第25話 台風の夜に
大型の台風が関東に接近しているというニュースは、数日前から天気予報で繰り返されていた。
だが、その日の朝の時点では、まだ雨も風もそれほど強くはなかった。
俺は、念には念を入れて、愛犬のレオを会社近くのペットホテルに預けてから出社することにした。
もし電車が止まって帰れなくなった時、家にレオを一匹で残しておくのはあまりに心配だったからだ。
「……くぅん?」
預ける際、レオは不思議そうな顔で俺を見上げていた。
生後4ヶ月を迎えた彼は、我が家に来た当初よりも体つきがしっかりとし、独自の「くつろぎスタイル」を確立している。
特にお気に入りなのが、トイレトレーの「ふち」だ。
なぜか彼は、ふかふかのベッドではなく、プラスチックのトイレのふちに顎を乗せ、そこを枕にして寝るのが好きなのだ。硬くないのだろうかと思うが、その不器用な寝顔を見ていると、仕事の疲れも吹き飛ぶ。
そしてもう一つ、彼が夢中になっているのが「ゴムボール」だ。
100円ショップで買った安物だが、彼にとっては宝石以上の価値があるらしい。
俺がボールを投げると、短い足をフル回転させて猛ダッシュし、フローリングでドリフトしながらボールをキャッチする。そして「どうだ!」と言わんばかりのドヤ顔で持ってくるのだ。
「……いい子にしてろよ。パパは、台風と戦ってくるからな」
ガラス越しに尻尾を振るレオに別れを告げ、俺は戦場へと向かった。
午後15時。
窓の外は、すでに暴風雨となっていた。
横殴りの雨が窓ガラスを叩きつけ、風の音が唸りを上げている。
「全社員に告ぐ。16時をもって業務を終了し、速やかに帰宅すること」
社内放送が流れ、フロアがざわめき立つ。
電車が止まる前に帰そうという判断だ。
営業二課のメンバーも、慌ただしくPCをシャットダウンし始めた。
「橋本。……貴方はどうするの?」
李雪課長が、デスクの片付けをしながら声をかけてきた。
彼女の表情は冷静だが、その目には隠しきれない不安の色がある。
「俺は、レオを迎えに行ってから帰ります。会社近くに預けてあるので」
「そう。……気をつけてね」
彼女はそれだけ言うと、鞄を持って立ち上がった。
俺たちは目配せをした。
『今夜のコンビニは中止ですね』という、無言の合図だ。
この嵐では、さすがに「聖域」に集まるのは不可能だ。
俺は会社を出て、暴風雨の中をペットホテルへと走った。
傘など役に立たない。レインコートを着ていても、横からの雨でスーツはずぶ濡れだ。
ホテルに着くと、レオはスタッフのお姉さんに遊んでもらってご機嫌だったが、俺の顔を見ると「遅いぞ!」とばかりにワンワンと吠えた。
「ごめんな。……さあ、帰るぞ」
俺はレオをキャリーバッグに入れ、しっかりと抱きかかえて外に出た。
だが、そこで絶望的な光景を目の当たりにする。
駅のシャッターが、閉まっていた。
「……マジか」
スマホで運行情報を確認する。
『全線運転見合わせ』。
再開の目処は立っていない。タクシー乗り場には長蛇の列ができており、とても乗れそうにない。
ホテルに戻ろうにも、当日の宿泊枠は満室だと言われてしまった。
俺は途方に暮れた。
雨風は強まる一方だ。
バッグの中で、レオが不安そうに「きゅぅ……」と鳴いている。
このまま路上にいるわけにはいかない。どこか雨風をしのげる場所を探さなくては。
その時、ポケットの中のスマホが震えた。
画面には『迷い猫』の文字。
『今、どこ?』
俺は濡れた手で必死に文字を打つ。
『駅前です。電車が止まって、詰みました』
すぐに返信が来た。
『そこから動かないで。迎えに行くわ』
え?
