第35話 エレベーターの密室
秋が深まり、朝晩の空気が冷たさを増してきた頃。
我が家のリビングでは、小さな命が「重力」と激しい戦いを繰り広げていた。
「……すぅ……ふすっ……」
豆柴のレオだ。
生後半年を迎えようとしている彼は、犬用ベッドの縁に顎を乗せ、見事な「おねむモード」に入っていた。
俺がスーツに着替え、ネクタイを締めている間も、彼のまぶたは重力に逆らえず、ゆっくりと落ちていく。
ハッと気づいたように目を見開くが、数秒後には再びトロンとした目になり、白目がわずかに見え隠れする。
秋の冷え込みが、彼に心地よい睡魔をもたらしているのだろう。
「……レオ、パパはもう行くぞ」
俺が屈み込んで頭を撫でてやると、レオは「ふぁぁぁ〜……」と、顔の半分ほどもありそうな大きなあくびをした。
ピンク色の舌がくるんと丸まり、子犬特有のミルクと日向が混ざったような匂いが漂う。
そして彼は「行ってらっしゃい」と言う代わりに、俺の手のひらに小さな鼻先を押し付け、そのままコテンとベッドに沈み込んで二度寝に突入してしまった。
丸まった黒い背中が、規則正しく上下している。
「……平和だな」
その愛らしすぎる無防備な姿に、俺は出勤前の貴重な数分間を奪われつつも、最高の癒やしを充填して家を出た。
外の空気は冷たいが、俺の心は温かかった。
だが、会社という戦場に足を踏み入れれば、そんな平和な空気は一瞬で吹き飛ぶ。
営業二課のフロア。
俺の背中には、朝からチクチクと刺さるような「視線」が降り注いでいた。
振り返らなくても分かる。入社二年目の後輩、石井ミチルだ。
「……センパイ」
「なんだ、石井」
「センパイって、休日とか深夜にコンビニ行く時、どんな格好してるんですか?」
「は? 普通にスウェットとか、パーカーだけど。なんでだ?」
俺がPCのモニターから目を離さずに答えると、ミチルは身を乗り出して俺の顔を覗き込んできた。
ヘーゼルナッツ色の瞳が、探るように俺の目を見る。
以前、深夜のコンビニで俺たちの「ニアミス」に遭遇して以来、彼女の探偵ごっこはますますエスカレートしていた。
「……眼鏡、外したりします?」
「外さないな。見えないから」
「……ふぅん」
ミチルは納得いかない様子で、唇を尖らせた。
彼女の中で「深夜のイケメン」と「冴えない橋本センパイ」のイメージが、まだ完全には結びついていないらしい。
だが、その距離は確実に縮まっている。
「石井さん。雑談している暇があるなら、その資料のグラフを修正しなさい。午後からの会議で使うわよ」
「ひぃっ! す、すみません課長!」
背後から飛んできた氷のような声に、ミチルは脱兎のごとく自分のデスクへ逃げ帰った。
声の主は、我が課の絶対君主、李雪課長だ。
彼女は完璧なネイビースーツに身を包み、冷徹な眼差しでフロアを見渡している。
その姿からは、夜のコンビニで「甘いものが食べたい」と駄々をこねる姿など、微塵も想像できない。
俺はキーボードを叩きながら、小さく息を吐いた。
この「他人ごっこ」も、いよいよ限界が近づいているのかもしれない。
だが、不思議と焦りはなかった。
この間の夜、公園のベンチで「バレてもいい。堂々としていればいい」と互いに覚悟を決め合ったからだ。
彼女が腹を括ったのなら、俺も共犯者として、最後まで付き合うだけだ。
その日は、月末の処理が重なり、残業が長引いた。
外は冷たい秋の雨が降り始めている。
窓ガラスを打つ雨音が、オフィスに響く。
時計の針が21時を回る頃には、ミチルも「もう限界ですぅ……」と涙目で退社し、隣の営業一課の山下課長も部下を引き連れて飲みに行ってしまった。
フロアに残っているのは、俺と李課長の二人だけだ。
空調の音が、やけに大きく聞こえる。
「……よし。これで最後だ」
俺はデータをサーバーに保存し、大きく伸びをした。
背中の筋肉がポキポキと鳴る。
ふと視線を向けると、李課長もPCの電源を落としているところだった。
彼女は小さく首を回し、凝りをほぐしている。
その横顔には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「お疲れ様です、課長。終わりましたか?」
「ええ。キリがいいから、今日はここまでにしましょう」
彼女はバッグを手に取り、立ち上がった。
そして、俺の方をチラリと見て、少しだけ声を落とした。
「……一緒に帰る?」
