第10話 深夜の観測者と廃棄弁当
金曜日の22時。
営業二課のフロアは、まだ戦場の空気を残していた。
「……回線復旧は未定? 上海の担当者を叩き起こしてでも原因を特定させなさい!」
フロアの奥から、李雪課長の鋭い指示が飛ぶ。
上海支社との通信トラブル。
よりによって金曜の夜に発生したこの障害により、彼女のデスク周りは対策本部と化していた。
彼女は受話器を肩に挟みながら、もう片方の手でキーボードを叩き続けている。その背中は、鋼のように張り詰めていた。
俺は、自分のデスクで帰り支度を整えながら、その様子を横目で見ていた。
俺の担当業務は終わっている。手伝えることはないか確認したが、「システム担当の領分よ。営業は帰りなさい」と一蹴された。
彼女は、部下を無駄に残業させない主義だ。たとえ自分が朝までコース確定だとしても。
(……今夜は、無理そうだな)
俺は心の中で小さくため息をついた。
金曜日の深夜。俺たちが密かに楽しみにしている「聖域」の時間。
だが、この状況では彼女が定時にコンビニへ現れることはないだろう。
業務用の連絡先なら知っている。
だが、「待っていますか?」とも「残念です」とも送ることはできない。
それを送ってしまえば、俺たちが築き上げてきた「コンビニでは他人同士」という脆くも心地よい均衡が崩れてしまうからだ。
職場での彼女は、あくまで「氷の女帝」でなければならない。
「……お先に失礼します」
俺は誰にともなく声をかけ、フロアを出た。
背後で、李課長が中国語で何かを怒鳴っているのが聞こえた。
その声に混じる疲労の色を、俺の耳は聞き逃さなかった。
深夜24時05分。
俺は一人、いつものコンビニの自動ドアをくぐった。
店内は閑散としている。
いつもなら、ホットスナックの前で悩むえんじ色のジャージ姿や、スイーツコーナーで呻く部屋着の女性がいる時間帯だ。
だが今夜は、誰もいない。
無機質な蛍光灯の光だけが、磨かれた床に反射している。
「……いらっしゃいませ、マエストロ」
レジカウンターの中から、気だるげな声が降ってきた。
店員の長谷川だ。
彼女は頬杖をついたまま、けだるげな瞳で俺を見ている。
「こんばんは」
「おや。今夜はソロですか?」
彼女は俺の背後――いつもなら李雪がいる空間――に視線を流し、少しだけ眉を上げた。
この店員は、俺たちが待ち合わせているわけでもないのに、なぜかセットで現れることを完全に把握している。
「……連れは、残業でね」
「そうですか。それは残念」
彼女はふっと笑った。
その笑みは、同情というよりは、興味深い現象を観察する学者のそれに近い。
「彼女がいないと、貴方の背中も少し小さく見えますね」
「……買い被りすぎだ。俺はただの、腹を空かせた会社員だよ」
「ふふ。そういうことにしておきましょう」
長谷川は意味深に微笑むと、カウンターの下からガサゴソと何かを取り出した。
それは、黒塗りの高級そうな弁当箱だった。
金色の帯封には『厳選・黒毛和牛のサーロインステーキ重』と書かれている。
価格は、コンビニ弁当としては破格の2,980円。
「これ、廃棄です」
「え?」
「発注ミスで数が余っちゃって。オーナーが『誰か持って帰っていいぞ』って泣いてましたけど、今の時間、スタッフは私だけですから」
彼女はその弁当を、カウンターの上に滑らせた。
「よかったら、どうですか? マエストロなら、この冷え切った肉も、極上の譜面に変えてくれるでしょう?」
「……俺に、これを?」
「ええ。貴方を見てると、なんだか創作意欲が湧くんです。これはその、取材協力費みたいなものです」
彼女はまた、わけのわからないことを言う。