俺が呆気にとられていると、数分もしないうちに、暴風雨の向こうから一台の黒塗りのタクシーが滑り込んできた。
後部座席の窓が開き、そこから李雪が顔を出した。
「師匠! 乗って!」
「李さん!?」
「早く! レオくんが濡れちゃうでしょ!」
彼女に怒鳴られ、俺は慌ててタクシーに乗り込んだ。
ドアが閉まると、車内は静寂に包まれた。
冷え切った体に、暖房の風が心地よい。
「……助かりました。でも、どうしてここに?」
「私のマンション、ここから近いのよ。タクシーならワンメーター。……たまたま捕まえられたから、貴方を拾ってあげようと思って」
彼女はタオルを俺に投げ渡しながら、ぶっきらぼうに言った。
その耳が赤いのは、暖房のせいだけではないだろう。
わざわざ俺を探して、来てくれたのだ。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばないわ。……レオくんは?」
俺はバッグのメッシュ窓を開けた。
中からレオが顔を出し、李雪を見て「わん!」と挨拶した。
「よかった、元気そうね」
彼女は目を細めて、指先でレオの鼻を撫でた。
「運転手さん、お願いします」
タクシーは雨の中を走り出した。
行き先は、李雪のマンション。
つまり、俺たちは今夜、同じ屋根の下で過ごすことになる。
同棲。
その言葉が頭をよぎり、俺は無駄に心拍数を上げた。
数分後。
俺たちは彼女の住む高級タワーマンションのエントランスにいた。
オートロックが解除され、エレベーターで最上階へ。
さすがは「氷の女帝」。住んでいる場所も格が違う。
「……狭いけど、どうぞ」
彼女は玄関のドアを開けた。
俺はレオを抱えたまま、緊張して足を踏み入れた。
そこには、広々とした大理石の玄関ホールが広がっていた。
「お邪魔します。……うわ、広いですね」
「リビングへどうぞ。……あ、ちょっと待って!」
彼女が突然、声を上げて俺の前を塞いだ。
「な、何ですか?」
「……その、心の準備をしておいてほしいの」
彼女は顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。
「私、家では……その、オフモード全開だから。……幻滅しないでね?」
「今更ですよ。ジャージ姿も見てるのに」
俺は笑って、彼女の横をすり抜けてリビングのドアを開けた。
そして、絶句した。
「…………これは」
そこは、戦場だった。
いや、遺跡発掘現場と言った方が近いかもしれない。
広大なリビングの床が見えない。
脱ぎ捨てられた服、読みかけの雑誌、通販のダンボール、空になったペットボトル、そして謎の健康器具。
それらが地層のように積み重なり、足の踏み場もない状態になっている。
高級家具のソファは、洗濯物の山に埋もれていた。
「……魔窟、ですね」
俺が正直な感想を漏らすと、李雪は両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「うぅ……見ないで……! 忙しかったのよ! 今週は特に!」
「……まあ、分かりますよ。貴方の仕事量は尋常じゃないですから」
俺は苦笑しながら、とりあえずレオのキャリーバッグを置けるスペースを確保した。
レオを外に出すと、彼は初めて見る「障害物競走」のような部屋に大興奮し、尻尾を振って探検を始めた。
洗濯物の山にダイブし、脱ぎ捨てられたストッキングを引っ張り回す。
「ああっ! それはダメ! 高かったのに!」
李雪が悲鳴を上げてレオを追いかける。
カオスだ。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
完璧に見える彼女の、最大の欠点。
それを見せてもらえたことが、なぜか嬉しかった。
「……さて。台風が過ぎるまで、お世話になります」
俺は腕まくりをした。
「宿代代わりに、少し片付けさせてもらっても?」
「……お願いします」
彼女は消え入りそうな声で答えた。
そこからは、橋本一郎の「家事マエストロ」としての本領発揮だった。