普段なら、社内の目があるため「時差退勤」を徹底している俺たちだ。
だが今は、フロアには誰もいない。
俺はPCをシャットダウンし、ジャケットを手に取った。
「そうですね。エレベーターまでは」
俺たちは並んで、静まり返った廊下を歩いた。
肩と肩が触れそうな距離。
ヒールのカツカツという音と、俺の革靴の音が、重なってはズレていく。
エレベーターホールに到着し、下りボタンを押す。
少し待つと、到着を告げる電子音が鳴り、銀色の扉が開いた。
中に人はいない。
俺たちは無言で乗り込んだ。
扉が閉まり、箱が静かに下降を始める。
密室。
BGMのない空間に、ワイヤーの低い駆動音だけが響く。
頭上の階数表示が、ゆっくりと減っていく。
「……疲れましたね」
俺がポツリと呟くと、彼女は壁に背中を預け、目を閉じた。
「ええ。今週は特に。……あの子の探りも、日に日に鋭くなってるし」
「すみません、俺がもっと上手く立ち回れていれば」
「貴方のせいじゃないわ。……それに、あの夜言った通り、私はもう隠すことに必死になるつもりはないから」
彼女は目を開け、フッと笑った。
その笑顔は、氷の女帝のそれではなかった。
俺だけが知る、無防備で、少し強がりな「迷い猫」の顔だ。
「……でも、少し……エネルギーが足りないわね」
彼女が小さなため息をつく。
俺はスマホを取り出そうとした。
「コンビニ寄りますか? 甘くて温かいもの、見繕いますよ。この雨じゃ冷えるでしょうし」
「……それもいいけど」
彼女は壁から背中を離し、一歩、俺に近づいた。
「今は、もっと手っ取り早い『充電方法』があるわ」
「え?」
エレベーターの箱が、少し揺れたような気がした。
彼女との距離が、ゼロになる。
ここは監視カメラのあるエレベーター内だ。だが彼女は、カメラの死角になる位置に立ち、俺に背を向けるような角度で巧みに身を寄せた。
そして彼女の白い手が、俺の胸元に伸びてきた。
指先が、少し緩めていた俺のネクタイを、スッと掴む。
「……っ」
グイッ。
小柄な彼女の、思いがけない力。
俺は抗う間もなく、前かがみに引き寄せられた。
驚きで目を見開く俺の視界が、彼女の顔で埋め尽くされる。
彼女が少しだけ背伸びをした。
そして。
その柔らかい唇が、俺の唇に重なった。
一瞬の出来事だった。
思考が停止する。
ふわりと香る、雨の日の湿気を帯びた彼女の香水と、微かなリップグロスの甘い匂い。
唇から伝わる、温かくて、少しだけ震えている感触。
俺は息をすることすら忘れ、ただその感触に全身の神経を集中させていた。
数秒後。
彼女は名残惜しそうに唇を離し、ネクタイを掴んでいた手をパッと離した。
ちん、と。
1階への到着を告げるベルが鳴った。
彼女は何事もなかったかのように、エレベーターの扉の方へ向き直った。
その横顔は、信じられないほど赤く染まっている。
「……充電完了」
扉が静かに開く。
彼女はエントランスの光の中へと一歩踏み出し、そして一度だけ振り返った。
悪戯っぽく、しかし最高に艶やかな、挑発するような笑顔。
「家で待ってるわ。……早く来なさいよ、師匠」
彼女はそれだけ言い残し、カツカツとヒールを鳴らして、雨の降る夜の街へと消えていった。
残された俺は。
「…………反則だろ、あれは」
エレベーターの壁に手をつき、腰から砕け落ちそうになるのを必死に堪えていた。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。
顔から火が出そうだった。
あの「氷の女帝」が。深夜のコンビニで芋ジャージを着ていた彼女が。
あんな大胆なことを仕掛けてくるなんて。
扉が閉まりそうになり、俺は慌てて「開」ボタンを押した。
俺たちは「時差退勤」のルールに従い、数分ずらして外に出るつもりだった。
だが、この数分間が、今の俺には永遠のように長く感じられた。
唇に、まだ甘い感触が残っている。
「家で待ってるわ」という言葉の破壊力が、遅れて脳を直撃する。
合鍵を持つ俺たちが、これから彼女のマンションで合流する。
その事実に、俺の足は震えていた。
外に出ると、冷たい雨が顔を打った。
だが、俺の体は芯から燃えるように熱かった。
傘を開く手ももどかしく、俺は彼女が待つマンションへと急ぎ足で歩き出した。
この夜の雨は、俺たちの関係をさらに深く、甘く濡らしていくに違いなかった。




