第34話 長谷川の警告
秋の冷涼な空気が街を包み込むようになった、ある平日の夜。
俺は、仕事を少し早めに切り上げ、自宅周辺の遊歩道を歩いていた。
リードの先には、我が家の愛すべき暴君、豆柴のレオがいる。
「……ふんふん、ふすっ、ふんっ」
静かな夜の道に、レオの荒い鼻息が響いている。
生後半年を迎えようとしている彼は今、かつてないほどの熱量で『クン活』に没頭していた。
秋風に乗って運ばれてくる枯れ葉の匂い、乾いた土の匂い、そして他の犬たちが残していったメッセージ。
それらの情報量が多すぎるのか、レオは鼻先を地面に擦り付けるような極端な前傾姿勢で、ジグザグに歩道を進んでいく。
「こら、レオ。そんなに端っこばかり歩くと汚れるぞ」
俺がリードを軽く引いて軌道修正しようとするが、彼は短い四肢をピンと突っ張って全力で抵抗してきた。
いわゆる『拒否柴』の発動である。
首肉がムギュッと首輪に寄り、麻呂眉がへの字に吊り上がっている。
「僕は今、世界の真理を読み解いている最中なんだ! 邪魔をするな!」という強い意志が、そのつぶらな瞳からヒシヒシと伝わってくる。
「……わかったよ。気が済むまで嗅げ」
俺がリードを緩めると、彼は「キャン!」と一鳴きして、再び枯れ葉の山に顔を突っ込んだ。
尻尾がプロペラのように左右に揺れている。
その小さな背中を見守りながら、俺はふっと息を吐いた。
この何気ない散歩の時間が、日々の激務でささくれ立った俺の神経を優しく撫でてくれる。
平和だ。
……少なくとも、俺の自宅の半径一キロ圏内は。
問題は、明日も向かわなければならない「戦場」の方である。
翌日の営業二課のフロア。
俺はPCのモニターに向かいながら、背後に忍び寄る「気配」に全神経を集中させていた。
「……すぅーっ、くんくん」
まただ。
振り向かなくてもわかる。入社2年目の後輩、石井ミチルが、俺の背後で露骨に鼻をひくつかせている。
彼女は、あの日以来、完全に「名探偵」を気取っていた。
「……石井。俺の背中に何か付いてるか?」
俺がわざと低く、気だるげな声で尋ねると、ミチルは「ひゃっ」と小さな声を上げて後ずさった。
「い、いえ! 何も付いてないですぅ! ただ、今日のセンパイの柔軟剤、やっぱり『フローラル・ブーケの香り』だなぁって再確認しただけで!」
「それがどうした」
「……李課長も、今日同じ匂いがするんですよねぇ」
ミチルは俺の顔をじっと覗き込み、カマをかけるように目を細めた。
「偶然だ。あの洗剤、駅前のドラッグストアでまだ安売りしてるからな。課長もまとめ買いしたんだろ」
「ふーん……。でも、匂いだけじゃないんです。私、見ちゃったんですよね。最近、李課長がコーヒーを飲む時、マグカップの持ち方がセンパイとそっくりになっているのを」
ドキリとした。
小指を少し立てて、カップの縁に親指を添える持ち方。
それは確かに俺の癖だが、まさか李雪がそれを無意識にうつされているなんて、俺自身も気づいていなかった。
「……気のせいだろ。お前、仕事のしすぎで幻覚でも見てるんじゃないか?」
「違います! 私のゲーマーとしての動体視力と観察眼を舐めないでください! 絶対に何か隠してますよね、センパイ!」
ミチルが机に身を乗り出してきた、その時だった。
「石井さん。その資料、まだ終わっていないの?」
背後から、氷点下の声が降ってきた。
李課長だ。
彼女は完璧なネイビースーツに身を包み、冷徹な視線でミチルを見下ろしている。
「ひぃっ! すみません! 今すぐやりますぅ!」
ミチルは脱兎のごとく自分のデスクへと逃げ帰っていった。
俺が安堵の息を吐こうとした瞬間、李課長が俺の横を通り過ぎる。
彼女は書類に目を落としたまま、誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。
「……探偵ごっこも、度を超すと厄介ね。今夜、対策会議よ」
俺は微かに頷き、PCの画面に視線を戻した。
やはり、彼女もミチルの行動に危機感を抱いているようだ。
深夜24時15分。
俺はいつものコンビニで、李雪と合流した。
彼女はえんじ色の芋ジャージに、ボサボサのお団子ヘア。
今日のTシャツの文字は、筆文字で力強く『隠密行動』と書かれている。
気合が入っているのはわかるが、その格好自体がすでに目立っていることに彼女は気づいていない。
「こんばんは、師匠。……あの子、今日も探りを入れてきたわね」
挨拶もそこそこに、彼女は不満げに口を尖らせた。
「お疲れ様です。ええ、柔軟剤の匂いと、マグカップの持ち方を指摘されました」
「……うっ。持ち方は、無意識だったわ。気をつけないと」
彼女はバツが悪そうに視線を逸らした。
俺たちは並んで店内を歩き、おでんの保温器の前で足を止めた。
秋の深まりを感じる夜には、やはり出汁の染みた温かいものが欲しくなる。
「今日は、おでんにしましょう。……それにしても、ミチルの観察眼は侮れません。どうやって煙に巻くか……」
俺が大根と牛すじを容器に取り分けていると、レジの方から声がした。
「……煙に巻くのは、もう難しいかもしれませんよ」
顔を上げると、店員の長谷川が、いつになく真剣な表情でこちらを見ていた。
彼女はレジカウンターから出て、商品の陳列を直すフリをしながら俺たちに近づいてきた。
