第2話 氷の女帝は機嫌が悪い
翌朝、俺は自宅の洗面台の鏡の前で、入念な「武装解除」を行っていた。
まず、寝癖など一切ついていない短めに切り揃えられた髪にワックスを揉み込み、わざと無造作に乱す。そして長めに残している前髪を、目にかかるくらいまで重たく下ろす。これで、少しばかり鋭すぎる俺の眼光は完全に隠れる。
次に、度の入っていない黒縁メガネを装着する。フレームが太く、野暮ったいデザインのものだ。
最後に、体にフィットするオーダーメイドのスーツ……ではなく、量販店で買った吊るしの安物スーツにゆっくりと袖を通す。サイズはあえて本来の自分の体型よりワンサイズ上のものを選んでいる。身長188センチ、体重95キロの筋肉の鎧を隠すには、これくらいダボッとしていないと服の上からでも大胸筋や広背筋のラインが浮き出てしまい、周囲に無用な威圧感を与えてしまうからだ。
「……よし」
鏡に映るのは、どこにでもいる冴えない、少し猫背で覇気のない大柄なサラリーマン。
これが、中堅商社・営業二課の主任補佐である俺、橋本一郎の仮の姿だ。
映画『スーパーマン』の主人公、クラーク・ケントよろしく、俺はこの緻密に計算された擬態に絶対の自信を持っている。目立たず、波風を立てず、平穏な社畜ライフを送るための必須スキルである。
俺は深く息を吐き、意識して背中を丸め、トボトボとした歩き方で家を出た。
今日もまた、「氷の女帝」が支配する過酷な戦場への出勤だ。
◆ ◆ ◆
13時。
昼休憩の気配が完全に消え去り、オフィスに再び重苦しい緊張感が張り詰める時間帯。
俺は営業二課のフロアの端にある小さなミーティングスペースで、直属の上司と向かい合っていた。
「橋本主任補佐。昨夜指示した来週の上海支社との会議資料の件だけれど、プレビューを始めるわ」
「はい、よろしくお願いいたします」
ノートパソコンの画面を見つめる李雪課長の横顔は、まるで精巧な氷の彫刻のように美しく、そして冷たかった。
一点の曇りもない完璧なメイク、シルクのように艶やかな巻き髪。ハイブランドの細身のスーツを着こなす彼女からは、一切の隙というものが感じられない。
今朝の出社時、すれ違いざまに彼女から微かに漂った「甘じょっぱい豚汁の出汁の匂い」。
その事実が、昨夜の深夜のコンビニにいた「限界ポンコツジャージ姿の女性」が彼女であることを俺に確信させていた。
しかし、目の前で資料の数値を冷徹にチェックしていく彼女の姿からは、昨夜の弱々しさなど微塵も感じ取れない。
「……ここの市場予測のグラフ、少し甘いわね。競合他社の第2四半期の動向が反映されていないわ。昨年のデータだけで推移を語るのはロジックとして不十分よ」
「申し訳ありません。すぐに最新のレポートを基に数値を引き直します」
「ええ、お願い。それと、スライドの4枚目。専門用語の注釈が冗長ね。現地の役員クラスが相手なのだから、もっと簡潔でインパクトのある表現にブラッシュアップして頂戴」
指摘は極めて的確で、反論の余地がない。
彼女は俺の顔を見ることもなく、淡々と、しかし容赦なく修正点を洗い出していく。その声のトーンには、昨夜の出来事を匂わせるような感情の揺らぎは一切混じっていなかった。
(……やはり、気づいていないか)
俺は内心で小さく安堵の息を吐いた。
彼女のあの分厚い瓶底メガネは、おそらく極度の近視と乱視を矯正するためのものだろう。夜の薄暗いコンビニで、しかも俺がメガネを外し、背筋を伸ばした「オフモード」の状態だったのだ。職場の冴えない部下である橋本と、深夜のコンビニで豚汁を押し付けてきた見知らぬ大男が、彼女の中で結びついていないのも無理はない。
いや、仮に薄々勘づいていたとしても、彼女のこの高すぎるプライドと完璧主義の性格を考えれば、絶対に自分から触れてくることはないだろう。
あのコンビニは、常に気を張り詰めている彼女にとって、唯一すべての鎧を脱ぎ捨てられる「聖域」なのだ。それを部下である俺が壊すわけにはいかない。
俺は決めた。
