キイムラコマオウ編(過去編)1:売れない芸人のアルバイトは霊媒師
二十五年前。
「――どうも! ありがとうございましたー!」
絞り出すような俺の声に、パラパラと、まるで雨漏りのような拍手だけが劇場に残った。
照明が落ちる。俺は客席の反応を確かめる勇気も持てないまま、うつむき加減で袖へと引き返した。
楽屋へ続く、薄暗い廊下。
出番を待つ後輩芸人が、明るい声を投げてきた。
「キイムラさん、おつかれさまです! 今日もキレてましたね!」
「……おう、おつかれ」
キレていたのは俺の芸じゃなく、客の堪忍袋の方だろう。その眩しすぎる声は、今の俺には毒のように染みた。
足早に楽屋を出る。出番が終われば、すぐに「次の仕事」だ。
芸人仲間には「知り合いのおばさんの会社で事務のアルバイトをしている」と伝えている。それが半分は本当で、半分はとんでもない嘘であることを、誰も知らない。
「お疲れ様です。遅くなりました」
古い一軒家の玄関をくぐり、声を低くして頭を下げる。
奥にいた女が、スッと静かに振り返った。
ギンボヒロユミ。
長い黒髪を後ろで一本にまとめ、白いシャツに墨色のロングスカート。
化粧は薄いが、一度見たら忘れられないほど目を引く美人だ。
俺は、この霊媒師の助手をしている。
「おつかれ~。すぐ出るよ。準備して」
「お師匠、すみません。ちょっと着替えだけさせてください」
俺は隅の方で、舞台衣装のヨレヨレのジャケットを脱ぎ捨て、動きやすい黒のジャージに着替えながら言葉を継いだ。
「そういえば、今日は劇場出番の日だったね。どうだったの? 爆笑の渦?」
「……渦どころか、無風でした。客席が耳の遠くなった老人しかいないのかと思うくらい、薄い反応で」
「ふふ、本気出しなよぉ、そろそろ」
「ずっと出してますよ、命削って!」
思わず声を張り上げると、ヒロユミは「しーっ」と人差し指を唇に当てた。
俺はハッとして周囲を見渡し、声を落とす。
「……そういえば、アイちゃんは?」
「さっき寝かしつけたよ。あの子の寝顔、天使なんだから」
彼女はほんの一瞬だけ、柔らかな母の顔を見せた。
俺は頷き、音を立てないように除霊道具――塩、清酒、そして特注の御札を、使い古したリュックへと詰め込んだ。
今日の依頼人は、憔悴しきった様子の30代くらいの男性。
「……先生、夜になると……。眠りにつこうとすると、天井の隅から黒い泥のようなものが垂れてきて、私の体を囲むんです。冷たくて、重くて……」とのことだった。
玄関をくぐった瞬間、俺の肌が粟立った。
空気が生ぬるく、粘ついている。
家そのものが、湿った重い息を吐き出しているような、独特の閉塞感。
「……低級霊。でも、かなりの数ね」
ヒロユミは事もなきと言い放つと、迷いなく畳の上に正座した。
俺は訓練通りその横に控え、道具を差し出す。
取り出したのは、一枚の御札。
だが、それは文房具屋にあるような代物ではない。表面には細かな銀の繊維が混じり、そこに書かれた墨文字が、まるで呼吸するように微かに脈動しているのだ。
ヒロユミは深く目を閉じ、短く命じた。
「――起きなさい」
その瞬間、御札の文字が赤く発光した。
空気が、キィィィンと高周波の悲鳴を上げて震える。
「コマオウ、そこ。その隅に一掴み」
指示された場所に俺が塩を撒くと、何もないはずの壁際で影が、嫌な音を立てて蠢いた。油が水の上を滑るように、影たちが一箇所へ、逃げるように集まっていく。
「出すよ」
ヒロユミは迷いなく自分の指先を御札の角で切り、鮮血を一滴、その御札に落とした。
すると――信じられないことが起きた。
平らな白い紙が、四つん這いの獣のような形に変形し、畳の上にゆっくりと立ち上がったのだ。
折り紙のような、無機質な形。
だが、その動きは紛れもなく生き物だった。
犬のように地を嗅ぎ、猿のように軽やかに跳ね、主人の次の命令を、静止したまま待っている。
――式神。
静寂の中に、抗いようのない圧倒的な「暴力性」を秘めた気配。
「行きなさい」
その一言で、式神は影の中へ――闇そのものへ飛び込んだ。
掃除機に吸い込まれる埃のように、黒い影たちは一瞬で引きずり込まれ、抵抗する暇もなく、咀嚼され、消えた。
式神はそのまま何事もなかったかのように、再びただの御札へ戻り、そのまま壁に張り付いた。
「……終わり。もう出ませんよ」
依頼人が呆然と立ち尽くす中、ヒロユミは淡々と立ち上がった。
「この御札、私が回収しに来るまで絶対に剥がさないでください」
それだけ言って、彼女は用意された封筒(報酬)を受け取り、足早に屋敷を後にした。
帰り道、俺は背後を歩く彼女の背中を見つめながら、何も言えなかった。
――この人は、やっぱり、住む世界が違いすぎる。
事務所に戻ると、ヒロユミは真っ先に奥の寝室へ行き、「起きちゃってないかな」と布団を覗き込んだ。
そこには、五歳になったばかりのアイコウが眠っていた。
小さな胸が、規則正しく、静かに上下している。
先ほどまで低級霊を葬っていた冷徹な霊媒師はどこへやら、慈愛に満ちた表情を浮かべるお師匠。
だが、その横で俺は、別の感覚を覚えていた。
この子を中心に、部屋中の霊素が、凪のように静かに、けれど確実に集まりつつある。
アイちゃんは、普通の子どもじゃない。
それを俺に教えてくれたのは、他でもない彼女だった。
「この子はね」
ヒロユミは、愛おしそうに寝顔を見つめたまま言った。
「恐ろしい力を持っているの」
冗談でも、比喩でもない。
明日の天気を告げるような、淡々とした事実として置かれた声だった。
俺は、その言葉を何度も頭の中で反芻しながら、無垢な寝息を立てる小さな顔から目を離せずにいた。
――この子は、まだ知らない。
自分の中に眠る、宇宙を飲み込むような「引力」の恐ろしさを。
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