第16話 会議室の秘密サイン
決戦の朝は、小さな戦士との綱引きから始まった。
「……うー、うーっ! わんっ!」
リビングの床で、豆柴のレオが四肢を踏ん張り、ロープのおもちゃを必死に引っ張っている。
生後3ヶ月を過ぎ、日に日にやんちゃ盛りになってきた彼は、俺が起きるや否や「遊べ」と猛アピールしてくるのが日課だ。
「よしよし、負けないぞー」
俺がロープの端を軽く握って揺らすと、レオは小さな唸り声を上げながら、首をブンブンと振って対抗してくる。
その一生懸命な姿と、ムニムニとした肉球の感触。
黒い毛並みに浮かぶ麻呂眉のような模様が、への字になって真剣さを物語っている。
「……おっと、強いな」
わざと力を緩めてやると、レオは勢い余ってコロンと後ろに転がった。
しかしすぐに立ち上がり、勝利の雄叫び(「きゅぅん!」という高い声だが)を上げて、ロープを自分のケージへと持ち去っていく。
ドヤ顔だ。完全に「俺が巨人を倒した」という顔をしている。
「はは……元気だな、お前は」
俺は床に座り込んだまま、その愛らしい背中を見つめた。
今日は、社運を賭けた……とまでは言わないが、営業二課にとっては今期最大の山場となるプレゼンテーションの日だ。
相手は大手クライアント。失敗は許されない。
昨夜遅くまで資料を読み込み、シミュレーションを繰り返したが、やはり胃のあたりが重い。
だが、この小さな「家族」の無邪気な姿を見ていると、肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。
俺には、守るべき生活がある。
そして、帰りを待っていてくれる存在がいる。
それだけで、戦う理由は十分だ。
「行ってくるよ、レオ。……パパも頑張ってくるからな」
俺はレオの頭をひと撫でし、気合を入れてスーツに袖を通した。
鏡の前でネクタイを締め上げる。
よし。スイッチオンだ。
午後14時。
大会議室の空気は、張り詰めた弦のようにピリピリしていた。
長テーブルの向こう側には、クライアントの役員たちがズラリと並んでいる。
こちらは、営業二課の精鋭部隊。
そして、その中央に座るのは、我らが「氷の女帝」李雪課長だ。
彼女は純白のブラウスにグレーのジャケットを羽織り、完璧なメイクで武装している。
その表情は冷徹そのもの。
隣に座る俺でさえ、迂闊に話しかけられないほどの威圧感を放っている。
「……では、弊社の提案をご説明いたします」
俺は立ち上がり、スクリーンに資料を投影した。
メインスピーカーは俺だ。
説明を始める。声は震えていないはずだ。
だが、相手の役員の一人が、少し退屈そうに資料をめくる音が、やけに大きく響く。
(……反応が薄いか?)
焦りが滲む。
もっと声を張るべきか。それとも、データを強調すべきか。
思考が空回りしそうになった、その時だった。
コツン。
テーブルの下で、何かが俺の靴に当たった。
隣の李課長のヒールだ。
偶然かと思ったが、もう一度、コツンと叩かれる。
俺は説明を続けながら、視線だけで隣を盗み見た。
李課長は前を向いたまま、微動だにしない。
だが、テーブルクロスに隠れた手元――自身の膝の上あたりで、彼女の右手が動いていた。
親指を立てている。
サムズアップ。
「GJ」のサインだ。
俺は目を疑った。
あの鉄仮面の李課長が? 会議中に? こんな古典的な励ましを?
だが、その指先は力強く、迷いがない。
まるで「大丈夫。間違っていないわ」と語りかけてくるようだ。
その瞬間、俺の中にあった重たい塊が、すっと溶けていくのを感じた。
彼女が認めてくれているなら、恐れるものはない。
俺は深く息を吸い込み、相手の役員の目を見据えた。
「……特に、この物流コストの削減案については――」
声に力が戻る。
説明に熱が乗る。
役員たちが顔を上げ、スクリーンに注目し始めるのが分かった。
プレゼン終了後。
クライアントの専務が、満足そうに頷いた。
「面白い。……検討に値する提案だ」
その言葉を聞いた瞬間、隣の李課長が、俺にだけ聞こえるような小さな吐息を漏らした。
安堵のため息。
彼女は書類を整えながら、やはり俺にしか見えない角度で、もう一度小さく親指を立てて見せた。
その口元が、数ミリだけ緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。
その夜、24時15分。
俺はいつものコンビニの前で、心地よい疲労感と共に立っていた。
ネクタイを緩め、夜風に当たる。
今日の勝利の余韻が、まだ体に残っている。
ペタペタというサンダルの音。
現れたのは、えんじ色の芋ジャージに、ボサボサのお団子ヘアの彼女だ。
今日のTシャツの文字は、達筆な筆文字で『完全勝利』。
……分かりやすすぎる。
「こんばんは、師匠」
「お疲れ様です。……そのTシャツ、今日のために用意してたんですか?」
「まさか。たまたま洗濯のローテーションで回ってきただけよ」
李雪はすました顔で言い訳をするが、その足取りは明らかに軽い。
俺たちは並んで店内に入った。
レジカウンターの中には、長谷川が立っている。
彼女は俺たちの顔を見るなり、「おや」という顔をした。
「……今日は随分と、晴れやかな顔をしてますね。マエストロ」
「ええ。ちょっといいことがありまして」
