第29話 ミチルの探偵ごっこ
その週の半ば、水曜日。
営業二課のフロアには、平和な午後の光が差し込んでいた。
だが、俺のデスク周りだけは、不穏な空気に包まれていた。
「……くん、くん」
犬のような鼻息。
俺の背後で、誰かが鼻をひくつかせている。
振り返らなくても分かる。入社2年目の後輩、石井ミチルだ。
「……なんだ、石井。俺が臭うか?」
俺はキーボードを叩く手を止めずに尋ねた。
最近は李雪のマンションに入り浸り、風呂も洗濯も向こうで済ませることが多い。加齢臭には気を使っているつもりだが、不安になる。
「いえ、臭くないです。むしろ……」
ミチルは俺の背中に顔を近づけ、さらにクンクンと匂いを嗅いだ。
「……いい匂いがします。フローラルで、ちょっと高級な柔軟剤の匂い」
「……そうか。加齢臭じゃなくてよかったよ」
「でもセンパイ、以前はこの匂いじゃなかったですよね? 前はもっと、無臭に近いというか、量販店の洗剤の匂いでした」
鋭い。
ゲーマーのくせに、こういうところの解像度は無駄に高い。
「洗剤を変えたんだよ。気分転換だ」
「ふーん……。気分転換、ですか」
ミチルは疑わしげな目を向けたまま、自分のデスクに戻ろうとした。
その時だった。
「……お疲れ様です、課長」
フロアの入り口から、李雪課長が戻ってきた。
手には会議資料を持っている。
彼女は俺たちの横を通り過ぎ、課長席へと向かう。
その際、ふわっと風が舞った。
「……あ」
ミチルが立ち止まり、再び鼻をひくつかせた。
「……くん、くん」
彼女の視線が、李課長の背中と、俺の背中を高速で往復する。
「……同じだ」
ミチルがボソリと呟いた。
「え?」
「課長からも、センパイと同じ匂いがします。……全く同じ、フローラルの香り」
心臓が跳ねた。
まずい。
洗濯機を共有しているのだから当然だ。だが、それを悟られるわけにはいかない。
「……偶然だろ」
俺は冷や汗を隠して、平静を装った。
「あの洗剤、駅前のドラッグストアで山積みセールしてたからな。課長も同じタイミングで買ったんじゃないか?」
「セール? ……あの『氷の女帝』が、特売の洗剤なんて買いますかね?」
「意外と庶民派なのかもしれないぞ。ほら、仕事に戻れ」
俺は強引に話を打ち切った。
ミチルは「怪しい……」と呟きながらも、渋々自席に着いた。
だが、その目は完全に「探偵モード」に入っている。
何かネタを掴もうと、虎視眈々とこちらを観察しているのが肌で感じられた。
(……これは、まずいな)
このままでは、遅かれ早かれボロが出る。
一度、彼女の意識を別の方向に逸らす必要がある。
俺はスマホを取り出し、物流管理部の「共犯者」にメッセージを送った。
『SOS。陽動を求む』
数秒後、返信が来た。
力強いスタンプと共に。
『了解っす! 任せてください!』
定時後。
俺はミチルに聞こえるように、少し大きめの声で電話に出た。
「……ああ、お疲れ。今から? 分かった、すぐ行くよ」
電話を切ると、鞄を持って立ち上がる。
「お先に失礼します」
「あ、センパイ! 今日は飲みに行きませんか?」
すかさずミチルが食いついてきた。やはりマークされている。
「悪いな。先約があるんだ」
「えー、誰ですか? 彼女?」
「……まあ、そんなところだ」
俺は意味深に笑って、オフィスを出た。
背後でミチルが「えっ、マジで!?」と叫ぶのが聞こえる。
これで、彼女の興味は「センパイと課長の怪しい関係」から「センパイの彼女の正体」へとシフトするはずだ。
