第27話 合鍵の重み
日曜日。
台風一過の青空は今日も続いていたが、午後に差し掛かると、少しずつ雲が広がり始めていた。
夕暮れの気配が近づく、李雪のマンションのリビング。
俺は、ソファに座って愛犬レオの撮影会に勤しんでいた。
カメラマンは俺。
そしてスタイリスト兼演出家は、李雪だ。
「……動かないでね、レオくん。いい子よ」
彼女は真剣な表情で、レオに「ある衣装」を着せようと奮闘している。
それは、昨日の大掃除の際、クローゼットの奥から発掘された犬用のパーカーだった。
鮮やかな黄色い生地。背中には茶色の縞模様。
そしてフードには、先端が黒い長い耳と、赤いほっぺたがついている。
そう、ピカチュウだ。
「なんでこんなもの持ってるんですか?」
俺が呆れて聞くと、彼女は顔を赤らめながら作業を続けた。
「……いつか犬を飼ったら着せようと思って、衝動買いしたのよ。まさかこんなに早く出番が来るなんて思わなかったけど」
彼女は言い訳しながら、レオの前足を通し、スナップボタンを留めた。
サイズは奇跡的にぴったりだ。
レオは「なんだこれ?」という顔で体を捻っているが、満更でもなさそうだ。
「よし、着れたわ! ……師匠、フード被せて!」
「了解」
俺はレオの頭に、ピカチュウの顔がついたフードを被せた。
その瞬間。
リビングに電流が走った(比喩的に)。
「……っ!」
「……これは」
俺と李雪は同時に息を呑んだ。
そこには、世界で一番可愛い電気ネズミ……じゃなくて、豆柴がいた。
黒い顔の周りを黄色いフードが縁取り、麻呂眉のつぶらな瞳がこちらを見上げている。
レオが首を傾げると、フードの耳がプルンと揺れた。
「きゃぁぁぁっ! 可愛いぃぃぃ!」
李雪が理性を崩壊させて叫んだ。
彼女はレオを抱き上げ、その頬にスリスリと自分の頬を押し付ける。
「何これ! 反則よ! 破壊力が桁違いだわ!」
「……確かに。これは兵器ですね」
俺も認めざるを得ない。
普段の黒柴姿も最高だが、このコスプレ姿は卑怯だ。
レオはされるがままになりながら、「パパ、助けて」という視線を俺に送ってくるが、尻尾はパタパタと振られている。あざとい。
「写真! 写真撮って!」
「連写してますよ」
俺はスマホのシャッターを切りまくった。
李雪とレオのツーショット。
完璧な構図だ。
普段はクールな彼女が、こんなにデレデレに崩れた顔を見せるなんて。
この写真が会社に流出したら、営業二課の士気に関わるだろう。
ひとしきり撮影会を楽しんだ後、李雪はレオを膝に乗せて、満足げに溜息をついた。
「……はぁ。幸せ」
彼女はレオの背中を撫でながら、窓の外を見た。
空が茜色に染まり始めている。
楽しい時間は、あっという間に過ぎ去っていく。
金曜の夜から始まった、予期せぬ同居生活。
掃除をして、料理を作って、そしてこうして無為な時間を共有した。
それは、俺にとっても夢のような週末だった。
だが、現実は待ってくれない。
明日は月曜日。仕事がある。
俺は一度自宅に帰り、月曜の準備をしなければならない。レオの散歩道具や、自分の着替えも必要だ。
「……そろそろ、おいとまします」
俺が静かに告げると、李雪の撫でる手がピタリと止まった。
彼女はゆっくりとこちらを向く。
その瞳には、隠しきれない寂しさが揺れていた。
「……そうね。明日は仕事だものね」
「ええ。……また、会社で会いましょう」
俺は立ち上がり、荷物をまとめた。
レオのキャリーバッグ、俺の着替えが入った鞄。
部屋は綺麗に片付いている。
俺たちが来る前よりも、ずっと居心地の良い空間になったはずだ。
「レオ、帰るぞ。服、脱ごうな」
俺が手を伸ばすと、李雪はレオを抱きしめたまま、首を横に振った。
「……このまま」
「え?」
「この服、あげるわ。レオくんへのプレゼント」
彼女は少し拗ねたように言った。
「私が持ってても意味ないし。……それに、似合ってるから」
「……ありがとうございます。レオも喜びます」
俺は苦笑して礼を言った。
レオはピカチュウのまま、俺の腕の中に移動した。
李雪の温もりが、黄色い生地に残っている。
玄関まで、彼女が見送りに来てくれた。
広い大理石のホール。
