第33話 手料理の特訓
季節の変わり目の冷え込みから風邪をこじらせていた李雪だったが、数日間の絶対安静と俺の特製お粥の甲斐もあってか、見事に完全復活を遂げた。
週の後半には会社でも「氷の女帝」としての威厳をすっかり取り戻し、滞っていた業務を恐ろしいスピードで片付けていた。
そして迎えた、休日の土曜日。
俺は、愛犬のレオと共に、李雪のマンションのリビングでくつろいでいた。
外は爽やかな秋晴れだったが、病み上がりの彼女の体力を考慮して、今日は一日「おうちデート」……いや、のんびりとしたインドア生活を決め込んでいたのだ。
「……こら、レオ。それはパパの獲物じゃないぞ」
俺が声をかけると、リビングの端で黒い毛玉がビクッと動きを止めた。
豆柴のレオの口には、丸められた俺の黒い靴下がしっかりとくわえられている。
最近の彼は、「靴下泥棒」として名を馳せていた。おもちゃのロープやボールよりも、なぜか俺の履き古した靴下を好むのだ。
獲物を奪われまいと、レオは短い足を突っ張って低い体勢をとり、上目遣いでこちらを警戒している。麻呂眉がへの字に吊り上がっていて、いっちょ前に威嚇のポーズだ。
「返しなさい。洗濯機に入れるんだから」
俺が手を伸ばすと、レオは「ウゥーッ」と唸り声を上げながら、スルリと俺の股下を抜け、ソファの裏へと逃げ込んだ。
「あ、こら! 待て!」
「……ふふっ。元気ね、二人とも」
ソファの上に膝を抱えて座っていた李雪が、俺とレオの追いかけっこを見てクスクスと笑った。
今日の彼女は、ダボッとしたオーバーサイズの白いパーカーに、黒のレギンスというリラックスしたスタイルだ。すっぴんに黒縁メガネ姿の彼女は、とても年上の鬼上司には見えない。
「笑い事じゃないですよ。あいつ、俺の靴下ばかり狙うんですから」
「それだけ、師匠の匂いが好きなのよ。安心するんじゃない?」
彼女はソファの裏から顔を出したレオをひょいと抱き上げ、見事に靴下を回収してくれた。
レオは「ああっ、僕の獲物が!」という顔をしたが、彼女に顎の下を撫でられると、すぐに目を細めて気持ちよさそうに尻尾を振った。
相変わらず、彼女には逆らえないらしい。
「ありがとうございます。……さて、そろそろ夕飯の準備でもしましょうか」
時計を見ると、午後17時を回っていた。
俺が立ち上がり、キッチンのほうへ向かおうとした時だった。
「……待って」
李雪がレオを床に下ろし、立ち上がった。
そして、少しだけ真剣な表情で俺の前に立ち塞がる。
「どうしました?」
「……今日の夕飯は、私が作るわ」
俺は一瞬、自分の耳を疑った。
あの、自炊能力が皆無で、コンビニのゼリー飲料を主食にしていた彼女が、料理を作ると言い出したのだ。
「……李さん、熱がぶり返したんじゃありませんか?」
俺が思わず彼女の額に手を伸ばそうとすると、彼女はペシッと俺の手を払い除けた。
「失礼ね、平熱よ。……その、看病してもらった時のお粥、すごく美味しかったし。いつも作ってもらってばかりじゃ悪いから……たまには、私から恩返ししたいのよ」
彼女は顔を赤らめ、視線を逸らしながら早口で言った。
その不器用な気遣いが、たまらなく愛おしい。
だが、料理は気持ちだけでどうにかなるものでもない。
「お気持ちは嬉しいですが、無理はしないでください。それに、キッチンが……あの、物理的な意味で大惨事になる可能性が」
「馬鹿にしないで。レシピ通りにやれば、論理的には失敗しないはずよ。……それに」