彼女が「完璧な上司の李雪」として振る舞うなら、俺も「気弱で冴えない部下の橋本」として接し続ける。そしてもし、夜のコンビニで再び会うことがあっても、それはあくまで「親切な見知らぬ他人」としての交流に留める。
それが、部下としての……いや、筋肉と栄養を愛する者としての流儀だ。
「修正は今日の18時までに。できるかしら、橋本主任補佐」
「はい、承知いたしました。すぐに取り掛かります」
俺は野暮ったいメガネの位置を押し上げ、深く頭を下げた。
◆ ◆ ◆
その日の業務も、予想通り過酷を極めた。
資料の修正作業に加え、他部署からの急な問い合わせ対応に追われ、気づけば窓の外は完全に夜の帳が下りていた。
「よし、終わった……」
パソコンの電源を落とし、壁掛け時計を見上げると、時刻は23時45分。
日付が変わる直前だ。フロアには、俺と、奥の課長席でまだモニターを睨みつけている李雪課長だけが残っていた。
「橋本主任補佐、まだ残っていたの。今日の業務はもう終わったはずよ」
「あ、申し訳ありません。少しキリのいいところまで進めておきたくて。……課長も、お疲れ様です」
「私は管理職だから残業の概念はないの。……戸締まりは私がしておくから、あなたは先に帰りなさい」
彼女はキーボードを叩く手を止めずに、冷たく言い放った。
しかし、モニターの光に照らされたその横顔には、メイクでも隠しきれない深い疲労の色が濃く滲んでいる。
昨夜の「限界OL」の正体を知ってしまった今、その強がった背中が少しだけ痛々しく感じられた。早く何か温かいものを腹に入れてやらないと、また倒れてしまうのではないか。
(……今日も、パトロールに行きますか)
俺は一礼して、静まり返ったオフィスを出た。
ビルから出ると、冷たい夜風が火照った頭をすっきりと冷やしてくれる。
俺は駅とは反対方向へ、いつものコンビニエンスストアへと足を向けた。
途中、人通りのない路地裏に入ったところで、いつものルーティンを行う。
窮屈なネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを外す。
野暮ったい黒縁メガネを外し、胸ポケットへとしまい込む。
重たく下ろしていた前髪をラフにかき上げ、一日中丸めていた背筋を天に向かってグッと伸ばす。
骨がポキポキと心地よい音を立て、188センチの高い視界が一気に戻ってくる。
これでようやく、橋本一郎の「オフモード」だ。
そして今夜からは、彼女の聖域を守るための「見知らぬ他人」という演者でもある。
コンビニの自動ドアを抜けると、深夜特有の静寂と、レジ横から漂うジャンクな揚げ物の匂いが俺を出迎えた。
さて、今夜は何でタンパク質を補給するか。
チルド弁当のコーナーへ向かおうとした、その時だった。
レジ横のホットスナックのガラスケースの前に、じっと中のチキンを凝視している小さな後ろ姿があった。
首元のヨレた漢字Tシャツに、えんじ色の芋ジャージ。ボサボサのお団子ヘア。
間違いない、李雪課長だ。
会社での隙のない姿を知っているだけに、そのあまりにも無防備な背中がたまらなく愛らしく、そして少し滑稽に見える。
彼女はガラスケースの中身と、自分の手に握りしめた小さな財布を交互に見比べて、眉間にシワを寄せて深刻そうな顔で悩んでいた。
俺は深く息を吸い込み、気配を消して彼女の隣に並び、声をかけた。あくまで「他人」として。
「……こんばんは」
彼女はビクッと大きく肩を跳ねさせ、スローモーションのようにゆっくりとこちらを振り向いた。
分厚い瓶底メガネの奥の目が、俺を下から上へと見上げる。
一瞬、不審者を見るような強い警戒心が見えたが、メガネを外して背筋を伸ばした俺の顔を確認すると、その表情がパァッと明るく、どこか安堵したように緩んだ。
まるで、迷子になっていたところを知っている人に見つけてもらえた子供のような顔だ。
「……あ。昨日の、お節介な人」
「また会いましたね。今日は何をしてるんですか?」
「……選べないの」
彼女は悔しそうに自分の唇を噛んだ。
