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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第3章:社内抗争とヒロイン包囲網

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第21話 観測者のスケッチブック

 一週間の激務を終えた週末の土曜日。

 久しぶりに雲ひとつなく晴れ渡った高い空の下、俺は、自宅近くの広い公園で繰り広げられる「野生の王国」の生存競争を、微笑ましく目撃していた。


「……グルルルゥ……!」


 低く、いっちょまえな唸り声を上げているのは、我が家の新しい家族である愛犬、豆柴のレオだ。

 生後四ヶ月を迎え、コロコロとした毛玉から少しだけ犬らしいしっかりとした体つきになってきた彼は今、青々とした芝生の上で限界まで姿勢を低くし、狩りをする猛獣のようなほふく前進の体勢をとっている。

 その真っ直ぐな視線の先にあるのは――のんきに地面を歩いている数羽の平和の象徴、鳩だ。


 彼らはレオの殺気など全く意に介さず、ポッポと首を前後に振りながら地面をつついて餌を探している。

 レオは、その油断しきった背後から音もなく忍び寄る、一流の暗殺者のつもりらしい。

 短い四肢を力強く踏ん張り、短い尻尾のついたお尻をプリプリと左右に振って、飛びかかるタイミングを真剣に計っている。

 ツヤツヤの黒い毛並みに浮かぶ、キリッとした麻呂眉が、その真剣すぎる表情をさらにコミカルに見せていた。


「……いけっ、レオ! 今だ!」


 俺がリードを緩め、小声でゴーサインを出した、まさにその瞬間。


「ワンッ!!」


 レオが、圧縮されたバネが弾けるように飛び出した。

 小さな黒い塊が、緑の芝生の上を猛スピードで疾走する。

 その速度と瞬発力は、子犬にしてはなかなかのものだ。

 だが、悲しいかな。相手は三次元の空間――空を飛ぶことができる生き物である。


 バサバサバサッ!


