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これは僕が体験した、とても怖い話です……

作者: 雉白書屋

 これは僕が体験した、とても怖い話です……。

 そう、あれは月明かりがわずかに地面を照らす、薄暗く静かな夜のことでした。

 僕が人を殺し、慌ててその場を離れようとした瞬間――その場には僕以外に誰もいないはずなのに、確かに視線を感じたのです。それは、ねっとりと粘りつくような感覚でした。まるで手にこびりついた血のように……。


 気のせいだ――そう思おうとしました。人を殺したショックで、混乱しているだけだと、そう言い聞かせて。でも、もし万が一誰かに見られていたとしたら、その目撃者も殺さないといけないじゃないですか。

 だから僕は、冷静に闇に目を凝らしました。

 すると……目が合ったのです。恐怖のあまり、思わず叫びそうになりました。とっさに喉元を押さえ、必死に堪えました。そこが人けのない深夜の小さな神社とはいえ、少し歩けば民家が並んでいます。騒ぎになれば、すべてが終わってしまう。

 手で口を覆うと、あれだけズボンで拭ったはずの血の匂いが、ふっと香りました。

 僕は静かに深呼吸を繰り返しました。冷えた空気が肺に入り、胸の奥でじわりと広がりました。

 少し落ち着き、手をそっと口元から離した――その瞬間、雲の切れ間から漏れた月明かりが、地面に横たわる“彼”の輪郭を淡く浮かび上がらせました。

 そして、僕は気づいたのです。

 何度もナイフを突き立てたその男の目が、僕を見つめていたことに。


「あなたが悪いんだ……」


 僕はそう呟きました。


 ――やめてください! すみません!

 ――暴れるな! 警察を呼ぶからな!

 ――すみません! すみません!

 ――お金を盗もうとしただろ!

 ――してません!

 ――嘘つくな!


 数分前のやり取りが頭の奥で反響しました。息苦しさとともに、お腹に鈍痛が走り、ぐぎゅるると嫌な音を立てました。それから吐き気が込み上げましたが、現場に証拠になるようなものを残すわけにはいきません。僕は奥歯を噛み締め、なんとかそれを飲み込もうとしました。


 ――わかりました! 大人しくしますから……ごめんなさい、見逃してください……。

 ――あんた、どこに住んでいるんだ。

 ――遠くです。すみません……。

 ――動くなって! こら!

 ――すみません、すみません……。

 ――賽銭泥棒だな。

 ――違います。本当に違うんです。

 ――違わないだろ。じゃあ、その千円はなんだ?

 ――たまたまなんです……今日だけなんです。

 ――知らないよそんなのは。盗んじゃ駄目だろ。

 ――違います。盗んでません……。

 ――言ってることが滅茶苦茶だよ。あんた、何歳だ?

 ――関係ないじゃないですか……。


 今度はナイフの感触が、まざまざと手のひらに蘇りました。刃が肉を裂くときの鈍い抵抗、温かく噴き出した血の感触……。


 ――いいから、どこに住んでるんだよ。

 ――お願いします、見逃してください……。あの、神社の方ですか?

 ――俺か? 違うよ。この辺りに住んでいるんだ。

 ――えへへ、こんな夜中にどうしてここへ?

 ――散歩だよ。明かりが見えたから変だと思ったんだ。

 ――関係ないじゃないですか……。

 ――は? 何が?

 ――じゃあ、あなたに関係ないじゃないですか!

 ――おい、やめろ、あ、やめろ!


 腹立たしさまで蘇り、僕はもう一度、死体に近づきました。そして……。


 その後、僕は家に帰り、熱いシャワーを浴びて、ぐったりとベッドに沈み込みました。明日は高熱が出る――そんな予感があり、なんとか体を休めようとしたのですが、神経が昂ぶって眠ることができませんでした。しばらく呻いたあと、期限切れの睡眠薬を取り出し、水で流し込みました。それでようやく、闇の中へ沈むように眠りにつくことができたのです。

 翌日の夕方、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、ネットで事件を検索しました。

 案の定、死体は発見され、ニュースになっていました。

 死体を隠さなかったのだから、それは想定していたことですが、僕は何日も怯え続けました。現場と自宅は離れているし、あの辺りには監視カメラもなかった。だから大丈夫、捕まらない。そう、自分に言い聞かせ続けました。


 ……でも、僕が怖いのは別のことなんです。

 あの日以来、ずっと感じるんです……視線を。

 人殺しだ……人殺しだ……。

 最初は、すれ違う人の視線だと思っていました。通行人、スーパーの客、店員、そのうちの誰かが、あるいはみんなが自分を見ているのだと。

 そんなのはただの被害妄想だ、神経過敏だ。そう自分に言い聞かせました。

 でもね……違ったんです。それは夜中、一人で家にいるときに強く感じるんです。

 人殺しだ……人殺しだ……!

 あの男が幽霊となって、僕を見ているんです! 潰したはずの目で……睨みつけるように……ずっと僕を……。


 だからね、先生。お願いです……。彼を説得してください。

 できるでしょ? 弁護士なんだから。そう、僕を弁護してください。

 お願いします……。

 じゃあ、今から彼に会わせてあげますね――。

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