彼女は上目遣いで俺を睨みつけた。
「師匠が隣で教えてくれれば、大丈夫でしょ?」
そんな顔で頼まれて、断れるはずがない。
俺は深くため息をつき、降参の印に両手を挙げた。
「……分かりました。アシスタント兼、指導教官として付き合います」
「よし。じゃあ、決まりね」
彼女は嬉しそうに微笑むと、クローゼットの奥から何かを引っ張り出してきた。
それは、淡いピンク色にフリルがあしらわれた、ひどく可愛らしいエプロンだった。
彼女の普段のクールなイメージとは真逆のデザインだ。
「……なんでそんなエプロンを持ってるんですか?」
「い、いつか使うかもしれないと思って、ネットで安かったから買っただけよ! 変?」
「いえ。とても似合ってますよ」
俺が本心から褒めると、彼女は耳まで赤くして「お世辞はいいから」とエプロンの紐を背中で結んだ。
キッチンに並んで立つ。
本日のメニューは、彼女の希望で『オムライス』に決まった。
シンプルだが、美しく仕上げるには技術が必要な、奥の深い料理だ。
「まずはチキンライスからですね。玉ねぎと鶏肉を細かく切ってください」
「了解よ。……玉ねぎの微塵切りね。任せて」
彼女は包丁を握り、玉ねぎに向かった。
だが、その手つきは、見ていて寿命が縮むほど危なっかしかった。
左手の指が伸びきっており、猫の手になっていない。包丁を落とす角度も不自然だ。
「ストップ、ストップ! 指を切りますよ! 左手は丸めて、第一関節の背に包丁の側面を当てるんです」
「こ、こう?」
「そうです。で、手首のスナップを効かせて……」
俺は彼女の横に張り付き、口うるさい教官のように細かく指示を出した。
彼女は真剣な顔で格闘し、涙目で玉ねぎを切り終えた。
鶏肉も、大きさが不揃いながらもなんとか切り分けることができた。
「よし。じゃあ炒めていきましょう。フライパンにバターを溶かして」
具材を炒め、火が通ったところで、彼女はボウルに入ったご飯を投入しようとした。
俺はすかさず彼女の手首を掴んで止めた。
「待ってください。ご飯を入れる前に、ケチャップです」
「え? ご飯を炒めてから味付けするんじゃないの?」
「ケチャップを先にフライパンの空いたスペースで炒めるんです。そうすることで、余分な水分と酸味が飛び、コクと甘みが凝縮されます。これが洋食屋のチキンライスの秘密です」
「……なるほど。理にかなってるわね」
彼女は感心したように頷き、俺の指示通りにケチャップを熱し、それからご飯を混ぜ合わせた。
全体が綺麗なオレンジ色に染まり、香ばしい匂いが立ち上る。
それを皿に、ラグビーボールのような形に整えて盛り付ける。
「ここまでは完璧です。……さあ、ここからが最大の難関ですよ」
俺が言うと、彼女はゴクリと喉を鳴らした。
いよいよ、オムライスの花形である「卵」の工程だ。
「卵を三つ、ボウルに割ってください。殻が入らないように気をつけて」
彼女は卵を手に取り、ボウルの縁でコンコンと叩いた。
そして、力任せに親指を立てて割ろうとした。
「あっ」
グチャッという嫌な音がして、卵黄が割れ、細かい殻の破片がボウルの中に落ちてしまった。
「……あーあ。やっちゃったわ」
「大丈夫です。菜箸の先を濡らして取れば、簡単に取れますから」
俺のフォローでなんとか殻を取り除き、牛乳を少し加えてしっかりと溶きほぐす。
フライパンを熱し、少し多めのバターを溶かす。
「いきます。一気に流し込んでください!」
ジュワアアアッ!
