は顔を伏せたまま、無言で小さく会釈を返した。
声を出せば、あの一度聞いたら忘れられない美声で一発アウトだ。
「人見知りなんだ。あまり詮索しないでやってくれ」
「あ、すみません! それじゃあ、犬が引っ張るんで俺たちはこれで。月曜日にまた!」
俺は強引に話を打ち切り、高田に背を向けて歩き出した。
高田は「お疲れ様ですー!」と見送ってくれたが、すれ違いざま、彼が首を傾げながら独り言を呟くのが聞こえた。
「……橋本さん、あんな美人の妹いたっけ? 服装はボーイッシュだけど、なんかオーラが全然違うような……」
俺は聞こえないフリをして、レオのリードを急いで引いた。
高田の姿が完全に見えなくなるまで歩き、公園の奥のベンチに辿り着いたところで、俺たちは同時に深いため息を吐いた。
「……はぁ。寿命が縮んだわ」
李雪がベンチにへたり込み、キャップを脱いだ。
その顔は、緊張と少しの怒りで赤く染まっている。
「すみません。とっさに『妹』なんて言ってしまって」
「……妹って何よ。私の方が年上なのに」
彼女はジト目で俺を睨んだ。
「でも、ナイス判断だったわ。あそこで恋人なんて言われたら、明日から貴方、給湯室で質問攻めに遭うもの」
「そうですね。……でも、高田のやつ、去り際に『あんな美人の妹いたっけ』って言ってましたよ」
俺が思い出し笑いをしながら言うと、李雪はピタリと動きを止めた。
そして、顔をさらに赤くして、そっぽを向いた。
「……変装してたのに、オーラが漏れちゃったかしら」
「否定しないんですね。……でも、俺には勿体ないくらい綺麗な『妹』ですから、彼がそう思うのも無理はありませんよ」
俺がからかうように言うと、彼女は俺の腕をペシッと叩いた。
「……調子に乗らないでよ。いくら設定だからって、『お兄ちゃん』なんて絶対に呼んであげないんだから」
「残念ですね。一度くらい聞いてみたかったんですが」
「バカ! ……もう、帰るわよ! レオくんも疲れたみたいだし」
彼女は照れ隠しに立ち上がり、ズンズンと先に歩き出した。
足元では、レオが「もう帰るの?」という顔で俺を見上げている。
「ほら、お姉ちゃんが怒ってるぞ。行くか」
俺はレオのリードを引き、彼女の小さな背中を追いかけた。
会社での氷の女帝。
深夜のコンビニでの迷い猫。
そして今日、新たに加わった「手のかかる妹」という仮面。
どんな顔を持っていても、俺にとって彼女が特別な存在であることに変わりはない。
夕焼けに染まる帰り道、俺たちは並んで歩きながら、次の「秘密の作戦」について楽しげに語り合っていた。




