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五、「今日は霊休日(れいきゅうび)」そう言って依頼を断るはずだった。子供の背後にあの“ 赤黒い影“ が視えるまでは。

暮方の事務所は、やけに音が少なかった。

外を走る車の走行音も、遠くで響く子供たちの嬌声も、薄い膜を一枚挟んだように遠く、現実味を欠いて聞こえる。

ギンボさんは机に肘をつき、溶けかけた氷をスプーンでくるくる回しながら、琥珀色のアイスコーヒーを眺めていた。


「……今日、静かすぎません? 」

「暇だな」

「参りましたね。今月の売り上げ、このままだと家賃どころか、僕の給料が駄菓子の詰め合わせになりますよ」

「タカシ、心配すんな。暇な日はな、霊も休んでんだよ。今日はな、『霊休日れいきゅうび』だ」

「なんですかそれ、定休日みたいに。そんなホワイトな制度、あの世にあるわけないでしょ」

「自由な霊能界も働き方改革だよ。幽霊が過労死したら洒落になんねぇだろ」

「芸能界みたいに言ってる……! そもそも幽霊はもう死んでますから」

そんな軽口を叩いていられたのも、そこまでだった。

控えめに、けれど確かな重みを持ってドアがノックされた。


入ってきたのは、顔色の悪い若い母親と、その足にしがみつくようにして隠れる、四〜五歳くらいの男の子。

「先生……夜泣きが止まらなくて……。それに、この子が、変なことを……。赤黒い人が、ずっと後ろに立ってるって……」

「赤黒い人、ね」

ギンボさんは一瞬だけ、なにかを思い出すように目を細めた。だが、すぐにいつもの胡散臭い笑顔に戻る。

「お母さん、安心してください。子供の想像力ってのは、時として色鮮やかな友人を作り出すもんです。……一応、今夜お宅にお伺いして、その『友人』に帰宅を促してみましょうか」

母親は救われたような顔で頷いた。

だが、その瞬間。

――見えた。


僕の視界が歪み、未来の断片が強制的にねじ込まれる。

子供の背後。影に溶け込むようにして蠢く、どす黒い赤色。

それは人の形を模してはいるが、生理的な嫌悪感を呼び起こす「何か」だった。

じっとりと湿った気配が、こちらを覗き返してくる。

「……っ」

喉が鳴る音が、静かな事務所にやけに大きく響いた。


僕は素早く、営業用の笑顔を貼りつけ、母親をソファへ案内した。そのままギンボさんの腕を掴み、強引に流し台の方へ引っ張る。

「ギンボさん……この依頼、絶対に断ってください」

「見えたのか」

「はい。久々に、ガチのやつです。洒落になってません」


一瞬の沈黙。ギンボさんは深く、重い息を吐き出した。

「よっしゃ。今日はやめだ。今から看板下ろして、肉でも食いに行こう」

即断だった。

『未来視が出た依頼は断る』。

それは、非力な僕らが今日まで生き延びてこられた、鉄のルールだった。

――が。

「……いや」

ギンボさんが顎に手を当てる。嫌な間だ。

「待てよ。たしかミキヒサ、あいつ今日はパチンコ屋が新装開店だって張り切ってたな。……つまり、暇してるはずだ」

「すぐに来てもらいますか? でもパチンコ中なら、また『確変中だから無理ポォーウ!』って切られますよ」

「そんな時はアイツのジャージのポケットに生肉を詰め込むって脅せばいい。」

「生肉!?それ、僕が言うんですか!?」


ギンボさんの軽口に救われ、僕がミキヒサさんへ電話をかけた、その時だった。


「ママぁ……」

子供の呼吸が、急に荒くなった。

「え? ちょ、ちょっと、どうしたの!?」

母親の悲鳴。

子供の足元にある影が――膨らんだ。

心臓のように、ドクン、ドクンと脈打ち、赤黒い粘液が床から溢れ出すかのようだ。

ずぶずぶずぶ……。

影は子供の背中を這い上がり、その体の中へ隠れるように沈み込んでいく。

「……来るぞ」

ギンボさんの声が、地を這うように低くなった。

「タカシ、逃げろ! 母親を連れて表へ出ろ!」

逃げなきゃ。

頭では分かっているのに、視界が砕け散る。

逃げる未来。転ぶ未来。叫ぶ未来。

そして――僕が赤黒い影に飲み込まれ、内側から食い破られる未来。

いくつもの不幸な結末が脳内に溢れ、足が氷のように凍りついた。

子供が、ゆっくりと顔を上げた。

いや――それはもう、子供の目ではなかった。

爬虫類のような縦長の瞳。ネコ科の獣のように喉を鳴らし。

「ギ……ギギ……」

次の瞬間、子供の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

そこから、ずるりと。

滑らかに、影が抜け出した。

さっきよりも、ずっと濃い赤。

それが――標的を僕に定め、雪崩れ込んできた。

「……あ、っ!!」

肺が潰されるような圧迫感。


「タカシ!!」

ギンボさんの叫びが遠のき、意識が暗い泥の底へ沈み込んでいく――。

その刹那。

一陣の風が事務所を横切った。

「……ったく。確変中だったってのに、景気の悪い呼び出しだな」

白いジャージ。金のネックレス。

ミキヒサさんだった。

彼は一瞬で惨状を見渡し

「こりゃ、ヤベェな。」

ミキヒサさんが一歩踏み出し、両手を力強く合わせ、勢いよく突き出した。

「――ぶっ飛べ!!」

放たれた凄まじい霊力。

だが、その切っ先が向けられたのは――影に襲われている僕ではなかった。

背後にいた、ギンボさんの方角だった。

「……なんで……?」

疑問が脳裏をかすめた瞬間、世界が反転した。

光が消え、音が消え、ただ深い深い闇だけが広がる。 



ギギ……。

どこか遠く、深い場所で。

重い錆びた何かが軋む音がした。

それは、

ずっと、ずっと固く閉じられていた――

“蓋”が、わずかにズレる音だった。


最後まで読んでいただいてありがとうございます。皆様の感想をおまちしています!

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