「そうですか。……店内の気圧が上がってる気がします」
彼女は意味深に呟き、また手元の雑誌に目を落とした。
相変わらず、鋭い観測者だ。
俺と李雪は、サンドイッチのコーナーへ向かった。
「で、今日のオーダーは? 『完全勝利』の夜に相応しいメニューをお願い」
李雪が期待に満ちた目で俺を見上げる。
俺は少し考え、棚から一つの商品を手に取った。
「今日はこれです。『厚焼き玉子サンド』」
「……玉子サンド?」
「はい。それも、出汁がたっぷり効いた、甘めの厚焼き玉子のやつです」
俺はサンドイッチをカゴに入れ、さらに調味料コーナーへ向かった。
手にしたのは『からしマヨネーズ』のチューブ。
「この甘い玉子サンドに、からしマヨを『追い足し』します」
「……甘いのに、辛くするの?」
「ええ。勝利の美酒は甘いですが、それだけでは物足りない。……今日の会議のような、ピリッとした緊張感があってこそ、その後の甘さが引き立つんです」
俺が言うと、李雪はハッとして、それから悪戯っぽく笑った。
「……なるほど。深読みしすぎかもしれないけど、採用」
彼女は嬉しそうに頷いた。
さらに、ドリンクコーナーへ。
「合わせるのはこれです。『ほうじ茶ラテ』。……ホットで」
「お茶?」
「戦いの後の高揚感を鎮め、安眠へと誘う香りです。甘い玉子焼きとの相性も抜群ですよ」
俺たちは会計を済ませ、イートインコーナーへ……ではなく、店の外のベンチに座った。
夜風が気持ちいい。
長谷川に「店内でお熱いのは勘弁してください」という視線を送られたからではない。多分。
俺はサンドイッチのパッケージを開け、からしマヨネーズをたっぷりと塗った。
黄色い断面に、白いラインが走る。
一つを彼女に渡す。
「どうぞ」
「いただきます」
彼女は大きく口を開けてかぶりついた。
パンのふわふわ感と、厚焼き玉子のジューシーな食感。
「……ん! 甘い! ……でも、すぐに辛さが来る!」
「でしょう? そのコントラストが癖になるんです」
俺も自分の分を頬張る。
出汁の優しい甘みが口いっぱいに広がり、その直後にツンと鼻に抜ける辛子マヨネーズの刺激。
絶妙なバランスだ。
ほうじ茶ラテを一口飲むと、香ばしいミルクの風味が全てを包み込んでくれる。
「……ふぅ。生き返るわ」
李雪は幸せそうに息を吐いた。
そして、横目で俺を見て、ニヤリと笑った。
「……そういえば、師匠」
「はい」
「今日の会議。……気づいてた?」
彼女の指先が、膝の上で小さく動く。
サムズアップの形。
「……気づかないわけないでしょう。あんな大胆なことして」
「あら。誰にも見えないようにやったつもりだけど?」
「俺には見えてましたよ。……正直、驚きました。あの『氷の女帝』が、あんな人間くさい励まし方をするなんて」
俺が苦笑いして言うと、彼女は少し顔を赤らめ、そっぽを向いた。
「……仕方ないじゃない。貴方、ガチガチに緊張してたもの。見てられなかったわ」
「おかげで助かりました。……あれ、反則ですよ」
「反則?」
「ええ。あんなことされたら……誰だって惚れ直します」
俺は冗談めかして言ったつもりだった。
だが、口に出した瞬間、空気が少しだけ変わった気がした。
李雪が、驚いたようにこちらを見る。
そして、フンと鼻を鳴らし、誤魔化すようにラテを飲んだ。
「……バーカ。師匠の教えを実行しただけよ。『食事も仕事も、リラックスして楽しめ』って」
「そんなこと言いましたっけ?」
「言ったわよ。最初の頃に。……貴方のおかげで、私も少しは『柔らかく』なれたってこと」
彼女はボソリと言った。
その横顔は、街灯に照らされて優しく微笑んでいるように見えた。
俺たちはしばらく無言で、甘くて辛いサンドイッチを味わった。
心地よい沈黙。
共有する秘密と、確かな信頼関係。
会社では決して見せない素顔を、こうして曝け出し合える時間の尊さ。
「……ごちそうさま。美味しかった」
食べ終えた彼女は、満足げに手を合わせた。
そして、立ち上がり際に、俺の耳元で囁いた。
「……次の会議でも、期待してるわよ。私の『共犯者』さん」
彼女は悪戯っぽくウインクをして、ゴミ箱の方へ歩いていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、熱くなった耳を冷たいラテの缶で冷やした。
自動ドアが開き、店の中から長谷川が顔を出した。
ゴミ箱の片付けついでに出てきたらしい。
「……マエストロ」
「うわっ、びっくりした」
「アイコンタクトが多すぎますよ。ガラス越しでも熱気が伝わってきて、店内の空気中の糖度が上がってます」
彼女は呆れたように言った。
「……見てたのか」
「特等席ですから。……まあ、お二人の『完全勝利』をお祝いして、今回は見逃してあげます」
長谷川はクスリと笑い、店の中へと戻っていった。
すべてお見通しか。
俺は苦笑いして、夜空を見上げた。
家に帰れば、レオが待っている。
明日の朝も、きっとロープの引っ張りっこから始まるだろう。
そして会社に行けば、またクールな上司と部下に戻る。
だが、俺のポケットの中には、見えない「サムズアップ」が入っている。
それがあれば、どんなに厳しい戦場でも、また戦える気がした。
俺は軽く伸びをして、家路を急いだ。




