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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: U3
第2章:正体バレと秘密の共有

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17/23

第17話 午前0時のコインランドリー

 梅雨入りした東京は、朝からしとしとと雨が降り続いていた。

 湿気を帯びた夜風が、窓ガラスを叩いている。


 金曜日の深夜23時。

 俺は、自宅のキッチンで「黒いペースト」と対峙していた。

 愛犬レオは、雨の日の散歩が短かったせいか少し不満げだったが、今は遊び疲れてケージの中で丸まっている。


「さて……雨の夜には、少しクセのある味が欲しくなるな」


 俺が手に取ったのは、イギリス生まれの発酵食品『マーマイト』の瓶だ。

 ビールの醸造過程で出る酵母を主原料とした、強烈な塩味と独特の風味を持つペースト。


 「好きか嫌いか」の二択しかないと言われるこの食材を、俺は愛している。


 今夜のメニューは、『究極のマーマイト・バタートースト』だ。


 まず、食パンは厚切りの4枚切りを選ぶ。

 表面に格子状の切れ込みを入れる。こうすることで、バターとマーマイトがパンの芯まで染み込むのだ。

 トースターに入れ、まずは低温でじっくりと水分を飛ばす。

 表面が狐色になる直前で取り出す。


「ここからが勝負だ」


 熱々のパンに、室温に戻しておいた無塩バターをたっぷりと塗る。

 溶けたバターが切れ込みに吸い込まれていく。

 そして、主役の登場だ。

 ナイフの先にマーマイトを少しだけ取る。これくらいで十分だ。塗りすぎると塩辛くて食べられなくなる。

 バターの上から、薄く、均一に、フィルムを貼るように塗り広げていく。

 黄金色のバターと、漆黒のマーマイトが混ざり合い、琥珀色のマーブル模様を描く。


 仕上げに、もう一度トースターへ。

 高温で1分。

 香ばしい発酵臭と、バターの甘い香りが立ち上る。


「……完成」


 皿に乗せると、カリッと焼けた表面が艶やかに光っている。

 これに合わせるペアリングは、『シークヮーサー・ジュース』だ。

 沖縄産の原液を炭酸水で割り、氷を浮かべる。

 マーマイトの強烈な塩気とコクを、シークヮーサーの鋭い酸味と苦味が洗い流し、次の一口を誘うのだ。


「いただきます」


 俺はトーストを齧った。

 サクッ。ジュワッ。

 口の中に広がる、バターの暴力的なコクと、マーマイトの深い旨味。

 塩辛い。でも、美味い。

 味噌や醤油にも通じる発酵の風味が、日本人のDNAを刺激する。


 そこに、シークヮーサー・ソーダを流し込む。

 シュワワ……。

 柑橘の爽快感が、濃厚な後味を一瞬でリセットする。


「……最高だ」


 一人で楽しむ、通好みの夜食。

 誰にも邪魔されない至福の時間――のはずだった。


 ブーッ。ブーッ。

 テーブルの上のスマホが震えた。

 画面には『迷い猫』の文字。

 こんな時間に?