卵液がフライパンに触れ、勢いよく音を立てる。
縁のほうからすぐに固まり始める。
「菜箸で素早くかき混ぜて! フライパンを揺らしながら!」
「は、速すぎるわ! 固まっちゃう!」
彼女の菜箸の動きが、卵の凝固スピードに追いついていない。
このままでは、ただの炒り卵になってしまう。
「……失礼します」
見かねた俺は、彼女の背後にぴったりと張り付いた。
そして、彼女の肩越しに両腕を伸ばし、彼女が握っている菜箸を持つ手と、フライパンの柄を握る手を、自分の大きな両手で上からすっぽりと包み込んだ。
「えっ……!?」
彼女の肩がビクッと跳ねる。
背中に、俺の胸板が密着している。
ふわりと香る、彼女のシャンプーと甘い体臭。
彼女の体温が、薄いパーカー越しにダイレクトに伝わってくる。
「……力を抜いて。俺の動きに合わせてください」
俺は彼女の耳元で低く囁いた。
彼女の肩越しに腕を伸ばし、手を重ねる。以前、餃子を一緒に包んだ時にも似たような体勢になったが、今はそれよりもずっと密着度が高い。
フライパンを振るという動作の性質上、俺の胸板が彼女の背中にぴったりとくっついてしまっているのだ。
彼女は小さく息を呑み、緊張したように腕の力をダラリと抜いた。
俺は彼女の手を操り、左手でフライパンを前後に小刻みに揺らしながら、右手で菜箸を円を描くように高速で動かした。
半熟のトロトロ状態になった卵を、フライパンの奥のほうへと寄せていく。
柄をトントンと叩き、卵を回転させながらラグビーボール状に成形する。
「……ほら、できましたよ」
俺が言うと、彼女は俺の腕の中にすっぽりと収まったまま、フライパンの中の美しいオムレツを見て、ほうっと感嘆の息を吐いた。
「……魔法みたい」
「あとは、これをチキンライスの上に乗せて……真ん中をナイフで開くんです」
俺はフライパンを傾け、皿の上のチキンライスにオムレツをそっと乗せた。
そして、彼女の手に握らせたナイフで、オムレツの表面にすっと切れ目を入れる。
パカーン。
半熟の卵が花開くように左右に広がり、チキンライスを黄金色のドレスで包み込んだ。
「……完成です」
俺が宣言してようやく体を離すと、彼女はへたり込みそうになるのをキッチンのカウンターに手をついて堪えた。
その顔は、トマトケチャップよりも真っ赤に染まっている。
息が荒く、胸が大きく上下していた。
「……し、心臓に悪いわ。あんな……急に、後ろから……」
「すみません。卵は時間との勝負なので、つい」
俺も、実は平静を装うのに必死だった。
あんなに密着して、彼女の華奢な体を腕の中に閉じ込めるなんて、理性が吹き飛びそうだった。
「……ま、まあいいわ。綺麗なオムライスができたんだから」
彼女は深呼吸をして、なんとか平常心を取り戻そうとしている。
そして、ケチャップのボトルを手に取った。
「仕上げの文字書きは、私がやるわ」
彼女は真剣な顔で、黄色い卵のキャンバスに赤いケチャップで何かを描き始めた。
丸い輪郭に、尖った耳。そしてヒゲ。
「……猫ですか?」
「そうよ。迷い猫」
不恰好だが、どこか味のある猫の絵が描かれた。
俺たちはその皿をダイニングテーブルに運び、向かい合って座った。
足元では、良い匂いに釣られたレオが「僕のご飯はまだか」と尻尾を振って待機している。
「レオ、これには玉ねぎが入ってるから駄目だ。お前にはこっちのおやつな」
俺は犬用のボーロをレオに与え、改めて李雪に向き直った。
「いただきます」
彼女はスプーンで、猫の絵を崩すのを躊躇うように端のほうからすくい、口に運んだ。
もぐもぐと咀嚼する。
そして、瞳をキラキラと輝かせた。
「……美味しい! 卵がフワフワで、チキンライスのコクがすごいわ!」
「それは良かったです。……まあ、卵を焼いたのは半分以上、俺ですけどね」
俺が意地悪く言うと、彼女はスプーンで俺を指差した。
「うるさい。私が玉ねぎを切って、私がケチャップで絵を描いたの。だからこれは、私の手料理よ」
「はいはい。素晴らしい手料理です」
俺も自分の分を食べる。
自分で作るのとは違う、誰かと一緒にキッチンに立ち、苦労して完成させた料理の味。
それは、どんな高級レストランのフルコースよりも、心を満たしてくれる味がした。
「……ねえ、師匠」
オムライスを半分ほど食べたところで、彼女がふと顔を上げた。
「ん?」
「……今度、また教えてね。料理」
彼女はスプーンを見つめたまま、照れくさそうに言った。
「今度は……最初から最後まで、私一人でできるように」
「ええ。スパルタでいきますよ」
俺が微笑んで答えると、彼女は「望むところよ」と力強く頷いた。
窓の外はすっかり暗くなり、秋の夜の冷たい空気が街を包み始めている。
だが、この部屋の中だけは、オムライスの湯気と、小さな家族の温もりで、ポカポカと暖かかった。
俺たちの距離は、確実に、そして取り返しのつかないほど近く、密接なものになりつつある。
俺は、彼女の不恰好な猫の絵を思い出しながら、残りのチキンライスをゆっくりと味わった。