俺が向かったのは、会社から少し離れた繁華街の待ち合わせ場所。
そこに立っていたのは、作業着ではなく、ラフな私服に着替えた前田奈緒美だった。
タンクトップにGジャンを羽織り、ダメージジーンズ。
相変わらずワイルドで、目を引くスタイルだ。
「お疲れっす、先輩! 待ってましたよ!」
前田は俺を見つけるなり、大きく手を振った。
「悪いな、急に呼び出して」
「いいっすよ。面白そうだし、何より『奢り』なんでしょ?」
「ああ。……頼むぞ、前田」
「任せてくださいよ。ミチルちゃんの目は、私が引きつけますから!」
俺たちは並んで歩き出した。
これはデートではない。作戦行動だ。
だが、側から見れば、体格の良い男とスタイルの良い女の、お似合いのカップルに見える……かもしれない。
入ったのは、赤提灯が揺れる大衆酒場。
ガヤガヤとした喧騒と、油の匂い。
お洒落なバーよりも、こういう店の方が前田には似合う。
「とりあえず、生!」
「俺も」
乾杯をして、ジョッキを煽る。
前田は豪快に飲み干し、「ぷはーっ!」と息を吐いた。
「生き返る〜! やっぱり労働の後のビールは最高っすね!」
「お前、本当にいい飲みっぷりだな」
「先輩こそ。……で、今日は何食べます? 私は揚げ物があれば文句ないっすけど」
俺はメニューを開いた。
ここに来たからには、やはり「マエストロ」として最高のつまみを選ばなければならない。
「よし。……『厚切りハムカツ』と『鶏の唐揚げ』、それに『ポテトサラダ』だ」
「王道っすね!」
「だが、ただ食べるんじゃない。……すみません、ウスターソースとマヨネーズ、あと七味唐辛子をください」
届いた料理を前に、俺は調合を始めた。
ポテトサラダにマヨネーズを追い足しし、さらに七味をたっぷりと振る。
そこに、少しだけソースを垂らす。
「……これを混ぜて、ハムカツに乗せて食うんだ」
「えっ、オン・ザ・ハムカツ?」
「そうだ。サクサクの衣と、ねっとりしたポテサラ。ソースの酸味と七味の辛さが、ビールの消費量を加速させる」
前田は言われた通りにハムカツにポテサラを乗せ、大口を開けてかぶりついた。
サクッ、という小気味良い音。
「……んんっ! やば! 何これ、悪魔的っすね!」
彼女は目を輝かせ、ビールを流し込んだ。
「唐揚げには、レモンじゃなくて『お酢』と『黒胡椒』だ。さっぱりして、いくらでも入るぞ」
「先輩、マジで天才っすか。一生ついていきます!」
前田はご機嫌で箸を進める。
俺も久しぶりのジャンクな外食を楽しんだ。
李雪との繊細な食事もいいが、こういう豪快な飯も悪くない。
「……で、どうっすか? 李課長とは」
酔いが回ってきたのか、前田がニヤニヤしながら聞いてきた。
「……順調だよ。今はレオもいるから、毎日が戦争だけどな」
「へぇ〜、同棲っすか。羨ましいなぁ。私も先輩みたいな胃袋掴んでくれる彼氏欲しいっすよ」
彼女は頬杖をついて俺を見た。
「……もし先輩がフリーだったら、私が立候補したのになぁ」
「よせ。俺はお前みたいな『暴れ馬』を御する自信はないぞ」
「あはは! 違いないっす! 私、手綱握られるの嫌いなんで!」
彼女は笑い飛ばした。
そのサバサバした態度が心地いい。
恋愛感情というよりは、戦友に近い感覚だ。
「……っと、そろそろ仕上げの時間か」
俺は店の入り口付近をチラリと見た。
ガラス越しに、見覚えのある人影がウロウロしている。
キャップを目深に被った、怪しい人物。
ミチルだ。やはり尾行してきていたか。
「前田、あそこ」