 鳩たちは直前まで知らんぷりを決め込んでいたくせに、レオの鼻先が羽に触れるか触れないかというギリギリの瞬間に、バカにするように優雅に空へと飛び立った。

 目標を失ったレオは勢い余って、鳩がいた場所に頭からダイブするように突っ込み、芝生の上でクルンと綺麗に一回転した。


「……きゅぅ?」


 レオはむくりと立ち上がり、頭に芝生の切れ端をつけたままで、キョロキョロと不思議そうに周囲を見回した。

 そして、空高く舞い上がって小さくなっていく鳩たちを見上げ、「解せぬ」とでも言いたげな顔でコテンと首を傾げる。


「惜しかったな、レオ。アプローチもスピードも、作戦としては完璧だったぞ」


 俺が慰めるように声をかけると、彼は「キャン!」と一言甲高く鳴いて、ダダダッと俺の足元に駆け寄ってきた。

 そして、俺のスニーカーの靴紐をガジガジと力任せに噛み始める。

 どうやら、初めての狩りの失敗の八つ当たりらしい。


「痛い痛い。靴紐がちぎれる。……ほら、そろそろ帰るぞ。お腹も空いたし、美味しいご飯にするか?」


 俺が「ご飯」という単語を強調してリードを引くと、レオはパッと顔を輝かせ、今度は自宅のマンションに向かって猛ダッシュを始めた。

 切り替えが早すぎる。

 その愛らしいプリプリとした後ろ姿を見ながら、俺はどうしても頬が緩むのを止められなかった。

 平和だ。

 平日の神経をすり減らす激務や、夜の秘密の会合が嘘のような、穏やかで光に満ちた休日。


 だが、俺の「もう一つの本当の一日」は、遊び疲れたレオが深い眠りについた、静かな深夜から始まるのだ。


★★★★★★★★★★★


 深夜0時15分。

 俺はいつものコンビニエンスストアに併設された明るいテラス席で、いつもの「彼女」と合流していた。

 今日の李雪課長は、お決まりのえんじ色の芋ジャージではなく、少し大きめのグレーのスウェットに、達筆な文字で『一期一会』とプリントされたTシャツというスタイルだ。

 週末の夜ということもあってか、彼女の全身から発せられる空気はいつもよりずっとリラックスしており、分厚いメガネの奥の表情も驚くほど柔らかい。


「こんばんは、師匠。……今日はワンちゃん、元気だった?」


 挨拶もそこそこに、開口一番、彼女が聞いてきたのは俺の体調ではなく、愛犬レオのことだった。

 以前、スマホで写真を見せて以来、彼女はすっかりあの小さな黒い毛玉の隠れファンになっている。


「ああ。今日は昼間、公園で鳩を相手に本気の狩りをして格闘してたよ。結果は全敗だったけどな」


 俺は『夜食契約・改』に基づいた対等なタメ口で、笑いながら答えた。


「ふふっ。目に浮かぶわ。……動画、ちゃんと撮ってある?」

「バッチリ撮ってあるぞ。あとでメッセージアプリに送っておくよ」

「約束よ。……で、今日の私のオーダーは?」


 彼女は、餌を待つ猫のように期待に満ちた目で俺を見上げる。

 今日は会社も休みで、特に厄介なトラブルもなく、穏やかな一日だったらしい。

 ならば、今日のメニューも胃袋を満たすだけのものではなく、少し大人の遊び心と余裕のあるものがいいだろう。


「今日は、『深夜の美術館』といこう」

「……美術館?」


 俺は不思議そうな顔をする彼女を連れて、いつものスナック菓子やカップ麺のコーナーではなく、輸入食品や少し高めのワインのつまみが置いてある棚へと向かった。

 手に取ったのは、パッケージが海外製でお洒落な『黒トリュフ風味の厚切りポテトチップス』と、瓶入りの『種抜きグリーンオリーブ』、そしてチルドの『カマンベールチーズ』だ。


「これらを、ただ袋を開けてそのまま食べるんじゃなくて、少し気取って盛り付けるんだ」


 俺はさらに、日用品コーナーから少し丈夫な紙皿と、プラスチック製のワイングラスをカゴに入れた。

 合わせるドリンクは、コンビニで買える中で最もボディのしっかりした、チリ産のフルボディの『赤ワイン』。


「外のテラス席を、即席のオープンバルにするんだ。……たまには、こういう洒落たのもいいだろ?」

「……確かにお洒落ね。スウェット姿でやるには少しハードルが高そうだけど」

「味わう中身が本物なら、格好なんて関係ないさ」


 俺が言うと、彼女は「はいはい、カッコいいコンシェルジュさん」と悪戯っぽく笑って、カゴをレジへと運んだ。

 