「昨日の豚汁と塩むすびは、すごく美味しかった。胃にも優しかったわ。……でも、今日はすごく疲れていて。もっとこう、理性を吹き飛ばすような、ガツンとくるものが食べたいの。でも、どれが正解か分からない」
やはり彼女は、俺が部下の橋本だとは微塵も気づいていないようだ。
昼間はあんなに完璧で冷徹なロジックを振りかざす女帝が、深夜のコンビニではホットスナック一つまともに選べないポンコツになっている。
その圧倒的なギャップに、俺は思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
いいだろう。
ならば、この見知らぬ他人同士の茶番を、最高に美味しく楽しもうじゃないか。
俺は少し口角を上げ、ホットスナックのケースを指差した。
「なら、今日は少し冒険してみませんか?」
「冒険?」
「ええ。昨日は枯渇した体を労るためのメニューでしたが、今日はすり減った心を甘やかすためのメニューです」
俺はバックヤードから出てきた店員を呼び、ケースの中にある『Lサイズのフライドチキン』を二つ注文した。
そして彼女を伴ってパンコーナーへと歩き、『厚切りの食パン』を一袋と、チルドコーナーで『とろけるスライスチーズ』を手に取った。
「チキンと……食パン? それにチーズ?」
「ええ。このスパイシーで脂たっぷりのチキンを、食パンで挟むんです。チーズも二枚ほど一緒に。そして、家のトースターでパンの表面がカリッときつね色になるまで一気に焼き上げる」
俺は呆然としている彼女の顔を覗き込み、悪戯っぽく微笑んだ。
「深夜0時に食べる、パンの糖質とチキンの脂質、そしてチーズの塩分の暴力。……名付けて『悪魔のホットサンド』です。コーラか炭酸水と一緒に流し込めば、一週間のストレスなんて一瞬で吹き飛びますよ」
彼女が小さく息を呑むのが分かった。
ゴクリ、と喉が鳴る音が聞こえた気がした。
昼間の理性的で健康志向の「氷の女帝」なら、顔をしかめて即座に却下するだろうカロリーの暴力。
だが、目の前にいるのは、俺の愛すべき不器用な上司であり、食の快楽に飢えた一人の限界OLだ。
「……悪魔」
彼女はその物騒な単語を口の中で何度か転がし、そして、ふわりと花が咲くように笑った。
会社では絶対に見せることのない、年相応の、完全に無防備で可愛らしい笑顔だった。
その笑顔を見られただけで、俺の今日の残業の疲れなど完全に吹き飛んでしまった。
「いいわね。……私、今夜はその悪魔と契約するわ」
◆ ◆ ◆
その夜、俺たちはそれぞれの家で、全く同じ背徳のメニューを食べることになった。
俺は自宅のキッチンで、彼女はきっと近くのマンションの一室で。
トースターから漂う、チーズがとろけ、パンの表面が焦げる香ばしい匂いが部屋に充満する。
熱々のホットサンドに思い切りかぶりつくと、サクッという心地よい音と共に、ジューシーなチキンの熱い肉汁と、濃厚に溶けたチーズが口の中で暴力的に暴れまわった。
「……美味い」
深夜0時過ぎの背徳感という、何にも勝る最高のスパイス。
そして何より、「彼女も今頃、同じものを食べて同じ顔をしているのだろう」という事実が、このジャンクな味を何倍にも引き立てていた。
翌朝。
出社して課長席に座る李雪課長は、相変わらず誰も寄せ付けない絶対零度のオーラを放ち、昨日よりもさらに機嫌が悪そうに見えた。
だが、俺が作成した資料を提出するために彼女の席の横を通り過ぎた瞬間。
完璧な横顔をモニターに向けたままの彼女の赤い唇が微かに動き、誰にも聞こえないような、吐息のような声で独り言を呟くのを、俺の耳は確かに捉えた。
「……好吃」
俺は野暮ったい黒縁メガネの位置を直すフリをして、PCのモニターの陰でニヤリと笑みを深めた。
この最高の一言を聞くためなら、いくらでも冴えない部下と、見知らぬ他人のフリをしてやる。
氷の女帝と気弱な部下。
俺と彼女の、カロリーと秘密にまみれた美味しい共犯関係は、この夜から本格的に幕を開けたのだった。