「長谷川さん……?」
「マエストロ、それに黒猫さん。少し、耳の痛い忠告をさせてください」
長谷川は周囲に他の客がいないことを確認し、声を落とした。
「最近、この辺りをうろつく『探偵』が増えています。……小柄で、茶色いボブヘア。深夜にエナジードリンクを買いに来ては、店の外や周辺をキョロキョロと探っている女の子です」
俺と李雪は顔を見合わせた。
間違いない。ミチルだ。
「……あの子、私が夜勤の時によく来るんですが、先日ついに聞かれました。『ここで、背の高いイケメンと、ジャージの女の人のカップルを見ませんでしたか?』と」
「ッ……! で、何て答えたんですか?」
李雪が焦ったように身を乗り出す。
長谷川はふっと息を吐いた。
「もちろん、『知りませんね。深夜は色々な人が来ますから』ととぼけておきました。……ですが、あの子の目は本気でした。お二人の関係、そろそろ隠しきれないのでは?」
観測者である彼女の忠告は、重かった。
レジの中からずっと俺たちを見てきた彼女が言うのだ。客観的に見ても、俺たちの「他人ごっこ」は限界を迎えつつあるということだろう。
「……ありがとうございます。気をつけて帰ります」
俺は深く頭を下げ、おでんの会計を済ませた。
店を出る際、長谷川が「幸運を祈ります」と小さく呟くのが聞こえた。
いつもの公園のベンチ。
夜風が冷たく、肌を刺す。
俺たちは、買ってきたおでんの蓋を開けた。
立ち上る鰹と昆布の出汁の香りが、冷えた空気をじんわりと温める。
「……今日のペアリングは?」
李雪が、少し元気のない声で尋ねた。
「おでんの定番といえば日本酒ですが……明日は仕事ですし、今日は体を温める『ほうじ茶』のティーバッグを買ってきました。これをおでんの出汁と割って飲みます。香ばしさが重なって、料亭の吸い物みたいになりますよ」
俺は紙コップにおでんのつゆを注ぎ、熱いほうじ茶をブレンドして彼女に渡した。
さらに、おでんの具には、チューブの『柚子胡椒』を少しだけ添える。
「いただきます」
彼女は柚子胡椒をつけた大根を口に運び、目を閉じた。
「……ん。出汁が染みてて、美味しい。柚子の香りがすごく上品ね」
「ほうじ茶割りも飲んでみてください」
彼女はコップに口をつけ、ゆっくりと喉を鳴らした。
そして、ほう、と深く息を吐き出す。
「……落ち着くわ。さっきの長谷川さんの言葉で、少し心臓がバクバクしてたけど」
李雪はコップを両手で包み込むように持ち、夜空を見上げた。
「……ねえ、師匠。もし、会社の人たちにバレたら、どうなると思う?」
それは、今まで避けてきた核心の問いだった。
俺は牛すじを齧りながら、冷静に答えた。
「そうですね……。まず、俺が『実は料理上手で、眼鏡を外すとそこそこ見れる男』だということがバレて、社畜の擬態が崩れます。そして何より、貴方が『深夜にジャージでコンビニ飯を食い漁るポンコツ』だという事実が、社内に広まります」
「言い方……」
彼女は俺をジト目で睨んだが、否定はしなかった。
「そして……俺たちが、『そういう関係』だと噂されるでしょうね。上司と部下の、公私混同の密会だと」
俺が続けると、彼女は俯いた。
「……私のキャリアに、傷がつくかしら」
「貴方の実力なら、多少の噂で揺らぐことはないでしょう。ただ、山下課長あたりは嬉々としてからかってくるでしょうね。ミチルはショックで仕事が手につかなくなるかもしれません」
俺の言葉に、彼女はしばらく沈黙した。
おでんの湯気だけが、二人の間を揺らいでいる。
やがて、彼女は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつて「氷の女帝」と呼ばれた時と同じ、強い意志の光が宿っていた。
「……私、もういいわ」
「え?」
「もちろん、自分から言いふらすつもりはないわよ。でも……これ以上、ビクビクしながら隠れてコソコソするのは嫌」
彼女は俺の隣にすり寄り、俺の袖を軽く掴んだ。
「もしバレたら、その時は堂々としていればいい。……だって、私たちは何も悪いことをしてるわけじゃない。ただ、美味しいものを一緒に食べて、こうして話をしているだけなんだから」
彼女の言葉は、強がりでもあり、そして本心でもあった。
俺たちの関係は、ただの「上司と部下」の枠をとうに超えている。
誰にどう思われようと、この時間を手放すつもりは、俺にも毛頭なかった。
「……覚悟を決めましたか、迷い猫さん」
「ええ。……だから師匠も、腹を括りなさい。もしバレたら、貴方も共犯者として道連れにするから」
彼女は悪戯っぽく笑い、柚子胡椒のついた牛すじを俺の口元に差し出した。
「はい、あーん。……道連れの契約の印よ」
俺は苦笑しながら、その牛すじをパクリと食べた。
ピリッとした辛味が、舌を刺激する。
それは、これから訪れるであろう波乱を予感させるような、スリリングな味だった。
「……望むところですよ」
俺はほうじ茶割りの出汁を飲み干し、彼女の肩に軽く自分の肩をぶつけた。
ミチルの探偵行動は、きっとさらにエスカレートするだろう。
だが、今の俺たちには、それを迎え撃つだけの「覚悟」と「絆」がある。
俺たちは冷たい夜風の中で、温かいおでんを分け合いながら、静かに来たるべき「Xデー」へのカウントダウンを聞いていた。