 レジカウンターには、いつものアンニュイな店員――長谷川さんが立っていた。

 俺は彼女に軽く会釈をし、テラス席で少し長居してワインを飲むための「場所代」として、食後のコーヒーなども追加して会計を頼んだ。

 長谷川さんは、俺たちが置いたカゴの中身のラインナップを見て、ほう、と感心したように綺麗な眉を上げた。


「……今夜は随分と、シックで大人な装いですね。マエストロ」


 彼女は手際よく商品のバーコードをスキャンしながら、静かな、よく通るハスキーな声で言った。

 その深い視線は、俺と李雪課長の間をゆっくりと、何かを確かめるように行き来する。

 値踏みするような、それでいてどこか面白がっているような、親愛の情を含んだ不思議な瞳だ。


「ああ。たまには趣向を変えて、優雅にいってみようかと思ってね」

「いいと思います。……お二人が今夜醸し出している雰囲気も、とても色が綺麗ですから」


 彼女は相変わらず意味深なことを呟き、俺がスマホで会計を済ませた。

 そして、俺が袋を受け取って立ち去ろうとした、その時。

 長谷川さんは「少々お待ちを」と俺たちを制止し、レジカウンターの下から、少し年季の入った黒い表紙のスケッチブックを取り出した。


「……あの。もし、お時間に少し余裕があればですが」


 普段は何事にも無関心で気だるげな彼女が、少しだけ照れくさそうに、白い頬をポリポリと掻いた。


「これ、見ていただけませんか?」

「スケッチブック?」

「はい。……以前、お二人のことを『いい被写体だ』と言ったのを覚えていますか?」


 俺と李雪課長は顔を見合わせた。

 あの時、確かに彼女は俺たちを「観察対象」として見ているような発言をしていた。


「ああ。見せてくれ」


 俺が頷くと、長谷川さんはスケッチブックをパラパラと捲り、あるページを開いてカウンターの上にそっと置いた。

 そこには、柔らかい鉛筆のタッチと、淡い水彩で描かれた、二人の男女の姿があった。


「……これ」


 俺は息を呑んだ。

 描かれている風景は、このコンビニのイートインコーナーだ。

 テーブルを挟んで向かい合う、背の高く肩幅の広い大柄な男と、メガネをかけた小柄な女。

 男はネクタイを外し、シャツの胸元をラフに開け、野暮ったいメガネを外して背筋を真っ直ぐに伸ばした精悍な「オフモード」の姿で、温かい眼差しで目の前の女性を見て笑っている。

 女は少し不格好なジャージ姿で、スプーンを口に運びながら、すべての警戒心を解いたように幸せそうに目を細めている。アフォガートを食べたあの夜の光景だろうか。


 決して写真のように細部までリアルな写実的な絵ではない。

 線は少しラフで、色彩もどこか幻想的で淡い。

 だが、そこには写真以上にリアルで生々しい「空気感」が見事に閉じ込められていた。

 二人の間に流れる、穏やかで、親密で、そして絶対に誰にも邪魔できないような、甘い秘密の気配。

 互いに正体を知りながらも、あえて踏み込みすぎない、ギリギリの心地よい距離感。

 それが、絵の中から匂い立つように、ありありと伝わってくるのだ。


「……ッ!!」


 その瞬間、俺の隣で絵を見ていた李雪課長が、悲鳴のような息を呑み、血相を変えた。

 彼女の全身の筋肉が硬直し、限界まで目を見開いている。


「な、なんてものを描いてるのよ……っ!!」


 彼女はカウンターをバンと叩き、分厚いメガネの奥の瞳を震わせた。


「わ、私が、こんな限界のジャージ姿で、しかもこんなだらしなく笑ってカップ麺か何かを食べてる姿を……明確な証拠として残してるなんて! もしこれが社内の人間の目に触れたら、私のキャリアは終わるわ! 完全に社会的に死ぬのよ!?」

「落ち着け、迷い猫さん!」


 パニックに陥りかけた彼女の細い肩を、俺は慌てて掴んだ。

 無理もない。自身の「氷の女帝」としての絶対的な威厳を守るためなら、前田奈緒美という爆弾すらも取り込んで密約を結ぶほどの警戒心の塊なのだ。自分の最大の弱点であるオフの姿が、第三者の手によって「絵」という物理的な証拠として残されていたのだから、動揺しないはずがない。


「長谷川さん! これは、一体どういうつもりなんだ」


 俺が少し鋭い声で問うと、長谷川さんは全く悪びれる様子もなく、むしろ困ったように微笑んだ。


「申し訳ありません。あまりにもお二人の醸し出す空気の色が綺麗で……つい、レジから見ていて筆が走ってしまいました。でも、ご安心ください」


 長谷川さんはスケッチブックの上に手を置き、真っ直ぐに李雪課長の目を見た。


「このスケッチブックは私の個人的な宝物です。店長にも、他の誰にも、絶対に見せたりしません。これは、私の中だけの秘密のコレクションですから。……勝手に描いてしまって、本当にごめんなさい」

「……誰にも、見せない……?」

「はい。絶対に」


 長谷川さんの真摯で静かな声に、李雪課長の荒い息遣いが少しずつ落ち着いていく。

 俺も彼女の背中を優しくポンポンと叩きながら、低い声で耳打ちした。


「大丈夫だ。彼女は俺たちの『名前のない関係』を、最初からずっとこの場所で見守ってくれていた『秘密の証人』みたいなものだ。決して、俺たちを害するような真似はしないさ」