まずはゴミの分別。ペットボトルと空き缶を袋にまとめる。
次に、服の回収。洗濯機へ放り込み、乾燥までセットする。
雑誌や本はジャンルごとに積み上げ、ダンボールは解体して束ねる。
俺が動くたびに、床の面積が広がっていく。
「す、すご……。魔法みたい」
李雪はソファの端っこに座り、レオを膝に乗せて、俺の働きぶりを呆然と眺めている。
レオも「パパすげー」という顔で見ている。
1時間後。
リビングは見違えるように片付いた。
モデルルームのように、とはいかないが、少なくとも人間が生活できる空間にはなった。
「ふぅ。……こんなもんでしょう」
俺が汗を拭うと、李雪が申し訳なさそうにタオルと水を持ってきた。
「……ごめんなさい。休ませるつもりだったのに、働かせちゃって」
「いい運動になりましたよ。……それに、俺たちの『巣』は快適な方がいいでしょう?」
俺が言うと、彼女は「巣……」と呟いて、顔を赤らめた。
「……そうね。ありがとう」
外はまだ激しい雨風が吹き荒れている。
窓ガラスがガタガタと鳴るたびに、レオがビクッとして李雪の懐に潜り込む。
彼女は優しくレオを撫でながら、俺を見た。
「……お腹、空いたわね」
「そうですね。……冷蔵庫、借りてもいいですか?」
「ええ。……と言っても、水とビールと調味料くらいしかないけど」
俺はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
確かに、食材と呼べるものはほとんどない。
あるのは、卵、使いかけのベーコン、そして冷凍庫にうどんが二玉。
「……十分です」
俺はフライパンを取り出した。
今夜のメニューは、『カルボナーラうどん』だ。
ベーコンをカリカリになるまで炒め、そこへ解凍したうどんを投入。
ボウルに卵、粉チーズ、黒胡椒を混ぜ合わせる。
火を止めたフライパンに卵液を流し込み、予熱でとろりと絡める。
ダマにならないよう、手早く混ぜるのがコツだ。
「完成」
皿に盛り付け、さらに黒胡椒をたっぷりと振る。
シンプルだが、濃厚で温かい一品。
俺たちは片付いたばかりのローテーブルで、向かい合って座った。
「いただきます」
李雪がうどんを啜る。
モチモチの麺に、濃厚な卵とチーズが絡みつく。
「……んっ。美味しい……」
彼女が幸せそうに目を細める。
俺も自分の分を食べながら、ビールを開けた。
「……なんか、不思議ね」
彼女が言った。
「こうして、私の部屋で、貴方が作ったご飯を食べてるなんて。……夢みたい」
「悪夢じゃなくて良かったですよ」
「もう! 茶化さないでよ!」
彼女は笑って、足元のレオにベーコンの欠片を少しだけお裾分けした。
レオは嬉しそうにそれを平らげ、満足してカーペットの上で丸くなった。
そして、器用に前足を揃え、その上に顎を乗せて寝る体勢に入る。
そこにはトイレトレーのふちはないが、どうやらこの部屋の空気が気に入ったらしい。
俺たちは、雨音を聞きながら、静かな夜を過ごした。
テレビもつけず、ただ二人と一匹の呼吸音だけが響く空間。
これが、「同棲」というものなのだろうか。
会社での関係も、深夜の密会も超えて、生活そのものを共有する感覚。
それは思った以上に心地よく、そして自然だった。
「……ねえ、師匠」
李雪がとろんとした目で俺を見た。
アルコールと満腹感、そして安心感で、眠くなっているようだ。
「……ん?」
「……明日は土曜日よ。……ゆっくりしていってね」
その言葉の意味を理解して、俺はドキリとした。
だが、彼女はそれ以上何も言わず、ソファに横になって目を閉じてしまった。
無防備な寝顔。
俺はブランケットを彼女にかけてやり、床で眠るレオの隣に座り込んだ。
嵐の夜。
俺たちの関係は、また一つ、戻れないラインを越えた気がする。
でも、後悔はなかった。
この温かい空間こそが、俺がずっと探していた「帰る場所」なのかもしれない。
俺は眠る二人の「猫と犬」を見守りながら、静かにビールの残りを飲み干した。