「ん? ……あー、いますね。柱の陰に」
前田も気づき、悪い顔で笑った。
「じゃあ、やりますか。最終フェーズ」
「ああ」
俺は唐揚げを一つ箸で摘み、前田の口元に差し出した。
「……ほら、あーん」
「えっ、マジでやるんすか? ……ま、いっか! あーん!」
前田は恥ずかしがる様子もなく、パクッと唐揚げを食べた。
そして、わざとらしく大きな声で言う。
「ん〜! 先輩の食べさせてくれる唐揚げ、最高っすね〜! 大好き!」
店の外で、ミチルが「ひえっ!」とのけぞり、そのまま逃げるように走り去っていくのが見えた。
「……行ったな」
「行きましたね。……これでしばらくは、先輩の彼女=私っていう誤解で広まるはずっすよ」
「助かったよ。……だが、お前の評判に関わるんじゃないか?」
「平気っすよ。むしろ『あの橋本先輩を落とした女』ってことで、社内のカーストが上がるかもしれないっす」
前田はケラケラと笑った。
本当に、頼もしい共犯者だ。
深夜24時30分。
前田と別れた俺は、李雪のマンションへと帰宅した。
合鍵でドアを開けると、リビングの明かりがついている。
「……おかえりなさい」
ソファで本を読んでいた李雪が、顔を上げた。
その膝の上には、レオが丸まって眠っている。
平和な光景だ。
だが、彼女の表情は少し硬い。
「ただいま。……遅くなってごめん」
「……いいわよ。連絡は貰ってたし」
彼女は本を閉じ、ジト目で俺を見た。
そして、鼻をひくつかせる。
「……揚げ物の油と、安いビールの匂い。……それに、あの物流の子の匂いもするわね」
相変わらずの名探偵ぶりだ。
俺は苦笑しながら、ジャケットを脱いだ。
「ミチルを撒くために、一芝居打ってきたんだ。前田には感謝しないとな」
「……ふーん。どんな芝居?」
「ただ飯を食っただけだよ。……まあ、少しだけ『仲良し』をアピールしたけど」
俺が曖昧に答えると、彼女はフンと鼻を鳴らした。
「……楽しそうだったわね。あの子、貴方のこと『ゴリラ』とか呼びながら、まんざらでもない顔してたじゃない」
「……見てたのか?」
「まさか。想像よ。……でも、貴方の顔を見れば分かるわ。リフレッシュできた顔してるもの」
彼女は立ち上がり、キッチンへと向かった。
「……悔しいけど、私にはあんな風に豪快に笑い合うことはできないから。……少しだけ、妬けるわね」
背中越しに聞こえたその言葉は、消え入りそうなほど小さかった。
嫉妬。
だが、それはドロドロしたものではなく、少しだけ寂しそうな、拗ねた子供のような響きだった。
俺は彼女の後ろから近づき、そっと肩を抱いた。
「……俺が帰ってきたのは、ここですよ」
「……知ってるわよ」
「それに、俺が本当に食べたいのは、貴方と食べる夜食です」
俺が囁くと、彼女は耳まで真っ赤にして、俺の腕をつねった。
「……口だけは上手いんだから、師匠は」
「本心ですよ。……さて、口直しにデザートでもどうですか? コンビニで新作のアイスを買ってきました」
「……食べる」
彼女は振り返り、ようやくいつもの微かな笑みを見せた。
足元では、目を覚ましたレオが「僕も混ぜろ」とばかりに尻尾を振っている。
ミチルの探偵ごっこは、前田というデコイのおかげで、とりあえずは回避できたようだ。
だが、嘘を重ねれば重ねるほど、真実が露呈した時の衝撃は大きくなる。
その時が来るまで、この甘くて危うい生活を、精一杯守り抜こう。
俺はアイスの蓋を開け、愛すべき「迷い猫」と「子犬」に囲まれた夜を噛み締めた。