「……」


 李雪課長は俺の言葉に小さく頷き、深く、深く安堵の息を吐き出した。

 そして、警戒心が解けた目でもう一度、愛おしそうに絵に視線を落とした。

 分厚いメガネの奥の瞳が、優しく揺れている。


「……本当に、誰にも見せないでね。でも」


 彼女は少しだけ頬を赤らめ、長谷川さんに向かって小さな声で言った。


「……嫌いじゃないわ。この絵」


 それは、プライドが高く警戒心の強い彼女なりの、最大限の賛辞だった。

 長谷川さんは嬉しそうに目を細め、スケッチブックをパタンと閉じた。


「ありがとうございます。……では、この絵は私の宝物として、大事に厳重に保管しておきますね」

「ああ。俺たちにとっても、最高の記念になったよ」


 俺たちは長谷川さんに深く礼を言い、店を出た。

 自動ドアが閉まる背後で、彼女がまた新しいページを開き、今夜の俺たちの姿を鉛筆で描き始める気配がした。


★★★★★★★★★★★


 防犯カメラに見守られた、明るく安全なテラス席。

 俺たちは用意した紙皿にカマンベールチーズとオリーブ、トリュフポテトをお洒落に盛り付け、プラスチックのグラスに注いだ赤ワインで静かに乾杯した。

 コンビニの食材を並べただけと侮るなかれ。トリュフの芳醇な香りと、重厚な赤ワインのタンニンが、深夜のテラスを高級バルのような洗練された空間へと変えてくれる。


「……ねえ、師匠」


 李雪課長がワインを一口飲み、澄んだ夜空を見上げて言った。


「ん?」

「私、本当にあんな顔してたのね」

「どんな顔だ?」

「……すべての鎧を下ろして、安心しきってる顔。会社では絶対に見せない、だらしなく緩みきった顔よ」


 彼女は自嘲するように苦笑した。


「自分でも気づかなかったわ。貴方の前だと、私、あんなに無防備になってたなんて」

「……俺もだよ」


 俺はトリュフポテトを齧りながら、夜空に向かって答えた。

 絵の中の俺もまた、会社での冴えない部下の演技でもなく、頼れるコンシェルジュの仮面でもない、ただの穏やかで優しい「一人の男」の顔をしていた。

 彼女の前でだけ見せる、嘘偽りのない素顔の自分。


「長谷川さんには、俺たちの関係性も、空気感も、全部お見通しってわけだな」

「そうね。……彼女は、名前のない関係を続けている俺たちの『証人』かもしれないわね」

「証人……か」


 李雪課長はその言葉を口の中で反芻し、それからふふっと、嬉しそうに笑った。


「悪くないわね。……あんなふうに、誰か一人にだけ、秘密のまま見守られているっていうのも、案外心地いいものだわ」


 彼女はワイングラスを傾け、俺の広い肩に、自分の小さな頭をコトンと預けてきた。

 赤ワインの芳醇な香りと、彼女の髪から漂うシャンプーの甘い香り。

 俺は動じずに、その柔らかな重みをしっかりと受け止める。


 あの日、『夜食契約・改』を結び、互いの正体を認め合ってから、俺たちの距離は確実に、そして劇的に変わった。

 隠すものがなくなった分、より深く、より自然に、こうして寄り添えるようになったのだ。

 長谷川さんの描いた絵は、そんな俺たちの心地よい変化を、鮮やかに切り取ってくれていた。


「……ねえ、師匠」


 不意に、俺の肩に頭を乗せたまま、彼女が甘えるような声で言った。


「なんだ?」

「今度、レオくんに会わせてよ」

「え?」

「写真や動画だけじゃ、もう物足りないわ。……あの子のフワフワな毛並みを触って、本物に会ってみたいの」


 彼女は、俺の肩から少しだけ顔を上げ、上目遣いで俺の目を見る。


「……駄目?」


 こんな至近距離で、そんな無防備な顔で頼まれて、断れる男がこの世にいるはずがない。

 それに、人懐っこいレオもきっと、この不器用で優しい「迷い猫」のことが、すぐに気に入るはずだ。


「……いいぞ。今度の日曜日、昼間に俺の家の近くの広い公園でどうだ? あそこなら、一緒に散歩もできるし、安全だ」

「本当!? 約束よ!」


 彼女はパッと顔を輝かせ、肩から離れて子供のように無邪気に喜んだ。

 その笑顔は、さっきのスケッチブックの中に描かれていた、あの幸せそうな表情そのものだった。


 深夜のテラス席。

 赤ワインとチーズ、そして絶えることのない二人の笑い声。

 カウンター越しの観測者に見守られながら、俺たちの甘い夜は更けていく。

 次の日曜日、暗い深夜の隠れ家ではなく、明るい昼間の太陽の光の下で会う約束という、新しい「希望」を胸に抱いて。

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