だが、その瞳は真剣だった。
俺は少し迷ったが、ありがたく受け取ることにした。
李雪がいない今夜、俺の胃袋を満たすには、これくらい重厚な素材が必要な気がしたからだ。
「……ありがとう。有効活用させてもらうよ」
「期待してます。……あ、お代は結構ですよ。廃棄登録は済ませてありますから」
俺は礼を言い、酒類コーナーへ向かった。
今夜の気分は、少し重めで、パンチのあるやつだ。
俺は『ギネスビール』と『アイリッシュウイスキー』、そして棚の隅で見つけた『ベイリーズ』のミニボトルをカゴに入れた。
会計を済ませて店を出る。
自動ドアが閉まる直前、長谷川が小さく手を振るのが見えた。
帰宅すると、静まり返った部屋が俺を迎えた。
一人の夜は、いつもより広く、そして寒く感じる。
俺は着替え、キッチンに立つ。
手元には、長谷川から譲り受けた『黒毛和牛のステーキ重』。
電子レンジで温めてそのまま食べるのも悪くないが、それでは「マエストロ」の名折れだ。
「……さて、どう料理してやろうか」
俺は弁当の蓋を開けた。
冷えて脂が白く固まったステーキ肉。しかし、サシの入り方は見事だ。
このまま温め直すと、どうしても肉が硬くなり、脂の臭みが立ってしまう。
ならば、全く別の料理へと昇華させるのが正解だ。
俺の脳内で、レシピのデータベースが高速で検索をかける。
牛肉。脂。スパイシー。……決定。
「今夜は、メキシコに行こう」
俺は冷蔵庫から、パプリカ、玉ねぎ、そしてライムを取り出した。
スパイスラックからは、クミン、チリパウダー、オレガノ、パプリカパウダー。
作るのは、『ファヒータ』だ。
まずはステーキ肉を取り出し、キッチンペーパーで余分なタレと脂を拭き取る。
そして、繊維を断つように細切りにする。
ボウルに肉を入れ、スパイス類と、すりおろしたニンニク、オリーブオイル、そしてライムの絞り汁を投入。
手でしっかりと揉み込む。
ライムの酸味が肉の繊維を柔らかくし、スパイスが和牛特有の重たい脂を爽やかな旨味へと変えていく。
「マリネしている間に、野菜だ」
パプリカと玉ねぎを、肉と同じくらいの太さの千切りにする。
フライパンを火にかけ、煙が出るくらいまで熱する。
ここからはスピード勝負だ。
ジュワアアアア!!
肉を投入した瞬間、暴力的なまでの音がキッチンに響く。
スパイスが焦げる香ばしい匂いが立ち上り、換気扇が唸りを上げる。
表面に焼き色がついたら、すぐに野菜を投入。
強火で一気に煽る。
野菜のシャキシャキ感を残しつつ、肉の旨味を纏わせる。
「よし、いいぞ」
仕上げに、弁当に付いていた「ステーキソース」を回し入れる。
和風の醤油ベースのソースだが、スパイスと混ざり合うことで、深みのあるテックス・メックス風の味わいに変化する。
最後にパクチーを散らせば完成だ。
皿に盛り付けると、湯気と共にクミンとライムの香りが漂う。
これだけでも十分だが、ファヒータには「皮」が必要だ。
冷凍庫からトルティーヤを取り出し、直火で軽く炙る。
プクッと膨らみ、焦げ目がついたところで皿に添える。
「完成。……『廃棄弁当の蘇生ファヒータ』」
我ながら、完璧な仕上がりだ。
だが、まだ終わりではない。
このスパイシーで濃厚な肉料理には、それに負けない強烈な「相棒」が必要だ。
俺はグラスを取り出した。
一つはパイントグラス。もう一つはショットグラス。
用意するのは、先ほどコンビニで買ってきた『ギネスビール(スタウト)』、『アイリッシュウイスキー』、そして『ベイリーズ(アイリッシュクリーム)』だ。
作るカクテルは、『アイリッシュ・カー・ボム』。