来た時よりも、この場所が広く、そして冷たく感じる。
「……じゃあ、お世話になりました」
俺は靴を履き、ドアノブに手をかけた。
「……待って」
背後から、彼女の声がした。
振り返ると、彼女は何かを握りしめた手を、胸元に当てていた。
視線は床に落ちている。
「……どうかしましたか?」
「……これ」
彼女は一歩近づき、握りしめていたものを俺に差し出した。
小さな金属の塊。
銀色に光る、鍵だった。
「……鍵?」
「……合鍵よ」
彼女は顔を逸らしたまま、早口で言った。
「スペアキー。……持っておいて」
俺は驚きで言葉を失った。
合鍵。
それは、単なる物理的なアクセス権ではない。
相手の生活、プライバシー、そして心の中に踏み込むことを許される、最大の信頼の証だ。
まだ「付き合おう」という言葉さえ交わしていない俺たちが、それを持っていいのだろうか。
「……いいんですか? 俺なんかが」
俺が躊躇うと、彼女は眉をひそめて、俺を睨み上げた。
その目は潤んでいるが、強い意志が宿っていた。
「……勘違いしないでよね」
彼女は言い訳をするように、語気を強めた。
「これは、レオくんのためよ」
「レオ?」
「そうよ。……このマンションはペット可だし、防音もしっかりしてるから、レオくんも過ごしやすいでしょ?」
彼女はレオの頭をツンと突いた。
「貴方の家だと、留守番中に吠えたりしたら近所迷惑かもしれないし。……それに、また何かあった時、避難場所が必要じゃない」
「……まあ、確かに」
「だから、いつでも連れてこれるように。……いちいちオートロックを開けたり、私が在宅か確認するのは面倒でしょう? だから、渡すの」
完璧な理論武装だ。
だが、その論理の隙間から、「いつでも来てほしい」という本音がダダ漏れになっている。
レオのため、と言いつつ、彼女自身が寂しさを埋めるために俺を求めてくれているのだ。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼女の不器用な愛情表現。
それを拒む理由など、どこにもない。
「……分かりました」
俺はレオを片手で抱き直し、空いた手で鍵を受け取った。
ずしりと重い。
金属の冷たさと、彼女の体温が混じり合っている。
それは、「責任」の重さであり、同時に「選ばれた」という喜びの重さでもあった。
「大切にします。……師匠への信頼の証として」
「……ふん。無くしたら承知しないわよ」
彼女はフイッと顔を背けたが、その耳は真っ赤だった。
「それと」
彼女はボソリと付け加えた。
「……冷蔵庫、空っぽになっちゃったから。また今度、補充しに来なさいよ」
「……承知しました。コンシェルジュの務めですから」
俺は深く頷いた。
それは、「また来る」という約束であり、この生活がこれからも続くという宣言だった。
ドアを開ける。
夕暮れの風が吹き込んできた。
廊下の向こうには、東京の街並みが広がっている。
「行ってきます、迷い猫さん」
「……行ってらっしゃい」
彼女の声に見送られ、俺は部屋を出た。
ドアが閉まるカチャリという音が、新しい契約の締結音のように響いた。
エレベーターを待ちながら、俺は掌の中の鍵を握りしめた。
これは、単なるスペアキーではない。
「氷の女帝」の心の扉を開く、世界でたった一つの鍵だ。
腕の中のレオが、不思議そうに俺の顔を見上げている。
ピカチュウのフードが少しズレていた。
「……お前のおかげだな、レオ」
俺はフードを直してやりながら、苦笑した。
この小さな共犯者がいなければ、ここまで早く距離が縮まることはなかっただろう。
マンションを出ると、空には一番星が光っていた。
明日からまた、忙しい一週間が始まる。
だが、今の俺には「帰るべき場所」が二つある。
自分の家と、彼女の家。
その事実だけで、どんな激務も乗り越えられる気がした。
俺は鍵をポケットの奥深くにしまい、レオと共に軽やかに歩き出した。
次に会うのは、明日の会社だ。
そこで俺たちは、また「上司と部下」の仮面を被る。
けれど、その仮面の下で繋がっている秘密の糸は、もう誰にも断ち切れないほど太く、強くなっているのだ。