「……もしもし?」


『……師匠。助けて』


 電話の向こうから聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな彼女の声だった。


『洗濯機が……死んだわ』


 深夜24時30分。

 俺は大きなランドリーバッグを抱えた李雪と共に、コインランドリーの自動ドアをくぐった。

 外は本降りの雨だ。


「……災難でしたね」


「本当よ。回し始めた途端に『ガガガッ』って凄い音がして……水浸しよ」


 彼女は肩を落としている。

 今日の服装は、いつもの芋ジャージではなく、グレーのスウェットパーカーにロングスカートという、少しだけ「外行き」を意識した部屋着だ。

 髪も下ろしており、濡れた毛先が色っぽい。

 すっぴんに黒縁メガネをかけている。


「まあ、乾燥まで一気にできると思えば、手間が省けたと思いましょう」


 俺は手慣れた様子で洗濯機を操作し、彼女の洗濯物を放り込んだ。

 洗剤は自動投入。コースを選んで、コインを入れる。

 ゴウン……と低い音がして、ドラムが回り始めた。


「終了まで40分ですね」


「……40分。長いのね」


「待ってる間に、少し温まりましょうか」


 俺は持参した保温バッグを開いた。

 中から取り出したのは、来る途中のコンビニで買ってきた『冷凍たこ焼き』だ。

 店のレンジで温めてあるので、まだ熱々だ。

 そして、俺愛用の魔法瓶。


「……たこ焼き?」


「ただのたこ焼きじゃありません。……これを使ってください」


 俺は紙コップを二つ取り出し、魔法瓶の中身を注いだ。

 湯気と共に、ふわりと上品な香りが漂う。

 黄金色の液体。


 『白だし』の特製スープだ。昆布と鰹の出汁に、三つ葉を散らしてある。


「……お出汁?」


「はい。たこ焼きをこの出汁に浸して食べるんです。『明石焼き風』アレンジですよ」


 李雪は目を丸くし、それから嬉しそうに割り箸を割った。

 たこ焼きを一つ摘み、出汁の中にポチャンと落とす。

 ソースのかかっていないプレーンなたこ焼きが、出汁を吸ってふっくらと膨らむ。


「……いただきます」


 彼女は熱々のそれを、ハフハフしながら口に運んだ。

 とろりとした生地と、染み出した出汁の旨味。


「……んっ! 優しい……!」


 彼女が感嘆の声を漏らす。


「ソース味もいいけど、このお出汁……五臓六腑に染み渡るわね。雨で冷えた体にちょうどいい」


「でしょう? 梅雨時の重だるい夜には、こういう優しい味が一番です」


 俺も一つ食べる。

 冷凍食品とは思えない、料亭のような味わい。

 俺がさっき食べたマーマイトトーストが「攻め」の味なら、これは完全なる「癒やし」の味だ。


 俺たちはコインランドリーの長ベンチに並んで座り、雨音と洗濯機の回る音を聞きながら、ゆっくりとたこ焼きをつついた。

 店内には俺たち以外、誰もいない。

 蛍光灯の白い光と、ぐるぐると回る洗濯物。

 単調なリズムが、不思議な心地よさを生み出している。


「……ねえ、師匠」


「はい」


「なんか、こういうの……いいわね」


 彼女は出汁を少し啜り、ぽつりと言った。


「何も生産的なことをしていない時間。ただ、洗濯が終わるのを待っているだけの時間。……普段の私なら『無駄』って切り捨ててるはずなのに」


 彼女は毎日、分刻みのスケジュールで動いている。

 効率化、最適化、生産性。

 そんな言葉に追われる彼女にとって、この「空白の40分」は、本来なら耐え難い退屈なはずだ。


「無駄こそが、最高の贅沢なんですよ」


 俺は答えた。


「何もしなくていい。何も考えなくていい。……ただ、雨音を聞いて、美味しいものを食べる。それだけで十分じゃないですか」


「……そうね。貴方といると、私の価値観、どんどん崩されていくわ」


 彼女は苦笑し、そして少しだけ体を傾けてきた。

 俺の肩に、彼女の頭が触れる。

 柔らかい重み。シャンプーの香り。


 俺は動かなかった。

 受け入れるように、少しだけ背筋を伸ばす。

 これが、俺たちの新しい距離感だ。

 恋人というには静かすぎで、同僚というには近すぎる。

 名前のない、心地よい関係。


 彼女はそのまま、ウトウトし始めたようだ。

 温かい出汁と、安心できる場所が、彼女の睡魔を誘ったのだろう。

 規則的なドラムの回転音が、子守唄のように響く。


「……ねえ」


 半分夢の中のような、とろんとした声が聞こえた。


「……ん?」


「……このまま、朝まで回ってればいいのに」


 その言葉に、俺の心臓がトクンと跳ねた。

 洗濯機のことか。それとも、この時間のことを言っているのか。

 どちらにせよ、それは彼女なりの精一杯のデレだった。


「……そうですね。でも、40分は意外と長いですよ」


 俺は優しく返した。

 彼女は「ふふ」と小さく笑い、さらに深く俺に寄りかかってきた。

 俺は自分のパーカーを脱いで、彼女の膝にかけてやった。


 窓の外では、雨が降り続いている。

 世界から切り離されたような、二人だけの箱庭。

 マーマイトの刺激的な余韻はもう消え、今はただ、出汁の優しい香りと、隣の彼女の体温だけが、俺の心を満たしていた。


 洗濯が終わるブザーが鳴るまで、あと30分。

 俺は、この「何もしない贅沢」を、一秒たりとも逃さずに味わおうと決めた。

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