その名の通り、爆弾のようなカクテルだ。
パイントグラスに、黒いギネスを半分ほど注ぐ。
クリーミーな泡が立ち、漆黒の液体が静かに波打つ。
次に、ショットグラスにベイリーズとウイスキーを半々で注ぐ。
甘いクリームの香りと、ツンとするアルコールの刺激。
「……よし」
準備は整った。
ここからは、一瞬の勝負だ。
このカクテルは、ショットグラスをビールの中に「投下」し、クリームが凝固する前に一気に飲み干さなければならない。
まさに、自爆覚悟の特攻。
俺はリビングのテーブルに料理と酒を並べ、椅子に座った。
目の前には、最高のファヒータ。
そして、黒い爆弾。
「……いただきます」
俺はファヒータをトルティーヤに乗せ、クルリと巻いて口に放り込んだ。
ガブリ。
噛み締めた瞬間、肉汁が弾ける。
和牛の脂の甘みと、ライムの酸味、そしてスパイスの刺激が口の中で暴れまわる。
パプリカの甘みと玉ねぎの食感がアクセントになり、いくらでも食べられそうだ。
「……美味い」
深夜の独り言が漏れる。
濃厚だ。あまりにも濃厚で、喉が渇く。
ここで、爆弾の出番だ。
俺はショットグラスを指でつまみ、ギネスの入ったグラスの上にかざした。
深呼吸を一つ。
そして、指を離す。
ボチャン!
ショットグラスがビールの中に沈み、黒い液体が跳ねる。
俺は間髪入れずにグラスを掴み、口に運んだ。
一気に煽る。
喉をごくごくと鳴らして、漆黒の液体を流し込む。
冷たいビール。
甘いクリーム。
そして、喉を焼くようなウイスキーの熱さ。
それらが口の中で混ざり合い、カフェオレのような、しかし暴力的なアルコールの塊となって胃に落ちていく。
「……っはぁ!!」
グラスを空にして、テーブルに叩きつけるように置く。
食道が熱い。胃袋が燃えているようだ。
だが、その熱さが心地よい。
ファヒータのスパイスで痺れた舌を、黒い爆弾が洗い流し、そして新たな熱狂をもたらす。
「……最高だ」
俺はソファに深く体を預け、天井を仰いだ。
アルコールが急速に脳に回っていくのを感じる。
一週間の疲れも、仕事のストレスも、全て吹き飛んでいくような酩酊感。
……だが。
ふと、視線を横に向ける。
そこには、誰もいない。
いつもの公園のベンチなら、隣にえんじ色のジャージを着た彼女が座っていて、「何それ、一口ちょうだい」とねだってきたかもしれない。
あるいは、「そんな無茶な飲み方して、バカじゃないの?」と呆れながらも、楽しそうに笑っていたかもしれない。
「……やっぱり、一人は味気ないな」
俺は独りごちた。
料理は完璧だ。酒も最高だ。
長谷川の言う通り、俺は廃棄弁当を極上の譜面に変えたかもしれない。
だが、それを聴いてくれる観客がいなければ、演奏は完成しない。
俺の背中が小さく見えると言った、あの店員の言葉。
あれは、ただの比喩ではなかったのかもしれない。
誰かと食べる食事の美味しさを知ってしまった今の俺は、以前の「孤独な食通」には戻れないのだ。
俺はスマホを取り出し、業務連絡用の番号が表示された画面を一度だけ見た。
メッセージを送ることはできない。
ただ、願うことしかできない。
(……無理だけはしないでくれよ、課長)
俺は残ったファヒータをラップに包み、冷蔵庫に入れた。
明日の朝、もし彼女が疲れ果てて出社してきたら、これをこっそりデスクに置いてもいいかもしれない。
もちろん、「試作品の残り物」という体で。
俺は静まり返った部屋で、アイリッシュ・カー・ボムの余韻がもたらす甘くて苦い酔いに身を任せながら、ベッドに向かった。
次の金曜日は、絶対に二人で「乾杯」しよう。
そう心に誓って、俺は深い眠りに落ちていった。




